大和源氏 後深草少将記

清和源氏の一流、大和守源頼親を祖とする
大和源氏に関する情報ページ。


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5 大盗賊藤原斉明・保輔兄弟

2005-03-22 00:36:29 | 大和源氏祖 源頼親
 頼親・頼信兄弟の外祖父である藤原致忠には、頼親等の母の他に斉明(ときあきら)
・保昌・惟光・保輔と云う四人の息子達がいた。なお『尊卑分脈』では「致忠ー斉光ー
斉明」とあるが、右大将小野宮実資の『小右記』等の記事から斉明が保輔の兄である
事は確かである。
 従五位下左兵衛尉藤原斉明と従五位下右京亮藤原保輔兄弟は、五位の通貴の
官人ながら都を騒がす大強盗で、保輔は『尊卑分脈』に「追討の宣旨を受ける
事十五度」と記され『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に書かれている「袴垂保輔」
のモデルになった人物である。
 彼等兄弟に関しては中央公論社刊『日本の歴史 第五巻 王朝の貴族』(土田直鎮
著)と研秀出版刊『日本の歴史 第四巻 平安貴族』の「群盗横行」(南条範夫著)
の中に事件経過が詳しく書かれているので『小右記』を参考に斉明・保輔兄弟の強盗
としての行動を追ってみる事とする。
 寛和元年(985)正月六日夜、大内裏上東門の東、洞院西大路土御門付近にて
弾正小弼大江匡衡が何者かに襲われ左手の指を切り落とされる事件が起きた。
 続いて同月二十日に土御門左大臣源雅信邸にて大饗が催された帰りに中門の内
にて下総守藤原季孝が何者かに顔を傷つけられる事件が起こった。
 翌二十一日に早速諸国に追捕の官符が下されたが犯人不明のままに三ヶ月が
過ぎた。しかし三月二十二日に藤原季孝を傷つけた犯人が藤原斉明の従者二名
らしいと判明。左衛門督源重光は花山天皇に奏上し、検非違使右衛門尉源忠良と
左衛門志錦文安等が「容疑者を連行せよ。斉明が従者二名を差し出さない場合は
斉明も逮捕せよ。」との命を受け、斉明の所に派遣された。
 斉明のいる摂津国に源忠良と錦文安は向かったが既に斉明は船で海上に逃れて
いたが逃げ遅れた郎党の藤原末光を逮捕尋問したところ「斉明が大江匡衡を傷つけ、
藤原季孝を襲ったのは弟の保輔である。」と自白した。
 三月二十七日に摂津国より帰京した源忠良等は事の次第を奏上し、錦文安と右衛門
府生安茂兼ら検非違使を保輔が隠れていると思われる兄弟の父である致忠の三条邸
に遣わし捜索したところ、致忠は「保輔は今朝、宿願があって長谷寺へ旅立ち
ました。」と云い、検非違使に四月二日までに出頭させると起請文を差し出した。
しかし四月二日になっても保輔が出頭したり逮捕された様子も無く消息は絶える。
 一方、摂津より船で逃走した斉明は、山陽・南海・西海諸道に追討の官符が出され
てる事を知って東国に逃げようとしたが、途中四月二十二日に近江国高島郡にて
前播磨掾惟文王により射殺された。惟文王は賞され、五月二日に斉明の首は都に
梟せられて、五月十三日、あらためて斉明と保輔の罪状が議せられた。
 ちなみに凶悪な斉明を射殺した惟文王であるが『尊卑分脈』には名が無く出自不明
の皇族であるが『平安遺文』第九巻3503文書に「九州の宇佐八幡に散位惟文王
が侵入した」との記録があり、皇族として受領を重ね九州の地に在地豪族化した
人物である。
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