日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

言葉と意味を一致させるためには。

2008年03月23日 | お仕事な日々
相変わらず私は、
試食品を欲しがる子で、
何も言わない子には、
「ありがとうって言える?」
と聞く、
イヤミなマネキンさんをしている。

食べ物のほうに目がいって、
あきらかにテキトーに「ありがとう」という子。
ちゃんと目を見て「ありがとう」という子。
様々だ。

中には、
私どころか、お母さんにも、
「ありがとう」を言うように求められ、
その注目される感じが、なんだか嬉しくなって、
反対に、
「いやや!」と、
ケタケタ笑いながら言う子もいるし、
「なんで言わなあかんのかわからん!」という
反発心から、
「いやや!」と言う子もいる。

嫌なら嫌でいいのだ。

私はそこでストップ。
そういう子どもの意思や主張がわかったら無理強いはしない。

自分が欲しいものをもらえたのだから、
くれた相手には、「ありがとう」と言うべきだ、と思っている。

だけど、シチュエーション的に、
「別に欲しいと思っていたわけじゃないのに、
くれたからもらっただけなのに、
なんで、
『ありがとう』と言わんとあかんの?」って感じで、
もらう場合だったり、
試食品をもらうときに、
間にお母さんが入ってて、
私に言わなければならない道理が、
子どもの中でつかめていない場合とか、
とにかく、子どもなりに納得できない感じであれば、
別に拒否されたってかまわない。

漠然とでも、自分の意思や動機を、
子どもがつかめているのなら。

多少うわっつらな気持ちでも、
機械的に「ありがとう」と言える状態に、
子供の頃からなっているのは大事だと思うから、
私なりの信念で言ってるだけなんで、
動機がどうしても芽生えないなら、しなくったっていい。

子どもが学習する機会が、
親以外であったっていいんじゃない?ってな気持ちで
やっているんで。

だから、今日、
おばあちゃんが、
私から試食品を受け取って、
それをそのまま、お孫さんに渡して、
「ほら、おねーさんに、『ありがとう』は?」
って、言ったって、
子どもにとっては
あまりにも唐突で、
頭の中が混乱して、
言葉が出ない状態になる気持ちは、
よくわかったんだけど……。

差し出がましいことも言えなくて、私は困った笑みを浮かべていた。

「ほら、モノをもらったらなんていうの?
『ありがとう』って言わなあかんやろ」

私から、1.5メートルほど離れた、
マネキンの営業トークを拒否する場所で、
おばあちゃんは孫に言っている。

そんな
大人でも
会話をするには微妙に遠い距離のところにいるのに、
おばあちゃんからもらったパンのかけらで、
遠くにいる他人に、
「ありがとう」を言わせようったって……。

せめて、
おばあちゃんに「ありがとう」と言うのなら、
子どもにも直接的で、
わかりやすいような気がするのだが
(子ども自身が、言いたい気持ちになるかどうかは別としてもね)。

なんとも歯がゆくなってたら、
おばあちゃんの娘さん、
つまり、子どものお母さんが、
ひととおりのパンの物色を終えて、
おばあちゃんと子どもに近づいてきた。

横目で、そのやり取りを見ていたのであろう。
そのお母さんは、
少し声高におばあちゃんに、

「押し付けがましいしつけしないで!」

と言った。……あ、あからさますぎでは……。

おばあちゃんは、何も言い返すことができず、
子供の目線に合わせてしゃがんでいたのをやめて
立ち上がった。

子どもは結局、
パンのことも、お礼のことも、
何もかもピンと来ないまま。

おばあちゃんの娘、つまり母親は、
おばあちゃんを叱りながら、
子どもの手を引いて、
パンの売り場を離れていった。

「ありがとう」の対象者でありながら、
私の存在は“無い”に等しいこの展開(笑)

おばあちゃんのやり方にも同意しかねるけど、
娘さんのおばあちゃんを閉口させるやり方にも、
共感できず。

まぁ、「押し付けがましい」という言葉が、
一瞬、
自分に言われているようにも錯覚して、
胸に突き刺さったせいでもあるんだけど。

     ★

「押し付けがましい」という言葉は、
思いのほか、私に響いて、
その後の仕事の士気を消沈させた。

そんな中、同じ場面は、めぐりめぐってくるもんで。

また新たなるおばあちゃんが、
お孫さんに食べさせるだけの為に、
試食品をもらい、
また私とは少し離れたところで、
後からついてきていたお孫さんに、
しゃがみこんでパンのかけらを渡した。

さっきと同じように
パンをもらう代わりに、
営業トークを聞くというリスクを拒否し、
お孫さんに「ありがとう」と言わせるためだけの
対象者として、私を紹介しようとする。

「ありがとう」を言うだけの動機がないお孫さんは、
もらったパンも食べずに、
催促するおばあちゃんをじっと見ている。

「パンが食べたい」という動機もなければ、
「お礼を言わなければならない」という理屈もわからない
お孫さん。

おばあちゃんは、実に粘り強く、
お孫さんに「ありがとう」を促した。

しびれを切らして、私は、
そのおばあちゃんとお孫さんのやりとりに、
割り込んだ。

「もしかしたら、直接パンをくれたおばあちゃんに、
『ありがとう』って言いたいんじゃないですかねぇ」

お孫さんの気持ちなんて、
本当のところわかんないけど、
おばあちゃんの矛先だけでも変えたくて言ってみた。

でも、

「普段は、ちゃんとお礼がいえる子なんですよ」

と、おばあちゃんは、
私の言葉の内容を吟味することなく、
まるで、
「この子はあなたが思っているような不出来な子ではないんですよ」
みたいな言い方で返してきた。

お孫さんは結局何も言わなかった。

「どうしたのかしらねぇ」なんて言いながら、
おばあちゃんは諦めた様子で、
パンのかけらをお孫さんに食べさせ、
爪楊枝を捨てる際、
私に軽く会釈をして、その場を離れていった。

あらゆることがごちゃ混ぜになって、
ずどんとかたまりが落ちてきた。

不意に泣き出しそうになった。

そして、どこからともなく、
「ウォーター!!」という声がした。

あぁこれは、
小学校1年の時に、
何度も読んだヘレン=ケラーのお話の声だ。

『奇跡の人』を演じている、
マンガの北島マヤの声だ
(by『ガラスの仮面』知らない人は無視してね・笑)。

どっちも声なんて聞いたことがないのに、
声が聞こえた。

     ★

言葉という器には、意味という水が入っている。

まず言葉という器が、
この世にはあるっていうのを獲得し、
一滴、一滴、
いろんなシチュエーションや、
感情を芽生えさせて、
水を溜めていく。

そうやって、言葉と意味が徐々に結びついていく。

だけど、
パラドックスっぽいけれど、
本質的に「意味を知る」というのは、
言葉の器から、水があふれた時に、
ようやく自分に染込むものだ。

そういう域に子どものうちに達する人って、
いないんじゃないかなって思う
(マネゴトができる賢い子はいるだろうけど)。

動機のない子どもに対して、
おばあちゃんの「ありがとう」の強制は、
どうなんだろう、とやっぱり思う。

でも押し付けがましくないしつけっていうのも、
できるもんなのかなって疑問に思う。

しつけって、
「教える」のスタートラインに立たせるための、
前段階のようなイメージだから、
ひつこくってナンボってところがあるような気がして。

気の遠くなるような年月を生きて、
人はようやく使っていた言葉の意味を知る。
でもそれは、
ほんの僅かな一滴一滴を
溜めていくからあふれ出るもので、
溜めることもなく年月だけが積み重なっても、
あふれ出て染みてくることはないだろう。

サリバン先生って、
なんて真っ直ぐですごいんだろう、と、
泣きたい気持ちになっているのに、
変なところで咀嚼しなおしていた。

     ★

親からクレームをもらったこともあるので、
「ありがとうって言える?」と聞いた後、
何にも言わない子には、
「シャイなんですね。かわいい」とか、
「すいません。催促するみたいに言って」
と、親に対しても、
可能な限り何か一言を付け加えるようにするとか、
その場その場において、
なんらかのフォローを考えるようにはなった。

だけどまぁ基本的に。

子どもの試食はめんどくさい。
こんなにいろいろ考えてしまうのに、
購入の権限だって持っちゃいないし。

欲しそうな顔をして、
通り過ぎる子は、
可能な限り無視をする。

そんなイジワルでイヤなマネキンなので、
スーパーで私を見かけても、
食べ物もとらず無視してほしいです。

親も子もおばあちゃんも。

「どんな味がするんだろう」と、
思う人だけで結構です(メーカーやスーパーさんにはナイショの気持ちだ・笑)。

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