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難しい地名

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阿波踊りに思う

2017-08-14 23:28:04 | 日記
記忘庵日誌2016・ 8 ・15 荻野源吾

「阿波おどり」の雅(みやび)
司馬遼太郎氏の阿波紀行の「阿波おどり」にはこんなことが書かれている。

徳島は昔、初代蜂須賀氏まではその城を猪山城といい、さらに中国の渭水から取った渭山城(いのやまじょう)と呼んでいたということ、貧弱な城であったがむしろ領内の繁栄を願った蜂須賀公が踊りを愛でて始まったというのが事の起こりらしいが確証はないこと、京の「風流」(フリュウ)と数寄の流れがあるのではといったことが記されている。
あれだけ歴史考証に丹念な司馬氏にしてはあまり淡泊な説明で明快さに欠けている。しかし日本文化の中央集権化の傾向の中で地元の人が「これだけですなあ」という他に真似られない文化がこの阿波の地に残ったことは称賛に値すると言っていることは同感である。この歳(76)になって初めての阿波おどり散見。
藍場浜桟敷席での2時間たっぷりの観覧で一生分の見る阿呆を堪能した。
              

なお最近のネットで探ってもその歴史はこれ以上明確ではない。

阿波おどり(あわおどり、Awa Odori)は徳島県(旧・阿波国)を発祥とする盆踊りである。日本三大盆踊り(西馬音内盆踊り・秋田県、郡上八幡盆踊り・岐阜県、阿波踊り・徳島県)であり、江戸開府より約400年の歴史がある日本の伝統芸能のひとつである。

バーンスタイン「ミサ」

2017-08-01 15:53:43 | 日記
                    記忘庵日誌2017・7・26 荻野源吾
バーンスタインの「ミサ」
フェスティバルシティからの眺め


 Leonard Bernstein ―レナード・バーンスタイン
 出生名はLouis 愛称はレニー 1918年ウクライナ系ユダヤ人移民二世でアメリカマサチューセッツ州に生まれる。カラヤンやショルティなどと並ぶ20世紀後半の国際的作曲家、指揮者、ピアニストと言われている。ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団音楽監督。
日本にも7度ほど来日したという。1985年8月、被爆40周年に「広島平和コンサート」も開催。本人はヘビースモーカーで酒豪であったと言われている。さぞかし身をすり減らしつつ作曲や指揮にあたってきたのであろう。
 なおエルマー・バーンスタインは別人。

 「ミサ」はローマ・カトリックの典礼儀式から信仰の危機をテーマにした壮大なミュージカル構成。第1曲/ミサの前の祈祷から始まり、第17曲/平和:聖餐式【シークレット・ソング】の編成。圧巻は第16曲/聖体分割式「万事壊れる】の司祭が平和と叫びながら聖杯を床に投げつけ、民衆を導こうとした司祭の挫折を表現した場面。

 このバーンスタイン シアターピース「ミサ」は大阪フィルハーモニー交響楽団創立70周年を記念して、またフェスティバルシティ・オープン記念としてフェスティバルホールで開催されたものである。(2017/7/14-15)
 井上道義総監督・指揮のもとバリトンは大山大輔、他、大フィル交響楽団・合唱団、キッズコール0saka など総勢200名を超す舞台出演となっている。
 佐渡裕パ―トナーの意欲や指揮者の熱意が感じられ、特にバリトンの主演大山氏の声量ある歌、ボーイソプラノの歌声が印象的であった。
 ミサと言えば荘厳な音楽を思い浮かべるが、ジーンズ姿でギターを手にした司祭、時に正式の司祭服も着るが最後に祭壇から飛び降りるなど・・・
 合唱や、踊り、音楽とミュージカル構成なのでそのリズムやテンポは飽きさせないが、奇想天外な構成にも驚かされたり、全体として難解であったというのが印象である。また時にセリフに関西弁など交えて親しみやすく工夫されたりもしていたが消化不良との意見も聞かれた。特に音楽素養のない私にとっては苦労。しかし興味津々でもあった。
見終えて最後に思わずニーチェの「神は死んだ」の言葉を思い起こさせた。
以上

私の至福のとき

2017-07-31 11:13:23 | 日記
2016年4月5日記忘庵日誌・荻野源吾

 わたしの至福のとき

最近の私にはごくささやかでも至福の時があります。

それは早朝の喫茶店でモーニングのコーヒーを飲みながら、新聞を広げての拾い読みです。丹念に各紙を読み比べることです。時にはよくメモしておいて批評します。
その店には朝○・毎○・讀○・産○・日○などの主要全国紙の五紙の他スポーツ紙や奈○新聞・奈良○日なども置いてあるのです。もしできたら東○新聞や秋○魁や大分○○同新聞といった地方紙があれば言うことはない。もちろん電子媒体でも見られるのですが、私たちの年代はどうしても紙媒体で直接目に触れないと読んだ気がしません。
最近は「一服安らぎタイム志向」で星○コーヒーやコ○○コーヒー店が大流行り。世の中疲れ気味なのかそれともゆとりなのか。私の行きつけは後者の店。モーニングは茹で卵と大ぶりのパンの切りで400円。ここの素朴なパンのsandwichは大口でがぶりと食べてもなお口からはみ出るので実利で人気。

私には最近まで二つのジンクスがありました。
一つはわざわざコーヒーを飲むためだけに喫茶店を利用することを「いさぎよし」としない事。(用務ならいざ知らず)
もう一つはゴルフには自分には縁なきものであると決めたこと。
このような誓いにもならない二つのジンクスを70歳まで頑なに維持してきた。つまり自分には贅沢は出来ないし、合わない。その時以来コーヒー一杯を節約して世の悪と闘うと決めたのだ。何故か他の不遜な贅沢は別に置いて。
マージャンについては、厳密にはつい最近ある人に教えてもらって手に染めた。頭の体操になるからと家内と共にマージャンを習おうとしました。ところがつい面倒になってお手上げ。楽しみより決められたルールの中の運任せが苦痛になって止めてしまいました。やはり競争してのギャンブルはたとえ賭けなくても自分の性に合わないと自覚しました。ゴルフとマージャンは結局縁がなくこれからも残念ながら生涯することはないと思われます。
そこで一方の喫茶店での喫茶ですが、それがどうしたことか最近はこれが無常の喜びとなってきた。勇を鼓舞してこの無駄遣いを覚悟で喫茶店に飛び込む。これぐらいの贅沢は許されていいだろうと歳と共に考えるようになった。ああ私も人並みの贅沢が出来きるような歳まで生きたとの感慨が胸を熱くする。(福祉アナリスト)




難しい地名

2017-07-18 17:12:02 | 日記
記忘庵日誌2015・11・8 荻野源吾
難しい地名
数年前各駅停車の鉄道に乗り奈良までの日帰り旅をしたことがあった。
掖上駅(注1)という駅舎前に駐車した。鄙びた駅舎で今は無人駅。ここからJRで高田まで行き乗り換え、橿原神宮駅を経由して桜井線(万葉まほろば線ともいう)で奈良までのコースをたどった。
奈良駅に着く一つ前の駅は京終(注2)とあった。はて何と読めばよいか戸惑ったことを覚えている。恐らく昔平城京の端、あるいは京の都の果てるところを意味したのか。奈良県にはなかなか読みづらい地名が多い。奈良の地は古い。そこに歴史あり。
大台ケ原に通じる道筋に井光(注3)という地名の土地がある。白洲正子が愛した「大和のかくれ里」である。集落には<井光神社>がある。
祭神の井氷鹿(いひか)は吉野首(よしのおびと)の祖とされ、 『古事記』や 『日本書紀』では、神武天皇が宇陀から吉野へ巡幸した時に井戸の中から人が出てきて、その人は体が光って尾があったので、 天皇が「お前は何者か」と問うと「国津神、名は井氷鹿」と名乗ったと言われています。おそらくこのいわくが地名になったと思われる。

昔大和と河内は政権の地。政権は大和朝廷から河内政権へと移った。河内(大阪)から金剛・葛城山系の間にある水越峠を越えて大和(奈良)へ入る。昔はもう少しなるい坂の竹ノ内峠が幹線道路であった。この道は日本最古の官道。今の高速道であった。この二つの峠を越えたところに御所(注4)や葛城がある。今はどちらも市になっている
この周辺は古代巨勢族や鴨族や葛城族の拠点でもあった。特に「御所」はその昔「巨勢」「許勢」「古瀬」という字を当てている。名前のいわれは天武天皇時代の巨勢朝臣、その祖は許勢宿祢ともいわれている。御所の高鴨神社は京都の鴨社の始祖になる。
当時古代の氏族社会では佛教伝来はじめ、盛んに渡来の文化との交流が始まっていた。韓国や中国の渡来人が住み着いたと思われる。この御所には五百家(注5)という地名の土地があるが役小角などが闊歩した地。これも読みづらい地名の一つ。蛇穴(注6)に至っては最も読みづらい。これは恐らく渡来系の言葉の当て字か。韓国や中国を蔑視する人が多いがちょっと歴史を紐解けば日本文化にはその影響が多く残っている。こうした地名に残る文化には渡来系の文化の移植があったことを忘れてはならない。
注1 わきがみえき 2 きょうばて 3 いかり 4 ごせ 5 いうか 6 サラギ
補遺
 余談ながら日本の地名で一番多いのは「中村」だと言われる。(天声人語1981・3・22)
 次に②原③新田④山田⑤中野⑥上野⑦大野⑧中山⑨大谷⑩本郷の順。集落の元の村,「中村」や元村、本村から新田ができ次第に分かれていく様がわかる。これは日本地名索引をつくった金井弘夫さんの調査でわかってきたこと。