十数年ぶりに、試食販売のバイトをしてきた。
久しぶりなので、かえって緊張していたけど、
緊張したおかげで、あっという間に終わった。
★
ちょっと閑古鳥が鳴いていたかな。
一週間ほど前に、近くに、
大日の大きなショッピングモールができたばっかりだというのも、
影響があったのかもしれない
(私が『涙そうそう』を見に行ったところね)。
そのお店に向かうちょっと手前で、
もうすでに、
『○○○大日ショッピングセンター駐車場は右折』とか、
書いてある札を持った人が立っていた。
こんな遠いところから、もうこんな案内を!!
と、驚いてしまった。
それでもまぁ、夕方には、それなりに、
家族連れが来たし、
ビスケットの試食販売だったのだが、
ビスケットを切るたびに、
ビニール手袋を着用しなければならなくて、
そのめんどくささが、
暇な時間を作らせなかった。
多分社会的にであろう潔癖傾向に、
抵抗感はあるものの、
それなりにそのややこしさを活用したということか。
★
以前は思いもつかなくて、
今はナチュラルにできるようになったことがあった。
試食品を取っていく子供らに、
「『ありがとう』は?」と、
言葉を要求することだ。
最初は、
子供らだけが来た時だけ、
お菓子を口に入れる直前まで待って、
言いそうになかったら、
「『ありがとう』は?」と聞いた。
が、だんだん、エスカレートして、
親がいる前で、かつ、
親が促さない場合、
親に恥を書かせる気持ちはないが、
「『ありがとう』は?」と、
子供の目を見て言うようになった。
言うまでもなく、私は別に感謝されたいわけじゃない。
ただ、気持ちがまだ込められなくても、
手続きぐらいの気持ちでいいから、
なにかモノをもらうときには一言必要なんだと、
別に親じゃないけど、
教えることができる関係に一瞬なったら、
その一瞬を活かしたいと思ったのだ。
中には、稀だけど、
事前に「取ってもいいですか?」と、
聞いてくれる子供もいた。
そういう子らには、
「はいどうぞ。ありがとう」と、
私のほうがお礼を言った。
私も見習おうぐらいな気持ちで言ったりした。
だが、さすがに、大人には言えない。
子供に、「『ありがとう』は?」と
促している最中に、
横から入って、ひとつとって、どこかへ行く人なんか、
「なんちゅータイミングで来るねん」
と苦々しく思ったり、
母親が、一言もなくとって、
少し離れたところにいる中学生の男の子に
あげるのを見たときは、
申し訳ないけれど、
生理的な気持ち悪ささえ感じられた。
いつだって、
(個人的状況ではなく)社会的状況において、
人を傷つけるのは、
奥に潜んでいる幼稚さだ。
子供そのものの幼稚さでは、傷つかない。
かといって、
子供は大人を傷つけない存在だと思うのは、
大間違い。
子供が人を傷つける武器は、
その奥に潜む邪悪さだ。
まぁ、それもきっと、
大人を見ながら育むのだろうけど。
★
帰りの電車の待ち時間で、
夫に「今から帰る」とメールしたら、
しばらくして、返信が来た。
一言、「かえりにタバコ買ってきて」。
……嘘でも何でもいいから、
アタマに「お疲れ」とか「ごくろうさん」とか、
どうして、一言つけられないんだろう。
私が送ったメールの言葉を
無視された錯覚が渦巻いて、断った。
たった一言ないことの寂しさを、
こうやってひしひしと覚えたから、
他人の子供に、
言える私になったのかもしれない。
なんでもない一言を、
一番切実にほしがっているのは、
子供ではなく、私なのかもしれない。
久しぶりなので、かえって緊張していたけど、
緊張したおかげで、あっという間に終わった。
★
ちょっと閑古鳥が鳴いていたかな。
一週間ほど前に、近くに、
大日の大きなショッピングモールができたばっかりだというのも、
影響があったのかもしれない
(私が『涙そうそう』を見に行ったところね)。
そのお店に向かうちょっと手前で、
もうすでに、
『○○○大日ショッピングセンター駐車場は右折』とか、
書いてある札を持った人が立っていた。
こんな遠いところから、もうこんな案内を!!
と、驚いてしまった。
それでもまぁ、夕方には、それなりに、
家族連れが来たし、
ビスケットの試食販売だったのだが、
ビスケットを切るたびに、
ビニール手袋を着用しなければならなくて、
そのめんどくささが、
暇な時間を作らせなかった。
多分社会的にであろう潔癖傾向に、
抵抗感はあるものの、
それなりにそのややこしさを活用したということか。
★
以前は思いもつかなくて、
今はナチュラルにできるようになったことがあった。
試食品を取っていく子供らに、
「『ありがとう』は?」と、
言葉を要求することだ。
最初は、
子供らだけが来た時だけ、
お菓子を口に入れる直前まで待って、
言いそうになかったら、
「『ありがとう』は?」と聞いた。
が、だんだん、エスカレートして、
親がいる前で、かつ、
親が促さない場合、
親に恥を書かせる気持ちはないが、
「『ありがとう』は?」と、
子供の目を見て言うようになった。
言うまでもなく、私は別に感謝されたいわけじゃない。
ただ、気持ちがまだ込められなくても、
手続きぐらいの気持ちでいいから、
なにかモノをもらうときには一言必要なんだと、
別に親じゃないけど、
教えることができる関係に一瞬なったら、
その一瞬を活かしたいと思ったのだ。
中には、稀だけど、
事前に「取ってもいいですか?」と、
聞いてくれる子供もいた。
そういう子らには、
「はいどうぞ。ありがとう」と、
私のほうがお礼を言った。
私も見習おうぐらいな気持ちで言ったりした。
だが、さすがに、大人には言えない。
子供に、「『ありがとう』は?」と
促している最中に、
横から入って、ひとつとって、どこかへ行く人なんか、
「なんちゅータイミングで来るねん」
と苦々しく思ったり、
母親が、一言もなくとって、
少し離れたところにいる中学生の男の子に
あげるのを見たときは、
申し訳ないけれど、
生理的な気持ち悪ささえ感じられた。
いつだって、
(個人的状況ではなく)社会的状況において、
人を傷つけるのは、
奥に潜んでいる幼稚さだ。
子供そのものの幼稚さでは、傷つかない。
かといって、
子供は大人を傷つけない存在だと思うのは、
大間違い。
子供が人を傷つける武器は、
その奥に潜む邪悪さだ。
まぁ、それもきっと、
大人を見ながら育むのだろうけど。
★
帰りの電車の待ち時間で、
夫に「今から帰る」とメールしたら、
しばらくして、返信が来た。
一言、「かえりにタバコ買ってきて」。
……嘘でも何でもいいから、
アタマに「お疲れ」とか「ごくろうさん」とか、
どうして、一言つけられないんだろう。
私が送ったメールの言葉を
無視された錯覚が渦巻いて、断った。
たった一言ないことの寂しさを、
こうやってひしひしと覚えたから、
他人の子供に、
言える私になったのかもしれない。
なんでもない一言を、
一番切実にほしがっているのは、
子供ではなく、私なのかもしれない。
格闘家が喧嘩をめったにしないように、
たぶん言葉の持つ「言霊」の領域の力を、なんとなく私は知るようになって、だからこそこうして「コトバ」を使い、また使わないようにしている。
そしてまた、発された言葉の邪気や無邪気まで読み取らされて、私はこうしてうつを悪化させて一週間の休職にあります。
無邪気に言葉を使えたら、てかノーテンキにべらべら喋れたら、もっとハッピーが増えるでしょうね。
でも、歌は作れなくなる気がする。
優れた五行歌には、言霊が潜む。
いや、秘められているのかな?
で、
稲田さんがマネキンさんをされるとはオロロキです。私の友人に、ビスケットを「歯クソ菓子」というヤツがいて、私もビスケットは歯につくので、たまたま私がそのお店に行っていたら、稲田さんと知らずに「いりません」とか言って無愛想に通り過ぎて稲田さんをムカッとさせ、このブログの餌食になってたでしょうね(それはそれで面白いか)。
子どもをしかる前に、親をしからなくちゃ、と思うことが多いこの頃。思いっきり子どもをしかることが出来るのは、今や親だけだぞ! 親! しっかりせい!
ともあれ稲田さん、お疲れさまでした。でも私は、稲田さんのマネキンさんより、毎日更新されるこのブログのパワーにオロロイテいまする。
「言霊」については、自分の力では込められないという印象があるし、
書いていくと長くなるのでカットしますが(言葉を神秘化させる印象があるので、私は少し抵抗感を持っていることだけはお伝えしておきます)、
「コトバ」というものを、「話し言葉」「書き言葉」両面から考えても、
もしかしたら、「使わないようにしている」という心がけは、
私の場合、あまりない気がします。
芸能界でなら、黒柳徹子さんに匹敵するかも(ズケズケな感じが・笑)
「使えない」という環境にいたことはあります。が、半年ぐらいで逃げました(お恥ずかしい話ですが、家出してしまいました××)。
相手のための「配慮」のようなもので、あえて使わない、ということは、今思いつく限りではしていない気がします。
私にコトバが出ないときは、相手に対して、単に言いたいことがない時か、感情が言葉を上回っている時か、言葉を頭の中でコネコネしている最中、というときだけだと思います。
だからといって、言葉を適切に、完全に、操れているかといえば、そうではなく、言った後で「あ、これ、違うわ。こんな言い方じゃあかんわ」と、内心思ったり、伝わってほしいから話すのに、話せば話すほど、相手が遠ざかることもあります。
「沈黙」というワザが習得できないんですね。
なので、
>無邪気に言葉を使えたら、てかノーテンキにべらべら喋れたら、もっとハッピーが増え>るでしょうね。
> でも、歌は作れなくなる気がする。
比較的ノーテンキにべらべら喋る私が思うに(笑)、そんなにハッピーではないです。
ノーテンキでは、ハッピーもアンハッピーもない気がします。
「言葉を使える」ということが、喜びや傷というものの対象外になると思うから。
なにも味わえないです。当たり前すぎて。
何も味わえないことを「幸福(ハッピー)」と呼ぶのなら、
仰るとおりだと思います。
ですが、私の価値観では、
「ノーテンキ」ではなく、頭を使って、試行錯誤して、使いたい言葉を選んで使えるから、
人は「言葉を使える」ことに、ハッピーになるのだと思います。
だから、べらべら喋れるようになっても、歌は作れます。
私の歌の動機には、「べらべら喋った結果の後悔」というのもありますし、話しても話しつくせない「思い」というのもあります。
場面が変わった後、しゃべった後に気づく、別の「思い」や「思い方」というものもあります。
だから、そこに相関関係はないと思います。
歌が作れないときは、大別して、
「何かの圧力で思いを見つめることができない時」
「思いを言葉に変換する時間をとることが出来ない時」
「伝えたい相手に、ちゃんと言いたいことを直接言えて理解されている時」
「歌ではなく、別のもので(例えばスポーツとか)気持ちを表出・表現可能な時」
かな?と思います。
後者ふたつの場合は、もはや、歌にこだわることなく、やめてしまえばいいと思います。
歌である必要がないわけですから。歌は拘るものであっても、縛るものではないですから。
どんなに自分が離れても、気がつけば、(歌が)手の中にあるのでしたら、
平行してすればいいですけれどね。
ですが、前者ふたつは、つらいです。
自分の力で、なんとか、改善できるものと、改善できないものがありますし、
改善できたからといって、気がつけば、そこに全力を尽くしすぎて、
自分自身は、言葉も、思いも空っぽになっている場合もあります。
「歌を詠いたい」という外枠の気持ちだけが、内側を漂っているというのは、
つらいです。
自分が何をどう思っているのか。
自分がどう思いたいのか。
その思考を外的にとめられている時、内的にブレーキがかかる時、
本当につらいです。
どうしたらいいのか、私も教えてほしい。
ただ、そういう時、私は、
「息を吸って吐いている」ということを、意識します。
そのからだの機能が止まっていないことだけに、追いすがります。
歌うどころか、笑いも泣きもせず、
うつろに、
その追いすがりを、数年ほどしていた時期もあります。
どんなに苦しくても、
自分ではとめないんだという決意を、
揺れながらも握り締めていたり、
命を奪われるような目にあっていないという、
事実だけを見つめて、
そこに意味を無理やり見出したり、
確認するだけの自分を許すようにしていた時期もあります。
もともと備わっている「生命力」ではなく、
自分がそれまで生きてきた人生から搾り出す「生命欲」で、
細々と生きる。
これもまたひとつの「明日を信じる」ということです。
もしも、その「生命欲」と「歌(五行歌)」が、
限りなくイコールで本質的に繋がっていたら、
歌はまたいつか歌えるようになります。
(繋がっていなくて、別の新たなる表現媒体に繋がる可能性もあります)
それに気づくのが、
いつになるかはわからない。
死ぬ直前かもしれない。
でも、歌えるようにはなります。
「生命欲」が歌に繋がるなら。
(ただし、「生命欲」と歌が繋がることが、
歌う人自身を、幸福に、ハッピー導くのかどうかは、
私にはわかりません。
それは、それぞれの価値観で、
判断されればいいことだと思います。
ただ、「生きていく」ことだけは、できます。
決して、「死」を選ばない自分にはなります)
長くなりました。
マネキンのことについては、また後日。
10月11日の日記に書こうかと思います。
それから、
もし、
eQさんの真意から、どんどんずれて、
↑のことを書いていたのだとしたら、
平に謝罪します。ご容赦ください。