路上と旅のガラブログ

『VOW』をきっかけに街歩きに目覚めたガラブロの散歩・旅記録たまに過去にまつわる思い出のブログ。

祖母の思い出

2023-03-07 17:46:16 | 随筆

1月末に祖母が亡くなった。

1年ほど前から認知症を患っていた祖母は、昨年末に自宅で骨折して救急搬送され、入院中にコロナに感染したのち誤嚥性肺炎を発症、みるみる体力が落ち最期は心不全で不帰の人となった。およそ1か月の間だったが、祖母と祖母の身のまわりの世話をしていた両親にとっては目まぐるしい日々だったと思う。

亡くなる3日前に母から連絡が来た。容体が思わしくなく2・3日が山になりそうとのことだった。病院の面会はコロナで厳しく制限されているが、特別に病室に入ることができるがどうするかと聞かれる。この時点で、祖母は相当危うい状況なのだろうと推測できた。母に電話をすると、焦りか疲れなのかてんで話が噛み合わずこちらの気が急いただけだった。反対に父はいたっていつも通りで泰然としているように電話口では感じた。病状と今後を整理して、「ということです」と閑職の大学教授のように鷹揚に話をまとめた。

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翌日、妹と病院の最寄り駅で集合して面会に向かった。しばらく降りていなかった駅だったが、新しく古本屋ができていたのには驚いた。

休診日の病院はがらんとしていて、缶コーヒーをロビーで飲んでいると、子どもの頃によく通っていた病院の薄暗い廊下を、似たような自動販売機の淡い光が照らしていたことを思い出す。

テキパキとした看護師に病室まで案内され、ビニールのエプロンと手袋を着けて部屋に入る(防護服を着ると聞かされていたので拍子抜けした)。ベッドが4人分は置けそうなやたら広い部屋の入口近くのベッドに、さまざまな器具に繋がれて酸素マスクをつけた祖母が横になっていた。

部屋にいたのはほんの10分ほどだったはずだが、ほとんどの時間私は涙を流していた。そのときの感情を今振り返るのは難しいが、一番の理由はずっと元気だった祖母が枯れ枝のようにやせ細り、会話どころか呼吸もままならず時折顔を苦痛に歪ませている姿が信じられなかったからだと思う。

まるで何をしにきたかわからない私を横目に、妹は一緒に住んでいた頃のように話しかけ、看護師の許可を得て手指にニベアクリームを塗っていた。頼もしかった。

昨年結婚したことをまだ直接報告できていなかったのでそれを伝えなくてはと耳元で「結婚した!○○は、結婚しました!」と、何度も言葉に詰まりながら、南米に住む極彩色のオウムのように叫ぶと、「はあ」とか何とか言ったあと「おめでとう」と返してくれた。「おめでとうございます」なんて言われたら他の誰かと勘違いしている可能性があるが、おそらく伝わったのだろう。そう信じたい。2人で「また来るね」と言って、遅れて到着した叔母といとこに順番を譲った。「また」がもう訪れないことは、自分も妹もわかっていた。

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祖母は昭和ひと桁年に鹿児島県の南端で生まれた。幼い頃に母を亡くし、継母となったのは母の妹、すなわち叔母で(この結婚形態はソロレート婚と呼ばれるそうだ)、20年以上前に私も電話で一度話したことがある。父は昔で言う名主で、戦時中でも旧日本軍の兵士がこっそり砂糖や物資を置いていくなど暮らしぶりは悪くなかったらしい。このあたりは秋田の寒村でひもじい思いをしていた祖父とは対照的である。鹿児島県南部には有名な知覧飛行場があったが、祖母の住む地域は空襲の被害もなく、川で髪を洗っていたら(昔話ではない、つい最近まで一緒に住んでいた祖母が川で洗髪していたのだ、アメージング!)米軍の飛行機が降伏を勧めるビラを撒いていったなどの牧歌的な話ばかり聞いた。もちろん、戦争は悲惨で二度と起こしてはならないものだと祖母は言うが、多感な10代で終戦を迎えた高齢者は青春のようにその時期のことを語る人が少なくないと思う。

戦後の土地改革で恐らく祖母の家も往時の勢いを失ったのだろう。祖母の姉は国外に活路を求め、移民としてドミニカへ渡った。苦労を重ねながら農園を営み、結婚もして子や孫たちに囲まれ「総督」とあだ名されるほどの成功をおさめた。何ともしびれる話しだ。

一方祖母は20歳になる頃に大病をし、一時は生死の境をさまよう。そのときに三途の川が見えたやら、亡くなった親戚たちの声が聞こえたやら、寝ている部屋に小さなひよこがやって来てそれを見ていると意識が戻ったやらいろいろな話を聞かされたのだが、どれがどこまで本当かは今となってはわからない。ひとつ確かなのは、その後70年の間祖母はほとんど病気をしない健康体だったことだ。

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土曜日の朝、電話のベルで目覚める。着信が母からであるのを確認してすべてを察した。早朝のことだったそうだ。遅れて父からも連絡が来た。このときも変わらず泰然としているようだった。父は、一人のときはわからないが少なくとも誰かに対して急いでいるところや焦っている姿を見せることはまずない。不思議と悲しみはなかった。弱った祖母を病院で見たときに、すべての悲しみや動揺を使い切ってしまったのかもしれない。

その日は用事があり人に会って話したりしたのだが、祖母のことは伝えなかったしいつも通りの週末を駆け抜けた。葬儀までの1週間は普段と変わらない日常を過ごした。いや、過ごすよう心がけた。一回だけ感情が溢れてしまったことはあった。葬儀の前日に以前から決まっていた用事があり、それを無事終えて気心の知れた人たちと酒を飲んでいたときだ。後半の記憶が定かではないのだが、後で聞くと事実を端的に伝えて涙を流していたらしい。それを受け止めてくれる友人たちと良い時間を過ごせることを、祖母も喜んでくれるといいと思う。家に友達を連れてくると、「友達がたくさんできてよかったね」と言っていたときのように。

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祖父の話もしよう。前述のとおり秋田の田舎の出身で、何人かいる兄弟の何番目かだった祖父にとって、集団就職は自然な選択だったのだろう。

二人がどのように知り合い、結婚したのかはよく知らない。ただ、自分が知る限りでは二人が愛情に恵まれた夫婦関係を築いていたようにはとても見えなかった。父と叔母が小さかった頃には離婚の話が出たり、何かと言い争いの絶えない関係だった。祖父は酒飲みで、酔うと説教をしたり余計なことを言う癖があったが、そのくせ内弁慶で大事なところでは気が小さい面も持ち合わせていた。自営業をやっていた祖父が、支払いを渋るような客に強く出られずうじうじしているとき、相手がどんなに厄介で怖いタイプでも直接文句を言いにいくのは祖母の役割だったそうだ(私が祖母を豪傑と呼んでいる理由の一つである)。こう書くと祖父がどうしようもない人間に見えてくるが、欠点ばかりではなく普段は面倒見の良いじいちゃんだったなと今は思う、と名誉のために追記しておく。

ともあれ、二人は祖父の死によって別れるまで連れ添い、私をはじめ孫たちにも恵まれた。結婚や夫婦というものはとても難しい。

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誰にとっても人生のなかで美しい時代がある。祖母にとっては大病を克服した後の20代前半がそうだった。

病気の詳細はわからないのだが、日本の南端鹿児島では治療のできないものだったらしく、知り合いのつてで医者を頼って上京する。決断は正しく病は快方へと向かい、東京に残った祖母は学生寮の食堂で働き始める。このおかげか祖母はとても料理が上手く、毎年のお節料理もほとんど自作していた。認知症を患ってからも周囲をひやひやさせながら自分の食べるものは作っていたが、医師の診断によれば料理ができるような脳の状態ではなかったらしく、行動はすべて体に刷り込まれた反射だという。それだけ体に染みついていたのだろう。

話は戻り、学生寮では同世代の大学生たち(後の高度経済成長期を支えることとなる優秀な人たちだったそう)と交流を持ち、いくつかの甘酸っぱい話があったそうだ。1953年、映画『第三の男』が公開されたときに、寮の大学生の一人と連れ立って映画を観に行った話は何度も聞いた。とても素敵な男性だったようで、言葉の端々から好意が伝わってくるような話ぶりだった。その人とは結局どうなったのか一度尋ねたことがあったのだが、返ってきたのは「身分が違ったの」という一言だけだった。そして「○○ちゃん、葬式では第三の男の終わりの曲を流してちょうだい」と言ったことを、私は14年もの間忘れずに覚えていた。

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電車とバスを乗り継いで向かった葬儀場は、18年前に祖父を見送ったとき以来久しぶりに訪れる場所だった。

映画『エデンの東』のテーマが流れる会場に入ると祭壇に遺影と棺が飾られていて、その横にパイナップルやバナナ、八朔など色とりどりの果物が置いてある落差が何だかおかしかった。いつも通り飄々とした父と対照的に母は憔悴しているように見えて、関係ない話をしたり時折背中をさすったりしていると、自分は慈しまれる側から気遣う側へいつしか変わったのだなと思う。

菩提寺の住職の読経はモンゴルのホーミーを思わせる独特な声色だったが、残念なことに喉の調子が悪かったようで何度か咳払いをしていて、式場の空気が薄く感じたのと寝不足でぼーっとする思考はその度に現実に戻された。告別式と初七日法要を続けて済ませた後、棺に花と写真を入れた。花はやたら数が多く、化粧を施されて別人のように見えた祖母はたちまち花畑の中にいるようになった。加えて祖母の父(自分にとっては会ったことのない曾祖父)、姉(総督)の写真を飾った。そこに夫(祖父)の写真がないことは誰一人咎めなかった。祖母の望みの『第三の男』のテーマは、最後の別れには不釣り合いな陽気さだったが、かえってしんみりしすぎずよかったと思う。ウディアレンの映画のように喜劇的でさえあった。

室内の火葬場にはボイラー(というのか?)がいくつかあって、同じ日に焼かれる同期たちの遺影も見えた。火葬場に行く前に妹が涙を流しているのがわかって、人が悲しみや別れを感じるタイミングはそれぞれなのだと思う。一旦食事を終えて、骨を拾うために再び火葬場の隣の部屋に向かう。葬儀社の人が骨を銀の台の上に並べ、順番に骨壷に入れていく。これはかかとの骨です、などと解説をしてくれたため、私たちはその度に感嘆の声を上げた。骨が緑色になっているところが気になったので質問すると、花の色素がついたからとのことだった。小さいほうきとちりとりで粉まで集めてしまうと、祖母はすっきり骨壷の中に収まった。誰もくしゃみをしなかったのが幸いだったと思う。

すべてを終えて外に出ると、雲一つない快晴だったが風がありとても寒かった。その日はどっと疲れて、他のことは何もできなかったが、持ち帰った祭壇の果物たちは数日をかけて我が家のデザートとなった。

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先週末に四十九日の法要を終え、少なくとも私は気持ちの整理もつき、徐々に祖母の死が過去のことになっているのを感じる。この記事は葬儀が終わった1週間後に書き始めたので、生活の雑事にかまけながらちびちび書いていたら1カ月もかかってしまったことになる。人生は短い。もっと生き急ぐくらいが怠け者の私にはちょうどいいのかなと思う。

寺で見た梅と鯉。1カ月半が経ち、季節は春になった。

告別式と四十九日の両方で住職が話していたのは、人は必ず最期を迎えること、そしてそれを残された人がどう感じて生きていくかが大事ということだった。この記事は、自分が祖母の最期をどう感じたかを後で振り返るための備忘録である。同時に、自分が知る祖母の歩みをできるだけ記録しておきたいと以前思いつつも結局形にすることができなかったことへの罪滅ぼしでもある。最後まで読んでくださった方に感謝を捧げたい。そして今祖父母が元気な方は、できるだけ多く思い出が作れるよう祈って、記事の終わりとしたい。

 


我ら西武が民

2022-12-24 16:30:58 | 日記

「西武」と聞いて皆さんは何を思い浮かべるだろうか。

ある人は電車だろうし、野球チームのライオンズを思い浮かべる人もいるだろう。百貨店を想像する人もいるかもしれない。自分にとっての「西武」は一言では言い表せない。懐かしさや落ち着き、反面焦燥を駆り立てられるようなそわそわするような気持ち、それが混ざったものだと思う。

私は関東のとある郊外都市で育った。

都心まで電車で40分、よく言われる「都会でも田舎でもない」街で、緑が多いのと歴史が長いことを誇りにしている街だった。もっとも裏を返せば中途半端に田舎っぽくてしがらみの多い街とも言えたのだが、街に文句を言いつつ結構大人になるまで住んでいた。

街の中心部には東西を横切る京王線の駅があり、市内で一番ユーザー数の多い線だったのだが、南東には西武線が通っていて私はその沿線に住んでいた。西武線の終点からはJRに乗り換えることができて、京王線のユーザーとは明らかに生活導線が違ったと思う。

先ほど文句を行ったが、自分が街歩きをするなかで気になること、懐かしさを覚えるものなどさまざまなところにその街、特に市内の西武沿線の光景や雰囲気が影響を与えていると今では感じる。

こんなことを考えたのも、最近西武線沿いの駅に降りる用事が多かったからである。

西武と言えば、黄色い電車。

ローカルボウリング場。めっきり見なくなった。

越後そば小平店。新潟とは関係ない。つゆはスモーキーで酸味を感じるタイプ。色が濃くて塩辛いのが好きなのだが、これはこれでいい。店の奥にはライオンズのユニフォームが飾ってあってローカル駅そば屋らしくていい。

井荻駅は初めて降りた。「ロジステーション」に見えて物流倉庫みたい。

青赤2色でTHE西武線の椅子。これが自分にとってのノスタルジーだ。そういえば昔のベンチってやたら足がチクチクするところありませんでした?競艇場の椅子みたいなタイプ。あれなんだったんだろう、そしてどこへ行ってしまった?


ラッコと真珠だけじゃない鳥羽の楽しみ方

2022-10-30 22:18:54 | 旅行

10月半ばに1泊で三重県鳥羽市へ行きました。

旅の目的は、鳥羽水族館のラッコだったのですが、最初に断っておきますとこの記事にはラッコの写真は一枚も出てきません。かわりにガラスブロックや街並み、顔ハメ看板の写真が登場します。既にご存じかもしれませんが、そういうブログです。

新幹線で名古屋へ向かい、JRの快速みえに乗り換えると1時間半ほどです。近鉄の特急もあって少しお値段がするかわりにシートが豪華(WEBで見ただけ)で、2両編成でわりと揺れる快速みえは、おいおい大丈夫かよと思う瞬間はなくはなかったですが、帰りは疲れて爆睡していたので問題なしですね。

快速みえの車窓からは工業地帯の風景が。四日市あたり。

鳥羽駅に到着。でも見て、近鉄鳥羽駅(左)にはガラスブロックがあるよ!やっぱり近鉄で来ればよかったね!(ごめんJR!)

鳥羽駅南口のいいタイル。

公衆トイレにあるガラスブロックは斜めに線が入った「カット」

少し歩けばもう一軒ガラスブロック建築を発見。こちらも同じ「カット」です。比較的珍しいタイプなのにも関わらず発見できたのは、施工したガラス業者が同じなのではないかと推測します。

さらに今回泊まったホテルの廊下にも使われていたので、鳥羽のガラス業者が在庫をたくさん持っていたり、好みで多用されたのではないかと。

鳥羽は鳥羽湾に面しているので海はもちろん楽しめますが、山がちな地形で前方は海、振り返れば山のような景色が面白かったです。以前このブログにも登場した神奈川県三浦市の三崎港の辺りとも共通点を感じました。

鳥羽の街歩き。

閉店してしまった喫茶店。

葉っぱみたいなかたちが特徴的なホテル。

鳥羽駅から徒歩数分の商店街「錦町通り」には年季の入った建物が多いので、好きな方にはたまらなそう。もちろん私も大好物です。

鳥羽といえば外せないのは真珠でしょう。街を歩けば真珠店、真珠店、真珠店…コンビニかと思うくらい。鳥羽の真珠産業の祖、御木本幸吉氏の銅像が駅前に建っているなど鳥羽と真珠は切り離せない縁で繋がっていることがわかりました。

御木本翁の背中。その志を見習いたいものです。

真珠卸会館はもう使われていないかも?

鳥羽水族館から見た真珠島。手前の古民家に次回は行きたい!

女性に真珠を贈る御木本翁。ここまで優しくロマンチックな顔ハメ看板があるだろうか?

皆さんお待ちかね、鳥羽水族館のちょっとファニーな仲間たちです。

とぼけた顔していますが、つつくので指を近づけてはいけません。

片手袋ならぬカワテブクロ。身動きとれないよ!

メバルの標本(嘘です。でも前夜にメバルのから揚げを食べたのは本当です)。

絶滅の危機に瀕しているためワシントン条約によって輸入が禁止されているラッコ。現在国内の水族館で見ることができるのは鳥羽水族館のメイ・キラ、福岡県はマリンワールドのリロの3頭だそうです。このブログで紹介できなかったラッコをその目で見たい方はお早めに。そして鳥羽の街を訪れたときはラッコ以外の「今しか見られない風景」を楽しんでみてはいかがでしょうか?

鳥羽駅近くのシャッターアート。あまりに幻想的かつシュールで目を奪われた。2038年まで残っているかなあ…

 


ペーパードライバーズミュージック

2022-06-12 21:42:54 | 日記

運転免許証の更新に行った。

私は車に乗らない。今運転できるかどうかもかなり怪しい。免許を取ってからの一番の遠出は隣の市だ。なので、自分の体よりはるかに大きい鉄の塊を動かすことができる人を尊敬する。車を運転した方が旅先などでいろんなところに行けるだろうし(鋼鉄の塊でないと到達できない地平が日本にもある)、小粋な車で街を走りたいと思うのだが、考えているうちに免許の更新時期が来る。

今回は行ったことのない試験場で更新したいと思い、品川駅から京急線で、各停しか停まらない鮫洲駅へ。もちろん初めて降りた。それにしても試験場はどこもなぜこんなに絶妙な立地にあるのだろう。

駅前には試験場需要を当て込んだ店がある。かなり年季の入った店構えだ。

試験場までは案内板が曲がり角や信号ごとにあって、それを見ればまず迷わずに向かうことができる。これはかなり親切。

試験場内では撮影禁止なので、気づいたことや更新のたびに思うことを記しておきたい。

・免許の見本の○○花子さん?は平成生まれなのに髪型やメイクが完全に浅野温子

・視力検査で落ちやしないかと毎回ひやひやする

・免許証の写真はたいてい固い表情か妙な映りになるので、あれでフォトジェニックになる人は真の美男美女だと思う

・試験場に行くたび食べたくなる食堂のカレー

無事に発行された免許証を受け取り、見比べる写真で5年の歳月を感じる。実は最初に免許を取った際に着ていた服と同じファッションで更新に臨むことを自分に課しているので、年齢による変化が如実にわかって続けていてよかったなと思う。

せっかく普段足を運ばないエリアに来たので、羽田空港の手前の穴守稲荷駅で降りて街を歩いてみる。駅の南の方へ歩くと多摩川が見えてきて、上空を飛行機が飛んでいる。

川に近い街で育ったので、川を見ると安心する。以前台湾に行ったときも、台北市の郊外を流れる淡水河のほとりに立って対岸のマンションが立ち並ぶニュータウンを眺めているときが一番安心した。

 

閉院したメタボリズム建築の医院、ガラスブロックのあるビル。

昔ながらの銭湯。こちらにもガラスブロック。普段行かない街で免許を更新、おすすめです。

 

 


春の銚子でいい調子

2022-03-01 21:43:14 | 日記

冬が苦手である。

寒さに弱いのと、厚着があまり好きではないからだ。できることなら一番寒い季節でもボーダーシャツに一枚羽織るくらいの気候の街で暮らしたい。ただそれを実現するにはわりと大胆な引っ越しが必要なため、避寒の日帰り旅に出ることにした。場所は、初春の房総である。

なぜ房総かと言うと、漠然と暖かいイメージがある(実際気温を見ると海に近いほど最低気温が下がらない)のと、京極夏彦の『狂骨の夢』で九十九里浜の一松海岸という場所が出てきて、通称京極堂シリーズファンとしては未だ見ぬ房総の海が気になっていたからだ。九十九里と銚子で迷ったが、より東の果てに近いのと、漁港の街並みが気になったので銚子へ向かうことにした。

銚子までは4時間近い長旅である。道中本を読んだり、車窓の風景がだんだん都会から離れていくのを見て過ごす。

初めて降りる駅というのはいつでも高揚感がある。南国のヤシの木が出迎えてくれるが、この時点ではそこまで暖かくなく、避寒という感じもない。ただ快晴だ。

名産品のアンテナショップとスーパーが一体になったような施設でまず土産を買う。土産は店が見つかった時点で買わないと後で絶対に後悔する。後戻りしたり、閉店間際に妥協して変なクッキーを買いたくなければ先に済ませるべし。ちなみにスーパーの魚はノルウェー産だった。

目指す外川漁港は、最近Twitterでも話題になっていた銚子電鉄の終点、外川駅から10分ほどの場所だ。せっかくなので途中の駅までは歩いて向かう。

銭湯でガラスブロックを発見。近寄りたいが番犬がいたので断念。

  

さすが銚子、ヤマサ醤油の工場。タンクをぐるっと回る階段がかっこいい。

意外と曲がりくねった道で何度か迷い(あと写真を撮っていたので時間を食った)、1時間に1本しか来ないダイヤを考え目的地の一駅手前で妥協する。この時点でじんわり汗をかいている。図らずも失敗が避寒につながった。

電車を撮影する趣味はないが、カラーコーンと電車を一緒に撮ってみた。

休日の銚子電鉄は椅子が大体埋まり、立ちの乗客もいる程度の混み具合で、ほとんどは鉄道愛好の士と言った感じ。愛想のいい車掌さんが切符の検札をしてくれる。車内アナウンスも洒落が効いていて飽きない。

終点外川駅は趣のある駅舎。名物ぬれ煎餅を買うときに駅員さんのいる部屋がちらと見えたが、昭和初期を思わせる部屋に電子レンジと昼のニュース番組の映る液晶テレビがあって少々混乱した。

ここまででわりと歩いて空腹になったため、予習していたラーメン屋に向かう。徒歩10分くらい。

 

店名の「歩夢蘭」は野球好きの店主がつけたらしい。ホームランラーメンは角煮をバットに見立てた看板メニューだそう。角煮は意外にも八角の効いたくせのある味。

 

腹を満たして外川漁港へ。坂を下るごとに空気が浜に近づいている気がする。軽トラックが坂道を上っていく。観光客らしき一組以外は、地元の人もまばらだ。

 

南中の太陽が眩しく、写真を撮っても逆光になる。もう海はすぐそこだ。

外川漁港は一般人は立ち入り禁止らしいので、遠巻きに眺める。

防砂林。これだ、これを見に来たのだ。

外川の街で出会ったガラスブロック。見つけたときはあまりの美しさに目を奪われた。すべて「みやび」というタイプだが、色に工夫が凝らされている。ブロック塀の間に埋め込まれているのは初めて見た。片道数時間が無駄じゃなかったと思った。

外川の街を後にして、犬吠埼へ向かう。銚子電鉄の犬吠駅は大混雑だった。やはり観光スポットは強い。

 

途中で見つけた駐在所が洋館建築だった。

有名な絵画「落ち穂拾い」の風景は房総半島にもあったようだ。春は遠いようで近い。まだ行ったことがない街も、足を運んでみたら同じ感想を持つのかもしれない。