北条政子の事件簿
今から約八百年前、史上最悪・稀に見る悪女と言われた女が居た。その名は北条政子、或る時は夫である源頼朝の浮気に激しい嫉妬の炎を燃やし、その愛人の館を跡形もなく木っ端微塵に破壊、憎っくき愛人を追い出したかと思えば、又或時は自分の生んだ長男を将軍の座から引きずり下ろし無理やり出家させた上、死へと追いやる鬼母振り、そればかりか僅か六歳の孫さえ燃え盛る炎の中で平気で殺してしまう残忍さ、更に実の父と後妻に入った義理の母を屋敷から追い出し田舎へ追放してしまう親不孝、はたまた三代将軍となった次男を孫を使って殺させたと言う暗殺事件の影の演出者ではないかと噂されるほどの大悪女、しかしその一方で彼女こそは謀略渦巻く政治の表舞台で夫頼朝の遺志を継ぎ関東の荒くれ武者を纏め上げて鎌倉幕府の基礎を築いたスーパーレディーとの評価もある。
様々な俗説、憶測のヴェールの影に秘められた彼女の真実の姿は何であったのか?
時は八百年以上も昔、源義家以来東国に於いて着々と地盤固めをしていた源氏は保元の乱に巻込まれる。1156年の事である。この時、義朝は清盛と組んで後白河天皇派にはいったが、義朝の父為義と弟の為朝は崇徳上皇側にくみして破れため夫々斬罪・流罪となり源氏勢力はその一部を失う。そして新興武士の二大勢力となった清盛と義朝は1159年、平治の乱で激突、源氏は破れ清盛は対抗勢力の一掃に成功し、政治の実権は貴族から武士に替わる。その様に平家が、わが世の春を迎かえようとしていた1157年、政子は伊豆北条で生れた。北条は今の静岡県田方郡韮山町であるが、ドライブマップで探しても全国市町村一覧を見てもこの近辺に北条と言う町も村もない。因みに全国で北条市は愛媛県の瀬戸内海側にあるだけ、北条町も鳥取県東伯郡の一つだけ、茨城県の北条町は既に筑波に吸収されてその地域になっているし、兵庫の北条町も今は加西市の一部であり、これらはいずれも北条氏とは何等の関係もない。
さて、森に入っては動物たちと戯れ、時には馬に乗って山野を駆け巡る自由奔放な少女時代、父の時政は北条を治める小さな豪族の頭領、その子の政子はいわゆる田舎のお嬢様である。
ほかに三人の弟、数名の妹がおり、長女の政子は伊豆掾伴為房の娘である母を助けて弟妹の面倒に明け暮れる。そんな北条家に『牧の方』と言う女性が入ってくる。父時政が側室を迎えたのである(後に後妻)。彼女は都育ちで華やかな雰囲気を漂わせる美しい女性、しかも年齢は政子と同じ位と言う若さ、母と言う正妻がありながら若く美しい側室を溺愛する父を見て政子は事あるごとに牧の方と対立するようになる。
弟義時が六歳下、時房にいたっては十八歳も下でありこんな弟妹の世話に明暮れる政子
は、何時か二十歳になっていた。そんな正子の元に、ある日一通の恋文が届いた。差し出し人は源の頼朝である。頼朝は十四歳の時、平治の乱で父義朝が死に、自らも捕らえられたが処刑寸前、清盛の義母『池の禅尼』の計らいで助命され、北条とは目と鼻の先きの蛭ケ小島に流罪になっていたのである。流人とは言え源氏直系の御曹司、どこでどう見初められたのか政子は戸惑った。実は頼朝側にも事情があった。島流しの身では家来も数人の
側近きり持てず、財産を作ることも伊豆から外に出る事すら出来ない。その辺りの有力者の娘と結婚し、そのバックアップで身を立てるしか道がなかったのである。切っ掛けはともかく、二人の間には恋が生れる。今でも伊豆山神社には『頼朝・政子腰掛け石』と言うのがあり、この話を伝えて居る。
しかしこれは政子の父の時政にとっては頭痛の種であった。平家の勢いが飛ぶ鳥を落とすと言われたご時世に事もあらうに流罪中の源氏の御曹司と関係を持つなど、平家からどんな難癖を付けられるかもしれない。思い余った時政は違う男との結婚を決めてしまう。父をとるか?恋人をとるか?と思い悩む政子、やがて迎えた結婚式の当日の夜、折からの雨を突いて政子は頼朝の所へ走る。頼朝三十一歳、政子二十一歳であった。こうして歴史の偶然の中で源氏の御曹司と片田舎の姫君と言う意外なカップルが誕生し、やがてこの二人が以後の日本の歴史を塗り替えていくことになるのである。
この北条氏は桓武平氏高望の子孫であり、貞盛から七代後の時家が伊豆守になり伊豆北条に住んだ事から北条を名乗るように成った。この時家の孫が政子の父時政である。(貞盛から同時に分かれた伊勢平氏が清盛の系統である。)時政は頼朝挙兵の時、既に四十歳過ぎで北条家の当主であったのに北条四郎と言う通称のままで何の受領も持っていない。そして鎌倉時代に活躍する北条の一族が全て時政の子孫であり、時政以前に分かれた北条氏の伊豆近辺の支族に付いては全く知られて居なく、北条氏の被官として活躍する尾藤・長崎・諏訪氏は古くからの北条氏の家人ではなく伊豆出身でもないので、どうやら時政時代は三浦・千葉氏などの豪族より遥かに小さい勢力であったと推定されている。
二人の結婚から四年後、1180年天皇家の跡継ぎ問題から平家と対立する皇子以仁王が源氏に決起を呼掛けた。これに応えて頼朝も時政の援助を受け、東国の源氏の家人を糾合して立上がり、伊豆目代山木兼隆を倒したが小田原の南西にある石橋山の戦いに敗れ、海路安房に逃れ各地の武士に参加を呼掛け、鎌倉に入りここを根拠地とする。同年十月には平維盛を富士川で壊滅させ、翌年後白河法王に挙兵の真意を奏し、東国を源氏、西国を平氏が支配し、共に忠勤を試みるという提案をするが平氏の反対で実現し無かった。こうしているうちに信濃で挙兵した義仲が京都に入り、狼藉によって後白河法王の怒りを買い、代わって頼朝が上洛を求められた。こうして頼朝は東国沙汰権も得て伊豆配流以来の朝敵という名を免れた。そして1184年範頼・義経の軍で義仲を倒し、1185年義経を起用して壇の浦で平家を滅亡させる。こうして頼朝は鎌倉に初の武家政権鎌倉幕府をうちたてる。一方で政権を確かなものにするため、義経を追落とすことになる。そんな時、義経の愛人静御前が捕らえられ頼朝・政子の前で舞を舞うように命じられた。静御前、生没年は不肖であるが京の白拍子(舞女)という。義経の妾となり追放後も吉野までは行を共にするが義経と分かれた後、山僧に捕らえられ鎌倉に送られていたのである。彼女は『しずやしず賎のおだまき繰り返し、昔を今になすよしもがな』と義経を慕う歌を歌い頼朝を激怒させる。
危く手打ちになるところを止めたのは政子であった。しかしこの時、静は義経の子を身籠もっていた。やがて生まれた子が男子と分かると頼朝は自分と清盛の事を考えて同じ轍を踏まないようにこれを殺そうとする。政子も止めたが戦乱の世に生きる厳しさを政子に示
すため頼朝はこの子を由比ケ浜に沈める。その後、静は京に帰されたが、末路は不明である。
(事件その一) その間、周囲を驚かす事件がおきている。鎌倉で暮らしはじめて二年後、1182年、丁度長男が生まれた年、政子二十六歳、夫頼朝に愛人のいることを知り、事もあろうに部下の者に命じて愛人の館を打壊し焼き払うという暴挙に出ている。なぜ政子はそんな事をしたのだろうか?
愛人の存在を政子に告げ口したのは牧の方である。政子は一気に怒りの炎を燃え上がらせた。家来に命じて愛人の住む家を木っ端微塵に打ち壊させ、愛人は命からがら逃走、頼朝の面目も粉々に砕かれた。これによって彼女は激情に駆られたら何をするか分からない悪女というレッテルを貼られてしまうのである。なぜここまでやるのか?歴史作家桜田晋也は『政子は流人時代の頼朝を助けたという意識の非常に強い女性で、頼朝が自分の独占物であることを頼朝自身にも周囲の武家にも認めさせたかった』というが、かたや永井路子は『その当時本妻や先妻が後妻を妬んで押し込み、打ち壊しに走ることは(後妻打ち)といって平安期から良くあった事で政子だけの特別な事ではない』とも言うので、凄い事をやったのか?大した事ではないのか?良く分からない。
(事件その二) 時代は変わって1199年、頼朝が五十三歳で急死、政子は髪をおろし尼となった。跡を継いで二代将軍となったのは長男の頼家十八才である。頼家は幼少から才気活発で弓馬に長じ十二才の時、富士野の狩り場で鹿を射止め高名を挙げたこともある。しかし息子の若さを心配した政子は周囲に経験豊かな者を配して話し合いで物事を決めるように命じた。これが独裁を封じる老臣合議制である。ところが息子にしてみれば思いどうりの政治が出来ないばかりか父頼朝の偉大さばかりを聞かされる毎日は堪え難い。次第に気の合う若い家臣ばかり手元に置き遊びや気晴らしに捌口を求めていく。そんな息子の将軍としての姿に政子は大きな不安を抱いていた。将軍となって四年後、頼家は突然原因不明の病に罹り重体に陥る。政子は急遽後継者選びを始める。候補は頼家の長男『一幡(イチマン)』と頼家の弟の実朝である。本来ならば直系の一幡が妥当であったが、政子の出した結論は頼家は西国、一幡には東国の権利を与えるというのである。これには古代日本で何時も紛争の元になった『乳母』がこの時も引金である。後の実朝暗殺も同じに糸を引いたのは乳母の系列である。
日本の上流社会では古代から女性はわが子の子育ては乳母に任せるのが習わしであり、自分では決してしない。しかもしばしば幼児期を過ぎても乳母は若君に密着し、政治的秘書官となり強力な発言力を持つように成る。そしてこの乳母の親族も同時にのし上がってくる場合が多い。頼家と一幡の乳母は比企家の当主『比企能員(ヨシカズ)』の妻であり、頼家の妻も能員の娘『若狭の局』である。実は比企能員の母が頼朝の乳母であった関係で能員は頼朝配流中から仕えており、娘が頼家との子供一幡を生むと頼家の舅として権勢を強くし北条とは対立してきていた。頼家としては幼少より親しんだ比企家は北条家より居心地がいい、しかし政子にしてみれば世間にありがちな嫁の家に息子を取られた母の心境
である。これに懲りた政子は次男の乳母には自分の妹を当てて北条家で育てて居る。この次期将軍を巡る争いは北条家と比企家の権力争いであった。比企家は当然政子の案には大反対、一方政子は比企家が北条倒しを計画しているという情報を掴む。政子は直ぐに父の時政に相談し、先手を打って比企家を急襲しこれを滅亡させる。能員の息子宗員も一幡を擁して抵抗したが僅か六歳の一幡共々炎に飲み込まれた。頼家はこれを聞いて激怒したが最早打つ手はなかった。政子は嫌がる頼家を無理やり出家させ、修善寺へ籠らせてしまうのである。実はこのとき既に頼家死亡に付き、三代将軍に実朝をという届けが朝廷に出されて居た。生きながら葬られた頼家は寺での暮らしの苦しさを手紙で訴えたが、政子からの返事はなかった。修善寺で血の海に沈む頼家の遺体が見つかったのはそれから十か月の後である。政子に頼家暗殺の意思があったかどうかは歴史家の間でも論は分れている。
どうも頼朝が偉大すぎたせいか、頼家には頭領の資質は無かったように思える。
(事件その三)
この後継問題から数年経った1205年、異様な事件が起きる。政子によって父時政が無理やり出家させられ、牧の方と共に鎌倉を追放され、北条へ追いやられたのである。
頼家亡き後、第三代は十二歳の実朝である。年若い将軍を補佐するために『執権』というポストが始めて置かれ、政子の父がこの位に即く。同時に幼い将軍を教育すると称して、将軍の実朝を自らの屋敷に住まわせる。この執権と言う方式は以後十六代百三十年の長きにわたって受継がれる。そんな頃、政子には父と牧の方の動きが氣になった。それは実朝の結婚問題であった。政子は実朝の嫁として妹の娘つまり自分の姪を推薦した。所が牧の方が自分の遠縁に当たる公家の娘を推して来たのである。その結果、以前から京の文化に憧れる実朝は、なんと牧の方の推薦するほうを選んでしまった。又してもわが子に背かれてしまった政子は余計に牧の方が気になりだした。このころ、時政と牧の方の間には十六歳の『政範』と『平賀朝政』に嫁いだ娘が居た。牧の方はこの女婿を将軍にでっち上げ、息子の政範を時政の後の執権にしようとしているらしいと分かった。時政は牧の方の言いなりである。もしかすると実朝を亡き者にして政子や正室の子義時を追い出そうとしているのでは?突如政子は父の屋敷にいた実朝を連れ帰ると更に父に出家を迫った上、時政と牧の方に北条に引きこもるように命令した。何故政子はここまで父親を追い詰めたのか?政子の牧の方に対する積年の嫉妬なのか?或いは全く政治的に実朝を守るため、牧の方の幕府ができる事の芽を摘んだのか?これも見解が分れる。
(事件その四)
政子が幕府を任せ様とした次男実朝も又悲運の中に束の間の人生の幕を下ろす事になる。鶴ヶ丘八幡宮での実朝暗殺事件、何と実朝を殺したのは長男頼家の愛人の子、政子には孫にも当たる公暁である。この事件に政子はどの様に関わったのであろうか?武勇に優れた兄頼家と違って勉強家の実朝はロマンチスト、幼い時から病弱だったせいで学問に明暮れる。公家の娘を娶って以来、都の文化を身に付けた妻や側近たちに和歌の手解きを受け、親しむようになり彼が生涯に詠んだ七百首の歌は『金槐和歌集』として今に残り日本の代表的な和歌集の一つとされている。一方で青年となった実朝は政治を自らの手で動かしたいという欲望を持ち始めていた。そこに立ちはだかったのは母政子と政子の弟で実朝の叔
父に当たる北条義時である。実朝が手柄を立てた家臣に土地を与えようとしても、訴訟を公平に裁こうとしても、二人に反対されればそれまで、将軍とは名ばかりの操り人形のようであった。実朝二十四歳のとき、中国から来た僧侶に貴方の前世は中国の山に住む僧侶であると言われ、俄かに中国に渡る夢にとり憑かれる。しかし建造された船が水に浮かばず夢は挫折、こんなエピソードにも現実から逃れたいという実朝の心が覗いている。二十五歳の時、朝廷から右大臣の位を授けたいという知らせが有った。武士としては異例ともいえる高い位である。しかし政子はこれに反対する。鎌倉幕府が政治上の実権を取り続けられるのも京都から遠い鎌倉に根を下ろし都の文化の華やかさや貴族の贅沢から距離を置いて居るからである。素朴にして質実剛健、これこそが関東武士を一つに束ねる精神であると言う。只でさえ実朝は和歌や人を通じて京都の公家たちと親しい、朝廷との距離が必要以上に近くなれば武士の心から離れてしまう、と言うのが政子の思いであった。しかし実朝は周囲の反対にも関わらず敢えて右大臣となることを望んだ。『源氏の家は子供のいない私の代で終りとなってしまうであろう。せめて私が高い位に付くことで源氏の家名を残したい。(吾妻鏡より)』という気持である。こうして実朝は右大臣になった。
1219年 1月27日前夜から降り積もる雪の中、鶴ヶ岡八幡宮では右大臣昇進を祝う準備が進行していた。時は午後六時、一千余騎の見守る中、実朝は山門をくぐった。この時太刀持ちとして側に付いていた義時は急に気分が悪くなったと称して帰宅して居る。やがて式を終えて実朝が石段に出たその瞬間襲われる。『親の敵はかく討つぞ。今こそ我は大将軍』と叫ぶこの暗殺犯こそあの頼家の忘れ形見で政子の孫に当たる公暁であった。事件後公暁は立ち寄った家臣の家で殺害されて居る。その直後、京都で僧となっていた公暁の二人の弟も暗殺されて居た。遂に源氏の直系の血縁者は一人残らずこの世から消滅して終ったのである。しかし不思議な事に事件の朝、実朝は次ぎのような歌を家臣に託している。
『出ていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘するな』もしかすると実朝は二度とこの家に帰れないと知っていたのか?
永井路子は実朝と政子の争いを否定する。ましてや北条家が実朝を殺して実権を奪うとも考えられないと言う。しかし桜田晋也は実朝にとっては若い頃からの母親の自分に対する仕打ちから兄の頼家と同じ事をされると言う予感を強く感じていたのではないか?当日の辞世のような歌はその表れでは?という。
しかしこれも乳母戦争である。実朝の乳母は政子の妹の『阿波の局』、これに対して公暁の乳母は強力三浦氏である。北条・実朝連合と公暁・三浦連合が相打ちとなったと見たほうがよい。
(事件その五) さて今、頼朝も、頼家も、実朝もなく頼朝の遠い親戚の僅か二歳の子を四代将軍に仕立てて鎌倉幕府の基礎を築こうとしている政子、その政子に最期の舞台が訪れた。予てから幕府の隙を窺っていた後鳥羽上皇が実朝暗殺の混乱に付け込み、北条家打倒の指示を出したのである。このとき政子は関東の主だった武将を集め『頼朝公の深い御恩に今こそ報いるときである。名を大事にする者は今直ぐ敵を討つために立ち上れ。しかし敵に付きたい者はこの尼の命を取ってからあちらに馳せ参じれば良かろう。』と檄を飛ばした。六十五歳
の尼将軍の言葉に最早奮い立たない関東武士はいなかった。こうして鎌倉と京都の間で政権を巡る戦闘が開始された。世に言う1221年の『承久の乱』である。幕府はこの一戦に圧勝、十六代に亘る北条執権の基礎はここに固った。その数年後、弟義時が急死しその子泰時が執権を継いだとき、政子は義時が政子に残した領地を泰時に与えたが泰時はこれを子や兄弟に分け与え自分は僅かしか受け取らなかった。彼が政子に『執権と言う役目を与えられた私にはそれ以上の領地は要りません』と言った事で政子は幕府の安泰を確信したという。政子が歴史の舞台から姿を消すのはその翌年の事である。 1225年 7月政子永眠。69歳。やはり悪女ではなく、せざるを得なかった力ある女性という方が良い。 『尼ほど物思いたる者の世にはあらじ』
今から約八百年前、史上最悪・稀に見る悪女と言われた女が居た。その名は北条政子、或る時は夫である源頼朝の浮気に激しい嫉妬の炎を燃やし、その愛人の館を跡形もなく木っ端微塵に破壊、憎っくき愛人を追い出したかと思えば、又或時は自分の生んだ長男を将軍の座から引きずり下ろし無理やり出家させた上、死へと追いやる鬼母振り、そればかりか僅か六歳の孫さえ燃え盛る炎の中で平気で殺してしまう残忍さ、更に実の父と後妻に入った義理の母を屋敷から追い出し田舎へ追放してしまう親不孝、はたまた三代将軍となった次男を孫を使って殺させたと言う暗殺事件の影の演出者ではないかと噂されるほどの大悪女、しかしその一方で彼女こそは謀略渦巻く政治の表舞台で夫頼朝の遺志を継ぎ関東の荒くれ武者を纏め上げて鎌倉幕府の基礎を築いたスーパーレディーとの評価もある。
様々な俗説、憶測のヴェールの影に秘められた彼女の真実の姿は何であったのか?
時は八百年以上も昔、源義家以来東国に於いて着々と地盤固めをしていた源氏は保元の乱に巻込まれる。1156年の事である。この時、義朝は清盛と組んで後白河天皇派にはいったが、義朝の父為義と弟の為朝は崇徳上皇側にくみして破れため夫々斬罪・流罪となり源氏勢力はその一部を失う。そして新興武士の二大勢力となった清盛と義朝は1159年、平治の乱で激突、源氏は破れ清盛は対抗勢力の一掃に成功し、政治の実権は貴族から武士に替わる。その様に平家が、わが世の春を迎かえようとしていた1157年、政子は伊豆北条で生れた。北条は今の静岡県田方郡韮山町であるが、ドライブマップで探しても全国市町村一覧を見てもこの近辺に北条と言う町も村もない。因みに全国で北条市は愛媛県の瀬戸内海側にあるだけ、北条町も鳥取県東伯郡の一つだけ、茨城県の北条町は既に筑波に吸収されてその地域になっているし、兵庫の北条町も今は加西市の一部であり、これらはいずれも北条氏とは何等の関係もない。
さて、森に入っては動物たちと戯れ、時には馬に乗って山野を駆け巡る自由奔放な少女時代、父の時政は北条を治める小さな豪族の頭領、その子の政子はいわゆる田舎のお嬢様である。
ほかに三人の弟、数名の妹がおり、長女の政子は伊豆掾伴為房の娘である母を助けて弟妹の面倒に明け暮れる。そんな北条家に『牧の方』と言う女性が入ってくる。父時政が側室を迎えたのである(後に後妻)。彼女は都育ちで華やかな雰囲気を漂わせる美しい女性、しかも年齢は政子と同じ位と言う若さ、母と言う正妻がありながら若く美しい側室を溺愛する父を見て政子は事あるごとに牧の方と対立するようになる。
弟義時が六歳下、時房にいたっては十八歳も下でありこんな弟妹の世話に明暮れる政子
は、何時か二十歳になっていた。そんな正子の元に、ある日一通の恋文が届いた。差し出し人は源の頼朝である。頼朝は十四歳の時、平治の乱で父義朝が死に、自らも捕らえられたが処刑寸前、清盛の義母『池の禅尼』の計らいで助命され、北条とは目と鼻の先きの蛭ケ小島に流罪になっていたのである。流人とは言え源氏直系の御曹司、どこでどう見初められたのか政子は戸惑った。実は頼朝側にも事情があった。島流しの身では家来も数人の
側近きり持てず、財産を作ることも伊豆から外に出る事すら出来ない。その辺りの有力者の娘と結婚し、そのバックアップで身を立てるしか道がなかったのである。切っ掛けはともかく、二人の間には恋が生れる。今でも伊豆山神社には『頼朝・政子腰掛け石』と言うのがあり、この話を伝えて居る。
しかしこれは政子の父の時政にとっては頭痛の種であった。平家の勢いが飛ぶ鳥を落とすと言われたご時世に事もあらうに流罪中の源氏の御曹司と関係を持つなど、平家からどんな難癖を付けられるかもしれない。思い余った時政は違う男との結婚を決めてしまう。父をとるか?恋人をとるか?と思い悩む政子、やがて迎えた結婚式の当日の夜、折からの雨を突いて政子は頼朝の所へ走る。頼朝三十一歳、政子二十一歳であった。こうして歴史の偶然の中で源氏の御曹司と片田舎の姫君と言う意外なカップルが誕生し、やがてこの二人が以後の日本の歴史を塗り替えていくことになるのである。
この北条氏は桓武平氏高望の子孫であり、貞盛から七代後の時家が伊豆守になり伊豆北条に住んだ事から北条を名乗るように成った。この時家の孫が政子の父時政である。(貞盛から同時に分かれた伊勢平氏が清盛の系統である。)時政は頼朝挙兵の時、既に四十歳過ぎで北条家の当主であったのに北条四郎と言う通称のままで何の受領も持っていない。そして鎌倉時代に活躍する北条の一族が全て時政の子孫であり、時政以前に分かれた北条氏の伊豆近辺の支族に付いては全く知られて居なく、北条氏の被官として活躍する尾藤・長崎・諏訪氏は古くからの北条氏の家人ではなく伊豆出身でもないので、どうやら時政時代は三浦・千葉氏などの豪族より遥かに小さい勢力であったと推定されている。
二人の結婚から四年後、1180年天皇家の跡継ぎ問題から平家と対立する皇子以仁王が源氏に決起を呼掛けた。これに応えて頼朝も時政の援助を受け、東国の源氏の家人を糾合して立上がり、伊豆目代山木兼隆を倒したが小田原の南西にある石橋山の戦いに敗れ、海路安房に逃れ各地の武士に参加を呼掛け、鎌倉に入りここを根拠地とする。同年十月には平維盛を富士川で壊滅させ、翌年後白河法王に挙兵の真意を奏し、東国を源氏、西国を平氏が支配し、共に忠勤を試みるという提案をするが平氏の反対で実現し無かった。こうしているうちに信濃で挙兵した義仲が京都に入り、狼藉によって後白河法王の怒りを買い、代わって頼朝が上洛を求められた。こうして頼朝は東国沙汰権も得て伊豆配流以来の朝敵という名を免れた。そして1184年範頼・義経の軍で義仲を倒し、1185年義経を起用して壇の浦で平家を滅亡させる。こうして頼朝は鎌倉に初の武家政権鎌倉幕府をうちたてる。一方で政権を確かなものにするため、義経を追落とすことになる。そんな時、義経の愛人静御前が捕らえられ頼朝・政子の前で舞を舞うように命じられた。静御前、生没年は不肖であるが京の白拍子(舞女)という。義経の妾となり追放後も吉野までは行を共にするが義経と分かれた後、山僧に捕らえられ鎌倉に送られていたのである。彼女は『しずやしず賎のおだまき繰り返し、昔を今になすよしもがな』と義経を慕う歌を歌い頼朝を激怒させる。
危く手打ちになるところを止めたのは政子であった。しかしこの時、静は義経の子を身籠もっていた。やがて生まれた子が男子と分かると頼朝は自分と清盛の事を考えて同じ轍を踏まないようにこれを殺そうとする。政子も止めたが戦乱の世に生きる厳しさを政子に示
すため頼朝はこの子を由比ケ浜に沈める。その後、静は京に帰されたが、末路は不明である。
(事件その一) その間、周囲を驚かす事件がおきている。鎌倉で暮らしはじめて二年後、1182年、丁度長男が生まれた年、政子二十六歳、夫頼朝に愛人のいることを知り、事もあろうに部下の者に命じて愛人の館を打壊し焼き払うという暴挙に出ている。なぜ政子はそんな事をしたのだろうか?
愛人の存在を政子に告げ口したのは牧の方である。政子は一気に怒りの炎を燃え上がらせた。家来に命じて愛人の住む家を木っ端微塵に打ち壊させ、愛人は命からがら逃走、頼朝の面目も粉々に砕かれた。これによって彼女は激情に駆られたら何をするか分からない悪女というレッテルを貼られてしまうのである。なぜここまでやるのか?歴史作家桜田晋也は『政子は流人時代の頼朝を助けたという意識の非常に強い女性で、頼朝が自分の独占物であることを頼朝自身にも周囲の武家にも認めさせたかった』というが、かたや永井路子は『その当時本妻や先妻が後妻を妬んで押し込み、打ち壊しに走ることは(後妻打ち)といって平安期から良くあった事で政子だけの特別な事ではない』とも言うので、凄い事をやったのか?大した事ではないのか?良く分からない。
(事件その二) 時代は変わって1199年、頼朝が五十三歳で急死、政子は髪をおろし尼となった。跡を継いで二代将軍となったのは長男の頼家十八才である。頼家は幼少から才気活発で弓馬に長じ十二才の時、富士野の狩り場で鹿を射止め高名を挙げたこともある。しかし息子の若さを心配した政子は周囲に経験豊かな者を配して話し合いで物事を決めるように命じた。これが独裁を封じる老臣合議制である。ところが息子にしてみれば思いどうりの政治が出来ないばかりか父頼朝の偉大さばかりを聞かされる毎日は堪え難い。次第に気の合う若い家臣ばかり手元に置き遊びや気晴らしに捌口を求めていく。そんな息子の将軍としての姿に政子は大きな不安を抱いていた。将軍となって四年後、頼家は突然原因不明の病に罹り重体に陥る。政子は急遽後継者選びを始める。候補は頼家の長男『一幡(イチマン)』と頼家の弟の実朝である。本来ならば直系の一幡が妥当であったが、政子の出した結論は頼家は西国、一幡には東国の権利を与えるというのである。これには古代日本で何時も紛争の元になった『乳母』がこの時も引金である。後の実朝暗殺も同じに糸を引いたのは乳母の系列である。
日本の上流社会では古代から女性はわが子の子育ては乳母に任せるのが習わしであり、自分では決してしない。しかもしばしば幼児期を過ぎても乳母は若君に密着し、政治的秘書官となり強力な発言力を持つように成る。そしてこの乳母の親族も同時にのし上がってくる場合が多い。頼家と一幡の乳母は比企家の当主『比企能員(ヨシカズ)』の妻であり、頼家の妻も能員の娘『若狭の局』である。実は比企能員の母が頼朝の乳母であった関係で能員は頼朝配流中から仕えており、娘が頼家との子供一幡を生むと頼家の舅として権勢を強くし北条とは対立してきていた。頼家としては幼少より親しんだ比企家は北条家より居心地がいい、しかし政子にしてみれば世間にありがちな嫁の家に息子を取られた母の心境
である。これに懲りた政子は次男の乳母には自分の妹を当てて北条家で育てて居る。この次期将軍を巡る争いは北条家と比企家の権力争いであった。比企家は当然政子の案には大反対、一方政子は比企家が北条倒しを計画しているという情報を掴む。政子は直ぐに父の時政に相談し、先手を打って比企家を急襲しこれを滅亡させる。能員の息子宗員も一幡を擁して抵抗したが僅か六歳の一幡共々炎に飲み込まれた。頼家はこれを聞いて激怒したが最早打つ手はなかった。政子は嫌がる頼家を無理やり出家させ、修善寺へ籠らせてしまうのである。実はこのとき既に頼家死亡に付き、三代将軍に実朝をという届けが朝廷に出されて居た。生きながら葬られた頼家は寺での暮らしの苦しさを手紙で訴えたが、政子からの返事はなかった。修善寺で血の海に沈む頼家の遺体が見つかったのはそれから十か月の後である。政子に頼家暗殺の意思があったかどうかは歴史家の間でも論は分れている。
どうも頼朝が偉大すぎたせいか、頼家には頭領の資質は無かったように思える。
(事件その三)
この後継問題から数年経った1205年、異様な事件が起きる。政子によって父時政が無理やり出家させられ、牧の方と共に鎌倉を追放され、北条へ追いやられたのである。
頼家亡き後、第三代は十二歳の実朝である。年若い将軍を補佐するために『執権』というポストが始めて置かれ、政子の父がこの位に即く。同時に幼い将軍を教育すると称して、将軍の実朝を自らの屋敷に住まわせる。この執権と言う方式は以後十六代百三十年の長きにわたって受継がれる。そんな頃、政子には父と牧の方の動きが氣になった。それは実朝の結婚問題であった。政子は実朝の嫁として妹の娘つまり自分の姪を推薦した。所が牧の方が自分の遠縁に当たる公家の娘を推して来たのである。その結果、以前から京の文化に憧れる実朝は、なんと牧の方の推薦するほうを選んでしまった。又してもわが子に背かれてしまった政子は余計に牧の方が気になりだした。このころ、時政と牧の方の間には十六歳の『政範』と『平賀朝政』に嫁いだ娘が居た。牧の方はこの女婿を将軍にでっち上げ、息子の政範を時政の後の執権にしようとしているらしいと分かった。時政は牧の方の言いなりである。もしかすると実朝を亡き者にして政子や正室の子義時を追い出そうとしているのでは?突如政子は父の屋敷にいた実朝を連れ帰ると更に父に出家を迫った上、時政と牧の方に北条に引きこもるように命令した。何故政子はここまで父親を追い詰めたのか?政子の牧の方に対する積年の嫉妬なのか?或いは全く政治的に実朝を守るため、牧の方の幕府ができる事の芽を摘んだのか?これも見解が分れる。
(事件その四)
政子が幕府を任せ様とした次男実朝も又悲運の中に束の間の人生の幕を下ろす事になる。鶴ヶ丘八幡宮での実朝暗殺事件、何と実朝を殺したのは長男頼家の愛人の子、政子には孫にも当たる公暁である。この事件に政子はどの様に関わったのであろうか?武勇に優れた兄頼家と違って勉強家の実朝はロマンチスト、幼い時から病弱だったせいで学問に明暮れる。公家の娘を娶って以来、都の文化を身に付けた妻や側近たちに和歌の手解きを受け、親しむようになり彼が生涯に詠んだ七百首の歌は『金槐和歌集』として今に残り日本の代表的な和歌集の一つとされている。一方で青年となった実朝は政治を自らの手で動かしたいという欲望を持ち始めていた。そこに立ちはだかったのは母政子と政子の弟で実朝の叔
父に当たる北条義時である。実朝が手柄を立てた家臣に土地を与えようとしても、訴訟を公平に裁こうとしても、二人に反対されればそれまで、将軍とは名ばかりの操り人形のようであった。実朝二十四歳のとき、中国から来た僧侶に貴方の前世は中国の山に住む僧侶であると言われ、俄かに中国に渡る夢にとり憑かれる。しかし建造された船が水に浮かばず夢は挫折、こんなエピソードにも現実から逃れたいという実朝の心が覗いている。二十五歳の時、朝廷から右大臣の位を授けたいという知らせが有った。武士としては異例ともいえる高い位である。しかし政子はこれに反対する。鎌倉幕府が政治上の実権を取り続けられるのも京都から遠い鎌倉に根を下ろし都の文化の華やかさや貴族の贅沢から距離を置いて居るからである。素朴にして質実剛健、これこそが関東武士を一つに束ねる精神であると言う。只でさえ実朝は和歌や人を通じて京都の公家たちと親しい、朝廷との距離が必要以上に近くなれば武士の心から離れてしまう、と言うのが政子の思いであった。しかし実朝は周囲の反対にも関わらず敢えて右大臣となることを望んだ。『源氏の家は子供のいない私の代で終りとなってしまうであろう。せめて私が高い位に付くことで源氏の家名を残したい。(吾妻鏡より)』という気持である。こうして実朝は右大臣になった。
1219年 1月27日前夜から降り積もる雪の中、鶴ヶ岡八幡宮では右大臣昇進を祝う準備が進行していた。時は午後六時、一千余騎の見守る中、実朝は山門をくぐった。この時太刀持ちとして側に付いていた義時は急に気分が悪くなったと称して帰宅して居る。やがて式を終えて実朝が石段に出たその瞬間襲われる。『親の敵はかく討つぞ。今こそ我は大将軍』と叫ぶこの暗殺犯こそあの頼家の忘れ形見で政子の孫に当たる公暁であった。事件後公暁は立ち寄った家臣の家で殺害されて居る。その直後、京都で僧となっていた公暁の二人の弟も暗殺されて居た。遂に源氏の直系の血縁者は一人残らずこの世から消滅して終ったのである。しかし不思議な事に事件の朝、実朝は次ぎのような歌を家臣に託している。
『出ていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘するな』もしかすると実朝は二度とこの家に帰れないと知っていたのか?
永井路子は実朝と政子の争いを否定する。ましてや北条家が実朝を殺して実権を奪うとも考えられないと言う。しかし桜田晋也は実朝にとっては若い頃からの母親の自分に対する仕打ちから兄の頼家と同じ事をされると言う予感を強く感じていたのではないか?当日の辞世のような歌はその表れでは?という。
しかしこれも乳母戦争である。実朝の乳母は政子の妹の『阿波の局』、これに対して公暁の乳母は強力三浦氏である。北条・実朝連合と公暁・三浦連合が相打ちとなったと見たほうがよい。
(事件その五) さて今、頼朝も、頼家も、実朝もなく頼朝の遠い親戚の僅か二歳の子を四代将軍に仕立てて鎌倉幕府の基礎を築こうとしている政子、その政子に最期の舞台が訪れた。予てから幕府の隙を窺っていた後鳥羽上皇が実朝暗殺の混乱に付け込み、北条家打倒の指示を出したのである。このとき政子は関東の主だった武将を集め『頼朝公の深い御恩に今こそ報いるときである。名を大事にする者は今直ぐ敵を討つために立ち上れ。しかし敵に付きたい者はこの尼の命を取ってからあちらに馳せ参じれば良かろう。』と檄を飛ばした。六十五歳
の尼将軍の言葉に最早奮い立たない関東武士はいなかった。こうして鎌倉と京都の間で政権を巡る戦闘が開始された。世に言う1221年の『承久の乱』である。幕府はこの一戦に圧勝、十六代に亘る北条執権の基礎はここに固った。その数年後、弟義時が急死しその子泰時が執権を継いだとき、政子は義時が政子に残した領地を泰時に与えたが泰時はこれを子や兄弟に分け与え自分は僅かしか受け取らなかった。彼が政子に『執権と言う役目を与えられた私にはそれ以上の領地は要りません』と言った事で政子は幕府の安泰を確信したという。政子が歴史の舞台から姿を消すのはその翌年の事である。 1225年 7月政子永眠。69歳。やはり悪女ではなく、せざるを得なかった力ある女性という方が良い。 『尼ほど物思いたる者の世にはあらじ』