僕らがそもそも「世界」として知っているものは、すべてメディアなどを通じて知り得た仮想現実にすぎない。ひょっとして今この瞬間、どこかの大陸が水没しようとも、それが報じられなければ、またそのニュースを見なければ、誰かから聞かなければ、僕の中の世界地図はいつまでも、その大陸は存在し続けることになる。と長い前口上はこの辺にして、以下からリップマン著「世論」より。
……
われわれが政治的に関わり合わなければならない世界は手の届かないところ、見えないところ、知の及ばないところにある。だから、探索し、報告を受け、想像をめぐらさなければならない。人間は、アリストテレスのいうような、一目であらゆる存在を思いめぐらすことのできる神ではない。人間は一つの進化から生まれたもので、生き延び行くのに間に合うだけの現実の一部をようやく支配し、時の秤にかければほんの束の間でしかない洞察と幸福しかつかみとることができない。しかしその同じ生き物が、裸眼では見えないものを見、耳で聞こえないものを聞き、極大量とか極微量を測り、個々の人間に記憶できる以上の品目を、数えたり分けたりすることが可能な方策を編み出してきた。人間は、見ることも、触れることも、嗅ぐことも、聞くことも、記憶することもできない世界の大きな部分を知力によって知ることが可能になった。しだいに人間は、自分の手の届かない世界についての信頼に足るイメージを、頭の中に勝手に作ることになった。
……
人為的な検閲、社会的接触を制限するさまざまの状況、一日のうちで公的な事柄に注意を払うために使える時間が比較的乏しいこと、事件をごく短文に圧縮して報じなければならないために起こる歪曲、錯綜した世界を数少ない語彙で表現することの難しさ、そして最後に、人々の生活の中に溶け込んでいる習慣を脅かすように思われる事実に直面することへの恐怖がある。
……
報道界の問題が混乱しているのは、その批判者も擁護者もともに、新聞がこうしたフィクションを実現し、民主主義理論の中で予見されなかったものすべての埋め合わせをすることを期待しているからだ。そして読者も、自身は費用も面倒も負担しないでこの奇跡が成し遂げられることを期待している。民主主義者たちは、新聞こそ自分たちの傷を治療する万能薬だと考えている。それにもかかわらずニュースの性格やジャーナリズムの経済基盤を分析すると、新聞は世論を組織する手段としては不完全だということを否応なくさらけ出し、多かれ少なかれその事実を強調すらしていることがわかるように思われるからだ。
……
われわれが政治的に関わり合わなければならない世界は手の届かないところ、見えないところ、知の及ばないところにある。だから、探索し、報告を受け、想像をめぐらさなければならない。人間は、アリストテレスのいうような、一目であらゆる存在を思いめぐらすことのできる神ではない。人間は一つの進化から生まれたもので、生き延び行くのに間に合うだけの現実の一部をようやく支配し、時の秤にかければほんの束の間でしかない洞察と幸福しかつかみとることができない。しかしその同じ生き物が、裸眼では見えないものを見、耳で聞こえないものを聞き、極大量とか極微量を測り、個々の人間に記憶できる以上の品目を、数えたり分けたりすることが可能な方策を編み出してきた。人間は、見ることも、触れることも、嗅ぐことも、聞くことも、記憶することもできない世界の大きな部分を知力によって知ることが可能になった。しだいに人間は、自分の手の届かない世界についての信頼に足るイメージを、頭の中に勝手に作ることになった。
……
人為的な検閲、社会的接触を制限するさまざまの状況、一日のうちで公的な事柄に注意を払うために使える時間が比較的乏しいこと、事件をごく短文に圧縮して報じなければならないために起こる歪曲、錯綜した世界を数少ない語彙で表現することの難しさ、そして最後に、人々の生活の中に溶け込んでいる習慣を脅かすように思われる事実に直面することへの恐怖がある。
……
報道界の問題が混乱しているのは、その批判者も擁護者もともに、新聞がこうしたフィクションを実現し、民主主義理論の中で予見されなかったものすべての埋め合わせをすることを期待しているからだ。そして読者も、自身は費用も面倒も負担しないでこの奇跡が成し遂げられることを期待している。民主主義者たちは、新聞こそ自分たちの傷を治療する万能薬だと考えている。それにもかかわらずニュースの性格やジャーナリズムの経済基盤を分析すると、新聞は世論を組織する手段としては不完全だということを否応なくさらけ出し、多かれ少なかれその事実を強調すらしていることがわかるように思われるからだ。
日本人の新聞記者は記事をまとめるのはうまいが質問ができない。特に海外の要人に対して効果的な質問ができない。重要なのは質問で、横川はそのことをソウル支局で学んだ。投じソウルに海外のジャーナリストは政治家や企業家がうろたえるような質問を常に必死で考えていた。答えに整合性が必要な質問で、記者会見の場はいつも真剣勝負だった。日本の秀才記者は回答をどこからか探してくる訓練しかしていない。
世良木は真剣な表情になって、僕が付き合っていた下士官の中には立派な人間がいたよ、と言った。彼らは各地の高等工業学校や工学院などで化学や工学を勉強していてね。優秀だったし人格的にも優れていたんだ。よくね、勉強ばっかりすると頭でっかちでろくな人間にならんなどという人がいるが、そんなことは大嘘だと思うね。知識や技術がその人の人格を作るんだ。座禅したり滝に打たれたりするくらいなら、自然化学や哲学の本の一冊でも読んだ方がいいんだよ。
コツというのはありません。自分で考えるのですから、そのことに関する助言はしません。他の人からの助言に頼ってしまうと、自分で考えなくなるでしょう。まず最初に自分で考えるのです。まず最初に助言に頼ってしまうのはダメです。最初は、孤独ですが、孤独に勝たないといけません。
村上龍著「半島を出よ」より
世良木は真剣な表情になって、僕が付き合っていた下士官の中には立派な人間がいたよ、と言った。彼らは各地の高等工業学校や工学院などで化学や工学を勉強していてね。優秀だったし人格的にも優れていたんだ。よくね、勉強ばっかりすると頭でっかちでろくな人間にならんなどという人がいるが、そんなことは大嘘だと思うね。知識や技術がその人の人格を作るんだ。座禅したり滝に打たれたりするくらいなら、自然化学や哲学の本の一冊でも読んだ方がいいんだよ。
コツというのはありません。自分で考えるのですから、そのことに関する助言はしません。他の人からの助言に頼ってしまうと、自分で考えなくなるでしょう。まず最初に自分で考えるのです。まず最初に助言に頼ってしまうのはダメです。最初は、孤独ですが、孤独に勝たないといけません。
村上龍著「半島を出よ」より
イデオロギーや観念は魅力の多くを失った。<右翼>とか<左翼>とか、<共産主義>と<資本主義>というような昔ながらのきまり文句は意味を失った。人々は新しい方向づけを、新しい哲学を求めている。その中心に生命の優先性―――肉体的にも精神的にも―――を置き、史の優先性を置かない哲学を。
単なる機械の持つ魅力の一つの兆候は、思考の面でも、感情の面でも、その他のいかなる機能の面でも、人間と全く変わらないコンピューターを作ることができるという思いつきが、ある種の科学者や一般の人たちの間にだんだん広まっていることである。私の考えでは、かんじんな問題はこんなコンピューター人間が出来るかどうかということではなく、むしろ、現実の人間をもっと合理的な、調和的な、平和を愛する存在に変えることが最も重要であると考えられる歴史的な時代において、なぜこの思いつきが広まるのかということだ。
人間のようなコンピューターを作る可能性がどこかにあると言えば、それは未来にある。しかし今でも私たちは、すでにロボットのように行動する人たちを見ている。大多数の人間がロボットのようになっているならば、人間のようなロボットを作ることに何の問題もあろうはずがない。人間のようなコンピューターという思いつきは、機械を人間的に使うか、非人間的に使うかの選択のよい例である。コンピューターは多くの点で生命を増進するのに役には立つ。しかしコンピューターが人間と生命の代わりになりうるという思いつきは、現代の病理の現れである。「希望の革命」エーリッヒ・フロム より
1970年代以降、資本主義の暴走、つまり超資本主義と呼ばれる状況が生まれたが、この改革の過程で、消費者および投資家としての私たちの力は強くなった。消費者や投資家として、人々はますます多くの選択肢を持ち、ますます「お買い得な」商品や投資対象を得られるようになった。
しかしその一方で、公共の利益を追求するという市民としての私たちの力は格段に弱くなってしまった。労働組合も監督官庁の力も弱くなり、激しくなる一方の競争に明け暮れて企業ステーツマンはいなくなった。民主主義の実行に重要な役割を果たすはずの政治の世界にも、資本主義のルールが入り込んでしまい、政治はもはや人々の方ではなく、献金してくれる企業の方を向くようになった。
私たちは「消費者」や「投資家」だけでいられるのではない。日々の生活の糧を得るために汗する「労働者」であり、そして、よりよき社会を作っていく責務を担う「市民」でもある。現在進行する超資本主義では、市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。
私たちは、この超資本主義のもたらす社会的な負の面を克服し、民主主義をより強いものにしていかなくてはならない。個別の企業をやり玉に上げるような運動で満足するのではなく、現在の資本主義のルールそのものを変えていく必要がある。そして、「消費者としての私たち」、「投資家としての私たち」の利益が減ずることになろうとも、それを決断していかなければならない。その方法でしか、真の一歩を踏み出すことはできない。
「暴走する資本主義」ロバート・ライシュ著 雨宮寛・今井章子翻訳
しかしその一方で、公共の利益を追求するという市民としての私たちの力は格段に弱くなってしまった。労働組合も監督官庁の力も弱くなり、激しくなる一方の競争に明け暮れて企業ステーツマンはいなくなった。民主主義の実行に重要な役割を果たすはずの政治の世界にも、資本主義のルールが入り込んでしまい、政治はもはや人々の方ではなく、献金してくれる企業の方を向くようになった。
私たちは「消費者」や「投資家」だけでいられるのではない。日々の生活の糧を得るために汗する「労働者」であり、そして、よりよき社会を作っていく責務を担う「市民」でもある。現在進行する超資本主義では、市民や労働者がないがしろにされ、民主主義が機能しなくなっていることが問題である。
私たちは、この超資本主義のもたらす社会的な負の面を克服し、民主主義をより強いものにしていかなくてはならない。個別の企業をやり玉に上げるような運動で満足するのではなく、現在の資本主義のルールそのものを変えていく必要がある。そして、「消費者としての私たち」、「投資家としての私たち」の利益が減ずることになろうとも、それを決断していかなければならない。その方法でしか、真の一歩を踏み出すことはできない。
「暴走する資本主義」ロバート・ライシュ著 雨宮寛・今井章子翻訳
今日、ポスト産業資本主義の名のもとに、産業革命以来に二百年ものこの世界を支配してきた産業資本主義の変貌が語られている。はたしてこれが、資本主義そのものの変貌を意味するのか、それとも資本主義の古くて新しい一形態にしかすぎないのかはここでは問うまい。ただ言えることは、われわれが、従来の繊維や鉄鋼といった工業生産物にかわって、技術、通信、広告、娯楽、教育といった新たな形態の商品を中核として資本主義が再編成されつつあるという事態に直面しているということである。いや、これはまさに実態を欠いた<差異>そのものが<商品>化されつつある事態であると言いかえてもよいだろう。
======
すなわち、繊維や鉄鋼、さらには化学製品や機械といった「蹴とばせば足が痛い」モノを生産する産業から、技術や通信、さらには広告や教育といった「情報」そのものを商品化する産業へと、資本主義の中心が移動しつつあるのである。
======
だが、差異とはなんの実態ももっておらず、いつでも消え去る運命にある。そして事実、アダムスミスの時代から二百年、先進資本主義の内部において産業資本主義的な利潤の源泉は消えつつある。農村の過剰労働力はすでに枯渇し、実質賃金はたえず労働生産性に向けて押し上げられている。正の利潤を生み出していくためには、もはや賃金率と生産性のあいだの平均的な差異に依拠することができなくなっているのである。
それゆえ、現代の資本主義が資本主義であり続けるためには、差異そのものを意識的に創り出していくほかはない。新技術の開発、新製品の導入、新市場の開拓と、たえず新たな差異を生み出さなければ利潤は得られない。新たな差異を生み出せないものは競争に敗れ、いまあたらしい差異もじきに古くなる。古い価格体系はたえず破壊され、新しい価格体系が絶えず創造される。
======
すなわち、繊維や鉄鋼、さらには化学製品や機械といった「蹴とばせば足が痛い」モノを生産する産業から、技術や通信、さらには広告や教育といった「情報」そのものを商品化する産業へと、資本主義の中心が移動しつつあるのである。
======
だが、差異とはなんの実態ももっておらず、いつでも消え去る運命にある。そして事実、アダムスミスの時代から二百年、先進資本主義の内部において産業資本主義的な利潤の源泉は消えつつある。農村の過剰労働力はすでに枯渇し、実質賃金はたえず労働生産性に向けて押し上げられている。正の利潤を生み出していくためには、もはや賃金率と生産性のあいだの平均的な差異に依拠することができなくなっているのである。
それゆえ、現代の資本主義が資本主義であり続けるためには、差異そのものを意識的に創り出していくほかはない。新技術の開発、新製品の導入、新市場の開拓と、たえず新たな差異を生み出さなければ利潤は得られない。新たな差異を生み出せないものは競争に敗れ、いまあたらしい差異もじきに古くなる。古い価格体系はたえず破壊され、新しい価格体系が絶えず創造される。
「備忘録」では、本などで気になった文章を、自身のメモ代わりとして記録することも兼ねて紹介していきます。
=====
以前から、オリンピックと政治との関係は繰り返し指摘されてきた。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して西側諸国がボイコットした1980年のモスクワ大会。その報復として東側諸国による1984年ロサンゼルス大会の不参加。大韓航空機爆破事件をめぐり北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が参加を拒否した1988年ソウル大会。これらは、スポーツへの「政治による介入」にほかならない。こうした事態に対しては、「平和と友好」というオリンピック理念に照らし批判がなされてきた。
「政治による介入」は、現在でもなくなってはいない。しかしながら、90年代以降、オリンピックと政治との関係は新たな段階を迎えつつある。それは端的に表現すれば、「政治による介入」からスポーツを通じた「政治への介入」への変化である。従来、オリンピックが目指す望ましいスポーツとは、政治を排除したものであった。少なくとも理念としては、政治からの自律が謳われてきた。それに対して近年のオリンピックでは、単なる自律ではなく政治への積極的な関与が目指されている。
2000年9月に開催されたシドニー大会は、スポーツと政治との関係においてきわめて現代的なオリンピックであった。コマーシャル化/ドラマ化と同時に、あからさまな「政治化」がそこでは試みられていた。具体的には開会式のイベントにおいて先住民族(アボリジニー)との和解が演出された点が挙げられる。それはまさに、圧倒的な商業主義のもとでオーストラリアの歴史を物語ることによって、多民族国家への道を歩もうとするオーストラリアの「政治」に介入するものであった。それと並んでもうひとつの「政治化」の例は、韓国と北朝鮮による開会式での「南北合同行進」の実現である。両国の選手団がひとつになって行進する姿は、2000年6月の南北首脳会談によって現実味を増した「和解/統一」への動きを後押しするものとして、世界中の人びとの目に映ったに違いない。
======
かつて古代オリンピックでは「聖なる休戦」として、ギリシア諸都市国家はオリンピック競技開催中の戦闘を自ら禁じていた。古代ギリシャで唱えられた平和の理念を現代において復興することを、クーベルタン男爵が近代オリンピック開催に込められたことは広く知られている。たしかに近代オリンピックにおいても、国際紛争を解決するうえで「休戦」が主張されてきた。しかしながら今日では、オリンピックに際してことさらに「休戦」を謳うことは白々しく響くに違いない。なぜなら「セキュリティの帝国」においては、「テロとの戦争」の名のもとに「交戦」が常態化しつつあるからだ。非常事態としての「交戦」があってはじめて、「休戦」は意味を持つ。だとすれば、潜在的に常なる「交戦」状態にある現代の国際社会には、そもそも「休戦」などありえない。その事実が、華やかで楽しげなグローバル・スペクタクルとしてのオリンピックが「テロとの脅威」というおぞましさからどうしても逃れられない事態をもたらしている。
=====
チベットへの自治を求める僧侶・住民による運動への中国政府の対応をめぐり、ヨーロッパをはじめ世界各地で抗議の動きが高まり、聖火リレーへの「妨害行動」が生じたからだ。中国政府と北京オリンピック開催への厳しい批判を受けて、留学生を中心に在外中国人たちが国旗を掲げて結集し、当地での聖火リレーを守ろうとする動きが生まれた。その結果、2008年4月末に長野で開催された聖火リレーの際には、リレーコース周辺の沿道で反対陣営と支持陣営が対峙する事態を、観客/視聴者は目にすることになったのである。
(中略)
街頭=ストリートで繰り広げられた「騒動」には、興味深い可能性も見て取れる。なぜなら、聖火を運ぶ側と妨げようとする側が、互いに武器など持つことなく、生身の身体を介して関わり合う/ぶつかり合う姿は、どことなくスポーツそれ自体の醍醐味を彷彿とさせるものである。さらに、プラカードや国旗を振りかざしてシュプレヒコールを浴びせあいながら対峙する人びとは、剥き出しの暴力ではなく言葉とパフォーマンスを用いた表現/示威というルールのもとで、激しく競い合う姿を表していた。
以上、「スポーツの魅惑とメディアの誘惑」著阿部潔より
=====
以前から、オリンピックと政治との関係は繰り返し指摘されてきた。ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して西側諸国がボイコットした1980年のモスクワ大会。その報復として東側諸国による1984年ロサンゼルス大会の不参加。大韓航空機爆破事件をめぐり北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が参加を拒否した1988年ソウル大会。これらは、スポーツへの「政治による介入」にほかならない。こうした事態に対しては、「平和と友好」というオリンピック理念に照らし批判がなされてきた。
「政治による介入」は、現在でもなくなってはいない。しかしながら、90年代以降、オリンピックと政治との関係は新たな段階を迎えつつある。それは端的に表現すれば、「政治による介入」からスポーツを通じた「政治への介入」への変化である。従来、オリンピックが目指す望ましいスポーツとは、政治を排除したものであった。少なくとも理念としては、政治からの自律が謳われてきた。それに対して近年のオリンピックでは、単なる自律ではなく政治への積極的な関与が目指されている。
2000年9月に開催されたシドニー大会は、スポーツと政治との関係においてきわめて現代的なオリンピックであった。コマーシャル化/ドラマ化と同時に、あからさまな「政治化」がそこでは試みられていた。具体的には開会式のイベントにおいて先住民族(アボリジニー)との和解が演出された点が挙げられる。それはまさに、圧倒的な商業主義のもとでオーストラリアの歴史を物語ることによって、多民族国家への道を歩もうとするオーストラリアの「政治」に介入するものであった。それと並んでもうひとつの「政治化」の例は、韓国と北朝鮮による開会式での「南北合同行進」の実現である。両国の選手団がひとつになって行進する姿は、2000年6月の南北首脳会談によって現実味を増した「和解/統一」への動きを後押しするものとして、世界中の人びとの目に映ったに違いない。
======
かつて古代オリンピックでは「聖なる休戦」として、ギリシア諸都市国家はオリンピック競技開催中の戦闘を自ら禁じていた。古代ギリシャで唱えられた平和の理念を現代において復興することを、クーベルタン男爵が近代オリンピック開催に込められたことは広く知られている。たしかに近代オリンピックにおいても、国際紛争を解決するうえで「休戦」が主張されてきた。しかしながら今日では、オリンピックに際してことさらに「休戦」を謳うことは白々しく響くに違いない。なぜなら「セキュリティの帝国」においては、「テロとの戦争」の名のもとに「交戦」が常態化しつつあるからだ。非常事態としての「交戦」があってはじめて、「休戦」は意味を持つ。だとすれば、潜在的に常なる「交戦」状態にある現代の国際社会には、そもそも「休戦」などありえない。その事実が、華やかで楽しげなグローバル・スペクタクルとしてのオリンピックが「テロとの脅威」というおぞましさからどうしても逃れられない事態をもたらしている。
=====
チベットへの自治を求める僧侶・住民による運動への中国政府の対応をめぐり、ヨーロッパをはじめ世界各地で抗議の動きが高まり、聖火リレーへの「妨害行動」が生じたからだ。中国政府と北京オリンピック開催への厳しい批判を受けて、留学生を中心に在外中国人たちが国旗を掲げて結集し、当地での聖火リレーを守ろうとする動きが生まれた。その結果、2008年4月末に長野で開催された聖火リレーの際には、リレーコース周辺の沿道で反対陣営と支持陣営が対峙する事態を、観客/視聴者は目にすることになったのである。
(中略)
街頭=ストリートで繰り広げられた「騒動」には、興味深い可能性も見て取れる。なぜなら、聖火を運ぶ側と妨げようとする側が、互いに武器など持つことなく、生身の身体を介して関わり合う/ぶつかり合う姿は、どことなくスポーツそれ自体の醍醐味を彷彿とさせるものである。さらに、プラカードや国旗を振りかざしてシュプレヒコールを浴びせあいながら対峙する人びとは、剥き出しの暴力ではなく言葉とパフォーマンスを用いた表現/示威というルールのもとで、激しく競い合う姿を表していた。
以上、「スポーツの魅惑とメディアの誘惑」著阿部潔より