路上と旅のガラブログ

『VOW』をきっかけに街歩きに目覚めたガラブロの散歩・旅記録たまに過去にまつわる思い出のブログ。

沖縄の石敢當

2024-05-18 00:11:28 | 紀行

今からちょうど1年前、私は沖縄にいた。那覇から石垣島、波照間島へと渡った5日間の旅だった。街を歩いていても東京にはないような景色ばかりでとても楽しかったが、そのなかでも特に目を引かれたものがあった。

「石敢當(いしがんとう)」である。街のそこかしこで見られるもので、魔除けとして設置される。沖縄の言い伝えではマジムンという魔物がいて、股をくぐられたら死んでしまうと言われている。マジムンが家に入ってくるのを防ぐため通り道の丁字路や三叉路に置かれるのが石敢當なのだ。

5日間の滞在中見つけるたびに撮影していて、旅行が終わったらZINEにまとめたいと考えていたのだが生来の怠惰ゆえ先延ばしになっていた。最近SNSのフォロワーさんらが石敢當の写真をアップしていらっしゃって、1年経つ前にZINEを作ろうと思い立ったがZINEにするほどの枚数はなく、ポストカードにしようかと思ったが販売するイベントもしばらくないし出すあてもないのでここにまとめたいと思う。

 

ブロック塀に設けられたパターン。ともに石垣島で撮影。

沖縄では透かしブロックが見つからないと思っていたら、比較的よく見つかるらしい。探索が足りなかった。沖縄の建築で用いられる「花ブロック」も次回は見てみたい。

 

 

 

 

 

 

 

 ブロック塀に埋め込まれているが、周りを囲われている(石垣島)

 「真実の口」ってこんな感じだったかなと思い画像検索したら

 全然似ていなかった。

 

 

表札のようなパターン。幾度もマジムンを撃退してきたであろう歴戦の勇者のような表情が美しい。沖縄のコンクリや外壁、ガラスブロックもそうなのだが風雨にさらされて擦り減ったり傷ついているものが多いと感じた。台風が上陸する頻度や勢力が本州とは段違いだろうからそりゃそうか。左:石垣島 右:那覇

 書体の違いを楽しむのもいい(石垣島)。篆書体に近いと思うのだが、どうだろうか。その佇まいで石敢當が元々中国由来のものだったというのも納得できる。

 比較的新しいマンションにも用いられている(石垣島)。今でも伝統として残っている証なのだろう。ちなみに今回石垣島のサンプルが多いのは、滞在時間の長さもあるが住宅街を歩く機会が多かったからだと思う。対して日本の有人島最南端の波照間島では発見できなかった。

路上観察が好きな方への一枚。ゴムホース、路上園芸にもうひとつなりきれていない植物がいい。撮影したのがハンバーガーショップだったのか、バンズとレタス、トマトが見切れている(石垣島)。

 100均で売っていそうなポップなタイプ。シーサーの柔和な表情が少し頼りない一枚。魔除け頼むよ!

このように短い旅行の間でもいくつかのパターンの石敢當を見つけることができた。書いているうちにまた沖縄に行きたくなってきたので、次回はより多くの石敢當を探すために街をたくさん歩きたいと思う。

今回の記事を書くにあたり石敢當の概要について以下のサイトを参考にさせていただいたことを付記する。

 

 

石敢當(いしがんとう)と石垣(いしがき)

海洋博公園は、昭和50年に開催された沖縄国際海洋博覧会を記念して博覧会跡地に設置された国営公園です。沖縄観光で人気の沖縄美ら海水族館やイルカショー、プラネタリウム...

海洋博公園 Official Site

 

 

 

「石敢當」って一体ナニ?知れば面白い疑問を徹底調査しました!

沖縄の道を歩いていると、ところどころで目にする「石敢當」という三文字の石碑。表札でもなく、定礎でもなく、何のためにあるのか不思議に思っている方も多いのではないで...

沖縄ラボ~海・グルメ・文化まるごと楽しむ沖縄旅行ガイド~

 

最後の一枚はもはや魔除けじゃないパターン。酒飲みはふらふらと入ってしまいそうだが、マジムンは撃退されてしまうのか。そもそもマジムンは酒が飲めるのか。オリオンビールとジーマミ豆腐、あとポテトフライで、とか言って。

 

 

 

 

 


唐先生について

2024-05-14 17:42:00 | 随筆

2024年5月4日、劇作家・俳優の唐十郎が亡くなった。私は観劇をほとんどしないので、劇作家で知っているのは唐十郎、蜷川幸雄、野田秀樹くらいしかいない。そんな人間が今回の訃報に動揺したのは、人生のごく短い時期の同じ空間に何度か居合わせたことがあるためで、今回はその思い出を当時の日記を参照しながら綴りたい。冒頭にも述べたように、演劇論などはまったく書けないし演劇を愛する向きには的外れな、ともすれば不快な表現も混ざるかもしれないことを最初に断っておく。

大学4年前期の2カ月間、私は唐十郎の生徒であった(そのため以下「唐先生」とする)。唐先生は私の大学の卒業生で、同じ学部の大先輩にあたる。その縁で演劇学科が客員教授として唐先生を招聘し「演出論A・B」という講義を担当することになった。私は学部こそ同じ文学部だったが史学系の学科だったため必修ではなかったのだが、講義要項が発表されたときはとても話題になっていて、何だか面白そうだからいってみようかな~くらいの軽い気持ちで履修を決めた(最初は読み方も知らなかった。「トージューロー?」とか言ってた)。

2012年4月11日水曜日、昼休みの前に大学へ行くと同じクラスのUと出くわした。同じく演出論Aを受講するというので、昼飯でも食おうか?と大学の近くにある行列で有名な讃岐うどんの店に行くことになった。ちなみにUはクラスを越えて学科でも人気があるきれいな女性で、それまでグループで遊んだことはあっても2人で食事などしたことはなかった冴えない友達も少ない男子学生の私はやたら緊張してしまい、うどんを食べながら話しているときに揚げ玉が口からぴよっと飛び出してしまったのが恥ずかしかったことを覚えている。

うどんを食べ終えて3限が始まる前に教室へ向かうと、座り切れず立ち見が出るほどの学生で教室は溢れていた。教卓の横にはテントのような布が吊り下げられていて、初めて見る光景にこれから何が始まるのかと期待をふくらませた。講義の内容については私の不確かな記憶よりもこの記事を参照していただきたい。ちなみに若き日の私も小さく写っている。

唐十郎文学部客員教授が明大で初講義 | 明治大学

このように大盛況で幕を開けた講義であったが、大学という場所の常で初回ないし4月中は出席しても、その後は顔を出さなくなる学生も多いもので、演出論Aも例外ではなかった。そもそも立ち見が出る時点で教室の規模を見誤っていたはずで、人数が減りようやく通常の講義らしくなったなと思っていた。だが唐先生の熱量と学生の受講態度の温度差はのちに悲劇を生みだしてしまう。

唐先生の第一印象は「怖い人」だった。講義中には演劇論や自身の体験、同時代の演劇人のエピソードを語った。ともに作品を作りあげた小林薫・麿赤児ら、山下洋輔や土方巽など関わりのあった人物、確執があったとされる寺山修二などビッグネームの名が頻出した。にこやかに話していたが、唐先生の目は笑っていなかった。「目が笑ってない」という表現が初めてしっくりきたのはこのときかもしれない。様々な修羅場をくぐり抜けたが故の表情というか、理解できない凄みのようなものを感じた。講義内容は今となってはほとんど忘れたが、「本物」の醸しだす雰囲気やある種の狂気を間近で見られたことは貴重な体験であった。

日記と記憶によると、唐先生は学生に対して3回怒り、そのうち2回は講義を途中で切り上げている。

①携帯の着信音を鳴らした学生を立たせて怒る。「授業と携帯は違うだろ!」と急に怒ったことで学生は顔面蒼白、聞いている私まで胃が痛くなる。その後表情を和らげ「おれは携帯が全然詳しくないんだよ、気をつけてな」と優しく言ったのも怖かった。

②講義を途中で切り上げ教室を出たきり戻らない。理由は日記に書いてないのだが、講義をさぼって喫煙所にいた友人が、唐先生が喫煙所にいたよ、と報告してきたことだけ覚えている。

③講義と同時期に劇団唐組の公演が行われていた。もう観た人いるかな?と聞いたが挙手した学生はまばらだったため怒って退出。演劇学科の教授がやや困りながら、唐先生の講義を受けられるチャンスなんて滅多にないんだからもっと積極的に取り組まないともったいないよ、と語りかける。私はもちろん観てない側だったのだが、教授の説得にそれもそうだなと思いイープラスでチケットを取った。

6月2日、雑司ヶ谷・鬼子母神へ向かう。赤テントの張られた夕暮れの鬼子母神は異界のようで少し怖い。この公演は劇団唐組による『海星』だったが、唐先生が怪我で急きょ出演できなくなった珍しい回で、私の初めての唐十郎演劇は本人不在という何だか不思議な結果となった。演劇自体は舞台との距離の近さに圧倒された。唾が飛んでくるんじゃないかと思ったくらい。役者が登場したときに客席から名前が呼ばれる(落語の○○屋!みたいな感じ)のもかっこよかったし、何より途中で男性の役者が全裸になっていた(局部は手で隠していた)のはアングラってこういうことなのか~と度肝を抜かれ、帰りの池袋駅のバーガーショップで余韻を噛みしめた。

翌週の演出論の講義に唐先生の姿はなかった。唐先生は体調不良のためしばらく講義を欠席されます、続きは私が担当します、と教授が説明した。その場で明らかにされたか忘れてしまったが、持病の薬を飲んだ際に飲酒したことが災いして転倒し今は集中治療室に入っているとのことだった。誰もが驚いていた(教授だってそうだろう)。こうして唐先生の教えを受けた2カ月弱は終わりを告げた。私は翌月のレポートに適当なことを書いて単位を取得し、演出論Bの履修は取り下げた。

あれから12年。結局私が演劇に足を運ぶことはなく、役者としての唐十郎は永遠に観ることができなくなった。唐先生、あのとき先生不在の『海星』観ましたよ。的外れな感想言ったら教室で怒られてたかな、どうか安らかに。不出来な生徒より。


8/12「FUTURESCAPE」振り返り

2023-08-17 22:14:26 | 日記

先週土曜日はFM yokohama「FUTURESCAPE」に出演しました。お声かけいただいたディレクターさん、パーソナリティの小山薫堂さん、柳井麻希さん、スタッフさん、そして放送を聴いてくださった皆さまに感謝いたします。

当日の放送で話し切れなかったことや私の不慣れ故に補足が必要なことを書いておきたいと思います。

・そもそもガラスブロックとは?

話したことだけではいまいちわかりづらかったと思うので補足します。「成型ガラス片2枚の間に空気層を設け高温で溶着させたもの。主に壁材に用いられる」というのが建築学的説明で、もっと簡単に言えば「箱型のガラスを2つくっつけたもの」です。中が真空になっていると当日は説明していたのですが、正しくは「内部が0.3気圧程度と真空に近い」でした。

・ガラスブロックの歴史

ガラスブロックが建築史に登場するのは20世紀初頭のことです。番組では詳しく触れることができなかった具体的な建築を挙げておきます。『建築光幻学 透光不透視の世界』長谷川堯・黒川哲郎共著を参考にしました。

カステル・ベランジュ 1898年 エクトール・ギマール設計 パリ

フランクリン街のアパート 1903年 オーギュスト・ベレー設計 パリ

ウィーン郵便貯金局 1906年 オットー・ワグナー設計 ウィーン

・ガラスブロックをどのくらいお持ちですか?将来家を建てるとしたらどう使いたいですか?

この質問に対する自分の考えをできるだけ正しく残しておきたいがためにこの記事を書いています。私は元来収集癖がない方で、ガラスブロックも4個ほどしか持っていません。ただしこれは物の収集癖がないという意味で、思い出や記憶への執着は人一倍あります。忘れたくない気持ちや今この瞬間にしかない景色、そういったものを記録できたらいいといつも思っています。これは余談ですが、毎日の出来事を書いた日記をかれこれ20年続けているのも同じような理由です(やめるにやめられないのもある)。もちろん番組で柳井さんがおっしゃったように、失われていくガラスブロックがもったいないというのも確かにそうで、一通りのガラスブロックは手元にコレクションできたらいいのですが、所有するよりも街を歩いて見つける方が楽しいので先の話になりそうですね。

将来の家にガラスブロックをどう使うか。これはとても悩んだ質問でした。ガラスブロック「研究家」ではなく「観察家」と名乗っているのは、建築学的視点でガラスブロックを分析するよりも街の風景のひとつとして観察したいと考えているからです。ガラスブロックが好きだとしても自分で施工や設計をすることはできないですし、これからそれを目指すことも恐らくないでしょう。加えて今はいつでもどこかへ引っ越せる賃貸暮らしなので、家を建てることも遠い未来のように思えます。

それを踏まえて、街を歩いて見つけた素敵なガラスブロックの家を想像したメタ的な視点で「玄関横、もしくは天井にワンポイント」とお答えしました。放送の後にTwitterタグで感想を見ていたのですが「天井は地震のときに怖い」というのがあり、もっともですし私の伝え方に語弊があったなと感じました。天井付近に壁と平行な天窓の役割として、もしくは比較的軽量な丸型ガラスブロックをワンポイントで、が妥当でしょうか。天窓は逗子市役所、丸型は那覇・熱帯ドリームセンターのイメージが脳裏に浮かんだためです。もちろんどちらも大規模建築なので一般住宅で実現可能かどうかはわからないのですが。

放送を終えてradikoで聴き返したあとに思ったことを書きました。長々と補足しましたが、スタジオにお邪魔してガラスブロックの魅力を話せた30分間が夢のように楽しい時間だったのは本当です。初めてのラジオ出演で緊張する私の話に耳を傾け、話を引き出してくださった薫堂さん、柳井さんに救われました。ラジオを通じてガラスブロックと街歩きの魅力を伝えることができていたら、これほど嬉しいことはありません。そして最後までお読みいただいた方に大きな感謝を。

 


上総一ノ宮~九十九里~一松

2023-04-05 11:52:35 | 旅行

春とは、房総半島へ行く季節のことである。

 小さい春見つけた

昨年3月は銚子を訪れたが、今年は上総一ノ宮から九十九里、一松を巡った。住む街から電車で2時間半(のはずだったが、寝坊して特急わかしおに乗ったのでもう少し早い)、上総一ノ宮駅へ着いた。

 旅情 床がジャクソンポロック

 

車窓から見えた給水塔のような建物。浦安あたりの工業地帯には気になる建物が多くて飽きない。大網駅のホームでは、窓に小さな網がついている(停車時間に急いで撮った)。

12時過ぎに上総一ノ宮駅到着。西口に降りるとお土産屋兼定食屋がお出迎えだ。店内ではすでに酒を飲んでいる人たちがいて気になったが、この後はやることが盛りだくさんなので通り過ぎる。

 サーモンピンクとペパーミントグリーンの美容室、この平成初期感たまらない

ガラスブロックのある理容室2連続。上の理容室は入り口と反対側の壁もガラスブロックになっていて、光が店内を通過する様子がとてもよかったのだが、自分がしっかり映るのと仕事の邪魔になってしまいそうだったので写真に納めることはできなかった。それぞれ用いられているパターンも異なったもので、理・美容室はガラスブロック建築の宝庫であることがわかる。

 現代アート

ギョサン、欲しかったけど素敵な店構えの靴屋はやっていなかった。

旅の安全を祈願して、平安時代の「延喜式」にも記載のある由緒正しい神社、玉前神社にお参り。手水の使い方をかわいいイラストの女の子が教えてくれる。境内裏手には一休みできる野良イスが置いてあった。

 いい蔵 ヤシの木も冬眠から目覚めた

昼は何を食べようかとGoogle mapで事前に探していたのだが、焼きそば屋というピンポイントな店を見つけて絶対行こうと思った。それにしても、上の写真が外観なんだけど前情報なしじゃ絶対ここが店だとわからない。

 プレーンな焼きそばを卓上のウスターソースと胡椒で味付けするスタイルだった

食事を終えて街を歩く。地図アプリであらかじめ歩くルートの見当をつけたのだが、思い通りの道にならないのも楽しい。

 もみじのような模様の型板ガラス

 ピンポイントな精肉店

今回の旅では春の房総で海を見るのが目的だった。駅から海までは距離があるので、レンタサイクルで向かう。それも普通の自転車ではなく、ずっと乗ってみたいと思っていたビーチクルーザーを借りた。ビーチクルーザーはサーファーがサーフボード片手に砂浜を移動するための自転車で、浜辺を走りやすいようにタイヤが太くなっている。とは言っても、実際砂浜を走ってみると砂にタイヤが取られて全然走れなかったのだが。

 今日の旅の友

結論から言えば、ビーチクルーザーの旅はかなりおすすめ。海まではこんな感じの一本道をひたすら走る。6段変速のビーチクルーザーだったので、2速でゆっくり漕ぎ続ける。

温暖な気候ならではの植生

 ほとんどバスが来ない「地獄表」C.みうらじゅん

寄り道しながら九十九里浜に辿り着いた。

九十九里はとても穏やかな浜だった。この日は友人が結婚式を挙げていて、海岸からビデオ通話を繋ぎ出演したのはサプライズで面白かった。

第二の浜、一宮海岸にはお出迎えのゲートがあった。

一宮海岸の北に位置するのは一松海岸である。そもそも今回の旅の場所を決めたのは、京極夏彦『狂骨の夢』で一松海岸が重要な役割を果たす土地として登場するためであった。一本の松に、荒々しい海。何とも寂寥感がある。

 

 

これは何をしているところだ?と思ったら防砂林を植えているところだとチーバくんが教えてくれた。

 手押しポンプ

奥にガラスブロック発見。

そうこうしているうちに夕暮れが近づいてきたので自転車を返しに戻る。

 

何でもない道が、旅先で一番楽しかったりする。

元いた場所に戻って来られた。さらば、春の房総。また会う日まで。

 

 


祖母の思い出

2023-03-07 17:46:16 | 随筆

1月末に祖母が亡くなった。

1年ほど前から認知症を患っていた祖母は、昨年末に自宅で骨折して救急搬送され、入院中にコロナに感染したのち誤嚥性肺炎を発症、みるみる体力が落ち最期は心不全で不帰の人となった。およそ1か月の間だったが、祖母と祖母の身のまわりの世話をしていた両親にとっては目まぐるしい日々だったと思う。

亡くなる3日前に母から連絡が来た。容体が思わしくなく2・3日が山になりそうとのことだった。病院の面会はコロナで厳しく制限されているが、特別に病室に入ることができるがどうするかと聞かれる。この時点で、祖母は相当危うい状況なのだろうと推測できた。母に電話をすると、焦りか疲れなのかてんで話が噛み合わずこちらの気が急いただけだった。反対に父はいたっていつも通りで泰然としているように電話口では感じた。病状と今後を整理して、「ということです」と閑職の大学教授のように鷹揚に話をまとめた。

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翌日、妹と病院の最寄り駅で集合して面会に向かった。しばらく降りていなかった駅だったが、新しく古本屋ができていたのには驚いた。

休診日の病院はがらんとしていて、缶コーヒーをロビーで飲んでいると、子どもの頃によく通っていた病院の薄暗い廊下を、似たような自動販売機の淡い光が照らしていたことを思い出す。

テキパキとした看護師に病室まで案内され、ビニールのエプロンと手袋を着けて部屋に入る(防護服を着ると聞かされていたので拍子抜けした)。ベッドが4人分は置けそうなやたら広い部屋の入口近くのベッドに、さまざまな器具に繋がれて酸素マスクをつけた祖母が横になっていた。

部屋にいたのはほんの10分ほどだったはずだが、ほとんどの時間私は涙を流していた。そのときの感情を今振り返るのは難しいが、一番の理由はずっと元気だった祖母が枯れ枝のようにやせ細り、会話どころか呼吸もままならず時折顔を苦痛に歪ませている姿が信じられなかったからだと思う。

まるで何をしにきたかわからない私を横目に、妹は一緒に住んでいた頃のように話しかけ、看護師の許可を得て手指にニベアクリームを塗っていた。頼もしかった。

昨年結婚したことをまだ直接報告できていなかったのでそれを伝えなくてはと耳元で「結婚した!○○は、結婚しました!」と、何度も言葉に詰まりながら、南米に住む極彩色のオウムのように叫ぶと、「はあ」とか何とか言ったあと「おめでとう」と返してくれた。「おめでとうございます」なんて言われたら他の誰かと勘違いしている可能性があるが、おそらく伝わったのだろう。そう信じたい。2人で「また来るね」と言って、遅れて到着した叔母といとこに順番を譲った。「また」がもう訪れないことは、自分も妹もわかっていた。

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祖母は昭和ひと桁年に鹿児島県の南端で生まれた。幼い頃に母を亡くし、継母となったのは母の妹、すなわち叔母で(この結婚形態はソロレート婚と呼ばれるそうだ)、20年以上前に私も電話で一度話したことがある。父は昔で言う名主で、戦時中でも旧日本軍の兵士がこっそり砂糖や物資を置いていくなど暮らしぶりは悪くなかったらしい。このあたりは秋田の寒村でひもじい思いをしていた祖父とは対照的である。鹿児島県南部には有名な知覧飛行場があったが、祖母の住む地域は空襲の被害もなく、川で髪を洗っていたら(昔話ではない、つい最近まで一緒に住んでいた祖母が川で洗髪していたのだ、アメージング!)米軍の飛行機が降伏を勧めるビラを撒いていったなどの牧歌的な話ばかり聞いた。もちろん、戦争は悲惨で二度と起こしてはならないものだと祖母は言うが、多感な10代で終戦を迎えた高齢者は青春のようにその時期のことを語る人が少なくないと思う。

戦後の土地改革で恐らく祖母の家も往時の勢いを失ったのだろう。祖母の姉は国外に活路を求め、移民としてドミニカへ渡った。苦労を重ねながら農園を営み、結婚もして子や孫たちに囲まれ「総督」とあだ名されるほどの成功をおさめた。何ともしびれる話しだ。

一方祖母は20歳になる頃に大病をし、一時は生死の境をさまよう。そのときに三途の川が見えたやら、亡くなった親戚たちの声が聞こえたやら、寝ている部屋に小さなひよこがやって来てそれを見ていると意識が戻ったやらいろいろな話を聞かされたのだが、どれがどこまで本当かは今となってはわからない。ひとつ確かなのは、その後70年の間祖母はほとんど病気をしない健康体だったことだ。

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土曜日の朝、電話のベルで目覚める。着信が母からであるのを確認してすべてを察した。早朝のことだったそうだ。遅れて父からも連絡が来た。このときも変わらず泰然としているようだった。父は、一人のときはわからないが少なくとも誰かに対して急いでいるところや焦っている姿を見せることはまずない。不思議と悲しみはなかった。弱った祖母を病院で見たときに、すべての悲しみや動揺を使い切ってしまったのかもしれない。

その日は用事があり人に会って話したりしたのだが、祖母のことは伝えなかったしいつも通りの週末を駆け抜けた。葬儀までの1週間は普段と変わらない日常を過ごした。いや、過ごすよう心がけた。一回だけ感情が溢れてしまったことはあった。葬儀の前日に以前から決まっていた用事があり、それを無事終えて気心の知れた人たちと酒を飲んでいたときだ。後半の記憶が定かではないのだが、後で聞くと事実を端的に伝えて涙を流していたらしい。それを受け止めてくれる友人たちと良い時間を過ごせることを、祖母も喜んでくれるといいと思う。家に友達を連れてくると、「友達がたくさんできてよかったね」と言っていたときのように。

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祖父の話もしよう。前述のとおり秋田の田舎の出身で、何人かいる兄弟の何番目かだった祖父にとって、集団就職は自然な選択だったのだろう。

二人がどのように知り合い、結婚したのかはよく知らない。ただ、自分が知る限りでは二人が愛情に恵まれた夫婦関係を築いていたようにはとても見えなかった。父と叔母が小さかった頃には離婚の話が出たり、何かと言い争いの絶えない関係だった。祖父は酒飲みで、酔うと説教をしたり余計なことを言う癖があったが、そのくせ内弁慶で大事なところでは気が小さい面も持ち合わせていた。自営業をやっていた祖父が、支払いを渋るような客に強く出られずうじうじしているとき、相手がどんなに厄介で怖いタイプでも直接文句を言いにいくのは祖母の役割だったそうだ(私が祖母を豪傑と呼んでいる理由の一つである)。こう書くと祖父がどうしようもない人間に見えてくるが、欠点ばかりではなく普段は面倒見の良いじいちゃんだったなと今は思う、と名誉のために追記しておく。

ともあれ、二人は祖父の死によって別れるまで連れ添い、私をはじめ孫たちにも恵まれた。結婚や夫婦というものはとても難しい。

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誰にとっても人生のなかで美しい時代がある。祖母にとっては大病を克服した後の20代前半がそうだった。

病気の詳細はわからないのだが、日本の南端鹿児島では治療のできないものだったらしく、知り合いのつてで医者を頼って上京する。決断は正しく病は快方へと向かい、東京に残った祖母は学生寮の食堂で働き始める。このおかげか祖母はとても料理が上手く、毎年のお節料理もほとんど自作していた。認知症を患ってからも周囲をひやひやさせながら自分の食べるものは作っていたが、医師の診断によれば料理ができるような脳の状態ではなかったらしく、行動はすべて体に刷り込まれた反射だという。それだけ体に染みついていたのだろう。

話は戻り、学生寮では同世代の大学生たち(後の高度経済成長期を支えることとなる優秀な人たちだったそう)と交流を持ち、いくつかの甘酸っぱい話があったそうだ。1953年、映画『第三の男』が公開されたときに、寮の大学生の一人と連れ立って映画を観に行った話は何度も聞いた。とても素敵な男性だったようで、言葉の端々から好意が伝わってくるような話ぶりだった。その人とは結局どうなったのか一度尋ねたことがあったのだが、返ってきたのは「身分が違ったの」という一言だけだった。そして「○○ちゃん、葬式では第三の男の終わりの曲を流してちょうだい」と言ったことを、私は14年もの間忘れずに覚えていた。

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電車とバスを乗り継いで向かった葬儀場は、18年前に祖父を見送ったとき以来久しぶりに訪れる場所だった。

映画『エデンの東』のテーマが流れる会場に入ると祭壇に遺影と棺が飾られていて、その横にパイナップルやバナナ、八朔など色とりどりの果物が置いてある落差が何だかおかしかった。いつも通り飄々とした父と対照的に母は憔悴しているように見えて、関係ない話をしたり時折背中をさすったりしていると、自分は慈しまれる側から気遣う側へいつしか変わったのだなと思う。

菩提寺の住職の読経はモンゴルのホーミーを思わせる独特な声色だったが、残念なことに喉の調子が悪かったようで何度か咳払いをしていて、式場の空気が薄く感じたのと寝不足でぼーっとする思考はその度に現実に戻された。告別式と初七日法要を続けて済ませた後、棺に花と写真を入れた。花はやたら数が多く、化粧を施されて別人のように見えた祖母はたちまち花畑の中にいるようになった。加えて祖母の父(自分にとっては会ったことのない曾祖父)、姉(総督)の写真を飾った。そこに夫(祖父)の写真がないことは誰一人咎めなかった。祖母の望みの『第三の男』のテーマは、最後の別れには不釣り合いな陽気さだったが、かえってしんみりしすぎずよかったと思う。ウディアレンの映画のように喜劇的でさえあった。

室内の火葬場にはボイラー(というのか?)がいくつかあって、同じ日に焼かれる同期たちの遺影も見えた。火葬場に行く前に妹が涙を流しているのがわかって、人が悲しみや別れを感じるタイミングはそれぞれなのだと思う。一旦食事を終えて、骨を拾うために再び火葬場の隣の部屋に向かう。葬儀社の人が骨を銀の台の上に並べ、順番に骨壷に入れていく。これはかかとの骨です、などと解説をしてくれたため、私たちはその度に感嘆の声を上げた。骨が緑色になっているところが気になったので質問すると、花の色素がついたからとのことだった。小さいほうきとちりとりで粉まで集めてしまうと、祖母はすっきり骨壷の中に収まった。誰もくしゃみをしなかったのが幸いだったと思う。

すべてを終えて外に出ると、雲一つない快晴だったが風がありとても寒かった。その日はどっと疲れて、他のことは何もできなかったが、持ち帰った祭壇の果物たちは数日をかけて我が家のデザートとなった。

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先週末に四十九日の法要を終え、少なくとも私は気持ちの整理もつき、徐々に祖母の死が過去のことになっているのを感じる。この記事は葬儀が終わった1週間後に書き始めたので、生活の雑事にかまけながらちびちび書いていたら1カ月もかかってしまったことになる。人生は短い。もっと生き急ぐくらいが怠け者の私にはちょうどいいのかなと思う。

寺で見た梅と鯉。1カ月半が経ち、季節は春になった。

告別式と四十九日の両方で住職が話していたのは、人は必ず最期を迎えること、そしてそれを残された人がどう感じて生きていくかが大事ということだった。この記事は、自分が祖母の最期をどう感じたかを後で振り返るための備忘録である。同時に、自分が知る祖母の歩みをできるだけ記録しておきたいと以前思いつつも結局形にすることができなかったことへの罪滅ぼしでもある。最後まで読んでくださった方に感謝を捧げたい。そして今祖父母が元気な方は、できるだけ多く思い出が作れるよう祈って、記事の終わりとしたい。