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山原の森の一軒家

山原(沖縄海洋博公園東側原野)土地500坪程求め10年前にプレハブの別荘建てた、毎月休日は樹木の手入れ等楽しんでいる。

第36回那覇祭り「大綱挽き」其の1

2006年10月28日 | Weblog
那覇大綱挽き
掲載が遅れました、理由前回掲載の映画「月桃の花」キワードが第二時大戦10,10空襲の事でしたので10月一杯は移動したくなく遅れた次第、戦争に生き残った者の証言「月桃の花」長文最後まで読んで頂いた方々へ厚くお礼申し上げます、ありがとうございました。

第36回那覇祭り「大綱挽き」男綱

2006年10月28日 | Weblog
那覇大綱挽き「男綱」
綱引き開始5時間前国道58号久茂地交差点前に準備して置かれた東
の「男綱」先の方は長円形女綱輪の中に、男綱の頭を通して結合、
カヌチ棒差し込んで固定。男綱全長100m、重量22トン、手綱130
本つき,女綱と同じ大きさ。
男、女両綱合わせて全長200m、総重量43トン、手綱260本、午後
3時の開始を静かに待つ。

第36回那覇祭り「大綱挽き」女綱

2006年10月28日 | Weblog
那覇大綱挽き
綱引き開始5時間前国道58号久茂地交差点前に準備して置かれた西の「女綱」
先の方は直径2m程の円形その中に、男綱の頭を通して結合、カヌチ棒で固定。
女綱全長100m、重量22トン、手綱130本つき,午後3時の開始を静かに待つ。

第36回那覇祭り「大綱挽き」

2006年10月28日 | Weblog
那覇大綱挽き「カヌチ棒」
写真は女綱と男綱が結合したとき通される頭貫棒「カヌチ棒」正確な大きさは分かりませんが見た目で凡そ、長さ4m、直径40cm、材質硬い
木製(何かに似ていませんか~\(~o~)/)重量~見当つかない、すみません。

GAMA 「月桃の花」

2006年08月15日 | Weblog
GAMA
「月桃の花」 映画を見た感想
「主催 琉球新報社」

沖縄戦「終戦記念日にちなんで」
日本領土内において唯一の地上戦しかも最大の激戦地となった沖縄戦とはいったい何だったのだろう。

太平洋戦争も末期、1945年3月26日米軍は慶良間(けらま)諸島に、続いて、4月1日沖縄本島の中頭(なかがみ)地区に上陸しました。米軍は本島を南北に分断するとともに、首里(しゅり)に軍司令部をおいていた沖縄方面守備軍に対し海陸空から物量にまかせて激しい攻撃を加えました。

これに対して守備軍も果厳に戦いましたが抗しきれず、5月28日、首里から軍司令部を南部の摩文仁に移します。軍の撤退について住民も南へ南へと避難しました。「鉄の暴風」といわれる激戦はさらに続き、守備軍はついに最南端まで追い詰められ、6月23日最高司令官牛島中将と長勇(いさむ)参謀長らが司令部壕内で自決しました。

この日をもって沖縄戦の組織的なたたかいが終わったとされています。
しかし、この自決に先立つ6月18日、牛島司令官は全将兵に「爾後各部隊ハ各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ厳闘シ悠久の大儀ニ生クベシ」との命令を発しています。

これによって司令官の自決後も、各地でゲリラ的な戦闘があり、米軍の徹底した「掃討作戦」が続きました。このため約1週間ほどの間にさらに多くの将兵や住民が戦死しました。沖縄戦は8月15日、日本敗戦以降も部分的には続いた。

沖縄において戦闘状態がいつ完全に終わったかは、現在においても断定できない状況です。そのような状況に放置した軍司令部や、日本政府、参謀本部の無責任さに憤りを感じます。

ところで、日本領土内において唯一の地上戦、しかも最大の激戦となった、沖縄戦とは一体何だったのだろう。!!
それは米軍が沖縄に上陸してきたら、一木一草焦土と化すまで戦い、一日でも長く米軍を沖縄に釘付けにし、その間に日本本土の防衛態勢を固めるという本土の為の「捨石作戦」であったということができます。

そのために、米軍55万人(上陸した兵員18万人)日本の守備軍11万人(現地徴集の防衛隊も含む)、航空機、艦船、火器など最初から圧倒的優位にたつ米軍に対し、無謀な戦闘を強行し、将兵は言うに及ばず、それ以上の多くの住民を犠牲にした。

加えて日本軍は住民の安全や保護の対策をほとんどせず、自らの安全を守るために、住民を避難壕から追い出しり、虐殺したりしました。

このように見てくると、沖縄戦を通して「琉球差別」「公民化政策」という問題につきあたります。
1879年(明治12年)明治政府は「琉球処分」を強行し沖縄に対する支配権を確立します。

以降政府は学校教育を手始めに「皇民化教育」の徹底、言語、芸術、文化等の本土への従属、そして天皇制国家への忠誠を誓わせる諸政策をすすめます。

このことによって沖縄の人々は「よい日本国民」になろうとしますが、そのおかしさ、矛盾に何度となく突き当たります。
この「GAMA-月桃の花」という映画の中にも何ヶ所か出てきます。

一方、政府は政治、経済の分野に於いては、薩摩藩時代の諸制度をほとんど残し琉球差別と沖縄からの収奪を続けました。それがようやく制度的に解消するのは1910年代後半になってからです。

しかし,琉球差別があったと考えられます。沖縄駐屯部隊の陣中日記や軍会報の一部には、沖縄住民のことを「土人」という用語で記してあるものさえあります。
この映画にも出てくる“平和の礎”は1995年夏完成したものです。

そこには敵味方をこえて沖縄戦で亡くなった、20数万人の名前が刻まれています。そこには苦難の歴史を背負い、悲惨な戦争を体験した沖縄の人々が心から
「世界平和」を願う思いが込められています。

現在沖縄に散在する「ガマ」はその重たい歴史と戦争体験を、そのままじっと内包しています。しかし一方では、それを知らぬかのように広大な軍事基地が存在しています。この映画が「オキナワと平和」を考えるとき大きな節目になることを願っております。 

GAMA 「月桃の花」

2006年08月15日 | Weblog
この映画は宮里房さん(72歳)北中城村で保育園を経営していらっしゃる、現役の園長先生である。この方の戦争体験をアメリカ軍撮影の戦場の記録映像をはさんで映画化したものである。戦争を体験した人々は其々の視点で体験談も変わってきます。私(このブログの管理者)の戦争体験談も最後のページに掲載致します。


物語
ガマの外で硝煙の漂う中、和子の遺骸を抱えた房が幽霊のように立っていた。

1994年沖縄県では戦後50周年記念事業として、全戦没者の名前を刻んだ“平和の礎”を摩文仁の丘に建立することになり、各市町村で名簿づくりの一斉調査が始まっていた。
宮里 房(72)は北中城村(きたなかぐすくそん)で保育園を経営している現役の園長である。

同世代の沖縄アンマーの例にもれず地獄の沖縄戦を体験した1人だ。5名の心内を次々に砲爆撃で奪われ、最後に追い詰められた摩文仁の洞窟の中で何が起こり、何を目撃したのか誰にも語ったことがない。

語るに語れないつらい悲しい想いを胸のうちに秘めたままなのだ、房は戦没者調査も頑固に拒んで役場職員を手こずらしていた。そんなある日、

突然アメリカから孫息子(川平慈英)ジヨージ(22)が訪ねて来る。摩文仁の洞窟から九死に一生を得た娘の和子は現在アメリカに住んでいて、何故か房とは絶縁状態になっていた。

ジョージはその和子の一人息子なのだ、ジョージが母の故郷、沖縄を訪れたのは、母と祖母が仲違いした原因を直接房の口から聞きたかったのと、母の記憶にもない沖縄戦で死んだらしい自分の祖父についても詳しく知りたかったからだ。

しかし房の口は重く、ジョージの期待ははずれた。ジョージは、アメリカを発つとき、母から一度訪ねるように言われた、読谷村の陶工、平良勝男(59)にあい、そこで以外な事実を聞いた。

沖縄戦の末期、洞窟の中で房と和子と一緒にいた勝男は戦後、和子と兄妹のように房に育てられたというのだ。
やがて成人した和子は、米軍のパイロットと恋仲となり、房の猛反対を押し切ってアメリカへ渡って行ったという。そのパイロットの父はもういない。ジョージが2歳のときベトナムで戦死している。

ジョージは祖母と母が不仲になった理由を始めて知ったが、祖父の話に及ぶと、勝男も房と同じように口を閉ざして語ろうとしなかった。



その夜、ジョージは「今でもアメリカを恨んでいるかアメリカ人の孫が憎くはないか」と房に聞いた。ジョージの唐突な問いかけに眠れぬ一夜を過ごした房は、翌日勝男を訪ね、すべてをジョージに話すつもりだと言う。

「和ちゃんのあのこともですか」と勝男は一瞬戸惑いを見せるが房の決意を察して同意する。2人には、何か和子に関わる共通の秘密があるようだ。
房と勝男はジョージを伴い、50年前、地獄を体験したガマの前に来ていた。「ジョージ、何もかも話すから、和子にしっかりと伝えておくれ。
固睡を飲んで見つめるジョージに房は語り始めた。

GAMA 「月桃の花」

2006年08月15日 | Weblog



1945年4月1日、北谷(ちゃたん)の海岸から戦車の群れが真っ黒に這い上がって来た、太平洋戦争の総決算として、沖縄本島を中心に日米最後の地上戦が展開されたのだ。

実家のある中城村に疎開していた房は、4歳の真吉と、1さいの和子を抱えていた。夫の真助は、防衛隊にとられ、舅と実母、義妹と義妹の赤ん坊の,一行7名は軍司令部のある首里(しゅり)を目指して避難して行ったが、やがて首里にも敵部隊が迫り、さらに南へと逃避行は続いた。

昼夜を分かたぬ間断ない砲爆撃、山は割られ、村々は焼き尽くされ地面を叩きつける硝煙弾雨の中を、房たち一行は生活道具を提げて泥道に散乱する死体をまたぎながら歩き続けた。
途中、舅(しゅうと)と実母、義妹と其の赤ん坊の4人が次々と鉄の暴風の餌食になっていった。和子を背負い、怪我をした新吉の手を引いて命からがら、逃げ込んだガマの中には、敗残兵と避難民が雑居していて、絶えずにらみ合っていた。
不安なガマ生活の房親子を手助けしたのは平良勝男(10)だった。
勝男は避難小屋にいたとき、米軍に手榴弾を投げ込まれて家族全員を失い、戦争孤児になった。

房たちに自分の失った家族を投影していたのかも知れない。とりわけ、真吉や和子、弟や妹のように可愛がった。
戦局はますます悪化し、直撃弾がガマを見舞うようになる。

真吉は傷が原因で高熱を出してうなされつづけた。房は、父を恋う真吉のうわ言を聞きながら胸を痛めた。夫の真助はどこにいるのだろうか…生きているのか….死んでしまったのか….房は夢を見た。戦争前の家族団らんの幸福な日々の夢だった。




いよいよガマが猛攻撃を受けた。轟音と共に岩天井が落盤し、壕内は大混乱となった。そして、遂に真吉が岩下の下敷きになって事切れた。そんな時、夫の真助が現れた。防衛隊にとられた真助はハワイ帰りで英語が出来るという理由でスパイ容疑をかけられ、危うく処刑されるところを脱走してきたのだ二人は真吉に何もしてやれなかったことを詫びながら泣き泣きガマの奥に遺体を埋葬した。

馬乗りされたガマに最後の時が迫っていた。米兵はしきりに投降を呼びかけてくるが、「敵の捕虜になるものはスパイとみなして処刑する」という運命で、日本兵たちは住民に銃口を向けて脱出を許さない。地下川は涸れ、食料も底を付いて飢餓地獄の様相を呈していた。

赤ン坊や幼児が泣き叫ぶ「子供を泣かすな!敵は音波探知機で探っているのだ!泣くものは始末するぞ!」

親たちは我が子の口をふさぎ黙らせるのに懸命だった。房も
和子に乳房をふくませ泣き声が洩れないように強く抱きしめた.その様子を勝男が悲しそうに見つめていた。
房が和子の異変に気ずいたのは間もなくだった。仰天した房はぐったりした和子を抱いて夫の真助が身をひそめている、
ガマの奥え走った。
「あんたァ~、和子が、和子が!」

真助は房を日本兵の人質に残し、米軍と折衝するためにガマをでた。
そして交渉が成立し、喜び勇んで戻って来た時、其の背後には米兵の姿があった。敵を誘導してきたと勘違いした日本兵は真助を射ち殺した。

狂ったように真助に走り寄る房、米軍の一斉攻撃が始まった。火炎放射の猛火がガマを襲い、迫撃砲が容赦なくぶち込まれた。避難民の間に手榴弾の炸裂音が次々と響く。
断末魔の呻き声が壕内に充満し、阿鼻叫喚の地獄図が現出した。
ガマの外で硝煙の漂う中、和子の遺骨を抱えた房が霊魂のように立っていた、
。その時かすかに聞こえてくる、赤ん坊の声泣き声、房は声に呼び寄せられるように近づき、和子の遺体を置くと、その赤ん坊を抱き上げた。

ショージ、勝男、房のそれぞれの目に涙が光っていた。ジョージが呟く「それがママだったんだ・・・・」房はこれまで真実を隠していた事を、ジョージとアメリカの和子に詫びた。

ジョージも又、母の命を救ってくれたからこそ、今の自分が存在している事で房に感謝した。「前より、もっとおばあちゃんを愛しています。」
ジョージが房をそっと抱きしめた。翌1995年、摩文仁の丘に “平和の礎”が完成した。林立した礎には、敵味方を超えた戦没者23万人余りの名前が刻まれている。その中に

「宮里和子」の名前もあった。




GAMA 「月桃の花」

2006年08月15日 | Weblog
10,10空襲のときあなたはどこでどうしていましたか?
私(このブログの管理人)は当時小学校3年生でした。
朝6字頃起床、登校準備中でした、いきなり大きなサイレン
の音が、数箇所から鳴り響きました。又今日も演習かと思っていたら次に拡声器から、「敵機来襲」「敵機来週」住民は直ちに自宅の防空壕に避難して下さい。と呼びかけていました。
それから数10分後数100機の米軍飛行機が来襲、飛行場や軍事拠点、那覇港湾内に停泊中の船舶等めがけて、猛爆撃が始まった。正午まで続いた、午前中で那覇港は火の海となった。戦争中でも敵軍は食事にでも行ったのか1時間ほど敵飛行機の姿が見えなくなりました。その間に屋敷内防空壕から家族全員近くの山(山下町)祖先のお墓ガマの中に骨壷を片方に寄せて避難しました。
午後1時頃になると第2派の空爆が始まった。今度は限定爆撃ではなそうだ、無差別猛大空爆である。大量の爆弾攻撃、住宅地域へ焼夷弾を雨のように落としました。避難壕の入り口のすき間から攻撃する敵飛行機が見える。沖縄のことわざに「ウトゥルシムンヤ、ミイブシャムン」と言うことわざがあります。恐ろしいけど、怖いけど見たいと言うことです。
爆撃は午後5時頃まで続き、1日にして那覇の町は火災によりすべて焼き尽くされてしまった。
今日から住むところがない、ただ茫然として家族全員目から涙が止まらない。
其の後の判明で米海軍第3艦隊所属の第38高速空母機動部隊(マーク。A。ミッチャー司令官)は10月10日早朝から、グラマンF6Fヘルキャット艦上戦闘機や爆撃機など延べ1396機の艦載機を投入、沖縄本島を中心に奄美大島以南の南西諸島の主要な島々に大規模な波状攻撃を加えた。とされています。

この空襲で、飛行場や港湾など、軍事拠点だけでなく民間施設に対する、無差別爆撃が9時間続いた結果、少なくとも軍人、軍属、民間人を含む668人が死亡、768人が負傷した。
海上でも空爆と潜水艦攻撃により民間船舶を含む約200隻が沈没、久米島近海では民間人数100人が犠牲になった。沖縄の第32軍司令部(牛島満司令官)が置かれた那覇市は家屋の9割が全焼全壊。南西諸島を襲った初の本格的空襲で県民の1ヶ月分に相当する米や、医薬品などが多大な損害を被った。空襲直後、泉守紀知事は県民に避難命令を出しました。


GAMA 「月桃の花」 

2006年08月15日 | Weblog
10,10空襲後どこに避難しましたか
私達家族(8人、祖父母2、父母2、兄夫婦2、子供2)は知人を介して中部の読谷村字「宇加地」へ避難のため出向きました。祖母当時73歳は目が不自由でしたので馬車1台借りて荷物と祖母を乗せ、私達は馬車を追って目的地まで歩きました。一昼夜過ぎてやっと宇加地に到着、何故か当の人は半分しかいない様子、こちらも避難命令が出てもつと安全な場所北部山原へ避難したらしい。「今から考えると読谷村は、安全避難場所ではなかったのです。もっとも激しい戦場でした。」

当時はどこが安全か、激戦地か予測できませんでした。
でも当の後方岩盤の山中腹のところに、「ウフガマ」
があります。入り口は大人がかがんでやっと通れる大きさ、内部は30坪程度、結構広く感じました。の人約80人程、ほかに避難してきた人達、私達、全部で100人余り、入っていました。このガマは大変頑丈で頂上に爆弾落としても、びくともしないガマといわれていましたね。

アメリカ軍の沖縄上陸の日、「1945年4月1日」がまの前にアメリカ兵が現れ、「カマーン、デテキタラ、コロサナイカラ、ハヤク、デテキナサイ。」となんども叫んでいました。でも誰も出ようとはしません。私の父母が危険を察知したのか、私達家族から先頭に出て行きました。

すると皆後について出てきました。出てみると、鉄砲担いだアメリカ兵たちが、前からも、後ろからもついてきて、海岸の広場に集められました。
海を見ると数え切れないほど沢山のアメリカ軍の大きな軍艦が島を包囲していました。アメリカ軍の巨大な戦力を見せ付けて、抵抗しないように海岸に集合させたのではないでしょうか。
其の後アメリカ軍の将校が、「タベモノアル、キモノアル、
シンパイナイ、イエアルヒト、ジブンノ、イエニ、カエリナサイ、」と言って、集まった人数を確認すると、家に帰してくれました。

「次のページへ続く」





注。同じ村内のチリチリガマやほかのガマに避難していた住民はアメリカ軍の投降勧告に応じなかったため
火炎放射器やガス爆弾など投げ込まれ全滅させられ全員死亡、と聞かされました。どこでもガマから出てきた所は無事助かったそうです。

それから1週間ほど経過してから、村人は全員軍用トラックに乗せられ石川の集合避難民所に移されました。ここから戦後の生活が始まりますが、………10,10空襲の体験談はこの辺で終了させて頂きます。最後まで読んで頂いて有難うございまし。

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1万人のエイサー踊り隊

2006年08月03日 | Weblog
1万人のエイサー躍り隊 
2006年夏祭りin 那覇

今年で12回目を迎えた2006年夏祭りin那覇 
躍動感あふれる「1万人のエイサー躍り隊」のパレードが
30日(日曜日)午後から那覇市国際通りで開催された。

パーランクーや大太鼓の力強い音や指笛が沿道いっぱい響き渡った。
歩道を埋め尽くした観客はエイサーの熱気に包まれた。

パレードが始まった午後3時、那覇市の気温は33度快晴かんかん照り。
創作エイサーや角青年会の伝統エイサーなど次々に繰り広げられた,
汗を流しながら演舞する子供達や大人に観衆は大きな拍手を送り、
演舞者と観衆が一体となるお祭りムードが沿道を覆った。

エイサーは迫力と躍動感があって素晴らしい、エイサーを見ると血が騒ぐ、
子供から大人まで一緒に楽しめる沖縄の文化だ。

エイサー写真は数十枚撮影の中から 5 枚掲載しますどうぞご覧下さい。♪