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準爺のたそがれブログ

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ウイキペディアに投稿原稿が出来た・・

2025-03-24 10:42:45 | 郷土史
どうでしょうか?
 多度郡への書き込み

古い四字熟語に「山筆海硯」があります。辞書で調べると‥限りなく文章を極める・・とありました。多度郡は「山筆海硯」の土地であると確信しました。先ず
「山筆」ですが善通寺市に筆の形をした筆の山(標高296m)があり正に「山筆」です。平安時代には既に呼ばれており西行法師の歌に・・・筆の山にかき登りても見つかるかな苔の滴る岩の気配を・・と詠まれています。次に
「海」ですが多度津、丸亀の沖の海を「筆の海」と言います。これは岡山県側も「筆の海」と呼んでおります。倉敷下津井中学校の応援歌〈昭和28年〉に歌詞に…腕は筋金筆の海 潮の流れに磨きたる 下津井健児無敵なり・・続く、とあります。又西行法師の歌にも・・・水茎の岡の港の波よりや筆の海てふ名や立つらむ・・・と詠まれています。
「硯」ですが多度津山(桃陵公園)を「硯岡」と呼ばれております。明治5年に初めて多度津に小学校が出来ました。呼び名は「硯岡小学校」です。又その校歌にも硯岡が出ています。

※ 西行法師は50歳の頃(1168年頃)に善通寺市の水茎の岡(西行庵)に5,6年?住んでおりその時に読んだ歌です。ここで「水茎の岡」は源頼政が名付けたと言われております。頼政は19歳の頃より10年あまり多度郡三井郷の多度荘と云う荘園の管理人として都から派遣されました。「水茎の岡」は頼政の弓矢を作る工房でした。頼政が都を思って詠んだ歌があります・・・水茎はこれをかぎりと かきつめて堰あへぬものは 涙なりけり(頼政集題知らずより)
※ 頼政と西行は知人でした。頼政が管理していた「多度荘」を保延3年(1137)鳥羽上皇の安楽寿院に寄贈され、頼政は都に帰り、鳥羽上皇の蔵人の役に付きます。其の時北面の武士だったのが佐藤義清(後の西行法師)でお互い面識があり特に歌会などでは懇意だったようです。 
※ では誰が「山筆海硯」なる熟語を作ったのでしょう?。これは推測ですが善通寺市近辺には沢山の古墳があり、佐伯氏の古墳と言われております。佐伯氏は多度郡の郡司でもあり、空海の先祖でもあります。空海は習字で[三筆]の一人です。「山筆海硯」は空海の作と思うのですが・・如何でしょう?。                
               投稿 多度津町 西山準一

山筆海硯

2023-08-13 18:28:46 | 郷土史
(さんぴつかいけん)・・文章の限りを尽くすこと。讃岐の国多度郡(現在の善通寺、多度津)は正に山筆海硯の地なのです。先ず「筆の山」は山筆、「筆の海」は多度津の海、「硯」は桃陵公園、「文章の限り」は水茎・・なのです。
筆の山:「筆の山にかき登りても見つかるかな苔のしたたる岩の気配を」・・西行法師の50~55歳頃の歌(1168~)
筆の海:「水茎の岡の港の波よりや筆の海てふ名や立つらむ」・・西行の歌、西行は1168年頃から5,6年水茎の岡(西行庵)で住む。筆の海は多度津の沖を云うが、岡山の沖も筆の海と呼ばれていた。・・昭和28年の倉敷下津井中学校の応援歌の2の歌詞に「腕は筋金筆の海、潮の流れに磨きたる、下津井健児無敵なり、いざ勝たんかないざ勝たんかな フレーフレー下中・・とある。水茎の岡:善通寺市吉原町」三井の江、・・源頼政は19歳~32歳(1123~36)多度郡三井に住む。水茎の岡で故郷を偲んで詠った・・「水茎はこれを限りと、かき詰めて堰あへぬものは、涙なりけり」。水茎とは筆の跡とか文章、手紙の意味。硯岡:桃陵公園(桃山)・・明治5年の多度津小学校の校歌・・1番 汽笛の響きにぎわえる、筆の海原下に見て、青空高く輝ける、我が学び舎のうるわしや・・2番 硯岡にかげ清き、月を我らが心にて、朝に夕なにたゆみなく、学びのわざにいそしまん。 「筆の山 筆岡 水茎 筆の海 硯岡は多度のまほろば」・・筆者
   
   庭に咲く花

銀杏2号 昭和50年5月号

2023-02-04 18:39:55 | 郷土史
M43年生まれ、塩田月史さんの作品。
月史さん、小学1年生の時の話。
半夏半作:半夏を過ぎて田植えをしたのでは収穫は半作だ!!。
亀橋を左に折れると門前町・角屋町・若宮町がメインストリートであり、島屋の本宅を初めとして神原薬局、武田醤油店、竹屋酒店、鉢屋呉服店、太鼓堂理髪店、松本屋呉服店など大きな店が軒を並べていた。
西浜町で荒木写真展に入り、写真を撮った。多度津で一軒切りの写真屋であった。弁天座という芝居小屋の横の細道を通って少しばかり坂を登り小さいお稲荷さんの前に出た。二人ずつ並んで3列になり写真を撮った。
 大正5年ごろの夏史さんの思い出より。
   
   庭の風景
   

退屈な日曜日・・・

2023-01-29 18:37:42 | 郷土史
庭を4,000歩歩いた。昔調べた郷土史の資料を出してきて炬燵で眺めた。懐かしくまだまだ勉強したいと思った。古い写真が出て来たから紹介する・・これは初代の一太郎やぁいだ、銅製だったので太平洋戦争の時大砲の弾にすると言われ取られた、今の一太郎は2代目コンクリート製である。それから一太郎(本当は梶太郎)が旅順の乃木大将が居る203高地へ行くときの親子の写真である。
   
   1代目の銅製、今のより角ばっている
   
   母は豊田村(観音寺市)から夜中歩き丸亀の息子がいる連隊に行き、又一緒に多度津の
   港まで歩き見送りに来ました。港で息子の好きな氷菓子を買いに行ったが帰ると既に息子は
   艀に乗って沖の土佐丸へ行く途中でした。母は「梶太郎!聞こえたら鉄砲を振れ!」という
   と鉄砲を振る姿が見えました。「家の事は心配するな・・天子様のため働いてこい!・・」       
   艀から鉄砲を振る姿が見えました。御婆さんはへなへなとその場に倒れました。見ていた御 
   偉さんが感動して新聞に出したり・・国定教科書に載りました。