<『戊辰役戦史』の説明>
23日の戦闘後、芸州・因州兵は広野に止まり前進の準備中、25日に敵襲を受け、因州5小隊、砲2門と芸州兵(兵力不明、おそらく3小隊内外)は予め構築した急造陣地により防御した。($①P531)
広野駅は決して良好な陣地ではない。この日の敵は何兵かは不明だが、余り真面目な攻撃も行わず、官軍に防備あるのを見て軽戦のうえ後退した。敵は広野北北東1Kmの本道上下北迫付近に陣地を構築しているようで、同陣地に退却して官軍と相対した。($①P532)
<芸藩志第18巻>
〇七月廿五日午前賊兵は当駅の北面本道より漸次進み来り発砲挑戦す我兵之れに応し防戦し遂に之を退く然れとも加藤種之助藤田太久蔵等負傷せり蓋し此日賊兵は大斥候隊を以て我兵備を探索するに係るに似たり而して此夜も亦賊兵時々駅外に迫り発砲し又は民家を焚く
<『慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史』佐藤浩敏著>
岩城奥羽軍は、七月十四日より行軍を起して、二十五日夕を以て、石城相馬の境界なる大堀村に着したり。