大和源氏 後深草少将記

清和源氏の一流、大和守源頼親を祖とする
大和源氏に関する情報ページ。

21 清原致信殺人事件 その一

2005-04-29 21:00:07 | 大和源氏祖 源頼親
 貴族の間で「源頼親は殺人が上手だ。」との評判だと藤原道長の『御堂関白記』に
書かれたきっかけとなる殺人事件が、寛仁元年(1017)三月八日に起きた。
事件の史料は『御堂関白記』寛仁元年三月十一日の条であるが、下記の論文がこの
事件に関して論じているので、それを参考に事件経過を追ってみる事とする。
 1 『今昔物語集における殺人事件二つ』山田英雄氏 『日本歴史』第144号。』
 2 『大和守頼親伝』朧谷寿氏 『古代学』第17巻第2号。
 3 『王朝の貴族』土田直鎮氏 『日本の歴史』第5巻。
「右衛門督来云 行幸申時許六角小路与福小路(富小路)侍小宅清原致信云者侍介り
 是保昌朝臣郎等 而乗馬兵七八騎 歩者十余人許圍来殺害了 遣検非違使等
 令日記如此 見之秦氏元子申有此中由 問氏元在所 頼親朝臣相従者々 仍問
 案内 頼親所為 人々広云 件頼親殺人上手也 度々有此事 是被殺害大和国
 為頼云者阿党云々」
 右衛門督藤原頼宗が来て云うには、寛仁元年三月八日午後三時頃に六角小路と
富小路の辺りに住んでいた前大宰少監清原致信の家を騎馬武者七、八騎と歩兵
十余名が取り囲み襲撃して致信を殺害すると云う事件が起きた。
 殺害された清原致信は清原元補の息子で清少納言の兄弟である。また藤原道長の
家司であり頼親の叔父である藤原保昌の郎等であった。
 検非違使が致信宅へ行き捜査した所、襲撃した一団の中に頼親の郎等である
秦氏元がいた事が判明した。頼親は今までも度々このような事件を起こしてた
らしく貴族の間では、頼親は殺人が上手だとの評判がある。
 今度の致信殺害事件も大和国の住人である当麻為頼の仲間がした事だと道長は
日記に書いている。なお当麻為頼とは、寛弘三年(1006)六月に興福寺領
池辺園預所を殺害したが大和守頼親に庇護されて無罪になった右馬允当麻為頼の
事である。
 道長は清原致信を殺害した秦氏元と当麻為頼とは、共に頼親の郎等であり
仲間だと認識している。秦氏は摂津国豊嶋郡秦上郷・秦下郷の在地豪族であり、
当麻氏は大和国葛下郡(現北葛城郡)の在地豪族である。
 『御堂関白記』寛仁元年三月十二日の条
「使官等遣氏元在所 是摂津国云々 又召頼親使等也」
 検非違使が秦氏元の住む摂津国に派遣され、頼親への使官も召された。
 『御堂関白記』寛仁元年三月十五日の条
「追捕氏元官人等奉日記云 氏元家召法師問 申云 件頼親朝臣依仰氏奉仕者
 子細 有事多」
 秦氏元追捕の検非違使が摂津国より帰京して報告するには、氏元の家に召し使われ
ている僧を捕らえて調べてみると「清原致信の殺害は頼親の命令を受けて氏元が殺害
した。」と自白した。そして同じ十五日の条に頼親の処分が書かれている。
「今日除目也 淡路守貞亮 右馬頭惟憲 件等官頼親借(替か)」
 早速十五日には頼親は右馬頭と淡路守を解官されて臨時の除目にて後任の
右馬頭に藤原惟憲、淡路守に源貞亮が補任された。
 その理由として『扶桑略記』の十五日の条に「坐殺害致信事 解却源頼親所帯
右馬頭淡路守」とあり、清原致信殺害の責任を取っての解官である事がわかる。

20 右馬頭頼親の不満

2005-04-28 00:33:49 | 大和源氏祖 源頼親
 長和二年(1013)秋の司召除目にて右馬頭に補任された頼親も大和守を
辞任して五年も経ち、見入りの良い受領を兼任しようと主人である時の権力者
たる左大臣道長に欠員の摂津守に推挙してもらいながら三条天皇により摂津守
に補任されなかった頼親は大変落胆し、長和三年(1014)四月十八日には
右馬頭の役目である賀茂祭の祭使を病気を理由に辞退した。
 その時は頼親の替わりに右馬権頭源道成と内蔵頭源頼光が祭使を務めたが、
五月十六日の三条天皇の行幸に伴い競馬を催す事となったが、この時も病気を
理由に参加せず、数ヶ月は右馬頭の公務から離れていた。
 よほど摂津守に補任されなかった事がショックで病床に臥せたのかと思いきや
越後国・備後国の二国の守が欠員となるや頼親は申文を提出したと『小右記』
六月十六日の条に記されているから、賀茂祭や競馬での病気による不参加は
明らかに頼親の仮病であり、サボタージュである。
 二度までも国司に成り損ねた頼親も長和四年(1015)には淡路守に補任
された。京官たる右馬頭との兼任であるから下向せずに遙任国司である。
 当時の頼親の位階は大国大和国司を経て右馬頭に補任されているので、
従五位上であったろうに、五階級も下位の従六位下に相当する下国(四等国)
の淡路守に任官するとは、よほど受領の利益を欲したのだろう。なにしろ
下国の淡路守とは云え、中原師遠の日記『鯨珠記』に淡路守の収益が記載され
ており毎年米六千石、塩五百石はあったと云われている。

19 大和国内における所領

2005-04-22 00:10:33 | 大和源氏祖 源頼親
 頼親の豊嶋館が摂津国豊嶋郡豊嶋庄であった事は間違い無いが、頼親が摂津国
と共に所有してた大和国内の所領が多くある事も事実であり、所領や武士団の管理
の為に頼親や子息が居住する大和国内の館も存在してた事も確かである。
 頼親三男頼遠流石川氏諸系図には、大和国十市に居住してたとある。また奈良県
五條市(旧宇智郡)の『五條市史』には、頼親次男の頼房邸が大和国高市郡豊嶋に
あったとしてる。が高市郡には豊嶋と云う地名は管見の限り無い。
 頼親は二度目の大和守任期中に得たであろう高市郡内の私領を摂関家に寄進して
領家職となり、次男の頼房に相伝した事実から頼親から相伝された頼房邸が高市郡
にあっても不思議ではない。
 承保三年(1076)『平安遺文』第三巻1132号文書「関白左大臣家政所下案」
は、関白左大臣藤原師実に越後権守高階業房が妻の父である故肥前守源頼房から
妻と自分に伝領された高市郡喜殿庄(橿原市城殿町)の立券荘号申請をした事に
対して関白師実がその由を高市郡司に下した下文である。
 また『平安遺文』第三巻1134号文書「大和国高市郡刀祢等解文」によれば
喜殿庄が豊瀬庄もしくは豊浦庄とも称せられていた事がわかり、『五條市史』の
「高市郡豊嶋」は「高市郡豊瀬もしくは豊浦」の誤記とも考えられる。
 また嘉応二年(1170)の『興福寺西金堂満衆等解案』(筒井寛聖氏蔵
『東大寺文書』)によれば、東大寺の灯油等は聖武天皇の勅施入によるもので
大和国内の諸郡より上納させていたが、大和守頼親の時より頼親の所領五ヶ所
六十六町を東大寺灯油料所として、そこから納められる事となったとある。
 その五ヶ所とは『東大寺文書』久安三年(1147)の『東大寺御油荘公事注進状』
によれば、奈良県橿原市内の「高殿庄二十五町」(現高殿町)「西喜殿庄五町」
(現城殿町)「東喜殿庄十町」(現上飛騨町)「城戸庄十三町八段」(現一町)
「波多庄十二町二段」(現高市郡高取町大字市尾)である。
 また「田永庄」(現高市郡高取町大字車木)も摂関家領であるが、近衛家所領
目録『鎌倉遺文』(第十巻7631号文書)に「高陽院領内大和国喜殿・田永」と
喜殿庄と一緒に書かれているので、頼親より喜殿庄と共に摂関家に寄進された
ものと思われる。
 こうして記録に残る「喜殿庄」「田永庄」「高殿庄」「西喜殿庄」「東高殿庄」
「城戸庄」「波多庄」等の位置から当時大和国府があったとされる「軽国府」
(現橿原市西池尻町小字軽古)にも近く「豊瀬庄」とも「豊浦庄」とも称された
「喜殿庄」にも頼親や頼房の居住した館があり、それ故に摂津国豊嶋郡豊嶋庄の
館と混乱して『尊卑分脈』に「住大和国豊嶋郡」と誤記されたと思われる。

18 頼親の本領

2005-04-18 16:28:36 | 大和源氏祖 源頼親
 『尊卑分脈』の頼親の記載に「大和源氏祖」とあり「住大和国豊嶋郡 惣而以當流号
大和源氏」とある。『尊卑分脈』は南北朝時代に洞院公定ら洞院家代々に書き綴られた
私撰の大系図集で、頼親を「大和源氏祖」とあるのは頼親の三度の大和守任官と南
大和の所領、平安、鎌倉、南北朝時代と頼親の子孫たる宇野一族が大和国内に在地
豪族として勢力を持った経緯を以って記載したと思われるが「住大和国豊嶋郡」の
記載は誤記であり、それを以って「惣而以當流号大和源氏」と云うのは間違いである。
 実際、大和国内には豊嶋郡と云う郡名は勿論の事そのような村や荘園、字名の
地名は存在しない。「豊嶋郡」とは「摂津国豊嶋郡」の事である。明治二十九年に
能勢郡と合併して現在は大阪府豊能郡であるが、豊嶋庄や豊嶋牧は大阪府池田市
豊島である。なお関東人は武蔵国の「豊島氏」東京都の「豊島区」から「としま」
と読んでしまうが「豊嶋郡」や大和源氏の「豊嶋氏」は「てしま」と読む。
 摂津国豊嶋郡は、頼親の父多田満仲や兄頼光の本領である摂津国河辺郡多田院
(現在の兵庫県川西市多田院)と隣接しており、頼親は父満仲より多田院領の一部
であった豊嶋郡内の所領を伝領し、その後に自らの手で拡張したと思われる。
 頼親には都での職務や摂関家への奉仕の為の京邸と豊嶋郡の館があった。
都と豊嶋郡とは山陽道(西国街道摂津路、現在の国道171号線)を通れば四十キロ
程度で馬ならば通える距離である。また大和守なら近国なので農繁期や徴税期には
任国に赴き、普段は任国に目代を派遣して京邸や豊島館に在住も可能であろう。
 大和国内で在地豪族化した大和源氏嫡流宇野一族で頼親の曾孫である親弘(後に
頼弘と改める)は頼親の豊嶋領を伝領し、摂津権守に補任され在庁官人として豊嶋に
土着し豊嶋権守と号した。『尊卑分脈』にも「住摂津国豊嶋」とある。
 なお頼親三男の頼遠を祖とする石川氏流大和源氏の『大寺系図』によれば、頼親
は初め摂津国豊嶋郡波川城に居住してたとある。「波川」とは現在の兵庫県羽束川
の千苅ダム上流の波豆川の「波豆」と思われるが、西国街道摂津路からも離れて
おり不便である。が「初めに波川城に居住した」とあるので、すぐに便利な豊嶋庄
に移り住んだとも解釈出来る。 

17 右馬頭頼親、摂津守に補任されず。

2005-04-17 17:03:05 | 大和源氏祖 源頼親
 『小右記』長和三年(1014)二月十六日の条に頼親が「右馬頭」であった事を
示す記事がある。長和二年九月十六日の条には「右馬頭兼綱」とあるので、長和二年
秋の除目にて右馬頭に補任されたのだろう。なお二月十六日の記事は頼親の本領
とも云える広大な所領についても記述している.
「右全懐平 密々云 勅語云 大将為吾有用意之人也 仍所相示也 摂津守佐光可
 辞退云々 以右馬頭頼親可任之由左大臣可挙云々 頼親者住彼国 所領太多
 如土人 先年大宮院御時 以維衡被任伊勢守 依彼国之住人停任 左大臣彼時
 大謗 吾為儲弐之間 而以頼親挙摂津守 相同維衡事 若挙頼親 欲仰此趣
 抑聞大将 之奏報可仰也者 奏仰旨尤道理由」
 摂津守藤原佐光が辞任し摂津守に欠員が出来た。そこで代替国司として左大臣
道長が右馬頭頼親を推挙し、三条天皇にその由を奏上した。
 道長の申し出に三条天皇は即答を避けて、日頃自分(三条天皇)と同じく道長に
批判的であり何かと頼りにしていた大納言小野宮実資に相談をする為に実資の弟で
ある権中納言右衛門督藤原懐平に密かに命じて小野宮邸に寄越した。
そして弟の懐平は三条天皇の御言葉を次のように兄の実資に伝えた。
「左大臣道長は右馬頭頼親を欠員である摂津守の代替国司に推挙してきたが、
頼親は摂津国に住み国内には所領も多く在地豪族のようである。
 先年一条天皇の時に平維衡(伊勢平氏祖)が伊勢守になったが、伊勢国の住人
からの訴えで停任された事があった。この時に道長は任国に多大な所領を持つ者を
その国の国司に補任した事を大いに非難した。
さてここで頼親を摂津守に補任する事は先の平維衡の場合と同じであるから、
道長が頼親を摂津守に推挙するならばこの事を云おうと思うのだがどうであろう。
私は大将(実資)の意見を聞いた上で道長に云うつもりである。」
 実資は「其の通りです。」と弟懐平に伝言をし、三条天皇は道長にそう云ったので
あろう残念ながら頼親は摂津守に補任されなかった。
 多田満仲の莫大な摂津国内の所領の多くは嫡男である頼光に伝領されたが、
次男の頼親に伝領された所領もこの時期既に在地豪族ほどであった事がわかる。

80年代の韓流ブーム 韓国旅行

2005-04-17 02:03:23 | 雑記所 赤面の武士
 たった四年間のサラリーマン生活であったが、私の勤務する部門が赤字の為に
12月のある日、社長に呼ばれて突然のリストラ宣告!私は「ハイ。」の一言。
実は数ヶ月前より会社に内緒で母校の恩師を訪ねて論文を提出して翌年4月より
研究生課程に進む予定だったのである。ある意味、社内でNo1の美人OLが
寿退社するよりも問題の無い円満退社であった。
 中小企業の小の部類の赤字企業なので、退職金は一年一万で四年強の勤続年数
だったので五万円である。大企業に勤めていた短大卒OLの妹の寿退社の退職金
の十分の一ではあるが、入社時に会社の金で合宿免許で普通免許を取っていた
ので文句は無い。二十年勤務した大卒の課長の退職金が二十万円だった事を
聞いてたので、大卒社員の間では早く退職した者勝ちって雰囲気があったのだ。
 さてさて大学に戻る四月まで何をしようか、海外旅行でもしようか、失業保険
もある事だしと旅行会社のパンフを見てたら「韓国スキーツアー五日間の旅」の
文字。場所は韓国・江原道竜平のドラゴンバレースキー場、そうです「冬ソナ」
で有名なスキー場とホテルです。既に18年も前にそのスキー場で滑っていたん
ですよ。その頃、海外スキーと云えば欧州か北米で韓国にスキーツアーって大変
珍しくツアー客は私ともう一人何処かの社長さんの二人だけで、金浦空港より
ボンゴに乗って江原道龍平のドラゴンバレースキー場に行った訳です。
 日本のスキー場に比べたら小さいですが、スキーヤーが極端に少なく、韓国の
金持ちのオジさん(半分以上がキム社長であろう)か欧米人しかいない。
リフト一日券の元が取れない苗場とは大違いでリフト待ちが無いのだ。
その後、数年ドラゴンバレースキー場には友人等を誘って行ったが、スキーヤー
の階層が年ごとに若くなり韓国の経済が良くなって行くのが分かった。
 そのツアーの韓国人ガイドさんが、韓国語と日本語は文法が同じなので独学
ながら一年で覚えたと云ったので、帰国後すぐに韓国語教室を探し4月より韓国
大使館韓国文化院韓国語教室に通ったのが私の韓国マニアデビューである。
 その後、冬はスキーでドラゴンバレーやソウル近郊のベアーズタウン、茂朱に
行き、釜山・慶州・公州・扶余なども観光ツアーで行った。
 韓国語が少しでも話せるようになると韓国の温泉巡りや離島などに一人旅。
学んだ外国語が隣国なので簡単に試せるのが韓国の良さでもある。第一外国語の
英語すら駄目なのに大学では第二外国語はドイツ語。もちろん駄目ではあるが
話せてもドイツは遠すぎ話す機会など無いであろう。ロンドンに軍事博物館巡り
に行った際も英語が分からないので韓国食堂を探して食事を済ませたぐらいだ。
 韓国の西の果てに紅島と云う小さいが海と奇岩の美しいな島がある。そこから
の帰路、木浦からセマウル号と云う特急列車でソウルに帰ろうとしたら既に
セマウル号は終わっていた。明日の午前中には金浦から成田行きの飛行機に
乗らねばならないのに・・・。道は一つしか無い。木浦駅前でタクシーを捕まえ
「ウンジョンキサニム ソウルカジ カジュセヨ(運転技師様ソウルまで行って
下さい。)」料金は4万5千円。距離的には東京から関が原ぐらい。ソウルには
早朝着くだろうから空港で休むかぁと思ってたら木浦からソウルまで2時間半で
到着してしまった。特急セマウル号で同じく2時間半掛かる距離をだ。
う~む、まさに韓国のタクシードライバーは運転技師様なのだ。

16 大和守頼親、謎の辞任

2005-04-16 10:55:56 | 大和源氏祖 源頼親
 『権記』寛弘六年(1009)三月四日の条に理由は不明であるが頼親が大和守
を辞任すると云う記事がある。
 「左大臣着座 即令申所宛文 頭弁下申文等 播万申文 又大和守頼親辞任国事
  可然哉 令諸卿定申 若可許 其替人同可挙申 諸卿定申 雖在任終年
  農節以前也 被許有何事哉 即播万大和等国可任之人挙申 即被奏聞(後略)」
 三月四日の陣定にて頼親の大和守辞任の許可が議題となり、諸卿も三月ならば
農繁期前であるからと頼親の辞任を認め、後任の大和守に藤原輔尹と藤原兼忠を
代替国司の候補に挙げた。この記事からはどちらが後任の大和守に補任されたかは
不明であるが、柳原本『弁官補任』寛弘六年三月四日の条には藤原輔尹が大和守に
補任されたとあり、『小右記』寛弘八年(1011)二月十五日と九月十日の条に
も藤原輔尹を大和守として記載している。ただし八月二日の条の「大和守忠輔・
公成」とあるのは、権中納言藤原公成と共に名がある点から考えて中納言藤原忠輔
の事で大和守は誤記である。
 頼親の後任の権右中弁藤原輔尹は、頼親の外祖父藤原南家出身の藤原致忠の弟
中納言懐忠の六男で頼親とは親戚である。そして輔尹の後任の大和守に長和二年
(1013)に補任された藤原保昌と輔尹は従兄弟であり、頼親の叔父である。
 頼親が寛弘七年春の秩限を一年残して大和守を辞任した理由は不明であるが、
普通に考えれば興福寺との対立が考えられる。しかしこの時期、大和守を辞任する
ほどの事件は記録に無いし、都の自邸に押し掛けられたり春日詣の帰りに襲われ
たりしたが、それを恐れて都に逃げ帰り国司を辞任するほどやわではない。
頼親は都で名立たる武者振りを買われて、有力寺社勢力との問題の多い大和守を
補任されたのだから。また病気ならば辞任などせず目代に国内の事は任せ、遙任
国司として都でのんびり静養してればよい。
 『小右記』寛弘八年(1011)正月一日の条に頼親が大和守だった頃の事が
書かれている。
「無国栖奏 依不参上也 近年如之 是大和守頼親時被調 巳不参上云々」
「元日節会」の儀式の「三献の儀」の一つとして大和吉野山から土蜘蛛一族の
子孫である国栖が参賀して歌笛を奏するのが毎年の慣わしであったのに、その儀
を執り行うべき大和守が頼親だった時よりそれをしなかった為に今年もまた国栖
が参賀しなかったとある。なぜ頼親の時より吉野の国栖が元日節会に参賀しなく
なったかは、これもまた不明である。
 これは全くの私見ではあるが、頼親は有力寺社勢力の多い北大和への進出は
諦め、南大和へ私領の拡大目的で進出を試みた。その際に吉野にて国栖一族の
所領を侵して国栖一族と対立する事となった。攻められれば返り討ちにすれば
良いと思う大和守頼親。それでは大和守の思う壺と国栖一族は争うのではなく、
「元日節会」への参賀のボイコットを選んだ。これには頼親は困った。大和守
としての職務に関わり責任を問われるだろうし、国司の勤務評定である受領
功過定にも影響が出て次の受領への道も遠のく。それならば国栖の不参賀が
問題になる前に辞任したと思える。実際、後任の藤原輔尹が大和守だった時期
の数回の「元日節会」の際にも国栖の不参賀は問題にされずに済んでおり、
頼親は朝廷に報告せずに辞任したと思われる。

15 摂関家への奉仕

2005-04-14 00:44:10 | 大和源氏祖 源頼親
 源氏の摂関家への奉仕と云えば頼光の左大臣道長への奉仕が有名であるが、
弟の頼親も当然、父や兄にならい摂関家に奉仕した。奉仕する事により現職の国司
ならば受領功過定(国司の勤務評定)で国司としての働き振りを評価されて、次の
国司への道を開くし、無官ならば猟官に有利である。
 『御堂関白記』寛弘四年(1007)五月三十日の条や『続本朝往生伝』
(『群書類従』第六十六巻)によると、道長邸での諸道論議に非事を奉仕したり、
料理を献じたとある。
 『御堂関白記』寛弘四年八月十三日の条には、道長の大和国金峰山寺参詣のおり
頼親は食事や舟の用意をしたとある。これは大和守と道長の侍と云う二重の立場
からの奉仕であり、大和守頼親としては腕の見せ所であったであろう。
 この年の大和守としての記事としては、権大納言藤原行成の『権記』寛弘四年
十一月十日の条に「大和守詣少将春日宿所」とあり、頼親は春日祭に参加した。
『権記』寛弘四年二月三十日の条に頼親は行成に呼ばれ馬を給わった事が書かれ
いるが、これは頼親が権大納言の行成に何か奉仕か贈り物をして、その返しと
思われる。頼親の奉仕は摂関家ばかりではなく他の高官にも行われていた。
 『小右記』によれば、寛弘五年(1008)九月十一日、道長の娘である彰子が
一条天皇皇子敦成親王を出産し、十一月一日には生後五十日を祝う「五十日の儀」
が土御門邸で盛大に開かれ、その際に頼親が酒の肴や菓子などを奉仕したとある。
 『小右記』長和二年(1013)八月二十七日の条によれば、左大臣道長に
「惟憲・道貞・頼親・正職・式光」の五人がそれぞれ十合の櫃物(蓋付きの大型
の箱)を贈ったが、その中でも特に惟憲・道貞・頼親の櫃物は銀で飾られていて
小野宮実資も「盡善盡美」(善を尽くし美を尽くす)と絶賛している。

80年代の韓流ブーム 書籍

2005-04-12 00:13:49 | 雑記所 赤面の武士
 現在の韓流ブームにおける話題の書籍ってペ・ヨンジュン氏の写真集しか知らんが、
80年代の韓流ブームの時は、関川夏央氏の『ソウルの練習問題』とかウッチャこと
戸田郁子さんの『ふだん着のソウル案内』、産経新聞ソウル支局長の黒田勝弘氏の
著書などを我々韓国好きの韓国マニアは貪るように読んでは、擬似体験や追体験を
楽しんでおりました。政治・経済・文化・芸能・歴史・地理など韓国の事なら何でも
知りたい行きたい学びたいと本でもテレビ番組でも食いついた。韓国本を読み尽くす
と次は『凍土の共和国』などの北朝鮮本も読み、出身成分・同務・速度戦・熱誠・
民族保衛部・土台人などの北朝鮮独自の言葉も知った。当然、浸透作戦や拉致とか
政治犯強制収容所の存在も常識として知っていた。て云うか昭和54年に書いた
同人誌に私は、北朝鮮124部隊の工作員がゴムボートで海岸に上陸して松の木の
下にボートと無線機、乱数表を埋めてるシーンを書いています。どうやら私は韓国
ブームの前にマイブームとして北朝鮮に興味を持っていたらしい。

14 大和守頼親vs興福寺 その三

2005-04-10 16:37:39 | 大和源氏祖 源頼親
 さて一連の事件の発端となった興福寺の解状にある興福寺池辺園預所を殺害した
「馬允為頼」とは誰なのであろうか。為頼の素性は『御堂関白記』等からは不明で
あるが、『小右記』寛弘三年六月二十七日の条にある「右馬允当麻為頼」である。
 当麻氏は大和国葛下郡(現在の北葛城郡)を本拠とする在地豪族で、当麻為頼も
それなりの武力を持つ在地荘園主であり、殺害された池辺園預所とは所領争いと
思われる。事件経過から考えて初め興福寺は大和国内での事件なのだから当然、
国司たる頼親に訴え出たであろう。しかし頼親は何らかの理由で当麻為頼を無罪
とした。それ故に興福寺は左大臣道長に解状を出したが、現地では朝廷の裁決を
待たずして蓮聖に煽動された三千人の大衆が為頼宅を焼き払った。その為に朝廷は
煽動した興福寺巳講蓮聖の公請を停止。それに不満を持った興福寺が二千人の僧俗
と共に大内裏や道長邸に押し掛けた次第である。
 どうやら事件の原因は「なぜ当麻為頼は池辺園預所を殺害ししたか?」と「なぜ
殺害犯の当麻為頼は無罪となったか?」別の見方をすれば「なぜ大和守頼親は当麻
為頼を無罪にしたか?」の疑問の解決にありそうだ。
 基本的に事件の原因は大和国内における在地豪族の当麻為頼と池辺園預所との
所領争いであるが、興福寺が国司の頼親の解官や都の頼親邸にまで押し寄せた事を
考えると当麻為頼と大和守頼親とは主従関係があったと思われる。
 国内の単なる所領争いであった場合、有力寺社たる興福寺の荘園預所と対立する
事は為頼にとって考えものである。そこで春に着任したばかりの摂関家の武士たる
頼親と主従関係を結び、興福寺と対抗出来るバックを付けて事に及んだとも考えら
れるし、受領国司の手始めに頼親が国司としての権威権力を以って在地豪族を郎党
化して次に他の私営田を自らの私営田にする為に郎党の為頼に池辺園荘を侵させた
とも考えられる。実際、後に頼親は有力寺社勢力の及ばぬ南大和に広大な私領を
国司の力を以って得ている。
 また為頼は右馬允と云う馬寮の官人であるから、都に居た頃に若き日の頼親と
盗賊追捕追討などで一緒になり、それが縁で主従関係を結び、大和国府の在庁官人
であった可能性も高い。
 なお『御堂関白記』寛弘四年(1007)二月十一日の条に、頼親が二月十日に
春日詣を済ませての帰りに興福寺付近にて何者かに襲われたと書かれている。
犯人は不明であるが襲撃現場と犯行動機から犯人は興福寺大衆と考えられる。
 それにしても十日に大和国で起きた事件が、翌十一日には道長の日記に書かれる
とは道長と頼親の主従関係もなかなかである。

13 大和守頼親vs興福寺 その二

2005-04-10 02:21:49 | 大和源氏祖 源頼親
 愁状を朝廷に却下された興福寺は不服とし、興福寺別当大僧都定澄が左大臣道長
邸に参上したと云う記事が『御堂関白記』寛弘三年七月十二日の条に書かれている。
 寛弘三年(1006)七月十一日に興福寺別当大僧都定澄が道長に云うには、十三日
に巳講蓮聖の件で僧綱や巳講等が参上して、十五日か十六日にも興福寺大衆が都
まで押し掛け蓮聖の件で何らかの答えが出るまでの間、道長邸や大和守頼親邸に
乗り込み事の次第を聞く気だが、大衆の中には乱暴をする者もいるであろうとの事。
 興福寺大衆に屋敷まで乗り込まれ乱暴をされるより、今の内に蓮聖の件は興福寺が
納得する形で解決した方が良いですよと云う強訴の前の恫喝であるが、大僧都定澄の
脅しに怯む道長では無い。逆に定澄に「そのような僧がいるならば興福寺上層部で
事前に抑えよ。大衆が我邸まで強訴に押し寄せて来たならば決して良い事は無い。
例え僧綱であろうとも解官させる。そのあたりの事を考えておくように。」と釘を刺す。
 しかし十二日の夜になって既に興福寺大衆約二千人が木幡谷の大谷に着いたとの
知らせを受けた道長は十三日にでも公卿会議を開かねばと思い、その由を命じた。
 『日本紀略』や『権記』によれば、十三日には興福寺三綱(僧正・僧都・律師)以下
二千人の大衆が大内裏八省院まで押し掛け愁訴し『百錬抄』によれば大衆はその後に
道長邸に押し掛けた。自邸まで押し掛けてまでの愁訴に道長は怒り、大衆に宣旨を
下して追い返したとある。
 宣旨によって追い返された大衆も翌十四日には全員帰ったとの報告を僧慶理より
道長は伝え聞いたが、帰ったのは下級僧侶や俗人大衆であって三綱などの高僧
三十人程は残っており道長に面会を申し出ていた。これに対し道長は申し入れを
無用と断ったが僧綱や巳講ならば後日来ても良いと告げた。
 翌十五日に別当定澄以下五師・巳講が道長邸に参上し、四ヶ条の申文を道長に
差し出した。
 1 国司が申す興福寺僧侶が焼いた為頼宅や田畠損壊の犯人追捕を取り下げよ。
 2 大和守頼親を解官せよ。
 3 馬允為頼もまた解官せよ。
 4 蓮聖の公請停止を撤回せよ。
 以上四ヶ条の興福寺の申文に対し、道長は以下の如く答えた。
 第一条に対し、興福寺の差し出した「馬允為頼によって池辺園預所が殺害された
の件」の解状の裁決が出る前に僧等が勝手に事を起こしたのは、藤原一門の長者
たる自分を無視した行為であり、犯人追捕を取り下げる気は無い。
 第二条に対し、頼親の提出した解文から興福寺の非を認めて、頼親の国司として
の責務に過失は無く無罪である。
 第三条に対し、家を焼いた加害者が罰されずに被害者が罰せられるとは全く理屈
に合わない。
 第四条に対し、蓮聖の罪は明かではあるが罪ある者も免ぜられる事もあるので
申し出れば恩免も不可能では無い。しかしこの条文を申文にの中に入れている限り
天皇への奏聞は出来ない。恩免を願うならば第四条を除くべきで、第四条だけを
別に申し出るならば天皇に奏聞してやっても良いと答えた。
 興福寺側は道長の意見に対して自分達の正当性を述べて帰ったが、その後どう
なったが不明である。その後も頼親は停任される事も無く大和守であった事から
興福寺の申文は却下されたのであろう。

12 大和守頼親vs興福寺 その一

2005-04-08 01:49:01 | 大和源氏祖 源頼親
 大和国は都からも近く土地も豊かで政治的にも経済的にも大変重要な国なので等級
も最上級の大国である。その事は有力貴族に仕える武士等の受領貴族にとっては、
都で何かあった際に取って返せる距離であり、大国ならば国司の実入りも多く摂関家
への奉仕によって次の受領への道も開かれる。また畿内の任国内に私領を持ったり、
在地豪族を郎党化する事により武士団としての勢力強化拡大が出来る。
 しかし大和国内には東大寺・興福寺・春日大社等の有力寺社勢力が多く、公営田や
私営田はもとより有力寺社領・摂関家領が複雑に入り乱れて、度々所領争いや徴税
問題等で国司にとって大変治め難い国である。
 朝廷としても有力寺社の台頭には業を煮やしてはいたが、摂関家にとって興福寺は
氏寺で春日大社は氏社なので正面切っての争いは起こしたくはなかった。
しかし国内の大荘園からの徴税収入は大事な財源なので放置出来る問題では無い。
多少寺社勢力と争ってでも朝廷の力を確かな物として徴税出来るようにと武士勢力を
持つ受領層を大和守に補任した。
 『御堂関白記』によると寛弘元年(1004)二月七日の条に藤原景斉が大和守で
あったとする記述があり、寛弘三年(1006)七月十二日の条には頼親が大和守で
あったとする記述がある。頼親は寛弘六年(1009)三月に大和守を辞任して
いるので国司の任期四年から考えて寛弘三年春の県召除目にて大和守に補任された
と思われる。
 有力寺社勢力に対抗する為に大和守となった頼親は、就任半年目には早くも興福寺
と問題を起こした。この事件の経過が『御堂関白記』に書いてある。
 寛弘三年六月十四日の条
「従山階寺 為馬允為頼 被打池辺園預有寺解文 召為頼間 人云 従山階寺三千人
 許僧行為頼私宅焼亡数舎云々 路辺田畠二百余町損云々 聞奇不少」
 山階寺(興福寺)より藤原道長に「興福寺領池辺園預所(荘官)が馬允為頼なる者
によって殺害された。」との訴えがあった為に為頼を召す事となった。しかしその間に
興福寺大衆三千人が為頼宅数舎を焼き払い、その周辺の田畑二百余町を損壊した
との知らせが入った。
 寛弘三年六月二十日の条
 大和守(頼親)より為頼宅を焼き払い田畑を損壊したのは、興福寺巳講蓮聖に煽動
された数千の僧侶と俗人であったとの報告とそれに対する国司としての処置の伺いの
解文が届いた。
 寛弘三年六月二十四日の条
 解文を受けた朝廷では、取敢えず二十四日から内裏内で始まる御読経に招いた
巳講蓮聖を追い返して他の僧を請う事とした。
 寛弘三年七月三日の条 『御堂関白記』『権記』
 大和守頼親の解文に対し「蓮聖に犯人の僧俗を差し出させる事」「蓮聖の公請を停止
にすべき事」の宣旨が下った。
 寛弘三年七月七日の条
 その宣旨を不服とした興福寺側は朝廷に愁状を差し出したが、「前解文相違」すると
云う事で愁状は却下されてしまった。

80年代の韓流ブーム 怪しい観光客

2005-04-07 03:02:25 | 雑記所 赤面の武士
 酒の飲めない私は、夜のソウルを飲み歩く事もなく定宿の乙支路のメトロホテルの
一室で韓国のテレビ番組を見ていた。言葉の分からぬ私も歌番組やコメディー番組、
CM等は楽しめた。
 韓国のコメディアンで一番好きなキャラクターは、金美花(キム・ミファ)演じる
眉毛のつながった勝気な主婦の「スリラン夫婦」。最近彼女は離婚したそうだが、
スリラン夫婦も復活したとも聞く。スリラン夫婦のビデオがあれば欲しいものだ。
 今ほど北朝鮮の映像が日本で見る事が出来なかった当時、北朝鮮のテレビを韓国の
放送局が受信し編集した「南北の窓」と云う番組も北朝鮮を知る上で貴重な番組で
あった。自己主張の強い韓国のCMや「南北の窓」はビデオカメラでテレビ画面を
撮影したもので、ある晩「南北の窓」を撮影してたらルームサービスに来たホテルの
ボーイにその怪しい行動を見られてしまい焦った事がある。なにしろ当時は北朝鮮の
スパイが韓国に潜入してたので「間諜申告(カンチョップ・シンコ)」のポスター
が町中に貼られ、怪しい人間を見つけたら警察に通報せねばならなかった。
私の場合、ホテルの韓国人スタッフから見るとかなり怪しかったと思われる。
 日本人なのに団体ツアー客でなく一人で、特級ホテルではない普通のホテルに
一人で泊まり、朝から韓国人の友人が何人もホテルに訪ねて来て出掛けて行き、
夜はキーセンパーティーにも行かず一人で部屋で過ごす。日本人は外国語が不得意
なはずなのに少しばかり韓国語が話せハングル文字も読める。やたらに観光地以外
の普通の場所を聞くし、妙に知っている。買う物も免税品や観光土産ではなく
日用品や本が多い。在日韓国人ならば、つじつまも合うが日本人である。
 当時の韓国マニアの日本人としては普通なのだが、日本で韓国ブームが起きてる
事を知らず、日本人観光客と云えばキーセン目的のおじさん達しか知らない韓国の
人達から見ればかなり怪しい存在だったと云える。実際に韓国大使館韓国文化院
韓国語教室のクラスメートはソウルで日本人なのに韓国語が話せたと云うだけで
警察官に職務質問を受けたと云う。韓国が好きで韓国文化院で韓国語を習ったと
韓国語で話すと警察官は笑顔で解放してくれたと云う。

11 周防前司頼親の補任時期

2005-04-03 21:55:02 | 大和源氏祖 源頼親
 『尊卑分脈』によれば頼親は大和・周防・淡路・信濃など四ヶ国の国司に補任
されており、『栄華物語』(第五巻「浦々のわかれ」)により頼親の周防国司の
任官が確認されている。ただ問題はその任官時期が不明である。
 「浦々のわかれ」は長徳二年(996)正月十六日の夜に女性問題の誤解から
内大臣藤原伊周の相談を受けた弟の中納言隆家が事もあろうに花山法皇に矢を
射掛け、更に東三条院詮子への呪詛や天皇にしか許されていない大元帥法と云う
密教の修法を行った事などの三ヶ条の罪によって、長徳二年四月二十四日の臨時
の除目で内大臣伊周は大宰権帥、中納言隆家は出雲権守に左遷させられる事件を
扱ったもので、この時に宮中の諸門は固く閉じられ武者達が召されて陣の内に
詰めていた様子を書いたのが次の一文である。
 「内には、陣に陸奥国の前守維叙、左衛門尉維時、備前前司頼光、周防前司
頼親などいう人々、皆これ満仲貞盛が子孫なり。おのおの兵士ども、数しらず
多くさぶらう。」
 この一文により頼親が長徳二年以前に周防国司に任官し任期を終えて都にいた
事がわかる。この時の頼親の年齢は30~33歳と思われ、周防国司には二十代
中頃に任官したと思われる。
 がしかし朧谷寿氏は『栄華物語』の成立を長元元年(1028)とし、事件の
あった長徳二年(996)~長元元年(1028)の間32年間のいずれの時期
に頼親が周防国司に任官し『栄華物語』の作者が頼親の官職を書いたとしている。
 そこで私は指摘の32年間の周防国司の補任と頼親の官歴を照らし合わせて
周防国司補任不明者の期間と頼親の官歴不明の期間を調べてみた。
即ちその不明の期間に頼親が周防国司に補任された可能性があるからだ。
 頼親の官歴としては寛弘二年(1005)以前は不明であるが、長徳四年
(998)正月に藤原資平が周防守に補任し、『権記』長保四年(1002)
四月十日の条に周防守として菅原為理が記されているので、藤原資平・菅原
為理の両名が周防守を秩満した場合は頼親が周防守に任官してる可能性はなく
頼親の官歴不明期間の万寿年間(1024~1027)が可能性が高い。
また長徳四年の藤原資平補任前の四年間、即ち事件のあった長徳二年当時の
周防守は不明なので可能性もあるが、そうなると『栄華物語』の「周防前司」
の記載と矛盾する。また正暦四年(993)の周防守には源輔成が補任されて
いる事は『小右記』二月二日の条によって確認されている。更に前となると
頼親の年齢からして若過ぎて不自然である。
 よって頼親の周防国司補任の時期は「万寿年間」である。と私は卒論に書いたが
数年後に研究生論文を書くにあたり『栄華物語』の「浦々のわかれ」を読み返して
みて、ある事に気づいた。陣の内に詰めていた武者として「陸奥国の前守維叙」
「左衛門尉維時」「備前前司頼光」「周防前司頼親」の官職と名が記されているが
平維叙と源頼光の長徳二年以前の陸奥国と備前国の国司補任を調べてみた。
 『今昔物語』十九巻に陸奥守藤原実方の前任者として正暦年間(990~994)
に平維叙が陸奥守であったと書いてある。
 『小右記』正暦三年(992)正月二十日の条に頼光が備前守であったと書かれ
ている。ただし『北山抄』には「頼光は正暦の頃に備前介」とある。
「備前守」と「備前介」いずれが頼光の本当の官職かと云えば、『公卿補任』に
正暦三年頃に藤原公任が備前守とある。藤原公任は関白太政大臣藤原頼忠の子息
なので備前守は遙任国司で頼光が備前介として任地備前国に赴任したと思われる。
 そこで私が気づいたのが官職の違いである。一般に「陸奥国前守=前陸奥守」
「備前前司=前備前守」「周防前司=前周防守」と解釈され、頼親の「周防守」補任
の時期を論じたのが誤解の元であった。
 なぜ『栄華物語』の作者は「前守」と「前司」を使い分けているか。平維叙が
「前陸奥守」で、源頼光が「前備前介」であった事から「前司」とは「守」ではなく
「介以下」の国司を意味するものだった。
 周防介ならば正暦四年の周防守源輔成の補任と重なっても問題がない。
よって頼親の周防介補任の時期は正暦年間(990~994)と考えられる。
 頼親の官歴としては初めに七位の左兵衛尉となり六位の周防介、そして左衛門尉
となって後は受領を歴任して財を蓄えていったのであろう。

10 都武者 源頼親

2005-04-03 17:16:47 | 大和源氏祖 源頼親
 史料による頼親の初見は『一代要記』寛和二年(986)七月十三日の条で興福寺
衆徒が大内裏八省院に押し掛け、大和守頼親の罪科を愁訴したという記事である。
 しかし朧谷寿氏は『大和守源頼親伝』(『古代学』17-2)にて『一代要記』の
この記事と同様の記事が『御堂関白記』寛弘三年(1006)七月十二日の条にも
書かれており、藤原道長もこの事件に深く関わっていた為に以後の事件経過も詳しく
ある為に興福寺衆徒の押し掛けという事件は実際には『御堂関白記』の寛弘三年が
正しく『一代要記』の記事は「寛弘」と「寛和」の字のくずし方が類似してた為に
誤記したものであると述べている。確かに二十歳そこそこの頼親が大和守というのも
不自然なので、これは『一代要記』の記事の間違いである。
 本当の頼親の史料における初見は『日本紀略』正暦五年(994)三月六日の条
「召武勇人源満正朝臣 平維時朝臣 源頼親 同頼信等 差遣山々 令捜盗人」
 権少外記三国致貴が上卿より「捜例文」を進めるように云われ、武者を以って
京都周辺の山々に至るまで盗賊を捜索する事となった。
 都には盗賊が横行しており、朝廷では検非違使や滝口の武士、六衛府左右馬寮の
官人を動員して京内左右両京の盗賊追捕にあたらせていた。今回の盗賊追捕は
かなり大掛かりな為に追捕にあたる者も「源満正・平維時・源頼親・源頼信」と
云う都でも武勇名高き源平両氏の武者が参加した。
 源満正は多田満仲の次弟で頼親・頼信兄弟の叔父である。『尊卑分脈』では「満政」
であり、「尾張源氏・三河源氏」の祖である。大江匡房は『続本朝往生伝』の中で
「武士はすなわち満仲・満正・維衡・致頼・頼光、これ天下の一物なり」と云う。
 まさにTV番組なら「平安版京都府警24時!」、ゲームなら「実写版 平安京
エイリアン」というところか。