goo blog サービス終了のお知らせ 

メモ帳

( #ΦДΦ) ごるぁ~!

落合博満②

2009-03-06 20:32:25 | Weblog
2004年、中日監督に就任。これ以前にプロ野球のコーチの経験はなかった(ただし、森祇晶監督時代の横浜ベイスターズで臨時コーチの経験がある)が、1年目でリーグ優勝を達成。
2006年、中日を2年ぶりのリーグ優勝に導く。しかし日本シリーズではまたしても1勝4敗で涙を呑んだ。

アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)
2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神タイガース、読売ジャイアンツを破り、日本シリーズ出場。4勝1敗で北海道日本ハムファイターズを破り中日を53年ぶり2度目の日本シリーズ(落合曰く『プレーオフシリーズ』)制覇に導き、前年の雪辱をはらした。また、その後行われたアジアシリーズでも中日をアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞した。

人物評
現役時代は生活の全てを野球に捧げていた。お腹を壊すと試合に出られないからと好物だった刺身をプロ入り後は一切食べなくなった、息子の福嗣が深夜に庭で父が素振りをする音で目が覚めた、遠征先のホテルでチームメイトが部屋を訪ねると裸でバットを持ったまま出てきたなど、その練習に関するエピソードには事欠かない。
彼は現役時代に2000本安打を達成しているが、それぞれ節目となる500本目、1000本目、1500本目、2000本目はすべて本塁打である。さらに、1000試合出場、2000試合出場の時にも本塁打を打っている。落合は取材に来たテレビカメラに打撃練習の打球を狙って当てた事もあるほどのバットコントロールの持ち主であり、おそらくは節目を狙って意図的に本塁打にしたのだと思われる。
その優れたバットコントロールのエピソードとして、このようなものがある。
ロッテ時代、東尾修との対戦で落合は頭部付近に死球を受けた(厳しい内角攻めは東尾の持ち味でもあった)。次の打席、落合は東尾の足元を抜くセンター前ヒットを放つ、しかしどことなく不満げ。その次の打席で、落合は東尾を直撃する強烈なピッチャー返しを放つ(内野安打)。一塁ベース上の落合は少し満足げな表情を浮かべていた。[1]
通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打である。アウトコースの球を払うように流し打ちをし、本塁打にしてしまうその卓越した技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中で「アウトコース」という節で落合を取り上げている。しかし当の本人は『別冊宝島 プロ野球・記録と記憶』(2000年)において、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の玉を打つのが下手なのはいない。」と語っている。
入団当初は三塁手だったが、一軍に定着するため、2年目からは当時手薄だった二塁手に転向、有藤道世の外野手転向により三塁手に戻り、その後、打撃に専念するために一塁手に転向した。一時二塁手だったため2000年、日本野球機構などが行なった「センチュリーベストナイン(20世紀ベストナイン)」投票で落合が二塁手として選ばれた(落合の通算成績は20世紀ベストナインとするに十分であったが、一塁に王貞治、三塁に長嶋茂雄が選ばれるのは確実なので、なんとか落合を選出しようと多くのファンが知恵を絞った結果である)。また、この複数ポジションでの出場は監督としての現在に生きているとテレビで紹介された事がある。
足が速くないので内野安打は望めない。したがって打球が内野の頭を超えなければ安打とはならない。「安打製造機」イチローと比較されることも多いが、この「内野安打の少なさ」、長打の多さは驚異的である。
バットを体の前でゆったりと構える独特の「神主打法」で右に左に打ち分け、3度の三冠王に輝く(2005年現在、日本プロ野球では唯一)など数々の記録を作った天才打者との誉れが高い。周囲の言動に左右されず、自分の持つ野球の技術を伸ばし磨くのに最も良いと思った方法を貫く姿勢は「オレ流」と呼ばれ、生意気だと批判される一方、人気も博した。近著『落合博満の超野球学』(ベースボール・マガジン社)は、そんなオレ流で培ったユニークな技術論の一端を垣間見させてくれる。その一方、ヒーローインタビューで「良い子の皆さんは、基礎が崩れるから、僕のバッティングを真似しないで下さい」と発言した事もあった。
打撃の感触を重視するため、 グラブを使わずに素手でバットを握った。なお、デッドボール時の保護のため、リストバンドは使用していた。
現役時代は「金の為に野球をやっている」「多く給料を出してもらえるところへ行く」「金にならない試合には出ない」などの、これまでの日本人選手に多く見られた「浪花節」的考えと一線を引いた発言は賛否両論を巻き起こした。実際、チャリティー試合の出場を拒否したこともあった。FA宣言後も、巨人入団前から「一番お金を出してくれたチームに行く」と公言。「プロとして最も(金銭面で)評価してくれるところへ行くのは当然」と強調している。
一匹狼的な雰囲気を醸し出していたが、実はチームメートに対しては優しく、面倒見も良かった。愛甲猛、矢野輝弘、清原和博、小笠原道大など信奉者は数多い。不仲が噂されていた星野仙一も「大変優しい選手だ」とコメントしている。マスコミなどがいないところでは進んでコーチ役も買って出ていたという。また、評論家時代にも、スランプに陥っていた中村紀洋や松中信彦らが落合にアドバイスを求めるなど、選手からの信頼性は高いと言える。
口では「記録を出せば給料が上がる」と個人プレーに徹するような発言をしているが、実際のところは全く逆であったようで、宇野勝は「落合さんが中日に来て初めてチームバッティングとはどういうものかを教わった」と発言しているように、彼の打撃は状況に応じて安打、本塁打を狙い分けるものでチームの勝利第一であり、記録はその結果付いてきたものであった。実際、試合に勝つためにノーサインで突如送りバントを成功させ、周囲を驚かせた事もあった(シーズン終了後に「あれは勝つための判断」と説明)。
ロッテ時代の1984年から1986年に監督を務めていた稲尾和久を師と仰いでおり、唯一彼が無条件で従う人物といわれる。現役時代、室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなってしまう事態になった。その時、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。稲尾は落合の練習をずっと見守っていたのである。落合の稲尾への私淑はこのときがきっかけだという。稲尾もまた、1986年の序盤に極度の不振に陥った落合を4番で起用し続けるなど絶大な信頼を寄せ、落合もそれに応えて不振から立ち直り、三度目の三冠王に輝いた。この年のオフの世紀のトレードは稲尾の監督解任によるロッテへの不信感が一因とされている。落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾が死去した日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。(稲尾が教えてくれた)打者には分からない投手心理は私の財産」との旨のコメントを残している。
プロ入り前から長嶋茂雄の熱心なファンだった。ロッテ時代には取材を受けた際に「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間からバカにされますよ。笑われますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた巨人復帰に釘を刺したことがある[1]。にもかかわらず、1992年、長嶋が巨人の監督に復帰すると落合はFAで巨人に移籍した。
落合は20代で結婚もスピード破局し、その後、ホステスをしていた9歳年上の信子夫人と再婚。愛妻家(恐妻家?)として知られる。FA権の行使や監督就任などを決定させた事でも知られる(詳細は落合信子の項目を参照)。2人の間には長男・福嗣がいる。
現役時代、「監督は寝ていたほうが試合には勝てる」という冗談を発したとされるが、もちろん自身が監督に就任してから試合中に寝たことはない。
パシフィック・リーグで採用している指名打者制度には批判的であり、ロッテ時代は指名打者での出場があるが、現役最晩年の日本ハムでは指名打者での出場を頑なに拒否し、一度も指名打者では出場しなかった。
歴代最高の打者は巨人ファンの間では「左の王、右の長嶋」であるが、プロ野球経験者の間では「左のイチロー、右の落合」と言われている。[要出典]
高校時代野球部を退部した後放課後は毎日のように映画館に入り浸る日々が継続した。自著では高校時代を通じて100本以上の映画を見たと記している。野球馬鹿にならずに済んだとも回想している[2]。
愛甲猛との自主トレーニングの際に落合の叱責に愛甲がたまりかね、「俺も甲子園優勝投手ですよ」と反論すると、「ここはプロなんだ、そんなに甲子園がいいんなら甲子園へ帰ればいいだろ。そんな気持ちでトレーニングするなら止めたほうがいい」とまで突き放した事があったという[3]
現役時代のヒーローインタビューは独特の秋田訛りがかったとぼけたような口調で核心をかわすのが特徴であった。また感情を露にする事も少なく派手なパフォーマンスも見られなかったが、2006年の中日ドラゴンズ優勝決定の際にはベンチ前で大きくガッツポーズをし、優勝監督インタビューでも大粒の涙を流し、「監督の私が一番泣いた」と発言するなど現役時代とは様変わりした姿を見せた。
現役時代タイトル争いがかかる終盤で打ちまくったため“帳尻合わせ“と揶揄される事もあったが解説者転向後に一転して「盛り上がらない消化試合はいらない。中止になればその試合を移動日に前倒しして開催すればいい、ペナント優勝決定の時点でシーズンを終わらすのがいい。」と発言し話題になった。
日本球界での「真」のホームランバッターとして、田淵幸一と秋山幸二の2人だけを挙げ、自分も王さんも違うと語っている。
2000年時点で自らの現役時の記録において誇れるのは「3度の三冠王と2年連続50本塁打だけだ」(どちらも当時、日本プロ野球界唯一の記録)と言っていた(2年連続50本塁打以上は2002・2003年にアレックス・カブレラも達成した)。
中日ドラゴンズ監督になってからは「(プロ野球球団は)勝つことが最大のファンサービスである」と口にしている。

監督としての落合
2004年に中日ドラゴンズの監督に就任。「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げ、大きな話題を呼んだ。また秋季キャンプからシーズンにかけても、さまざまな手を打ち、内外の関心を集めた。
コーチ就任が一度は内定しながら、チーム内のゴタゴタから現役続行を訴えて巨人を退団した川相昌弘を入団させ、若手に野球に対する姿勢を学ばせた。川相獲得が実際にこの年行った唯一の人的補強である。
故障のため3年間に一度も一軍の登板機会のない川崎憲次郎を開幕投手に指名し、チームの結束と奮起を促した。
中継ぎエースの落合英二をシーズン終盤の優勝マジック点灯後の大事な時期に先発させた。
森章剛をシーズン途中にスイッチヒッターに転向させた。
井端弘和にカウントノースリーから打たせて本塁打にしてしまう。
「右対右は不利」のセオリーに反して右打ちの高橋光信を代打として送り、勝ち越しの四球を選ばせる。
結果として選手が大活躍するような「オレ流野球」が炸裂し、同年10月1日にリーグ優勝。監督就任1年目にして初の胴上げとなった(2002年の巨人監督・原辰徳以来2年ぶり)。さらに、ナゴヤドームでの初めての優勝決定となった。
しかし、その後同年10月16日から行われた日本シリーズでは、第2戦終了後の自身の勝利監督インタビューでの失言とも受け取れる発言(「もうナゴヤには戻って来ないかもしれません」吉村功参照)や、第3戦での継投ミスなどに足をすくわれ、中日球団の50年ぶりの日本一を、王手をかけながら、本拠地ナゴヤドームで逃した(日本一は西武ライオンズ)。
監督就任時は前述の公約通り、補強は控えていたが、2005年シーズンに向けてはこの凍結を解除し、阪神タイガースなどと競合して横浜ベイスターズのタイロン・ウッズを獲得する一方、関川浩一、酒井忠晴、小山伸一郎、紀藤真琴の4人を東北楽天ゴールデンイーグルスに無償放出した。
その2005年シーズンは開幕ダッシュに成功したものの、交流戦に大きく負け越す。夏場にかけて首位阪神を猛追したが2位に終わり、連覇は達成できなかった。
監督としては滅多に選手個人を責めることがなく、少なくともマスコミにはそのようなコメントはほとんどしない。これは選手時代の気持ちを忘れないようにしている彼らしい配慮である。しかしそれゆえ、負けが込んでくると貝になってしまうこともある。
就任当初は感情をあらわにする事もあったが、2006年頃から寡黙になり、ベンチ内やグラウンドで喜怒哀楽を見せることは非常に珍しくなった。
また、現役時代の天才的バットコントロールを生かしたノックの腕前もまた天才的である。12球団一といわれる荒木雅博-井端弘和の二遊間は、自身もロッテ時代に河野旭輝のノックを受けて守備技術を学んだ経験を持つ落合のノックで鍛えられたことによるものといわれる。井端も「あんな凄いノックは今まで受けたことが無い」と語っている。ノックについては「守る事はもちろん、ノッカーとして打つ事でも、守備技術や打撃技術の向上に役立つ」との持論を有し、打撃フォームが崩れている選手にノッカーをさせて矯正を図るという方法も試みている。 高木守道もこの矯正法に賛同している。
采配に関しては、自身が選手として現役時代を過ごした時の監督である、前述の高木守道の采配を参考としている。
2005年の日本シリーズでこの年リーグ2位だった千葉ロッテマリーンズが日本シリーズを制した際、「(ロッテは)日本一じゃなくてプレーオフチャンピオンだろ」「2位で日本一なんかになったって俺はちっとも嬉しくないし、俺が当事者だったら釈然としない」とコメントした。2年後に自身がその当事者になってしまったが、「リーグ優勝できなかったことに不満はある」と語っている。
2006年9月20日の横浜スタジアムでの試合後、監督室に置いてあった財布・お守りなどが入っていたセカンドバッグが盗まれた。その際お守りは家族3人お揃いのものだったため、「お守りだけでもいいから返してほしい」と悲痛な叫びを訴えた。
2度目のリーグ優勝を成し遂げた2006年10月10日の東京ドームにおける勝利監督インタビューにおいて、こらえきれずに泣き出してしまうという意外な一面もみせた。実は延長12回の優勝を決定付けるウッズの満塁本塁打の直後からすでに泣いていた。普段は本塁打を打った選手を出迎えることなどは一切無いが、満面の笑顔でウッズを出迎え、抱き合い、その直後から何度もタオルで涙をぬぐう姿が見られた。「今日は絶対に泣くまいと思っていましたが、一番最初に泣いたのは私でした」、「1位で走ってる球団の方が、追いかける球団よりも楽に決まっている」とインタビューで度々答えていたものの、優勝決定直後には「(一時は圧倒的なゲーム差を付けるも、終盤に驚異的な追い上げを見せた阪神に対して)あそこまで追い込まれるとは思わなかった」と本音を漏らした。
2006年の日本シリーズでは、落合や選手達も満を持してシリーズに臨んだ。しかし結果は1勝4敗。初戦は取ったが、第2戦での山本昌からの継投ミスや再三のバント失敗などの拙攻により日本ハムに息を吹き返され4連敗し、ドラゴンズの半世紀ぶりの日本一をまたも逃した。
週刊新潮の2006年11月9日号によるとスズキ自動車の鈴木修はドラゴンズの応援をやめたとされる。日米経済界から手腕を認められるこの大物は広報を通して「私はビジネスマンは良き社会人でなければならないと考えますが、落合さんは違うようです」とコメントしている。浜松の河合楽器製作所の硬式野球部(2001年に休部)出身者の山井大介を応援するなど郷土への強い愛着で知られる鈴木会長は、同時に現実主義者でもあり落合が財界や有力者への挨拶を嫌い周囲の反発を招いた事を批判したものとされる。地方球団としてのあり方について落合にも一言あるのかも知れないが、「ジジ転がし」の達人とされた星野以降は減収が続く球団では営業部の落合批判は公然とされていると記事はまとめている。
2007年よりセントラル・リーグにもプレーオフ制が導入されたが、落合は常々プレーオフ制度には反対の意向を示しており、「あくまでペナントレースの優勝に価値がある」と自論を展開している。そんな落合いわく、「日本シリーズは今年(2006年)で最後」と発言している。
契約期間の3年間において、リーグ優勝2回、2位1回という監督手腕が評価され、引き続き2007年も中日の指揮を執ることが球団側から要請され、了承。10月30日、向こう2年間、監督を務めるという内容で契約が延長された。
2007年にオリックス・バファローズとの契約交渉がこじれて自由契約になった中村紀洋を、育成選手(後に支配下登録)として獲得した。
だが同年、投手として入団した2年目の金本明博を野手へ転向させる事を決断。それにより今年中の一軍昇格は無理だと判断した事と、もしもの時に備えて70人ギリギリの選手枠に空きを作りたいという事を理由に、ウェーバーにかけた後に他球団から獲得の意思が無ければ育成選手として再契約する事を決めた。だが選手会はこの件に関して、「育成選手の意味を都合良く解釈するな」と猛抗議。落合もこれにひるむ事無く真っ向から反論。「本人と十分に話し合って同意を得た上で、決められたルールに従ってやった事だ。本来なら金本は、8月には整理リストに入っていても(解雇の候補に挙がっても)おかしくない選手。育成選手枠の存在があるからこそ、金本は今も中日のユニフォームを着ていられるんだ」と発言している。
2007年5月1日、セ・リーグの豊蔵一会長は、金本のウェーバー公示の取り消しを中日球団に通告。「総合的に判断して決めた。ウェーバー公示の一方的な取り消しは規約違反だと分かってはいるが、承知の上」と弁明。だが落合は「正規のルールに従ってやっている事なのに、何故そういう事になるのか」と激怒。球団に全て任せるとしているが、中日球団は法廷闘争も辞さない構えを見せていたが、結局はこの取り消しを承諾。金本は投手から内野手に再登録して支配下登録のまま中日に身を置いていたが、同年10月29日球団から戦力外通告を受けた。
2007年10月4日、公式戦最後の地元ナゴヤドームでの試合に先立ち、長男福嗣との約束であり、中日ドラゴンズファンへの公約でもあった「2年連続セントラルリーグ優勝」を果たせなかったとして、ドラゴンズファンへのお詫びの気持ちとクライマックスシリーズを勝ち抜く決意を込めて頭髪を丸刈りにした。
2007年11月1日、北海道日本ハムファイターズとの日本選手権シリーズ第5戦で、8回表まで完全試合投球を続けていた先発の山井大介を9回表に岩瀬仁紀へ交代させた采配は賛否両論を巻き起こした(→2007年の日本シリーズ#落合監督の采配への賛否)。