(さんぴつかいけん)・・文章の限りを尽くすこと。讃岐の国多度郡(現在の善通寺、多度津)は正に山筆海硯の地なのです。先ず「筆の山」は山筆、「筆の海」は多度津の海、「硯」は桃陵公園、「文章の限り」は水茎・・なのです。
筆の山:「筆の山にかき登りても見つかるかな苔のしたたる岩の気配を」・・西行法師の50~55歳頃の歌(1168~)
筆の海:「水茎の岡の港の波よりや筆の海てふ名や立つらむ」・・西行の歌、西行は1168年頃から5,6年水茎の岡(西行庵)で住む。筆の海は多度津の沖を云うが、岡山の沖も筆の海と呼ばれていた。・・昭和28年の倉敷下津井中学校の応援歌の2の歌詞に「腕は筋金筆の海、潮の流れに磨きたる、下津井健児無敵なり、いざ勝たんかないざ勝たんかな フレーフレー下中・・とある。水茎の岡:善通寺市吉原町」三井の江、・・源頼政は19歳~32歳(1123~36)多度郡三井に住む。水茎の岡で故郷を偲んで詠った・・「水茎はこれを限りと、かき詰めて堰あへぬものは、涙なりけり」。水茎とは筆の跡とか文章、手紙の意味。硯岡:桃陵公園(桃山)・・明治5年の多度津小学校の校歌・・1番 汽笛の響きにぎわえる、筆の海原下に見て、青空高く輝ける、我が学び舎のうるわしや・・2番 硯岡にかげ清き、月を我らが心にて、朝に夕なにたゆみなく、学びのわざにいそしまん。 「筆の山 筆岡 水茎 筆の海 硯岡は多度のまほろば」・・筆者

庭に咲く花
筆の山:「筆の山にかき登りても見つかるかな苔のしたたる岩の気配を」・・西行法師の50~55歳頃の歌(1168~)
筆の海:「水茎の岡の港の波よりや筆の海てふ名や立つらむ」・・西行の歌、西行は1168年頃から5,6年水茎の岡(西行庵)で住む。筆の海は多度津の沖を云うが、岡山の沖も筆の海と呼ばれていた。・・昭和28年の倉敷下津井中学校の応援歌の2の歌詞に「腕は筋金筆の海、潮の流れに磨きたる、下津井健児無敵なり、いざ勝たんかないざ勝たんかな フレーフレー下中・・とある。水茎の岡:善通寺市吉原町」三井の江、・・源頼政は19歳~32歳(1123~36)多度郡三井に住む。水茎の岡で故郷を偲んで詠った・・「水茎はこれを限りと、かき詰めて堰あへぬものは、涙なりけり」。水茎とは筆の跡とか文章、手紙の意味。硯岡:桃陵公園(桃山)・・明治5年の多度津小学校の校歌・・1番 汽笛の響きにぎわえる、筆の海原下に見て、青空高く輝ける、我が学び舎のうるわしや・・2番 硯岡にかげ清き、月を我らが心にて、朝に夕なにたゆみなく、学びのわざにいそしまん。 「筆の山 筆岡 水茎 筆の海 硯岡は多度のまほろば」・・筆者

庭に咲く花