藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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「薩長同盟盟約書」坂本龍馬の裏書についての考察

2021年11月13日 18時31分14秒 | オピニオン的解説
高知県立坂本龍馬記念館で2021年11月21日まで、
宮内庁書陵部所蔵 の「薩長同盟の盟約書」とされる文書が展示されている

(薩長同盟盟約書とされる木戸書簡)

但し裏書(朱文字)が展示されていたのは10月中だったという。
 
(坂本龍馬の裏書の複製)

*「薩長同盟盟約書」とは、慶應2年1月に京都小松帯刀邸に於いて
薩摩・小松帯刀と長州・木戸順一郎との間で合意した協議内容を
木戸順一郎が書面にし、京都薩摩藩邸に居た坂本龍馬が裏書したという
木戸書簡で、「薩長同盟の盟約」として知られてきたモノである。

どういった内容が書かれているのかを含めて
ジャーナリスト兼作家の穂高健一先生に解説していただく。
穂高健一先生は、薩長同盟の同盟書ではないと
世間より相当早くから主張されていた。
また、いろは丸事件では、潜水調査資料などを検証し、
いろは丸事件は坂本龍馬のハッタリであったと主張している。
(一番上の写真をクリックするとトップページに移行。
 サイト内検索でワードを入力して検索するといろいろ見られる。)

扨、ここからは真実は判らないと云いながら、
疑問に思っている事について考察してみたい。

<1>これは薩長同盟盟約書なのか?
この書簡の内容からすると、
①薩長土で挙兵して京都大阪を占拠する。
②薩長土で討幕を実行する。
③長州の免罪に尽力する。
④天皇の親政を実現し、新政府を樹立する。
この内半分は長州の為に尽力するという文言を加えている。
これでは薩土が長州に隷属するかの様な内容に読めてしまう。
同盟と云うからには、薩土に何某かの見返りが無くてはならい。
従って、これを盟約書とは到底云えないだろう。
では、木戸はこれを何の為に必要としたのか。

<2>木戸書簡は誰に見せる為のものか?
この書簡の内容からすれば、
長州の都合に合わせたモノだという事は明白。
これを木戸が書いたのだから、
木戸派以外の勢力に向けたモノと考えるのが妥当。
長州内で討幕という方向性は一致でも、
団結という点では猶不穏なものがあったのだろうか。
何れにしても長藩内で必要なものであるから、
長州に関わる内容だけ書けば良かったと推測される。

書簡に頼るという事では「討幕の密勅」という例がある。
「藝藩志」に依ると、
”長藩に在ては藩論は已に一定すと雖も薩藩に在ては公武合体論猶盛にして容易に藩論を一定する能はす依て 詔勅の力を仮て之を圧服せずんば能はす是れ此請求を加たる所以なりと”
とある。
書簡が証明書として成立する良い例である。
尤も、この勅書も「藝藩志」に依れば
岩倉具視が正親町三條氏、中御門氏と謀って
玉松操に造らせたと明記している。
長州の場合は朝敵解除の方が大事で、
「討幕の密勅書」と同時に「復官入京」の内勅書を造り、
広島藩を通じて交付する事で、長州は朝敵を解除された。
(本当は朝敵のままという事になる)

<3>坂本龍馬の裏書の意味は?
以前は、小松帯刀と木戸順一郎間の協議内容を木戸が文書化し、
坂本龍馬が薩長の仲介者として裏書したと考えられてきた。
しかし、近年、
慶応元年、二年頃には”坂本龍馬は薩摩藩士と認識されていた!”
という説が浮上した。
実際に「薩摩藩士坂本龍馬」との記述のある史料を見たが、
残念ながら何だったかは失念した。
坂本龍馬と親交があり、龍馬暗殺の日に会う約束をしていた
元広島藩士林謙三(後の安保清康)も、
薩摩藩士と認識されていたし、
自叙伝でも島津久光に仕えたと述べている。
薩摩と親交のある藩の藩士が
複数リクルートされていた可能性を想起した。
坂本龍馬に関しては
神田外語大学外国語学部准教授 町田明広先生
の御著書を読んだ方が理解が早い。
という事は、坂本龍馬は薩摩側の立場で裏書を求められた事になる。
ここで疑問なのは、何故協議した小松帯刀ではなく、
その場に居た坂本龍馬なのか。
書簡が幕府側に渡ってしまった時に小松の裏書があると大問題になる。
そういう尤もらしい話もあるが、
坂本龍馬自身も薩摩藩士と認識されていたのだから、
小松帯刀の署名が無ければ大丈夫とは云えない。
そもそもこの様な書簡があるという事自体がリスクであり、
リスクの大小で判断出来る様な問題ではないはずだ。
長州の都合しか書かれていないから、
同盟文書とは云えず、小松には頼めなかったと推測する。
尤も薩摩側の秘密の悪業をツラツラと書いたなら、
小松帯刀は激怒することだろう。

<4>坂本龍馬の署名が「坂本龍」の訳は何故?
名前を全部書かなかったのは大雑把な性格だからという人も居る様だが、
新政府綱領八策の字と比べると書き殴っている様に見える。
何故書き殴っているのかを考えると、
裏書依頼に対してあまり良く思っていない事が推測される。
勿論、単に面倒だという事ではないだろう。
条文の多くは小松の意見ではなく、
木戸が要求した内容を小松が渋々同意したものであると考えられる。
それを側に居た薩摩藩士の坂本龍馬が保証させられる訳で、
齟齬が起きた時にはトカゲの尻尾に成りかねない。
そこで、ささやかな抵抗を示しつつ、
渋々「その通りですよ」と裏書きし、
最後の署名を未完成のままにして突っ返したと視る。
新政府綱領八策の署名は「坂本直柔」とちゃんと書いている事と
対比すれば、そう解釈できるかと思う。




<5>この密約で薩摩は何を得られたのか?
今まで論じてきた内容は全部長州側の都合に合わせた話であった。
では、薩摩側には何のメリットがあったのだろうか。
実は薩摩側には懸案事項があった。
薩摩は広島藩と取引していた。
広島藩は以前から中四国九州の各藩の米を豪商・鴻池を使って買い集め、
大阪蔵屋敷に貯蔵し、米相場を上げて売っていた。
当時は違法ではなかったインサイダー取引である。
又、広島は繰り綿の産地であり、鉄の産地でもあった。
薩摩は米の収穫量が少なく、鉄も不足していたし、
これといった産業もなく財政難が懸案であった。
そこで、瀬戸内海の中心に位置する”御手洗”(みたらい)を使い
米や鉄、繰り綿を買い入れ、繰り綿を海外に密輸していた。
当時、南北戦争で綿花の産地は大打撃を受け、
世界的な綿不足になり、薩摩は繰り綿輸出で経済を潤していた。
それを察知した攘夷派の長州が薩摩船を焼き討ちする事件があり、
その積載港である広島藩領の御手洗をも焼き討ちするという噂が立ち、
広島藩から長州藩へ「我々は密輸に関わっていない。」
「買った薩摩がどうするのかは我々が感知するところではない。」と
御手洗の焼き討ちはしない様に申し入れをしている。
薩摩は関門海峡を無事に通過する事が至上命題であったのだ。
当時長州は他藩との取引は愚か、交流すら一切禁止され、
唯一広島藩が朝幕との窓口として周旋役を指定されていた。
そういう情況であるから、
木戸書簡に書かれている条項に対する薩摩への見返りは
密輸を見逃す事と長州への武器供与であったと推測される。
従って、木戸書簡が書かれた時点では、
「内緒で経済協力関係から始めましょう。」という段階であり、
軍事同盟が具体化するまでに更に2年弱を必要とした。
尤も藝薩同盟も同様で、
始めは経済協力関係から始まり、
大政奉還に繋がる軍事同盟へと発展するのは、
薩土同盟が流れた慶応3年6月の直後からである事が
「藝藩志」から読み取れる。
長州が加わるのは土佐が軍事同盟を拒否したことが発覚し、
二藩だけでは確実性が低いと考えた薩摩が、
背に腹は代えられないと奥の手を出す事を決意し、
広島に長州との同盟を持ち掛けた慶應3年9月と推測出来る。
即ち、薩摩にとって口約束だった軍事同盟に広島を巻き込めば、
全て丸く収まると考えた事は想像に難くない。
そうでなければ、慶應3年6月、薩土同盟が流れた直後、
薩藝長同盟を広島藩に提案したはずである。
広島も薩摩も貿易上の秘密を多数共有していたのだから、
信頼関係が無かったとは云えない。

木戸書簡の意味する事は、
将来チャンスがあれば軍事行動を起こすと口約束をした薩摩に対し
朝敵解除の一縷の望みを繋ぐ事に必死な長州。
経済的困窮から密貿易に必死な薩摩。
この両者の経済的協力関係が生まれた背景の一端が見える。
そういう事ではないかと考える。
この時点で薩摩にとって朝敵長州との軍事同盟は
現実味の薄い妄想に過ぎないモノであったと結論付けたい。



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