
【山域】 赤城山
【山名】 鈴ヶ岳(1564.7m)
【山行日】 2009年6月27日(土)
【メンバー】 単独
【地図】エアリア20『赤城・皇海・筑波』1999
1/25000「赤城山」
【参考図書】『志賀直哉全集 第三巻』(岩波書店)
『志賀直哉 上下』(阿川弘之著 新潮文庫)
【天候】晴
【コース】
新坂平 09:50 - 10:35 鍬柄山
鍬柄山 10:45 - 11:25 鈴ヶ岳
鈴ヶ岳 12:10 - 13:05 湖尻・深山分岐
分岐 13:15 - 14:15 赤城キャンプ場
キャンプ場 14:25 - 15:40 深山バス停
【山行記】
山との出逢いというのもいろいろな出逢い方があるだろうが、本との出逢いもまた様々である。ある山に登るとそこから見える他の山が気になって、その山に登る、するとまたその山から見える別の山が見えてそこへ登りたくなる、というような連鎖があるが、私の場合、これと同じ様なことが、小説という場でここ数年起きており、最近では長編小説を読むのもほとんど苦にならず、読み出すと上下巻だろうと五分冊だろうとほとんど読み通してしまう。いわゆる中途で放り出して、本棚に上巻や巻一だけがぽつんと置かれるということがなくなった。
志賀直哉の文庫本を手にしたのは、そういった連鎖とは違い、ブックオフで百五円の棚に並んでいるのを偶然見付けて手に取り、少々逡巡したものの、百円なら安すぎるし、何故か買わないと後悔してしまう気がしてならなかったからである。
今では新潮文庫の『暗夜行路』は上下巻に分かれておらず一冊の分厚い文庫になっており、巻末には膨大な注釈がつけられているということにまず驚いた。『暗夜行路』という作品は、長年の父親との確執から和解に至った過程を克明に記したその名も『和解』という短編があったからこそ書けたと作者自身述べている。その『和解』も隣にあったので併せて買って読み直してみることにした。
志賀直哉の作品は、記憶している限り、読んだのが十代の学生の頃のはずで、母親に「志賀直哉の『しろのさきにて』を読むんだ」と話して、「あんた、そりゃ、『きのさき』と読むのよ、城崎温泉(きのさきおんせん)ていう温泉があってね、そこで療養したときの話よ」と笑われた、そんな可笑しなエピソードと、その後挑戦した『暗夜行路』は前篇だけが本棚に残ってみっともなかったことが記憶に残っている。
ただ、五、六年前だったろうか、どういうきっかけだったか忘れてしまったが、『小僧の神様』が読みたくなって文庫本を買って読んだが、タイトルの「小僧の神様」だけ読んで他の十数ある短編は読まずじまいでほったらかしにしてしまった。小僧が摘んだ寿司を返したところで寿司屋に嫌味を言われる場面が、本当に不憫でそれがやけに印象に残った。
『暗夜行路』に挑戦するのは、三十年ぶりか、そんなことを考えながら、まず『和解』を読んでみると、夜半過ぎまでかかったたが、ほぼ一日で読了。実際にあった父親との確執の最初の原因が、足尾鉱山の鉱毒事件だったことを初めて知った。
そして、二つ目の不和の原因というのが、志賀直哉が女中との結婚を望んだことで、これで不和がいっそう深刻なものになったという。結局、女中は暇を出されてしまい、志賀直哉はその後しばらくしてから、同じ白樺派の武者小路実篤の従姉にあたる人と結婚したのだが、この結婚でさえ、その女性が再婚で既に子供も一人いるということで、父親は反対。結婚式の列席者は武者小路実篤夫妻と、勘解由小路資承(かでのこうじすけこと)夫妻だけ。媒酌人無しで執り行われたとの話だ。そして結婚後、奥さんの勘解由小路康子(かでのこうじさだこ)は、父親との不和の板挟みなどいろいろあり、ひどい精神衰弱になってしまった。
『和解』にも『暗夜行路』にもほとんど描かれていないが、この神経衰弱のこともあって、志賀直哉は奥さんを連れて、数ヶ月だが、赤城山に住んだことがある。大沼(おの)の湖畔あたりだろうと思われるが、その頃のことを描いた作品に『焚火』という美しい短編があり、『小僧の神様』の入っている文庫本ならどれも収録していると思うので、山好きや一度でも赤城山を訪れたことのある人なら一度読んでみることをお奨めする。大沼の湖面を滑るように進むボートの様子や、焚き火の暖かそうな色や梟の啼き声、そして燃えさしの薪を湖面に放り投げるときのジュッという音とその火の粉の赤い色が目に浮かび耳に届くだろうと思う。
『焚火』は、なんの話もないという志賀直哉短編の特徴を極限まで良く表し、志賀直哉の風景描写の美しさもここに極まれり、という作品だ。こういう描写を読んでしまうと、自分が紀行文でいくら巧みに描写しようと試みた文章でも、それは所詮何処まで行っても説明文に過ぎないと感じてしまう。
志賀直哉の文章の美しさには定評があって、かの夏目漱石と芥川龍之介でさえ、その対談の中で、「志賀直哉みたいに書きたいと思って書こうとしてもとても自分は真似できない」と口を揃えて認めているほどで、他の多くの作家や作家を志す者たちも、志賀直哉の文章を丸写しして文章修練に励んだという。
ただ、志賀直哉の文章というものを、恐らく我々のような凡人が何度筆写したところで、私たちの文章がああいう見事な筆致となるわけではない。志賀直哉は技巧が優れているというわけではないのだ。小林秀雄が言うように「ああいう美しさは観察と感動とが同じ働きを意味する様な作家でなければ現せるものではない」のだ。安っぽい言葉になるが、「感性」がなければ、どう筆を捻ってみたところで美しい描写は生まれてこないということだ。
ちなみにこの『焚火』を読んで感動した英国人学生が、苦労して書き上げたその翻訳を持ってオックスフォードの編集者の所を訪れた際、言われたのは、「いったいこれはなんの話なんだ」という感想だったというエピソードは興味深い。つまりは、志賀直哉の書いた日本語の文章であるからこそ、感動を呼び覚ますのであって、同じ話を他の人が文章にしてもおそらくは誰の心も揺さぶれないことの証左である。そんな志賀直哉がどうして日本の国語をフランス語にしたらいいなどと発言したのか、こればかりは理解に苦しむが、志賀直哉自身はフランス語に堪能なわけでもなんでもないというのは本当のことらしい。
『暗夜行路』を読み終わり、他の短編もおおよそ文庫本で読んでしまおうかという頃、志賀直哉の末弟子である阿川弘之の『志賀直哉』(上下巻)を新潮文庫で手に入れて読んでみた。阿川弘之なんて知らないという人も多いかも知れないが、テレビで有名な阿川佐和子のお父さんにあたる人で、実際に小説も多数執筆しているれっきとした小説家である。阿川弘之の作品は他に読んだことがないが、志賀直哉に興味のある人はこの大部の作品を読まずにすますことは出来ないと思った。それほど面白く読めた。
他に赤城のことを書いた作品はないかと志賀直哉全集に当たってみると、『赤城にて或日』というのが見付かった。読んでみると、鈴ヶ岳に登ってそこで野宿をして一晩あかす話である。鈴ヶ岳は「鈴」と称され、山頂か山頂付近の岩穴に泊まったと書かれている。
一度雪の残る頃鈴ヶ岳に登ったことがある私は、その泊まった岩穴を見てみたくなった。山頂付近にそんなものがあったろうか。。。寒い日で雪が積もっていたので、気がつかなかったのかもしれないが、今行けばわかるのではないか。そんな興味もあって、鈴ヶ岳を再訪することにした。
志賀直哉が赤城に住んでいたのは大正四年(1915年)の五月から九月であるから、直哉夫妻が鈴ヶ岳で野宿したのは九十四年前、ほぼ百年近く前の話だ。当時と今とでは、大沼周辺の様子はもちろん、鈴ヶ岳の様子も随分変わってしまったかも知れない。ただ、登山道、とりわけ、尾根伝いの登山道というものはそれほど変わるものではないだろうから、帰り途、少しだが彼らの足跡を辿ることが出来るかも知れない、そんなことを考えながら夏の臨時便である前橋駅発赤城山ビジターセンター行きのバスに乗り込んだ。
前橋からのバスは約一時間で大沼の湖畔、赤城大洞に着く。志賀直哉の頃は当然バスなど通っていなかったから、彼らは移住にあたり、前橋で馬を雇い、荷物と奥さんを馬に乗せて、直哉自身は馬子と一緒に歩いて行ったという。上掲の阿川弘之著『志賀直哉』によれば、七里の道のりということだが、標高差もあるので七里といっても七時間ではとても着かなかったろう。山歩きをやっていて歩くのが好きな私でも、三十キロ近い路、それも登りを歩き通すのは相当大変なことだ。
居眠りをしたり日焼け止めを塗ったりして時間を潰しているうちに新坂平のアナウンスがあったのでベルを押して下車。今日は熊谷で三十五℃の猛暑予想だが、さすがに標高1300mでは涼しい。前年もこの時期に新坂平で下車したが、去年満開だったレンゲツツジは、もうほとんど落花しており、二週間ほどの違いだが、時期がずれてしまうと花の見栄えもだいぶ違ってくる。
バス停前で簡単な屈伸運動をしてから前年とは逆の方向へ歩き始める。エゾハルゼミの鳴き声も昨年ほど喧しくはなく、花にしろ虫の鳴き声にしろ自然の様相というのは、その盛衰の時期がはっきりしているものだと思う。すぐに自然林百パーセントの樹林帯に入る。赤城は現在でも植林がほとんど無いのがうれしい。植林帯の薄暗さや陰湿さに比するまでもなく、自然林の森は歩いていて非常に気分が好い。葉の色は既に新緑の段階を過ぎて、濃厚な色へと変化しているが、森の明るさは新緑の時と同じく陽の光に呼応するかのように瑞々しく輝いていて、身体によい刺激を与えてくれるのを素直に感ずる。
稜線へ出る。尾根上にもレンゲツツジの葉をつけた木が多数見付けるが、どれも花はほとんど残っていない。たまにヤマツツジを見かけるがこちらも咲き残りが萎れている程度。歩を進めるうちに姥子峠、鍬柄峠共に峠の西側に踏み跡が見付かった。いつか秋か冬枯れの日にでも辿ってみたいと考える。尾根を更に上がっていくと、後ろから鈴の音とドスッドスッという大きな足音が聞こえてきた。足音が近づいてきたところで、径の端に寄って、先に行ってもらうことにした。大粒の汗をふきだし息が上がっている二人組。この暑いのに服を何枚も着重ねている。よくいる健康の為に歩いている(走っている)という人たちだろう。それにしてももう少し静かに歩けないものか。新坂平のバス停で降りたとき、私の他にもう一人いたがその人は逆方向に歩いていったので、今日は静かな山歩きが出来ると期待していたのに。…
先に行ってもらった足音が遠のいていったので少しホッとしたのだが、少し先に鍬柄山があって、そこで足音の主たちも休憩していたので、結局追い付いてしまった。先に行ってまたあの足音で迫られるのも厭なので、二人組が出発するまで私もここで休憩をとることにした。山頂は見晴らしが良く、大沼と黒檜がよく見え、頂上にアンテナのある地蔵など他の赤城の山々もよく見える。トンボが無数飛び回っていた。
二人組が鍬柄山をあとにしたので、私もしばらくして腰を上げた。痩せ尾根の道を鈴ヶ岳の鞍部まで下る。とすぐに前に例の二人組がいて、下りとなると苦手らしく見える。追い付いても抜かすことも出来ないので、しばらく痩せた尾根道で待機して、距離が出来たところで進むことにした。と、その時足もとが滑って尻餅をついた。幸い怪我はなかったが、山の事故というのは得てしてこういうなんでもないところで起こるものだと気を引き締め直す。
鞍部は見覚えのある場所で季節が変わっても、そう変わりばえのしないことにむしろ意外な感を抱いた。ここから山頂までは地図で見るより結構登りごたえのある径であることは記憶に残っていたので、ゆっくりとマイペースで登っていく。途中例の二人組を結局追い抜くことになり、見覚えのある石碑をいくつかたどり、高度を上げていく。シロヤシオの木が沢山みつかるが、さすがにもうこの時期では花の咲き残りどころか花殻のひとつも見付からない。花の時期であればこの登りも苦にならないだろうと思われるほどシロヤシオの木やアカヤシオらしい木が青い葉を広げ、それが陽の光に輝いている。二十分ほどの登りで山頂に着き、ちょうど時間も正午を指していたので、鈴ヶ岳の山頂で 昼食とした。陽の光が強く日向では暑いので、日蔭になっている場所を見付けて腰を下ろした。
食事をしていると、単独の男性が近づいてきて、こっちの方へはよく来るのかとか、鈴ヶ岳は初めてかとか、聞いてきた。悪い人ではないのだろうが、この男、くわえ煙草で話すのがどうにも閉口だった。山で初めて遇った人と話すのは楽しい。だが、マナーはわきまえてもらいたいものだと思う。そして、この手の人の話というのが、どういうわけかいつも、自分が何処に登ったとか、何処から何処まで何時間で歩いたとかいう本人の自慢話に終始することが多いのは二重に苦痛である。この日もさんざん聞かされそうだったので、こちらとしても防御の意味で無愛想な生返事をして体良く追い払うことに決めた。
山頂で長居をして、閑散として静かになったところで、志賀直哉の泊まったという岩穴を探したが見付からなかった。何年も経って、同じ岩穴に入ろうとする人が多くて危ないということで埋めてしまったのかも知れない。いやもしかすると小説にするときに実際と少し変えて書くことはよくあることなので、泊まったのは山頂付近ではない別の場所にある岩穴かも知れない。…先ほどの鞍部まで往路を戻ることにした。
鞍部からはまだ歩いたことのない鈴ヶ岳の北側を半円形に回る径を下ってみることにした。出張峠との分岐まではおそらくは志賀直哉たちが歩いた径と同一であろうから、この途中にもしかしたら岩穴のようなものがあるかも知れない、と注意して見ながらシダの生い茂るアカマツ林を下っていくと左手にひとつ岩穴のようなものが見付かった。しかし、崩れそうでここに寝るのは些か恐ろしい気もする。入ってみる勇気もなかった。
出張峠との分岐で休憩をいれる。道は三方に分かれており、ひとつは出張峠へ行く径で、あとの二つは深山へ下る径だ。左の径は広々としているが、未舗装の車道のようで、面白味に欠ける気がし、右の山径が続く方を辿ることにした。指導標に蝉の抜け殻がしがみついているのが面白く、写真に収めた。
しかし、この選択はあまり芳しいものではなかった。径は関東ふれあいの道で最低限の整備はされているものの、歩かれずに荒れている径特有の状況がいくつもあった。途中、沼尾川の方へ下ってしまいかねない踏み跡などもあって、注意していないとそちらに引きこまれて厄介なことになりかねない。さらに後半車道と合流するまでの間は、下草がうるさく、その下草の裏に棲み着いている蛾を眠りから覚ましてしまうらしく、歩く度に小さな蛾が無数に飛び立ち、これが五月蠅くて仕方がなかった。
車道と合流してすぐに展望の丘にあがる道を見つけたので上がってみると、アヤメが咲いていて美しかった。このあたりは、登山地図にない径がいくつもあるようで、余り深入りせずに車道へと降りる径を素直に下って車道に戻った。あとは、以前に歩いたことのある長い車道歩きである。赤城キャンプ場で足休めをしたあと、舗装道路を延々と歩く。登山地図に掲載されている55分ではとてもたどりつかないことは以前歩いたことがあるので知っている。
前回歩いたときは冬だったので、車には一台もあわなかったが、今回はさすがに夏を前にしているだけに数台と遭遇した。途中でミヤマクワガタの死骸をみつけ、深山へ向かうことと奇妙なアナロジーのように感じる。それにしてもこんなところに棲息していたのかと少し驚くと同時に嬉しく思う。深山の集落を見下ろすところで今度は生きたヒラタクワガタの雌を見付けたので、轢かれないように道の真ん中から端に移してやった。
小さい頃、生家の裏の雑木林でクワガタやカブトムシをよく捕ったものだった。だから見れば今でもどのクワガタか名前をすぐに言うことが出来る。ただ、カブトムシは見付かってもミヤマクワガタとオオクワガタだけは滅多に見付からなかった。 今の子供たちは、クワガタを買うしかないという。考えてみるとかわいそうなことだ。クヌギやコナラの木を蹴るだけでなく、木の根の穴を掘ってまでクワガタを見付けていた私たちは幸せな少年時代を送ったのだと今にして痛感する。
結局、志賀直哉の泊まった岩穴はわからなかった。だが、総ての山行きがそうであるように、この日の山歩きもやはり好いものであった。深山のバス停でバスを待っていると、子供を連れた奥さんが挨拶してきてくれた。子供たちはペットの兎を連れていた。真っ黒な兎で、水を飲ませようとしたが兎は欲しくないらしく水を飲まなかった。このペットも買ったものなんだろうか。どうも野性味に欠ける相貌で、こんな田舎でもペットの兎を街で買うのだと想像したら、先ほどのクワガタの話ではないが、何となく物哀しい気分になった。バスが来て乗り込むと、乗客は私一人だけ。渋川市の代行バスとのことで、採算が合わないが行政の要請で走っているものらしい。暑い日で自分の体臭が気になるほど汗をかいたので、日帰り温泉施設で下車して入浴してから帰途についた。