1月末に祖母が亡くなった。
1年ほど前から認知症を患っていた祖母は、昨年末に自宅で骨折して救急搬送され、入院中にコロナに感染したのち誤嚥性肺炎を発症、みるみる体力が落ち最期は心不全で不帰の人となった。およそ1か月の間だったが、祖母と祖母の身のまわりの世話をしていた両親にとっては目まぐるしい日々だったと思う。
亡くなる3日前に母から連絡が来た。容体が思わしくなく2・3日が山になりそうとのことだった。病院の面会はコロナで厳しく制限されているが、特別に病室に入ることができるがどうするかと聞かれる。この時点で、祖母は相当危うい状況なのだろうと推測できた。母に電話をすると、焦りか疲れなのかてんで話が噛み合わずこちらの気が急いただけだった。反対に父はいたっていつも通りで泰然としているように電話口では感じた。病状と今後を整理して、「ということです」と閑職の大学教授のように鷹揚に話をまとめた。
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翌日、妹と病院の最寄り駅で集合して面会に向かった。しばらく降りていなかった駅だったが、新しく古本屋ができていたのには驚いた。
休診日の病院はがらんとしていて、缶コーヒーをロビーで飲んでいると、子どもの頃によく通っていた病院の薄暗い廊下を、似たような自動販売機の淡い光が照らしていたことを思い出す。
テキパキとした看護師に病室まで案内され、ビニールのエプロンと手袋を着けて部屋に入る(防護服を着ると聞かされていたので拍子抜けした)。ベッドが4人分は置けそうなやたら広い部屋の入口近くのベッドに、さまざまな器具に繋がれて酸素マスクをつけた祖母が横になっていた。
部屋にいたのはほんの10分ほどだったはずだが、ほとんどの時間私は涙を流していた。そのときの感情を今振り返るのは難しいが、一番の理由はずっと元気だった祖母が枯れ枝のようにやせ細り、会話どころか呼吸もままならず時折顔を苦痛に歪ませている姿が信じられなかったからだと思う。
まるで何をしにきたかわからない私を横目に、妹は一緒に住んでいた頃のように話しかけ、看護師の許可を得て手指にニベアクリームを塗っていた。頼もしかった。
昨年結婚したことをまだ直接報告できていなかったのでそれを伝えなくてはと耳元で「結婚した!○○は、結婚しました!」と、何度も言葉に詰まりながら、南米に住む極彩色のオウムのように叫ぶと、「はあ」とか何とか言ったあと「おめでとう」と返してくれた。「おめでとうございます」なんて言われたら他の誰かと勘違いしている可能性があるが、おそらく伝わったのだろう。そう信じたい。2人で「また来るね」と言って、遅れて到着した叔母といとこに順番を譲った。「また」がもう訪れないことは、自分も妹もわかっていた。
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祖母は昭和ひと桁年に鹿児島県の南端で生まれた。幼い頃に母を亡くし、継母となったのは母の妹、すなわち叔母で(この結婚形態はソロレート婚と呼ばれるそうだ)、20年以上前に私も電話で一度話したことがある。父は昔で言う名主で、戦時中でも旧日本軍の兵士がこっそり砂糖や物資を置いていくなど暮らしぶりは悪くなかったらしい。このあたりは秋田の寒村でひもじい思いをしていた祖父とは対照的である。鹿児島県南部には有名な知覧飛行場があったが、祖母の住む地域は空襲の被害もなく、川で髪を洗っていたら(昔話ではない、つい最近まで一緒に住んでいた祖母が川で洗髪していたのだ、アメージング!)米軍の飛行機が降伏を勧めるビラを撒いていったなどの牧歌的な話ばかり聞いた。もちろん、戦争は悲惨で二度と起こしてはならないものだと祖母は言うが、多感な10代で終戦を迎えた高齢者は青春のようにその時期のことを語る人が少なくないと思う。
戦後の土地改革で恐らく祖母の家も往時の勢いを失ったのだろう。祖母の姉は国外に活路を求め、移民としてドミニカへ渡った。苦労を重ねながら農園を営み、結婚もして子や孫たちに囲まれ「総督」とあだ名されるほどの成功をおさめた。何ともしびれる話しだ。
一方祖母は20歳になる頃に大病をし、一時は生死の境をさまよう。そのときに三途の川が見えたやら、亡くなった親戚たちの声が聞こえたやら、寝ている部屋に小さなひよこがやって来てそれを見ていると意識が戻ったやらいろいろな話を聞かされたのだが、どれがどこまで本当かは今となってはわからない。ひとつ確かなのは、その後70年の間祖母はほとんど病気をしない健康体だったことだ。
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土曜日の朝、電話のベルで目覚める。着信が母からであるのを確認してすべてを察した。早朝のことだったそうだ。遅れて父からも連絡が来た。このときも変わらず泰然としているようだった。父は、一人のときはわからないが少なくとも誰かに対して急いでいるところや焦っている姿を見せることはまずない。不思議と悲しみはなかった。弱った祖母を病院で見たときに、すべての悲しみや動揺を使い切ってしまったのかもしれない。
その日は用事があり人に会って話したりしたのだが、祖母のことは伝えなかったしいつも通りの週末を駆け抜けた。葬儀までの1週間は普段と変わらない日常を過ごした。いや、過ごすよう心がけた。一回だけ感情が溢れてしまったことはあった。葬儀の前日に以前から決まっていた用事があり、それを無事終えて気心の知れた人たちと酒を飲んでいたときだ。後半の記憶が定かではないのだが、後で聞くと事実を端的に伝えて涙を流していたらしい。それを受け止めてくれる友人たちと良い時間を過ごせることを、祖母も喜んでくれるといいと思う。家に友達を連れてくると、「友達がたくさんできてよかったね」と言っていたときのように。
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祖父の話もしよう。前述のとおり秋田の田舎の出身で、何人かいる兄弟の何番目かだった祖父にとって、集団就職は自然な選択だったのだろう。
二人がどのように知り合い、結婚したのかはよく知らない。ただ、自分が知る限りでは二人が愛情に恵まれた夫婦関係を築いていたようにはとても見えなかった。父と叔母が小さかった頃には離婚の話が出たり、何かと言い争いの絶えない関係だった。祖父は酒飲みで、酔うと説教をしたり余計なことを言う癖があったが、そのくせ内弁慶で大事なところでは気が小さい面も持ち合わせていた。自営業をやっていた祖父が、支払いを渋るような客に強く出られずうじうじしているとき、相手がどんなに厄介で怖いタイプでも直接文句を言いにいくのは祖母の役割だったそうだ(私が祖母を豪傑と呼んでいる理由の一つである)。こう書くと祖父がどうしようもない人間に見えてくるが、欠点ばかりではなく普段は面倒見の良いじいちゃんだったなと今は思う、と名誉のために追記しておく。
ともあれ、二人は祖父の死によって別れるまで連れ添い、私をはじめ孫たちにも恵まれた。結婚や夫婦というものはとても難しい。
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誰にとっても人生のなかで美しい時代がある。祖母にとっては大病を克服した後の20代前半がそうだった。
病気の詳細はわからないのだが、日本の南端鹿児島では治療のできないものだったらしく、知り合いのつてで医者を頼って上京する。決断は正しく病は快方へと向かい、東京に残った祖母は学生寮の食堂で働き始める。このおかげか祖母はとても料理が上手く、毎年のお節料理もほとんど自作していた。認知症を患ってからも周囲をひやひやさせながら自分の食べるものは作っていたが、医師の診断によれば料理ができるような脳の状態ではなかったらしく、行動はすべて体に刷り込まれた反射だという。それだけ体に染みついていたのだろう。
話は戻り、学生寮では同世代の大学生たち(後の高度経済成長期を支えることとなる優秀な人たちだったそう)と交流を持ち、いくつかの甘酸っぱい話があったそうだ。1953年、映画『第三の男』が公開されたときに、寮の大学生の一人と連れ立って映画を観に行った話は何度も聞いた。とても素敵な男性だったようで、言葉の端々から好意が伝わってくるような話ぶりだった。その人とは結局どうなったのか一度尋ねたことがあったのだが、返ってきたのは「身分が違ったの」という一言だけだった。そして「○○ちゃん、葬式では第三の男の終わりの曲を流してちょうだい」と言ったことを、私は14年もの間忘れずに覚えていた。
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電車とバスを乗り継いで向かった葬儀場は、18年前に祖父を見送ったとき以来久しぶりに訪れる場所だった。
映画『エデンの東』のテーマが流れる会場に入ると祭壇に遺影と棺が飾られていて、その横にパイナップルやバナナ、八朔など色とりどりの果物が置いてある落差が何だかおかしかった。いつも通り飄々とした父と対照的に母は憔悴しているように見えて、関係ない話をしたり時折背中をさすったりしていると、自分は慈しまれる側から気遣う側へいつしか変わったのだなと思う。
菩提寺の住職の読経はモンゴルのホーミーを思わせる独特な声色だったが、残念なことに喉の調子が悪かったようで何度か咳払いをしていて、式場の空気が薄く感じたのと寝不足でぼーっとする思考はその度に現実に戻された。告別式と初七日法要を続けて済ませた後、棺に花と写真を入れた。花はやたら数が多く、化粧を施されて別人のように見えた祖母はたちまち花畑の中にいるようになった。加えて祖母の父(自分にとっては会ったことのない曾祖父)、姉(総督)の写真を飾った。そこに夫(祖父)の写真がないことは誰一人咎めなかった。祖母の望みの『第三の男』のテーマは、最後の別れには不釣り合いな陽気さだったが、かえってしんみりしすぎずよかったと思う。ウディアレンの映画のように喜劇的でさえあった。
室内の火葬場にはボイラー(というのか?)がいくつかあって、同じ日に焼かれる同期たちの遺影も見えた。火葬場に行く前に妹が涙を流しているのがわかって、人が悲しみや別れを感じるタイミングはそれぞれなのだと思う。一旦食事を終えて、骨を拾うために再び火葬場の隣の部屋に向かう。葬儀社の人が骨を銀の台の上に並べ、順番に骨壷に入れていく。これはかかとの骨です、などと解説をしてくれたため、私たちはその度に感嘆の声を上げた。骨が緑色になっているところが気になったので質問すると、花の色素がついたからとのことだった。小さいほうきとちりとりで粉まで集めてしまうと、祖母はすっきり骨壷の中に収まった。誰もくしゃみをしなかったのが幸いだったと思う。
すべてを終えて外に出ると、雲一つない快晴だったが風がありとても寒かった。その日はどっと疲れて、他のことは何もできなかったが、持ち帰った祭壇の果物たちは数日をかけて我が家のデザートとなった。
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先週末に四十九日の法要を終え、少なくとも私は気持ちの整理もつき、徐々に祖母の死が過去のことになっているのを感じる。この記事は葬儀が終わった1週間後に書き始めたので、生活の雑事にかまけながらちびちび書いていたら1カ月もかかってしまったことになる。人生は短い。もっと生き急ぐくらいが怠け者の私にはちょうどいいのかなと思う。
寺で見た梅と鯉。1カ月半が経ち、季節は春になった。
告別式と四十九日の両方で住職が話していたのは、人は必ず最期を迎えること、そしてそれを残された人がどう感じて生きていくかが大事ということだった。この記事は、自分が祖母の最期をどう感じたかを後で振り返るための備忘録である。同時に、自分が知る祖母の歩みをできるだけ記録しておきたいと以前思いつつも結局形にすることができなかったことへの罪滅ぼしでもある。最後まで読んでくださった方に感謝を捧げたい。そして今祖父母が元気な方は、できるだけ多く思い出が作れるよう祈って、記事の終わりとしたい。