どうでしょうか?
多度郡への書き込み
古い四字熟語に「山筆海硯」があります。辞書で調べると‥限りなく文章を極める・・とありました。多度郡は「山筆海硯」の土地であると確信しました。先ず
「山筆」ですが善通寺市に筆の形をした筆の山(標高296m)があり正に「山筆」です。平安時代には既に呼ばれており西行法師の歌に・・・筆の山にかき登りても見つかるかな苔の滴る岩の気配を・・と詠まれています。次に
「海」ですが多度津、丸亀の沖の海を「筆の海」と言います。これは岡山県側も「筆の海」と呼んでおります。倉敷下津井中学校の応援歌〈昭和28年〉に歌詞に…腕は筋金筆の海 潮の流れに磨きたる 下津井健児無敵なり・・続く、とあります。又西行法師の歌にも・・・水茎の岡の港の波よりや筆の海てふ名や立つらむ・・・と詠まれています。
「硯」ですが多度津山(桃陵公園)を「硯岡」と呼ばれております。明治5年に初めて多度津に小学校が出来ました。呼び名は「硯岡小学校」です。又その校歌にも硯岡が出ています。
※ 西行法師は50歳の頃(1168年頃)に善通寺市の水茎の岡(西行庵)に5,6年?住んでおりその時に読んだ歌です。ここで「水茎の岡」は源頼政が名付けたと言われております。頼政は19歳の頃より10年あまり多度郡三井郷の多度荘と云う荘園の管理人として都から派遣されました。「水茎の岡」は頼政の弓矢を作る工房でした。頼政が都を思って詠んだ歌があります・・・水茎はこれをかぎりと かきつめて堰あへぬものは 涙なりけり(頼政集題知らずより)
※ 頼政と西行は知人でした。頼政が管理していた「多度荘」を保延3年(1137)鳥羽上皇の安楽寿院に寄贈され、頼政は都に帰り、鳥羽上皇の蔵人の役に付きます。其の時北面の武士だったのが佐藤義清(後の西行法師)でお互い面識があり特に歌会などでは懇意だったようです。
※ では誰が「山筆海硯」なる熟語を作ったのでしょう?。これは推測ですが善通寺市近辺には沢山の古墳があり、佐伯氏の古墳と言われております。佐伯氏は多度郡の郡司でもあり、空海の先祖でもあります。空海は習字で[三筆]の一人です。「山筆海硯」は空海の作と思うのですが・・如何でしょう?。
投稿 多度津町 西山準一
多度郡への書き込み
古い四字熟語に「山筆海硯」があります。辞書で調べると‥限りなく文章を極める・・とありました。多度郡は「山筆海硯」の土地であると確信しました。先ず
「山筆」ですが善通寺市に筆の形をした筆の山(標高296m)があり正に「山筆」です。平安時代には既に呼ばれており西行法師の歌に・・・筆の山にかき登りても見つかるかな苔の滴る岩の気配を・・と詠まれています。次に
「海」ですが多度津、丸亀の沖の海を「筆の海」と言います。これは岡山県側も「筆の海」と呼んでおります。倉敷下津井中学校の応援歌〈昭和28年〉に歌詞に…腕は筋金筆の海 潮の流れに磨きたる 下津井健児無敵なり・・続く、とあります。又西行法師の歌にも・・・水茎の岡の港の波よりや筆の海てふ名や立つらむ・・・と詠まれています。
「硯」ですが多度津山(桃陵公園)を「硯岡」と呼ばれております。明治5年に初めて多度津に小学校が出来ました。呼び名は「硯岡小学校」です。又その校歌にも硯岡が出ています。
※ 西行法師は50歳の頃(1168年頃)に善通寺市の水茎の岡(西行庵)に5,6年?住んでおりその時に読んだ歌です。ここで「水茎の岡」は源頼政が名付けたと言われております。頼政は19歳の頃より10年あまり多度郡三井郷の多度荘と云う荘園の管理人として都から派遣されました。「水茎の岡」は頼政の弓矢を作る工房でした。頼政が都を思って詠んだ歌があります・・・水茎はこれをかぎりと かきつめて堰あへぬものは 涙なりけり(頼政集題知らずより)
※ 頼政と西行は知人でした。頼政が管理していた「多度荘」を保延3年(1137)鳥羽上皇の安楽寿院に寄贈され、頼政は都に帰り、鳥羽上皇の蔵人の役に付きます。其の時北面の武士だったのが佐藤義清(後の西行法師)でお互い面識があり特に歌会などでは懇意だったようです。
※ では誰が「山筆海硯」なる熟語を作ったのでしょう?。これは推測ですが善通寺市近辺には沢山の古墳があり、佐伯氏の古墳と言われております。佐伯氏は多度郡の郡司でもあり、空海の先祖でもあります。空海は習字で[三筆]の一人です。「山筆海硯」は空海の作と思うのですが・・如何でしょう?。
投稿 多度津町 西山準一