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わがことの数々と・・・

会社のこと、社会のこと、なんにでも一言言ってみたい我輩が、いまここにいます!

ハノイ便り 2

2005-11-10 00:42:43 | Weblog
 昨日の記事も、これもハノイのホテルで書いている。視察団の一員なので、帰って来て疲れてしまうと、実況したいとおもいつつできない。
 本日は、カオラン港まで行ってきた。また、野村證券グループがベトナム政府と合弁をした工業団地も見学してきた。

 ベトナムは、すべて一言で田舎。日本と比べることはほとんどできない。一説には、タイより20-30年くらい遅れている、という。幹線道路が、高速度道路となっていない。人馬、自転車、バイクの共用である。それは、ハノイ市内も同様。それが、バイクだから今のところ渋滞というものがすくないが、やがてバイクを乗っている人々が、自家用車を持ち始めたら、一挙に上海の二の舞となるであろう。

 地方とつなぐ道路も、やっとこの10年で整備された、という。

 しかし、沿線の風景で気づいたことで、ハノイ市内では犬は食用となるので、ほとんど見かけないが、犬は自宅の前にたむろしているじゃないか、郊外だからか。牛が動力として用いられるのか、農家で放牧して飼われている。

 道路沿線周辺の住宅は、にわか小売店となっている。間口の小さなたてもののまえに、いくつかの椅子を並べて客の到来を待っている。それが、われわれには遊んでいるようにみえるのだ。
 農地は、田んぼが多いが、きれいだし整備されている。野菜を作っている畑も見えたが、これもよく並びよく育っているのが見える。
 道端には、ただたむろしているだけの人がけっこういるが、田畑にも人はいて、こちらは働いている。商人と違い農民は、どこの国でも忙しい。

 ついでに言えば、ベトナムでは中国違い農民戸籍とかがあり、都会に移住を禁じてはいないらしい。また、農作物も自由に販売できるらしい。人民公社のような、集団経営は。そもそもしいなかったのか。


 ベトナム全体にいえることが、インフラの整備が必要。道路、ガス、水道、電気と・・・。まあ、ライフラインの整備ができたら、経済成長は、間違いなし。


 みると、いたるところに事業のチャンスが転がっているのがベトナム。
いってみたい人は、今がチャンス。ハノイ市の投資計画庁では、これからIT企業の投資や誘致を歓迎しており、特別なインセンティブを与えるそうだ。
 
 土地や建物は国家の所有なので、その国民も外国人も、土地や建物の家賃を国に支払いをなければならない。しゃかい主義だから当然だが・・・。



  現在わたしは、Panasonic CF-W4を使用している。きわめて軽快である。いろいろなブリーフィング会場で、メモを取ることができる。その練習もかねて、急遽出発前に購入したのだ。私のところでは、すべてのコンピュータを仕入れることもできるし、当然ソフトウェアも仕入れて販売できる、からだ。
  思うに、ノートPCはモバイルというからには、軽いのが一番。
  私の希望は、めがねにデジカメをセッティングし、耳に集音マイクを内蔵したウェアラブルコンピュータがほしい、ということだ。見聞きしたものは、すぐにデジタル化して発信までしてしまう。品波間を身につけたものなどは、入国を拒絶されるかもしれないか・・・。







 




ハノイ便り 1

2005-11-09 00:12:27 | Weblog
 ハノイに着いたのは、夜も更けてからだ。空港には、特有のにおいが満ちていた。その匂いとは、どうもベトナム米の炊いた匂いだった。私たちは、高速道路といわれたあまりにずさんな工事の後のような道路を通った。れ違う車も少なかった。ただ、空港の駐車場に並んだ車の種類は、そのほとんどが日本車であった。
 ドイモイ政策以後。急速な発展を続けているベトナム。日本からの投資に対する数々のインセンティブを用意して、いらっしゃいませ、と呼びかけている。

ベトナムは、オートバイの洪水だ。2人乗りから、3人乗りをしながら、若者たちはとおりというとおりを疾駆している。彼らには、目的地があるのかないのか、ただひたすら前進あるのみ。見ていると、目的があって乗ってるのかどうか聞きたくさえなってくる。歩いていてこまるのは、道路を横断するとき、オートバイの大群が次から次やってきて、怖くてわたることができない。信号のないところでは、止まりたくないのだ。それに、交通信号はなかなかない。歩行者優先などという考えはない。

 ベトナムでは、とおりに面した建物で店であろうと、自宅であっても、古くて汚れている。建て直しなどしないのだ。これは、建物が国有性のためであろう。個人所有になれば、当然きれいにするはずだ。


近くでお祭りのオンパレード

2005-11-06 10:24:09 | Weblog
 周りの市では市民祭りでにぎわっている。ちかくの市でも、約2kmぐらいの桜並木の沿道に、関東の香具師の一大集結とも言うべき、屋台が並ぶ。毎年、いい天気なのだが、今年は天気はよくないな。昨年は、上海に出張していたので、見に行くことができなかった。
 市民祭りに参加したこともあるけれども、祭りというのは何でも参加しなければ、ちっとも面白くない、ということに尽きる。
 
 
 日本全国で、いろいろな祭りがあって、観光旅行で行く人は多いが、実際に人の楽しんでいる祭りを見物に行く気には、私にはなれない。

 以前姫路で仕事をして、出張中にその会社の社長がすするめるものだから、わざわざ夜の屋台を見に行った。「日本一の屋台があるから・・・一度見ておくほうがいいよ」ということだったが、感想をきかれても、「うんまあ、結構すごいっすよ・・・・」とか、歯切れよく答えることができなかった。

 言われたほどにこちらでは評価できない理由というのは、地元の人が言うほどに、よそ者が見たらたいした迫力も魅力も価値も感じられない、ということであろう。ジモチィーにとっては不快いかもしれないが、結局よそから来た人たちは、常に相対的にしか見えないし、その価値についての背景の知識も不足しているし、自分はよそ者という先入観があるから、であろう。

 でも、秋の日に姫路市内のはずれだったが、結構な暗がりになっていて、暗いあぜ道のむこうの祭り会場に、にぎやかな明かりがほうっとともっていて、影絵のように見えたのが、とっても印象的であった。屋台や祭りというより、都会のすぐ近くの町のお祭りを囲む、夕闇の風景に感じいってしまったのを思い出す。

 その後、高山の屋台を見る機会も合ったが、やはり姫路の屋台が大きいと思えなかった。まあ、ついでに、秩父の屋台も見に行く機会が合ったら、近くだし行ってみようか、とも思う。

 祭りとは、参加しているものがいる(友人や知人がいる)、参加する自分がいるというような関係があるものでない限り、あまり感動などしないものではないだろうか。見世物としてなら、別だが。













ベトナムに出張 その1

2005-11-04 19:24:50 | Weblog
 来週からハノイに出張する。ハノイへの観光客は増大して、日本人がトップになった、という。少し、ネットで調べて見ると、ハノイもまだまだ危ない都市のようだ。観光客目当てに、引ったくりやすり、置き引き、子供に囲まれて物をねだられているうちに・・・行く前は、いろいろと注意をするのだが、いざ現場に行ってしまうと、なんとも恥ずかしいことに、そうした事件に遭遇するものは、日本人が多いそうだ。

 われわれは、本当にお人よし、にできているのかも知れない。また、そうした油断が、その国の人たちに援助していることになる、などと気取ってみる(ーー;)。

 かく言う私も、もう10年前になるが、パリの地下鉄の入り口で、見事に財布をすられてしまった。あわてて、改札口をでて追いかけたものの見失ってしまった。たとえ、追いついたとしても、わたしのように体力もないものには、取り返すことなどできるはずもなく・・・200フランくらい入っていたはずだ。(-_-;)

 外には、わたしたちを「追いかけないで!」というようなまなざしで見つめていた女がいた。勿論フランス人ではないアラビア系の人であった。

 サクレクール寺院を見てきたばかりで、その地区の警察署に被害届を出そうとして探した。
 やっと見つけた警察署では、ぜんぜん相手にしてくれないので、フランスは俺たち外国人を観光客として受け入れているのに、おかしいではないか。へたくそな英語でそんなことを言ったつもりだった。やがて警察官はうんざりした顔をして、我々をパトカーに乗せて近くのターミナル駅に連れて行ってくれた。駅の観光客用の交番のようなところで、被害届を出してきた。

 パリでパトカーに乗った、という自慢話にもなるが。あまり外国などにいけないし2人っきりでいったから、団体でもないのについ日本にいるような気持ちになって油断をしてしまったので、狙われてしまった。
 地下鉄の切符を買った財布をコートのポケットにしまったのを見定て、ぱくっと食いついてきた。

 
 さて、話を戻すと、べトナムの駐日代表部の方とも名刺交換をする機会があったが、男女ともにとても小柄な人で、人当たりのいい人たちであった。
 わたしの訪越の目的は、経済視察なので、あちらの経済の状況のレクチャーを受けたり、企業訪問などが主体となる。これから、ますますベトナムと日本の経済交流は、広まっていく、と予想できるが、自分に、何ができるだろうか、検討をしている。ベトナムの若者を、日本での製造業なので研修目的で受け入れ、人づくりのお手伝いをする計画が、官民一体となって進んでいる。
 
 少子高齢化に向かっていく日本の社会で、働きにやってくる外国人労働者と、どのように付き合っていくか、などなどこれからの社会のテーマにもなっていくだろう。

座禅の成果とは

2005-11-02 10:07:01 | Weblog
 座禅に参加してもう5年になる。それだけたっていても、その成果は出ているのか、と質問されたら、いい返事はできない。主催する住職からは、時間の無駄になるような座禅はやめなさい、と毎回言われる。もちろん、わたしにだけ言っているのではない、参加者全員に言っているのだ。背後から、座禅する我々をみて、この人は明らかに気をときはなち、空禪になっている、というのが、わかるのだろう。

 それは、呼吸だという。普通の呼吸をしていたら、その人は妄想にとらわれているか、寝ているかのどちらかだ、というわけだ。
 
 妄想というか思いは、次が次に湧き上がるイメージのようなもので、わたしたちはあたかも「流れに浮かぶうたかた」のように、片時もとぎれることなく湧き上がるものだ。平生では、それを断ち切ることはできない。それを禅会で、一瞬だけ断ち切ろうとするわけだ。いわば、リセットスイッチをいれる。

 座禅による成果などは、なかなかはかり知ることはできない。それは、傍目からではまったくわからない、哲学的なことだから。
 わたしが、これによって充分修養を積むことができた、などといえば、誰にもそれを検証することはできない。座禅をしたからといって、腹の立つことを以前より充分に抑えることができるようになったか、と言ったら、さらに我慢強くなった、などとはいえない。

 このように、はっきりとした成果の出ないことに、毎月2時間費やす自分は、リセットしている、ということを意識することができる、のがいいと思う。何事も意識することが必要、なのだから。意識、人間にのみ与えられている、のであろうから。 

 わたしの座右の銘は「思えばできる。なせば成る」である。

 いろんな、禪会めぐりをしている人もいる、と聞く。面白そう、と思う。




第39回 東京モーターショーに行って思ったことのひとつ

2005-10-30 10:59:50 | Weblog
 わたしは、自動車関連企業に勤めていないし、その部品企業でもない。勿論協力会社でもないが、自動車には興味があってもこのショーには、ついぞ行ったことはなかった。はじめて行ってみて気づいたことがあった。それは、何もそこに行かなくてもいいことであったが・・・。
 
 感想としては、ひとつは家族連れがおおかったこと。赤ちゃんから老人老婆まで、ということだ。自動車の持つ社会的な役割は、このように大きいのだ、と実感する。もうひとつは、訪れる人の数の多さ、また階層の多さだろうか。万博とは、一味違ったものであることが分かった。若者が多いことは実にいいことだ、と思う。
 
 コンセプトカーなるものを、大々的にショウアップして展示してあり、コンパニオンが仰々しくプレゼンをするのだけれども、あまりに驚きは感じなかった。まあ、やって当たり前、できて当たり前、というほど消費者である我々は、賢くなっている、というべきで、いまさらメーカーにそんな提案を・・・という意識も充分あろうか、と。既に、わたしたちは自動車にそれほど多くのものを期待していない、のかも知れない。

  でも、自動車産業は真剣に考えてもらいたいことがある。毎年の何万人と自動車事故で死んでいること。この貴重な日本人の生命が、ふとした運転の間違いや、反社会的な運転により、自己中心的な運転などにより生じる事故やクルマに関した事件の数々を。それらの撲滅を、我々一人ひとりにもとめたり、警察にだけ求めることによらず、自動車産業側にも、売ることばかりでなく、社会的な責任として負担して貰う段階に来ているように、思う。

  わたしたちは、自動車を犯罪の武器にしたり、身勝手で危険な運転をするドライバーに寛容すぎてはいないだろうか? 自動車を犯罪の武器に利用したり、危険な運転をする人々には、免許もクルマの販売も禁止するように法律をつくかえるべき、ではないでしょうか。

  勿論、過失による自己もあるでしょうが、無謀で独りよがり社会的な倫理をもたずに他人の生命を奪ってしまった人には、一切の運転も、車の所有も許可しない社会が必要ではないでしょうか。

  失った生命を、再びその人自身として誕生させることはできないのですから。自動車は、毎秒何台と全世界で生産されていても、愛するあなたの家族は、2度生まれてこないのですから。

  わたしは、ここで提案したい。すべてのクルマに衝突時の前後の写真を記録し搭載できる(名称は忘れましたが、航空機のブラックボックスのようなもの・・・既にタクシー会社が採用しているという)を装備することを、法律で義務化すべき思っています。新車の発表や、自動車生産工場の設立よりも、我々の生命の安全と安心を保証するクルマの開発を、最優先すべきとと思います。これにより、わたしのところには、自動車産業関連の仕事が一切こなくなる、と思われけれども。
  損害保険会社も、より加入者サイドに立って、そのような災害被害の実際を記録するシステムを搭載した車でないときは、保険料負担を高くすべきではないか、と思うものだ。
これにより、どちらに過失がより多くあり、どちらが悪かったのか、はっきりさせられる。また、警察や裁判官の調査・審理コストを下げるためにも、有名な弁護士を用意してすべて過失致死で、軽い罰で社会に復帰できるような、死人にくちなしの、判決にならないような、公平な社会・信勝必罰が必要ではないでしょうか。


  クルマを運転する自分にとっても、本当はいつ事故や事件に巻き込まれるか、とても不安なものです。安易に、広告宣伝ばかりがまかり通っていますが、少しはネガティブな発想によるクルマを訴求しても、いい時代だと思われます。
  いま、わが国には安全と安心のコストを、負担しなければならない時代になってきている、われわれは自覚し始めているのですから。

読書週間忘れていたよ?

2005-10-28 13:35:00 | Weblog
 秋の日のビオロンの・・・というと、すぐにサンボリズムが思い浮かびますが、何ゆえにわたしたちは、かの国の象徴主義というものがすきなんだろうか。
 真剣に考えて、論考をだすなどということもできないので、単なる疑問に終わっててしまうだけだが(笑)。かのサルトルが、プラタナスの木にたかる毛虫だったか、その落ち葉だったかを見ているうちに、実存主義というものがわかった、とそのヌーベルに書いていたわけだけれども。

 「桐一葉落ちて天下の秋を知る」が中国人の作だからというわけではないが、とても実存主義などというもののイメージとはほど遠い。実存とは、桐の一葉に、天下をしるのではなくて、自己を知る、ということであれば・・・。脳内実存か?

 最近、あの一世を風靡した「なんでだろう」のメロディーも聞こえてこなくなったが、疑問からの出発になってしまったわたしのブログ。本を買わず読まず、というより買っても読まなくなってしまったのだ・・・残念。

 もう、サルトルも亡くなってしまったし、「家の馬鹿息子」を読む元気と時間もわたしにはない。「宣長」さえ、まだまだ読み終わらず、宿題用に未読の書物が、堆く高くなっていくばかりの、今日この頃です。