大和源氏 後深草少将記

清和源氏の一流、大和守源頼親を祖とする
大和源氏に関する情報ページ。

80年代の韓流ブーム 歌謡曲編

2005-03-28 22:59:59 | 雑記所 赤面の武士
 現在、日本は「韓流ブーム」である。
がしかし、マスコミの「空前の韓流ブーム」との表現は間違いである。
1988年の韓国ソウル・オリンピック前後の「韓国ブーム」が本物の
「第一次韓流ブーム」と云える。
 確かに現在の韓流ブームによって衛星波・地上波によって日本に居ながら
多くの韓国ドラマを観る事が出来るが、帯番組で日本の放送局が製作した
番組は残念ながら無い気がする。
 外国ドラマを放送するだけならテレビが白黒で、チャンネルが壊れて外れた
頃から日本は「米流ブーム」です。ライフルマン・コンバット・宇宙家族
ロビンソン・ミステリーゾーンとか、動物物ではラッシー・リンチンチン・
ロンドン・わんぱくフリッパーなど。ホームドラマなら愉快なブレディー家・
ビーバー君。ドラッグストアーで売ってるレモネードなる美味そうな飲み物
に憧れたものだった。懐かしの昭和30年代40年代のアメリカドラマで
ブログが何本も出来るぐらい影響を受けてたから正確にはブームではないが。
 ソウル・オリンピックの数年前より全てのマスコミは韓国特集を企画して
フジテレビでも深夜に「ソウル・ソウル・ソウル」と云う韓国の歌謡番組
「土曜日は楽しい。」を編集し韓国女優の李恵淑が最新韓国歌謡曲や歌手・
俳優等の芸能人を紹介する番組を製作して放映していた。
私は二年間その番組を録画して韓国のヒット曲を覚えたものだ。
 キム・ワンソン、イ・ソニ、イ・ジュヨン、チョン・スラ、ミン・ヘギョン、
ユ・ミリ、ナミ等の女性歌手やチョン・ヨンノク、パク・ナムジョン、ク・
チャンモ等の男性歌手の曲が好きで、80年代の韓国歌謡なら30曲以上は
韓国のノレパン(カラオケボックス)で歌える。最近の韓国クラブでは
ホステスさんも知らない韓国の歌を歌うと不思議がられるが、店のママの
年代だと懐かしいと一緒に歌ってくれて盛り上がる。在日のおじさん達は
「トラワヨ・プサンハンヘ」とか「ミオ・ミオ・ミオ」「大田ブルース」等の
演歌ばっかりでママやチーママにとっては青春の一ページなのかもしれない。
 北朝鮮のカラオケも「口笛」「女性は花です」「名前を聞かないで下さい」
などは歌えるが歌う機会がない。しかし北朝鮮クラブがあっても店に入る
勇気はない。ホステスさんは韓国クラブと一緒でも、客一人一人に案内員
のオジさんが隣に座り、客が歌ってる時に「トンムは歌を歌って下さい。
私は食事事業してますから。」と勝手にビールやフルーツを注文しそうだ。

9 源頼親の生年

2005-03-25 00:36:10 | 大和源氏祖 源頼親
 頼親は藤原致忠の娘を母に多田満仲の次男として生まれたが、その生没年は一級
史料では確認出来無いが人名辞典や大和源氏諸氏の系図には生没年が記されて
いるのでそれらの資史料から生年を探ってみる事とするが、頼親の生年には
以下の六説がある。
   A 天暦八年(954)正月二十二日説
   B 応和三年(963)九月十三日説  
   C 康保三年(966)九月十三日説  
   D 安和元年(968)説       
   E 安和三年(970)九月十三日説  
   F 天禄二年(971)説 
 「天暦八年説」の出典は『大日本人名辞書』(内外書籍刊)の頼親の項にあり
執筆者の宇野見彗氏は頼親七世宇野有治を開基とする奈良県吉野郡下市の藤谷山
雪坊瀧上寺第二十六世住職であり、寺伝の宇野氏系図を元に書かれたと思われる。
 「応和三年説]の出典は頼親三男頼遠流石川氏の『大寺系図』に記されている
頼親の生年である。
 「康保三年説」は『石川家譜略』の頼親の生年と大正七年に刊行された『石川氏
一千年史』の父満仲の条に書かれている頼親の生年である。
 「安和元年説」は石川氏三十八代石川邦光氏所蔵の石川系図を明治二十二年に
星野恒教授が写し取った『源流無尽』・『石川家譜略』・『大寺系図』に記された
頼親の没年より逆算された生年である。
 「安和三年説」は『大寺系図』に書かれている「応和三年」は「安和三年」の
写し間違いとし後世訂正したものである。
 「天禄二年説」は『石川氏一千年史』に書かれている頼親の没年より逆算した
生年である。
 一級史料による生年は確定出来ないが、「永承5年(1050)」に頼親が
生存してた事は『扶桑略記』によって確認出来るので、Aの天暦八年(954)
生まれとすると九十八歳と云う高齢になってしまい不自然である。
 次に頼親の生年の下限を同母次弟の頼信の生年と照らし合わせて考えてみる。
頼信の生年は『尊卑分脈』によると没年と享年の違いから四説もあるので、
没年から享年を引き逆算して生年を算出してみた。
   A 没年 康平二年(1059) 享年六十歳 
     生年 長保元年(999)
   B 没年 康平三年(1060) 享年六十歳
     生年 長保二年(1000)
   C 没年 永承三年(1048) 享年六十歳
     生年 永延二年(988)
   D 没年 永承三年(1048) 享年八十一歳
     生年 康保四年(967)
 頼信は『小右記』によると「永延元年(987)」春に叙位されたとあるので、
A・Bの「長保元年・二年」説は間違いである事がわかる。
 即ち頼信の生年はDの「康保四年(967)」とあり、同母兄の頼親の生年の
下限は「康保三年」以前となる。と云う事は先に挙げた頼親のAからFの生年説
で成立するのはBの「応和三年(963)」説とCの「康保三年(966)」説
になる。Eの「安和三年(970)」説は、一般的に後世訂正されたほうが
正しい場合が多いが安和三年は三月二十五日に「天禄元年」に改元されている
ので「安和三年九月十三日」は存在せず記述の信用性が無い。そうなると訂正前
の「応和三年」説の真実がますので、幅をもたせて頼親の生年は「応和三年~
康保三年」と考えられる。

なお頼親の幼名であるが『大日本人名辞書』には母方が藤原南家武智麿の血筋
なので「武智麿」とあるが、大和源氏石川氏などの系図には「普賢丸」または
「普賢麻呂」とある。摂津国多田神社釈迦堂の兄頼光作の文殊菩薩と頼親作の
普賢菩薩の存在、そして頼光の幼名が「文殊丸」であった事から頼親の幼名は
「普賢丸」であったと考えられる。

8 外祖父 藤原致忠

2005-03-23 02:42:47 | 大和源氏祖 源頼親
 斉明・保昌・保輔兄弟は追捕する者される者の違いはあれど武勇の輩であったが
父である致忠に何か争い事の事実があったかと云うと『小右記』や『今昔物語』
(第23巻 平維衡同致頼合戦蒙咎語第十三)に次のような事件があった。
 長保元年(999)八月に散位致忠は美濃国に下向する際に前相模守橘輔政の子
橘惟頼と郎党二人を射殺した為に父の輔政はこれを訴え出て致忠に追捕の宣旨が
下された。
 同年十一月二十日に検非違使大夫尉藤原忠親と右衛門志縣犬養為政の二人が
捜査の為に美濃国に下向した所、致忠は罪を認めた。
 十二月十三日の陣定にて美濃国司源為憲は国務を続けさせ致忠の罪が確定したが
二十三日に再び輔政より美濃守為憲も同事件に関わりがあったらしく訴えられた。
そして二十五日には致忠は左衛門射場に拘禁され、為憲も明法博士の勘申により
有罪となり、二十七日の陣定にて致忠は佐渡への配流が決まり、長保二年二月
二十三日に為憲は美濃守を解任され、致忠も右兵衛府使に伴われ佐渡に配流
された。致忠は配所においても重罪の為に拘禁されたまま一生を終えたと云う。

7 摂関家家司 藤原保昌

2005-03-23 01:47:09 | 大和源氏祖 源頼親
 致忠の次男保昌も武略に長じ、その武人振りは『小右記』や『今昔物語』にも
書かれているが、むしろ一般的には御伽草子の「頼光の大江山の酒呑童子退治」
に頼光四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井定光・卜部季武)と共に参加した平井保昌
として有名であろう。
 保昌は左大臣藤原道長の家司で、斉明・保輔兄弟に連座する事なく正四位下の
昇殿を許された官人である。また妻は有名な和泉式部である。
 藤原道長の家人と云えば頼光・頼親・頼信も摂関家の爪牙として仕えていたが
源氏三兄弟の中では頼親が最も叔父保昌と共通点を持っている。
 保昌は左馬頭、頼親は右馬頭。共に大和守に三回以上任官し大和国・摂津国内
に私営田や在地豪族の郎党を持っていた。その事は中央軍事貴族として官職や
地方勢力のテリトリー争いであり、直接では無いとしても郎党同士は度々争う事
となり、叔父甥でありながらライバルであった。

6 袴垂保輔の最後

2005-03-22 02:26:17 | 大和源氏祖 源頼親
 永延二年(988)閏五月八日、前越前守藤原景斉宅と織部令史茜是茂宅が強盗に
襲われたが、保輔の郎党の証言により保輔が犯人である事が判明し証拠品の盗品も
発見された。これにより保輔が寛和元年三月二十七日以来逃げ通せた事がわかる。
 保輔は藤原景斉宅や茜是茂宅を襲った後も三年前に兄斉明の追捕をした検非違使
源忠良を矢で射掛けたり、忠良の姻戚の右兵衛尉平維時をも近いうちに殺す計画を
立てて忠良一族に報復しようとするなどかなり執念深い人物であった。
 同年六月十三日に保輔が従二位中納言藤原顕光邸に潜伏との情報が入った。
顕光の閑院邸は元は保輔の父致忠の邸宅であったが、閑院大将藤原朝光の邸宅
となり、この頃は閑院朝光の弟の中納言顕光が住んでいて、保輔にとっては自宅も
同様の格好の隠れ家であった。
 しかし検非違使や滝口の武士が顕光邸を包囲し邸内を捜索した時には保輔は発見
出来ず、内裏でも警戒を厳重にし保輔追捕の者には恩賞を与えると発表した。
また検非違使は父致忠の三条邸を捜索したが保輔は居らず、代わりに致忠を当時
犯人の監禁に利用した左衛門射場に連行し監禁した。
 六月十四日朝、一旦は顕光邸から逃れた保輔もこれまでと諦めて北花園寺にて
剃髪出家をした。それを知った検非違使は北花園寺に向かったが既に保輔は逃げて
居らず、保輔が残した頭髪と衣装そして剃髪をした僧侶を見つけただけであった。
 出家した保輔は父の所に帰る訳にもいかず、昔の郎党であった左近衛の足羽忠信
を頼ったが忠信は恩賞に目が眩み旧主保輔を裏切り検非違使に保輔を引渡して
左馬寮医師に昇任した。
 『続古事談』によれば六月十六日、逮捕に際し覚悟を決めて腹を切り自ら腸を
引き出し翌十七日に獄中にて死亡したとある。まさに都人を震え上がらせた天下の
大強盗らしい壮絶な最後であった。
 なお保輔が何歳で獄死したか不明であるが、兄の保昌がこの年に三十一歳で
あった事から二十代後半、甥の頼親・頼信兄弟は二十一~三歳頃と思われる。
幼き頃より一緒に育った二人にとって年の近い叔父達の壮絶な死を何と思った
だろうか。なにしろ叔父さん二人が天下の大強盗で精神的ショックを受けない
訳が無い。ただ斉明・保輔の兄弟である保昌も甥の頼親・頼信兄弟も出世への
障害になってない。むしろ頼親・頼信にとって父方・母方共に武勇の家として
都人に認識させて都武者としての名が広がったとも考えられる。

5 大盗賊藤原斉明・保輔兄弟

2005-03-22 00:36:29 | 大和源氏祖 源頼親
 頼親・頼信兄弟の外祖父である藤原致忠には、頼親等の母の他に斉明(ときあきら)
・保昌・惟光・保輔と云う四人の息子達がいた。なお『尊卑分脈』では「致忠ー斉光ー
斉明」とあるが、右大将小野宮実資の『小右記』等の記事から斉明が保輔の兄である
事は確かである。
 従五位下左兵衛尉藤原斉明と従五位下右京亮藤原保輔兄弟は、五位の通貴の
官人ながら都を騒がす大強盗で、保輔は『尊卑分脈』に「追討の宣旨を受ける
事十五度」と記され『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に書かれている「袴垂保輔」
のモデルになった人物である。
 彼等兄弟に関しては中央公論社刊『日本の歴史 第五巻 王朝の貴族』(土田直鎮
著)と研秀出版刊『日本の歴史 第四巻 平安貴族』の「群盗横行」(南条範夫著)
の中に事件経過が詳しく書かれているので『小右記』を参考に斉明・保輔兄弟の強盗
としての行動を追ってみる事とする。
 寛和元年(985)正月六日夜、大内裏上東門の東、洞院西大路土御門付近にて
弾正小弼大江匡衡が何者かに襲われ左手の指を切り落とされる事件が起きた。
 続いて同月二十日に土御門左大臣源雅信邸にて大饗が催された帰りに中門の内
にて下総守藤原季孝が何者かに顔を傷つけられる事件が起こった。
 翌二十一日に早速諸国に追捕の官符が下されたが犯人不明のままに三ヶ月が
過ぎた。しかし三月二十二日に藤原季孝を傷つけた犯人が藤原斉明の従者二名
らしいと判明。左衛門督源重光は花山天皇に奏上し、検非違使右衛門尉源忠良と
左衛門志錦文安等が「容疑者を連行せよ。斉明が従者二名を差し出さない場合は
斉明も逮捕せよ。」との命を受け、斉明の所に派遣された。
 斉明のいる摂津国に源忠良と錦文安は向かったが既に斉明は船で海上に逃れて
いたが逃げ遅れた郎党の藤原末光を逮捕尋問したところ「斉明が大江匡衡を傷つけ、
藤原季孝を襲ったのは弟の保輔である。」と自白した。
 三月二十七日に摂津国より帰京した源忠良等は事の次第を奏上し、錦文安と右衛門
府生安茂兼ら検非違使を保輔が隠れていると思われる兄弟の父である致忠の三条邸
に遣わし捜索したところ、致忠は「保輔は今朝、宿願があって長谷寺へ旅立ち
ました。」と云い、検非違使に四月二日までに出頭させると起請文を差し出した。
しかし四月二日になっても保輔が出頭したり逮捕された様子も無く消息は絶える。
 一方、摂津より船で逃走した斉明は、山陽・南海・西海諸道に追討の官符が出され
てる事を知って東国に逃げようとしたが、途中四月二十二日に近江国高島郡にて
前播磨掾惟文王により射殺された。惟文王は賞され、五月二日に斉明の首は都に
梟せられて、五月十三日、あらためて斉明と保輔の罪状が議せられた。
 ちなみに凶悪な斉明を射殺した惟文王であるが『尊卑分脈』には名が無く出自不明
の皇族であるが『平安遺文』第九巻3503文書に「九州の宇佐八幡に散位惟文王
が侵入した」との記録があり、皇族として受領を重ね九州の地に在地豪族化した
人物である。

4 頼親・頼信兄弟の母方

2005-03-21 19:43:45 | 大和源氏祖 源頼親
 多田満仲の嫡男頼光の生母は嵯峨源氏近江守源俊の娘であるが、頼光と二十歳
以上離れている頼親・頼信兄弟の生母は左衛門権佐藤原致忠の娘である。
 外祖父藤原致忠の家系であるが、藤原鎌足ー不比等ー武智麻呂ー巨勢麿ー黒麻呂
ー春継ー良尚ー菅根ー元方ー致忠と続く藤原南家の出自で、藤原北家が氏長者と
なってからは他の式家・京家同様に奈良朝の勢力は無くしたものの致忠の祖父参議
菅根は文章生出身の学者で、父の中納言元方も文章得業生より出世して娘の祐姫を
村上天皇の更衣に入内させ、祐姫はやがて村上天皇第一皇子広平親王を産み、親王
の外祖父である元方は中納言より大納言正三位民部卿と当時の南家では高位高官と
なったが、村上天皇の東宮に関白太政大臣藤原忠平の息子の右大臣師輔の娘である
女御安子の産んだ第二皇子憲平親王(冷泉天皇)が選ばれると、それを機に中央
貴族の道は絶たれて受領貴族へと歩み始める。
 この大納言元方の話を楽しみながら知りたい方は、映画「陰陽師」をご覧下さい。
また藤原南家は、後に頼親が三度大和守となり大和源氏宇野氏の本拠となる大和国
と深い関係があり、頼親は大和源氏になるべくしてなったとも云える。

雑記所 赤面の武士

2005-03-20 12:58:55 | 雑記所 赤面の武士
 学生の頃より数十年、ライフワークで「大和源氏祖 源頼親とその一族」を
研究して、パソコン購入時にホームページを立ち上げようと思ってはみたものの
何一つ出来ずに時だけが過ぎて行きました。
 何しろ機械音痴でホームページビルダーの基本的なテンプレートですら上手く
使えずに、ガイドブックも色々購入したが内容が理解出来ない。サルでもわかる
ホームページの作り方とか図解入りとかも駄目でした。
 そうこうしてる内に科学技術は進み、私のようなパソコンダメダメ人間でも
簡単に簡易式ホームページが作れる「ブログ」なる物があると知りました。
 つい先日、大和源氏の宇野七郎親治なる人物をネットで検索してたら「小袖城」
なる歴史小説好きな女性のブログを見つけて訪問した所、今話題の源義経ではなく
マニアな初期の清和源氏や保元・平治の乱をテーマにされた、私にピッタリの
ブログだったので色々とコメントなどを書き込んでいるうちに、ブログ情報の
ボタンに気づきクリックしました。
なるほどなるほどと読み進み「私でも出来るかも」「ぜひ私も作りたい」と思った
が、なかなか作成のボタンをクリックする決心がつかない。
 誰か私の背中をクリックしてくれる人物が必要なのだ。他力本願だけでネット
している私だけにその手の電波武者は郎党にいたので彼にお願いして初期画面
まで持って行き、ようやく自分のブログ「大和源氏 後深草少将記」を開設
出来た訳である。
 ちなみに私のハンドルネームである「後深草少将」とは、小野小町に恋をして
百夜通いの九十九夜目で過労死した深草少将の後の少将であり、学生時代の
サークルの文集に既に後深草少将として書いてるので四半世紀は使用してる
名代の老舗のハンドルネームである。
 この「雑記所 赤面の武士」は本編のコメントではコメントしにくい、普通の
コメントの場所なので気軽にコメントして下さい。

3 大和源氏の呼称

2005-03-20 03:56:15 | 大和源氏祖 源頼親
 多田満仲には、頼光・頼親・頼信・頼平・頼明・頼貞・頼範・孝道・源賢・頼尋の
十人の子息がいたが、その中でも特に有名なのが、頼光・頼親・頼信の三人である。
 父満仲が左大臣藤原師尹や摂政関白太政大臣藤原兼家に近づき、摂関家と主従
関系を結んだように彼ら三兄弟も関白藤原道兼や弟の左大臣藤原道長の爪牙として、
兵衛府・衛門府・馬寮・検非違使などの武官を経て国司を歴任して、摂津・大和・
河内の畿内三国に広大な所領と在地豪族からなる郎党を従えて武士団を結成し、
確固たる受領貴族・軍事貴族の地位を築き上げた。
 嫡男頼光は父満仲より摂津国河辺郡大神郷多田荘を伝領し、摂津国を本拠とした
頼光の孫多田頼綱流を「摂津源氏」或いは「多田源氏」と呼び、多田蔵人行綱や
源三位頼政の系統である。また美濃国を本拠とした弟の国房流を「美濃源氏」と
呼び、土岐氏が有名である。
次男頼親は、大和国内の東大寺や興福寺などの寺社勢力と事あるごとに争い
ながらも三度大和守に任官し、その地位を利用して在地豪族を郎党化して南大和
に広大な私領と武装勢力を得て、平安・鎌倉・南北朝時代と頼親流嫡流宇野氏一族
が大和国内を本拠とした為に「大和源氏」と呼ばれた。
 三男頼信は受領として東国の国司の歴任や長元の乱(平忠常の乱)等により
東国の在地武士団との縁が出来て頼信の子孫は東国に進出していった。
源氏の本領である摂津国内の所領は、頼光・頼親の兄達が伝領して三男の頼信と
しては関東・東北と云う新天地を目指したのだろう。
 しかしながら河内守となった晩年の頼信は、河内国壷井荘に住み永承三年に
この地で没し、頼信・頼義親子が長久四年に菩提寺として建立した通法寺に
頼信・頼義・頼家三代の墓がある。それ故に「河内源氏」と呼ばれた。
 なお『尊卑分脈』には頼親のみ「大和源氏祖」と記載され、頼光の「摂津源氏祖」
や頼信の「河内源氏祖」の記載は無い。それだけ頼親とその子孫の在地化が時期的
に早く一国に集中してたと云う証左と云える。

2 源氏揃え

2005-03-17 02:28:33 | 大和源氏祖 源頼親
 いきなり「大和源氏は、この指とまれ♪」と云われても「私って大和源氏?」てな
具合で分からない場合が多いので、源頼親を祖とする「大和源氏」諸氏の苗字を列挙
する事から始めたいと思います。

 第56代 清和天皇ー貞純親王ー六孫王源経基ー多田満仲
満仲の嫡男が頼光(摂津源氏)、次男が頼親(大和源氏)、三男が頼信(河内源氏)。
頼親の嫡男が「頼成」、次男が「頼房」、三男が「頼遠」、四男が「頼基」である。

 頼成流 宇田・三宮・麻生・粟田口・八条・戸坂・久留野。
 頼房流 荒加賀・加賀・法華経・三田村・入野屋・入野谷・入屋・丹生屋・大森・辛川・
     豊島・高木・広瀬・宇川・江川・村垣・依田・幸田・奥村・佐賀・鞠子・小倉・
     宮永・花村・阿多賀・近内・隈部・長野・阿佐古・富田・仲光・名川・森・
     伊木・田中・三筒・大和・朝日・大島・大鳥・曲淵・陸奥・岩竹・大野・土方・
     岩井・竹田・越知・岑田・峯田・峰田・嶺田・中富・長谷川・橘田・楊梅・
     諸富・宮本・牧野・真木野・槙野・寺内・佐々木・杉岡・奥村・奥・宇野・一所・
     若狭・愛子・石井・楊淵・若梅・太田・遠智・鹿野園・方場・下・玉出・堤・
     忌部・奥田・吉岡・楢原・防城・若肌・大県・壬生屋・真弓・八蔵・沢田・井口・
     米田・板鼻・平原・三田村。
 頼遠流 石川・石河・赤坂・矢吹・板橋・須釜・藤田・小高・浦上・谷沢・川尻・草里・
     坂路・大刀・浦野・大寺・大内・水谷・辻・泉・沢井・沢臣・成田・千石・中畠・
     曲垣・曲木・真垣・市橋・福田・福原・柳津・福岡・柳瀬・戸田・白石・吉村・
     東条・小平・竹貫・高貫・奈目津・赤羽・蒲田・松河・牧・大嶋・次釜・面川・
     炭釜。
 頼基流 麻生・太田・田村・白川・二河・入江田。
 出自不明 犬甘黨・井関・大和・盛田・岸本・片山・杉岡・神尾・長谷川。

 史料的に出自が確認されている家系もあれば、系図その物が怪しい家系氏もある。
また姻戚関係で女系の家系もあり、どこが本物、どこが偽者と云えないが取敢えず
『尊卑分脈』や『石川家譜略』『大寺系図』記載の氏族は、大和源氏の構成員、
他は準構成員って感じですかね。頼親一家としては。
 摂津源氏や河内源氏、坂東八平氏や藤原秀郷流のようなブランドが無い
マイナーな大和源氏を大和国を遠く離れた地域で名乗ってもしょうがない気がする
ので本物は多い気がします。ただ大和国内は在地豪族を従わせる貴種としての
ブランドはあったので逆に怪しいですね。      
                         
                          
 

1 平成十七年 後深草少将挙兵す

2005-03-17 00:00:57 | 大和源氏祖 源頼親
 源頼親を祖とする大和源氏の諸兄諸氏の皆様お元気ですか?
 私、大和源氏宇野氏流の後深草少将と申します。以後宜しくお願い申し上げます。
我ら大和源氏、兄の頼光を祖とする摂津源氏や弟の頼信を祖とする河内源氏に比べ
ると、かなりマイナーな存在ですね。まぁお陰で摂津源氏と河内源氏の嫡流争いに
は巻き込まれずに済みますが。
 日本史の教科書の清和源氏略系図では文字通り略され、研究書でも三・四代が
良いところです。一番悲しいのが、兵庫県川西市の多田神社の「源氏まつり懐古行
列」に源頼親公がおりません。牛若丸と義経が別々にいるのにです。
 我ら大和源氏は、清和源氏の主流からは管轄外なら勝手に大和源氏だけで盛り上
がる事にし、平成十七年NHK大河ドラマ「義経」ブームに紛れて挙兵しました。
 とは云うものの自分が大和源氏だと自覚されてる方って多いのでしょうか?
おられても大和源氏を検索して訪問される方って少なさそう。
大和和紀さんの大和源氏と間違って来られる方の方が多そうです。
取敢えず気長に源頼親の生涯と大和源氏諸氏の事を書き続け、親戚のおじさん、
おばさんのご訪問をお待ちしてます。泣いた赤鬼状態でのスタートです。