貴族の間で「源頼親は殺人が上手だ。」との評判だと藤原道長の『御堂関白記』に
書かれたきっかけとなる殺人事件が、寛仁元年(1017)三月八日に起きた。
事件の史料は『御堂関白記』寛仁元年三月十一日の条であるが、下記の論文がこの
事件に関して論じているので、それを参考に事件経過を追ってみる事とする。
1 『今昔物語集における殺人事件二つ』山田英雄氏 『日本歴史』第144号。』
2 『大和守頼親伝』朧谷寿氏 『古代学』第17巻第2号。
3 『王朝の貴族』土田直鎮氏 『日本の歴史』第5巻。
「右衛門督来云 行幸申時許六角小路与福小路(富小路)侍小宅清原致信云者侍介り
是保昌朝臣郎等 而乗馬兵七八騎 歩者十余人許圍来殺害了 遣検非違使等
令日記如此 見之秦氏元子申有此中由 問氏元在所 頼親朝臣相従者々 仍問
案内 頼親所為 人々広云 件頼親殺人上手也 度々有此事 是被殺害大和国
為頼云者阿党云々」
右衛門督藤原頼宗が来て云うには、寛仁元年三月八日午後三時頃に六角小路と
富小路の辺りに住んでいた前大宰少監清原致信の家を騎馬武者七、八騎と歩兵
十余名が取り囲み襲撃して致信を殺害すると云う事件が起きた。
殺害された清原致信は清原元補の息子で清少納言の兄弟である。また藤原道長の
家司であり頼親の叔父である藤原保昌の郎等であった。
検非違使が致信宅へ行き捜査した所、襲撃した一団の中に頼親の郎等である
秦氏元がいた事が判明した。頼親は今までも度々このような事件を起こしてた
らしく貴族の間では、頼親は殺人が上手だとの評判がある。
今度の致信殺害事件も大和国の住人である当麻為頼の仲間がした事だと道長は
日記に書いている。なお当麻為頼とは、寛弘三年(1006)六月に興福寺領
池辺園預所を殺害したが大和守頼親に庇護されて無罪になった右馬允当麻為頼の
事である。
道長は清原致信を殺害した秦氏元と当麻為頼とは、共に頼親の郎等であり
仲間だと認識している。秦氏は摂津国豊嶋郡秦上郷・秦下郷の在地豪族であり、
当麻氏は大和国葛下郡(現北葛城郡)の在地豪族である。
『御堂関白記』寛仁元年三月十二日の条
「使官等遣氏元在所 是摂津国云々 又召頼親使等也」
検非違使が秦氏元の住む摂津国に派遣され、頼親への使官も召された。
『御堂関白記』寛仁元年三月十五日の条
「追捕氏元官人等奉日記云 氏元家召法師問 申云 件頼親朝臣依仰氏奉仕者
子細 有事多」
秦氏元追捕の検非違使が摂津国より帰京して報告するには、氏元の家に召し使われ
ている僧を捕らえて調べてみると「清原致信の殺害は頼親の命令を受けて氏元が殺害
した。」と自白した。そして同じ十五日の条に頼親の処分が書かれている。
「今日除目也 淡路守貞亮 右馬頭惟憲 件等官頼親借(替か)」
早速十五日には頼親は右馬頭と淡路守を解官されて臨時の除目にて後任の
右馬頭に藤原惟憲、淡路守に源貞亮が補任された。
その理由として『扶桑略記』の十五日の条に「坐殺害致信事 解却源頼親所帯
右馬頭淡路守」とあり、清原致信殺害の責任を取っての解官である事がわかる。
書かれたきっかけとなる殺人事件が、寛仁元年(1017)三月八日に起きた。
事件の史料は『御堂関白記』寛仁元年三月十一日の条であるが、下記の論文がこの
事件に関して論じているので、それを参考に事件経過を追ってみる事とする。
1 『今昔物語集における殺人事件二つ』山田英雄氏 『日本歴史』第144号。』
2 『大和守頼親伝』朧谷寿氏 『古代学』第17巻第2号。
3 『王朝の貴族』土田直鎮氏 『日本の歴史』第5巻。
「右衛門督来云 行幸申時許六角小路与福小路(富小路)侍小宅清原致信云者侍介り
是保昌朝臣郎等 而乗馬兵七八騎 歩者十余人許圍来殺害了 遣検非違使等
令日記如此 見之秦氏元子申有此中由 問氏元在所 頼親朝臣相従者々 仍問
案内 頼親所為 人々広云 件頼親殺人上手也 度々有此事 是被殺害大和国
為頼云者阿党云々」
右衛門督藤原頼宗が来て云うには、寛仁元年三月八日午後三時頃に六角小路と
富小路の辺りに住んでいた前大宰少監清原致信の家を騎馬武者七、八騎と歩兵
十余名が取り囲み襲撃して致信を殺害すると云う事件が起きた。
殺害された清原致信は清原元補の息子で清少納言の兄弟である。また藤原道長の
家司であり頼親の叔父である藤原保昌の郎等であった。
検非違使が致信宅へ行き捜査した所、襲撃した一団の中に頼親の郎等である
秦氏元がいた事が判明した。頼親は今までも度々このような事件を起こしてた
らしく貴族の間では、頼親は殺人が上手だとの評判がある。
今度の致信殺害事件も大和国の住人である当麻為頼の仲間がした事だと道長は
日記に書いている。なお当麻為頼とは、寛弘三年(1006)六月に興福寺領
池辺園預所を殺害したが大和守頼親に庇護されて無罪になった右馬允当麻為頼の
事である。
道長は清原致信を殺害した秦氏元と当麻為頼とは、共に頼親の郎等であり
仲間だと認識している。秦氏は摂津国豊嶋郡秦上郷・秦下郷の在地豪族であり、
当麻氏は大和国葛下郡(現北葛城郡)の在地豪族である。
『御堂関白記』寛仁元年三月十二日の条
「使官等遣氏元在所 是摂津国云々 又召頼親使等也」
検非違使が秦氏元の住む摂津国に派遣され、頼親への使官も召された。
『御堂関白記』寛仁元年三月十五日の条
「追捕氏元官人等奉日記云 氏元家召法師問 申云 件頼親朝臣依仰氏奉仕者
子細 有事多」
秦氏元追捕の検非違使が摂津国より帰京して報告するには、氏元の家に召し使われ
ている僧を捕らえて調べてみると「清原致信の殺害は頼親の命令を受けて氏元が殺害
した。」と自白した。そして同じ十五日の条に頼親の処分が書かれている。
「今日除目也 淡路守貞亮 右馬頭惟憲 件等官頼親借(替か)」
早速十五日には頼親は右馬頭と淡路守を解官されて臨時の除目にて後任の
右馬頭に藤原惟憲、淡路守に源貞亮が補任された。
その理由として『扶桑略記』の十五日の条に「坐殺害致信事 解却源頼親所帯
右馬頭淡路守」とあり、清原致信殺害の責任を取っての解官である事がわかる。