
本当は今年のTDFマリツアーへ私も行く予定でしたが
訳あって延期、その代わりに国内のジェンベ繋がり仲間へ会いにいこう!ってことで
楽人の高校入学諸々が終わった先週末、杜の都仙台の大将ティンゴ達のイカしたバンドぽれぽれの皆さんに会いに行ってきました。
仙台行はティンゴたちに会いたかったのと、あと一つ被災地をこの目でまだ見てなかったという、家族だぁ足手まといだぁとかなんだかんだ言いながら足が遅かった自分への叱咤と、自分の中で何か腑に落ちなかった「何か」を腑に落としに行くという旅でした。
18日(金)夜町屋のお店を閉めてからたんぽぽで一杯、その後町屋面と練習会で一緒に汗流してからまた一杯やって夜行バス出発ギリギリで乗り込みました。一番安くて4列シートだと新宿→仙台で2,500円でありましたがさすがに3列シートで。それでも5,200円だもん。安!
19日(土)朝6時に仙台着、そのまま吸い込まれるように仙石線で石巻へ向かいました。
仙石線は津波のダメージで松島海岸から先数駅が線路ホームもろとも流れ去ってしまい、代行バスで矢本まで。途中の道はそこかしこに大きなひび割れが3年たってもそのまま残っていて、バスが超低速走行しかできません。矢本駅からまた電車に乗り込み石巻まで。朝7時台ということもあってか電車内は高校生しか乗ってません。よくよく考えてみれば大人はみんな車なんだね。

石巻駅から震災当時2,500人が避難所として利用していたというイオン石巻へバスで向かいます。

もし東京で大震災が起こった際に近所のイオン東久留米が同じような行為をしてくれるかどうかはわかりませんが、もしそうならばどんな感じなのかな?って思って。
イオンからは仮設住宅循環のバスが1日3本出てました。

イオンの存在悪は様々ありますが、緊急時のライフラインとしての大型店ってその悪を飛び越えるのかもしれません。
そこから石巻駅までバス停で1個なので歩いちゃえ!ッて思って歩き出しましたが歩けどあるけど駅らしきものが見えてきません。通りすがりのお姉さんに石巻駅はどっちですか?って聞いたら唖然とした顔して「歩けませんよ・・・」だって。諦めて丁度仙石線蛇田駅があったので電車に乗りました。
石巻市街地は一見メディアなどで見た凄惨な景色など無かったかのような様子でしたが、何か不自然な空き地とか、よく見ると根本からモゲた鉄骨の跡があったり、かすかにドブ臭さが漂っていたりと、ズンってくるものがありました。

以前テレビで石巻日日新聞社が手書きの壁新聞を避難所などに掲示して市民に情報提供していたのが紹介されていたのを思い出して、ふと飛び込んだギャラリーに本当に偶然にその壁新聞を制作した現場の報道部長であった武内さんと実際に掲示していた手描きの壁新聞がいらしたのです。
最近交通事故続きで不運・・という日記を前回書きましたが、この偶然はその反動・・としか思えませんでした。

武内さんからは当時の様子や、助かった人たちと助からなかった人たちの違い、そして一番聞きたかった「10年以内に確実に起こると言われている首都圏大地震が起こったとしてどんな対応をシュミレーションしておけばよいか?」を伺うことができました。
武内さんは本当に実直で穏やかでそして暖かな方で、突然飛び込んできた髭禿男に懇切丁寧に・押し付ける風も全くなく話してくださいました。
東京湾が大津波に襲われるのは今の常識では「考えづらい」ですが、その軽はずみな「憶測」が一番問題で、「もし」をしっかり考えておくこと。具体的に高台のない下町、どうすればいいでしょうね_?と聞くと「少し高めのビルはありますよね。エレベータは使えなくなるので一番近い大きめのビルの非常階段などを今の内にチェックしておくというのはどうでしょうか」
と。これぞあの津波を石巻日日新聞社の社屋上から愕然として眺めた、そして町の様子をあの状況下で客観的事実としてマジック手書きで書いた武内さんの腹から絞り出した言霊だ、と感じました。
あと子供たちとよく大地震について話し合うことの必要性もお聞き出来ました。
武内さん、本当にありがとうございました。
武内さんから教えてもらった石巻の現状が一望できるという日和山に登ると未だ戦後の焼け野原のような海側の景色が一望出来ました。

それから町の人から何か聞けたらと思いぶらっと飛び込んだ喫茶店「むぎ」。

東京では町屋の「はまゆう」くらいしかお目にかかれない昔ながらの喫茶店で、おかあさんがサイフォンで美味しそうなコーヒーを入れてくれました。「この辺りは津波来たんですか?」と聞く私に当時の様子を丁寧に優しく話してくれました。

チリ地震を体験していたおかあさんは一発目の揺れのあと川を見に行ったらしいのですがチリ地震の時のように水がまったく引いてなかったので大したことはないのでは?とたかをくくりそうになったのですが、当時電気が止まってしまったので寒くて寒くて少し高台に有る集会場まで暖を取りに行ったそうです。そしてしばらくして続々と避難してくる人々から大津波が来たことを聞いたそうです。
おかあさんが助かったのはチリ地震を体験していたので「集会場へ行く」という「事前設定」がなされていたのです。
前述の武内さんの話でも事前設定が何しろ重要・・・とおっしゃってました。
一見当たり前のことのように思えますが、凄まじい揺れ・火事・津波・パニック・・などいくつかのケースで想定できる「事前にどう行動すればよいか?」をしっかり家族・職場のみんなと話し合っておく・・・「備え」が重要だと痛感しました。
むぎのおかあさんに別れを告げて、石巻焼きそばと石巻餃子とガソリンを補給して、

さあぽれぽれの大将達がジェンベ構えて待ってくれてる仙台へ高速バスでドカーーンと飛びます。
続く
訳あって延期、その代わりに国内のジェンベ繋がり仲間へ会いにいこう!ってことで
楽人の高校入学諸々が終わった先週末、杜の都仙台の大将ティンゴ達のイカしたバンドぽれぽれの皆さんに会いに行ってきました。
仙台行はティンゴたちに会いたかったのと、あと一つ被災地をこの目でまだ見てなかったという、家族だぁ足手まといだぁとかなんだかんだ言いながら足が遅かった自分への叱咤と、自分の中で何か腑に落ちなかった「何か」を腑に落としに行くという旅でした。
18日(金)夜町屋のお店を閉めてからたんぽぽで一杯、その後町屋面と練習会で一緒に汗流してからまた一杯やって夜行バス出発ギリギリで乗り込みました。一番安くて4列シートだと新宿→仙台で2,500円でありましたがさすがに3列シートで。それでも5,200円だもん。安!
19日(土)朝6時に仙台着、そのまま吸い込まれるように仙石線で石巻へ向かいました。
仙石線は津波のダメージで松島海岸から先数駅が線路ホームもろとも流れ去ってしまい、代行バスで矢本まで。途中の道はそこかしこに大きなひび割れが3年たってもそのまま残っていて、バスが超低速走行しかできません。矢本駅からまた電車に乗り込み石巻まで。朝7時台ということもあってか電車内は高校生しか乗ってません。よくよく考えてみれば大人はみんな車なんだね。

石巻駅から震災当時2,500人が避難所として利用していたというイオン石巻へバスで向かいます。

もし東京で大震災が起こった際に近所のイオン東久留米が同じような行為をしてくれるかどうかはわかりませんが、もしそうならばどんな感じなのかな?って思って。
イオンからは仮設住宅循環のバスが1日3本出てました。

イオンの存在悪は様々ありますが、緊急時のライフラインとしての大型店ってその悪を飛び越えるのかもしれません。
そこから石巻駅までバス停で1個なので歩いちゃえ!ッて思って歩き出しましたが歩けどあるけど駅らしきものが見えてきません。通りすがりのお姉さんに石巻駅はどっちですか?って聞いたら唖然とした顔して「歩けませんよ・・・」だって。諦めて丁度仙石線蛇田駅があったので電車に乗りました。
石巻市街地は一見メディアなどで見た凄惨な景色など無かったかのような様子でしたが、何か不自然な空き地とか、よく見ると根本からモゲた鉄骨の跡があったり、かすかにドブ臭さが漂っていたりと、ズンってくるものがありました。

以前テレビで石巻日日新聞社が手書きの壁新聞を避難所などに掲示して市民に情報提供していたのが紹介されていたのを思い出して、ふと飛び込んだギャラリーに本当に偶然にその壁新聞を制作した現場の報道部長であった武内さんと実際に掲示していた手描きの壁新聞がいらしたのです。
最近交通事故続きで不運・・という日記を前回書きましたが、この偶然はその反動・・としか思えませんでした。

武内さんからは当時の様子や、助かった人たちと助からなかった人たちの違い、そして一番聞きたかった「10年以内に確実に起こると言われている首都圏大地震が起こったとしてどんな対応をシュミレーションしておけばよいか?」を伺うことができました。
武内さんは本当に実直で穏やかでそして暖かな方で、突然飛び込んできた髭禿男に懇切丁寧に・押し付ける風も全くなく話してくださいました。
東京湾が大津波に襲われるのは今の常識では「考えづらい」ですが、その軽はずみな「憶測」が一番問題で、「もし」をしっかり考えておくこと。具体的に高台のない下町、どうすればいいでしょうね_?と聞くと「少し高めのビルはありますよね。エレベータは使えなくなるので一番近い大きめのビルの非常階段などを今の内にチェックしておくというのはどうでしょうか」
と。これぞあの津波を石巻日日新聞社の社屋上から愕然として眺めた、そして町の様子をあの状況下で客観的事実としてマジック手書きで書いた武内さんの腹から絞り出した言霊だ、と感じました。
あと子供たちとよく大地震について話し合うことの必要性もお聞き出来ました。
武内さん、本当にありがとうございました。
武内さんから教えてもらった石巻の現状が一望できるという日和山に登ると未だ戦後の焼け野原のような海側の景色が一望出来ました。

それから町の人から何か聞けたらと思いぶらっと飛び込んだ喫茶店「むぎ」。

東京では町屋の「はまゆう」くらいしかお目にかかれない昔ながらの喫茶店で、おかあさんがサイフォンで美味しそうなコーヒーを入れてくれました。「この辺りは津波来たんですか?」と聞く私に当時の様子を丁寧に優しく話してくれました。

チリ地震を体験していたおかあさんは一発目の揺れのあと川を見に行ったらしいのですがチリ地震の時のように水がまったく引いてなかったので大したことはないのでは?とたかをくくりそうになったのですが、当時電気が止まってしまったので寒くて寒くて少し高台に有る集会場まで暖を取りに行ったそうです。そしてしばらくして続々と避難してくる人々から大津波が来たことを聞いたそうです。
おかあさんが助かったのはチリ地震を体験していたので「集会場へ行く」という「事前設定」がなされていたのです。
前述の武内さんの話でも事前設定が何しろ重要・・・とおっしゃってました。
一見当たり前のことのように思えますが、凄まじい揺れ・火事・津波・パニック・・などいくつかのケースで想定できる「事前にどう行動すればよいか?」をしっかり家族・職場のみんなと話し合っておく・・・「備え」が重要だと痛感しました。
むぎのおかあさんに別れを告げて、石巻焼きそばと石巻餃子とガソリンを補給して、

さあぽれぽれの大将達がジェンベ構えて待ってくれてる仙台へ高速バスでドカーーンと飛びます。
続く
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