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黒古一夫先生のブログについてのよしなしごと

黒古一夫先生(筑波大学大学院教授)のブログについて幾つか思うことを書き付けるブログ

「思想」の批判と「個人」の批判

2008-09-23 02:03:53 | Weblog
自分がブログを持っていないからという理由で自分を「安全地帯に置いて」黒古一夫先生のブログのコメント欄に人々が押しかけるのがお気に召さないとのことなので、ここに書いてみます。もちろんこのブログにコメントを寄せられるのもこのブログに批判をトラックバックされるのもご自由にどうぞ。無視するのも自由です。なお、黒古先生からの反論には時間が許す限り応えますが、他の方のコメントや反論には匿名と顕名とを問わず一方的コメント削除の可能性を含めて応答したり無視したり恣意的に対応しますので悪しからず(黒古先生以外の方々はそれがおイヤならコメントを書き込んでくださる必要はありません)。

2008年9月20日付けの記事について。

お前だって石原慎太郎とか小泉純一郎とかを批判しているではないか、と批判されるのは眼に見えているが、僕は彼ら「個人」を批判したつもりは全くありません。読者に伝わったかどうかはわかりませんが、彼らの言動が示す「思想」について批判したつもりですが、俺達だってお前個人ではなくお前の考え方(思想) を批判しているのだ、同じではないか、という批判がまた山のように寄せられるのだろうな――。


まずお尋ねしたいことの第一点:黒古先生は本当に石原慎太郎や小泉純一郎「個人」を批判していないのですか。本当に彼らの「言動」に現れた「思想」を批判していましたか。この点が疑わしいと思われる最も顕著な事例として、2008年6月6日の記事から引用します。

昨日も、東京が候補地の一つになったことを受けての記者会見で、記者が「世論の支持が低いが」というようなことを質問すると、その質問を遮るように「それ は君らのせいだ」と断定し、あまつさえ「同じ日本人なのだから、(東京が開催地に決定するように)協力するのは当たり前じゃないか」というような圧制者 (ファシスト)の本質をあらわにするような発言をしていたが、本多勝一が「小心者」と言っていたのを証明するように、「チック症状」と思われる瞬きを繰り 返しながら「人を小馬鹿にした」ような笑いを交えて、悪いのはマスコミとばかりの言いぐさ、本心から「ああ嫌だな」と思う。僕など、彼のあの「人を小馬鹿 にした」ような物言いと「自分は絶対正しい。間違いはない」といった傲慢・不遜な態度が世論のオリンピック東京開催支持を低くしている原因の一つだと思う のだが、いかがだろうか。

ここでは「同じ日本人なんだから~」云々の発言が批判されています。これは確かに言動が表現する「思想」についての批判でしょう。しかし、同時に

本多勝一が「小心者」と言っていたのを証明するように、「チック症状」と思われる瞬きを繰り 返しながら「人を小馬鹿にした」ような笑いを交えて、

僕など、彼のあの「人を小馬鹿 にした」ような物言いと「自分は絶対正しい。間違いはない」といった傲慢・不遜な態度

という2つの箇所は明らかに「思想」に対する批判ではありません。というのも、仮に瞬きながら「人を小馬鹿にしたような」笑いを交えて傲慢・不遜な態度である言動がなされようと、言動の中身である「思想」にはまったく影響がないからです。言動の動機や様態は言動の意味内容(すなわち「思想」)に影響を与えることはありません。「チック症状」と「小心者」を結びつけるのも(私はこれは度し難い差別的言辞であると思いますが)、「小心者」であるという、石原慎太郎の「思想」ではなく人格的属性を否定的に評価しているわけで、これは「思想」の批判ではなく明らかに「個人」の批判です。

黒古先生は本当に上に引用したような文章でご自分が「思想」を批判したのであって「個人」を批判したのではないと思われているのですか? 先生のブログのほかの記事でも上に類したような個人批判が行われている箇所を見出すことは容易です(もし他にも挙げろということであれば適宜対応します)。もし思われているのであれば、それは単なる事実誤認であり、早急に認識を改める必要があります。もし思われていないのであれば、「私は『個人』に対する批判を行っていない」というそもそもの主張が極めて不誠実であったことになります。


お尋ねしたいことの第二点:「思想」の批判と「個人」批判の分離が出来るとお思いですか。誤った事実認識や規範的評価などの「思想」の批判は、通常そのような誤った判断へとその人を到らせた当人の知的特性(traits)への批判を含みます。むしろ、誤った判断をなさしめた知的構え(事実を調べる手間を惜しむ怠慢・論理的推論ができないこと・etc.)に対する批判を含まない「思想」の批判とはなんでしょうか。考えられる場合としては、相手の知的特性が批判には値しないのだが(というのも本人の責任とはいえない事情によって知的能力を欠いているから)、それでもその人の言動の内容たる「思想」は間違っているから批判しておく、といったものくらいしか思いつきません。また、たとえ相手が自分の賛同できる「思想」を表現しているのだとしても、その「思想」に到る思考の過程がまったく不合理であれば、我々はその人を批判するでしょう。

上のように考えた結果、もし黒古先生が自分は「思想」を批判したが「個人」を批判していないと本気で言っているのであれば、それは先生が他者が批判に値するような知性すら持っていないとみなしているということを含意します。つまり、石原慎太郎や小泉純一郎は知性をまったく欠いている、というこういうことでしょうか? 私はそれは間違っていると思うと申し上げざるを得ません。


お尋ねしたいことの第三点:先生は「思想」の批判が「個人」に対する批判でもあるが、「個人」に対する批判が必ずしも「思想」に対する批判ではないということを理解されていますか? 「個人」に対する批判は、それがその当人の言動によって表される「思想」を導く特性についての批判でない限りは「思想」への批判とは関係がありません。もし「思想」のみが問題であるならば、「個人」の批判は多くの場合に「対人論法の誤謬 Fallacy of Ad Hominem」となります。しかしながら先生はブログでこの誤謬を犯されています。もし先生が「思想」の批判にコミットされているのであれば、思想とは関係のない語り口や態度の問題は総て捨象して「思想」のみを問題にしなければなりません。仮に匿名者によるものであろうが罵倒とともになされるものであろうが、そこに表される「思想」の内容にはまったく影響がありませんから、「個人」ではなく「思想」の批判を問題にされる先生としては、それらに応える必要が出てくることになります。

むろん「匿名」で批判を行うメンタリティそのものが厭わしいので応えてやりたくないということであればそれはもちろん結構なことですが、匿名者たちから先生の「思想」に投げかけられた批判という「思想」は無傷でブログに陳列されたままとなり、「思想」の批判のみに興味ある読者はブログを見て、黒古先生が応答できない致命的な批判が行われたのだなと解することになることでしょう。また、その場合には黒古先生は他者の「思想」をではなく(またその「思想」と不可分の限りでの「個人」の特性をではなく)、相手「個人」の特性を批判していることになります(それが悪いということではありませんが黒古先生は「個人」の批判をなさっていないということですから一貫性を欠いていることにはなりますね)。

お尋ねしたいことの第四点:むろん、「思想」ではなく「個人」の特性を批判することが妥当であることは当然にあります。たとえば横領への傾向性を持った人物は銀行員としては不適格でしょう。必要な知的徳性を備えていない人物は公務員(三権のどれについても)として不適格です。また、「思想」とは関係なく「個人」の特性が問題になることは普通です。たとえば、臆病な人間は何らの思想を表現していない場合でも――つまり「思想」の批判が成立しない場合でも――道徳的批判の対象となるでしょう。黒古先生は、自分が石原慎太郎や小泉純一郎に対して、その「思想」を批判しているのであって「個人」を批判しているのではないと「弁明」された際に、何を「弁明」されたおつもりなのですか? 「思想」の批判は構わないが「個人」の批判はダメだ、という態度はおよそナンセンスです。殆どの道徳的批判は「思想」ではなく「個人」についての批判だからです。石原慎太郎や小泉純一郎の言動ではなく知的・道徳的特性、為政者としての適格性といった個人的特性そのものを批判することには――その批判が正しいものである限りに於いて――まったく問題はありません。黒古先生は

俺達だってお前個人ではなくお前の考え方(思想) を批判しているのだ、同じではないか、という批判がまた山のように寄せられるのだろうな――

と言われるとき、コメント欄での人々の批判を、黒古先生の「思想」ではなく黒古先生「個人」に向けられたものとして、不適切だと考えていることが読み取れます。私には、人々の批判が黒古先生の「思想」と「個人」の両方に適切に向けられていると思えます。コメント欄での批判によれば、「無意識」にせよ――だからこそ悪質だということなのだと思いますが――蕪村の調査の際に「法政大学名誉教授」「筑波大学大学院教授」という自分たちの「権威」に従わないといって怒る「権威主義的メンタリティ」、差別批判について常人よりも理解の深かるべき立場にありながら差別について軽く考えて、自分が擁護したいと思った作家のためであればそれに阿って差別批判の手を止め、「チック症状」が批判されるべき精神的欠点の存在を証明するなどという愚かな差別意識を丸出しにするという「差別主義的メンタリティ」、こういったものが道徳的批判の対象となるべき、黒古先生「個人」の道徳的「欠点」とされていますが、このこと自体には何ら不思議な点も不合理な点もありません。もちろんこうしたメンタリティからなされた言動の中身たる「思想」はそれ自体「思想」として発話者の動機や様態に関わりない形で批判されねばなりませんが、それに加えてこういう個人のメンタリティそれ自体もまた道徳的批判の対象としてまったく正当です。確かにここでは黒古先生の「思想」(だけ)ではなく、黒古先生「個人」への批判が行われています。そのことの何が問題なのですか? 関係があるのはそれらの批判が正しいか正しくないかだけです。

また、以上のこととも関係するのだが、「見解(見方・考え方)の相違」ということを認めない人がこの世の中にはたくさんいるんだな、ということも理屈では なく実感として知ることができました。――僕がいちいちのコメントに答えなかったのは、この「見解の相違」に基づいた「論争」は、水掛け論になると思い、 それは消耗だ、と思ったからです。それ以上でも、以下でもありません。

お尋ねしたいことの第五点:黒古先生はこのような妙に相対主義的な見解を本気で保持されているのですね? そうであるとすれば、石原慎太郎や小泉純一郎や麻生太郎は先生と「見解の相違」があるのであって、如何にご自分のブログで得々と「体制批判」を繰り広げても、もしそれに対して石原・小泉・麻生と同じ見解を持つ人が出てくれば、「論争」は水掛け論だというわけですね。都合のいいときだけ相対主義に閉じこもって自己保身を図るというのは相対主義者の常套手段ですが、黒古先生はコメント欄での人々からの批判についてひとつ初歩的かつ重大な誤りをおかしています。人々は黒古先生の数々の言動が自分自身の言動に照らして一貫性を欠き、不誠実であると批判しているのです(差別批判や権力批判をしたその口で差別擁護を行い権威主義的言動を恣にするなど)。ここでは批判者の側の「見解」などまったく問題にはなりません。言動の一貫性に関する批判は仮に「見解の相違」を認める場合にでも文句なく成り立ちます。過去のブログをつらつら拝見するに先生はご自分の一貫性(のなさ)を批判するコメントに対して「自分の政治的立場を明らかにしないのは『卑怯』である」といった反論を返されています。しかし、黒古先生の言い分からすればもし政治的立場を明らかにすれば「見解の相違」ということになるわけですから、このような返答はまったく馬鹿げています。仮に「私は右派ナショナリストです」という返答が返ってきたところでどうするのですか。仮に「私はネオ・ファシスト」であるという返答が返ってくればどうするのですか。黒古先生はそれを「水掛け論」にしかならない「見解の相違」に基づくものとご覧になっているはずではないのですか。俗流相対主義の最も醜悪な発露がここには見られます。


この「言わんや・況や」について、僕が「況や」の方が正しい言い方だ、といったのは、辞書的な意味では僕の間違いだったようです。しかし、今ここで具体的 事例を書けないのが残念ですが(時間があれば調べられるのですが)、明治以降の文学作品の中には結構頻繁に「何をか、況や」が使われていたと記憶してお り、僕もそのような使い方をするようになった、ということです。

「況や」を巡る問題は、まず第一にはブログにある信じがたいほど膨大な誤記の一部として、規範的な国語の運用能力について国文学研究者の備えているべき水準に黒古先生が達していないのではないかという批判であり(誤記を引き起こした先生の知的特性への批判)、また辞書をきちんと引いていないか(知的怠慢への批判)、辞書を引いてもそこに書かれていることを適切に読解していない(基本的研究能力の欠如への批判)ということが主として問題になっています。更に批判者を「一知半解」と罵倒したことについて、根拠のない罵倒を行うことへの躊躇がないという点が道徳的批判にさらされています。更に事態を悪くしているのは、ご自分の誤記について「辞書的にはそうだが、明治期の文学作品で何回か見たので使っただけのことだ」という応答をされていますが、これは根本的に不誠実です。辞書を持ち出したのは黒古先生であり、相手を辞書も読んでいない「一知半解」と罵倒したのは黒古先生だからです。更に、この弁明は自分の誤記について誤記の原因の説明をしようとしたものであって、誤記を正当化するようなものではありません。漱石に「六ずかしい」とか「仕合わせ」などという表記があるからといって、それらが辞書的に言って「誤記」にならないのではありません(そもそも「辞書」を持ち出したのは黒古先生なのですよ&自分の論拠に「辞書」を持ち出しておいて、相手が「辞書」に基づいて反駁したら今度は「辞書」が論拠となることを否定しようとするのは明らかに不誠実です)。したがって、言動の非一貫性や不誠実性、「誤記」の正当化を要求されたのに「誤記」の原因に摩り替えてしまう不誠実性(或いはそれらを混同するという論理的思考能力の欠如)及び、誤記の原因の説明としても具体的な明治期の文学作品の該当箇所を示そうとすらしないという学問的不誠実性が問題となっているのです。どれもこれも黒古先生自身の一貫性や誠実性、批判の手続きを問題にするものであり、「見解の相違」の問題だなどといって逃げられるようなタイプの批判ではないのです。なぜこのような批判が「見解の違い」に過ぎないなどと思われたのでしょうか。


とりあえず、以上のとおり質問と批判を述べさせていただきました。むろんご返答いただくもいただかないも自由です。申し上げるまでもないことですが、このブログの記事自体は黒古先生のご意志とは関係なく存続いたしますし、少々時間がたてばGoogleの検索などに引っかかって「黒古一夫」と検索すればごく上の方に出てくるブログになるでしょう。

黒古先生のブログの元記事は本文中に引用してありますが、先生がブログを閉鎖された場合には詳しい経過がわかるように先生のブログのスナップショットを引用として著作権法上許される形で適宜付け加えて読者の便宜に供することができます。ですので、先生がブログを閉鎖される場合でも、このブログの可読性はなんら損なわれませんのでご安心ください。



9 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Prima!! (吉高和史)
2008-09-23 12:58:05
はじめまして。黒古ブログのコメント欄を「賑々し」くさせている者の一人、吉高と申します。

このようなブログの登場を密かに待ち望んでおりました。早速拝読しましたが、きわめて的確で説得的な批判であり、素晴らしいの一言です。黒古さんには是非ともこれに応えてもらいたいところですが、まあ望むべくもないでしょうね、ああいう人ですから…(そもそも内容を正確に理解できるかどうかすら疑わしい)。

ともあれ、知性・人格いずれもあれほどまでに劣悪な人物が臆面もなく大学教授として禄を食んでいるという事実に驚き呆れ、憤りを覚える者としては(むろん、あんなのは氷山の一角でしょうが)、彼の今後の発言に注目したいと思います(黒古さんほど何か言うたびに己の墓穴を深める人も珍しいですからね)。

貴ブログの次なる更新を楽しみにしつつ。まずはご挨拶まで。
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ありがとうございます (fxxkkxmxmxtx)
2008-09-23 17:43:31
吉高和史さん

こちらこそはじめまして。黒古先生については、全共闘世代の方々の典型例ではあるな、と思います。普段は妙に教条的な割に本当に論争になると相対主義的態度を取って身を守ろうとするあたりもあの世代の方々には決して珍しくありません。なんというか、文学作品の読解や日本語の表記という専門の領域に関する事柄に到るまで、黒古先生の基礎学力に対する不安がどうにも拭えませんね(全共闘世代の方にはまま見られることです)。やはり己を省みるところではあるのですけれど。

某所に書かれていた

> 印象論に依拠した俗流若者論に乗っかって、
> 右翼・保守とみまごうばかりの回顧的精神主義を振り回す。
> そのくせ学生の味方のような顔をし、
> 大学の粟を食らいつつその権威をくさす一方で、
> 文壇や出版業界の権威をかさに着て、
> 「文学」を神聖な宗教に祭り上げてそこにひれ伏す自分を権威づける、
> 古色蒼然とした通俗的な文学主義。
> 反権威・反差別の皮をかぶった権威主義・差別主義者。
> 全共闘のミイラのかなり陳腐な典型。

というのが目下のところ、あたっているのではないかと考えざるをえないのは大変残念なことです。黒古先生ご本人の反論によってこうした疑念が根拠のないものだとなればよいのですが。


> ともあれ、知性・人格いずれもあれほどまでに
> 劣悪な人物が臆面もなく大学教授として禄を食んでいる
> という事実に驚き呆れ、憤りを覚える者としては
> (むろん、あんなのは氷山の一角でしょうが)、

まあほんとうに「氷山の一角」なのが困りものです。黒古先生のアレなところが目立つのは図書館情報大と筑波が合併して筑波大学教授になられたせいもあるでしょうね。逆にいうと、あの世代のそれほど名を知られていない大学の大学教授の方々は結構アレな人が多いのです(黒古先生はそのなかではまだ良いほうだと思います)。なので、黒古先生のアレさ加減について、大学教授なのにという驚きや呆れはあまりありません(大学教授という生き物について期待水準が下がっていますから)。知性についてはかなり微妙なところがあると私も思います。人格については「劣悪」とまで言う気はありませんが(基本的には善意の人なのしょうが、ただまあ自己欺瞞の問題はあるでしょうね)。

匿名のブログと違って実名でブログをされる場合には、実名に付属する様々な社会的属性と権威によってブログの内容について一定の信頼・信用を得ることができますが、その分批判に対して応える負担が格段に増すということも良く考えればわかることです。実名ブログには匿名ブログとは異なった長短・得失があるわけなので、いまさら実名ブログのコストについて泣き言を言っても始まらないだろうとは思いますね。黒古先生よりアレな方々が各大学に一定数棲息していることは事実ですが、彼らは実名でブログを開いてそこで放言や床屋政談をしないだけの賢明さを持ち合わせていたということでしょう。黒古先生は実名ブログでする「体制批判」や「権力批判」のもたらすストレス解消や自己顕示欲の満足――これは実名だからこそでしょう――をこれまで享受してきたわけですが、その支払いをまさに今しつつあるわけですね。
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Unknown (吉高和史)
2008-09-23 20:25:36
「印象論に依拠した俗流若者論に乗っかって…」というのは、2ちゃんねるにあったものですね。簡にして要を得た見事な評言だと思います。

あちこちの大学にアレな教授が少なからず棲息しているという話は私も仄聞していたものの、実物に接する機会に恵まれなかっただけに、黒古さんのブログはなかなか鮮烈でありました。あれは大学教授というものに対して私を含む多くの人々が抱いているナイーヴな「幻想」を打ち砕くには、まさにもってこいですね。

しかしまあ、あのように堂々と実名を(ご丁寧に屈託のない笑顔の写真まで添えて)掲げ、己のバ…もといアレぶりをこれでもかとばかりに発信しまくっている人も珍しいでしょうね。黒古さんが他の方々のような「賢明さ」を欠いていたことに感謝せねばなりますまい(そして私としては、クロコダイル・ウォッチングの楽しみに誘って下さった小谷野敦先生にも)。
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Unknown (Unknown)
2008-09-23 20:58:45
ネット上の黒古事件というのは、
全共闘というものを論じるうえでの社会文化論の材料の一つとして面白そうですね。
たんに黒古さん本人に対する個人攻撃で終わらすのではもったいないと思います。
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  (fxxkkxmxmxtx)
2008-09-23 21:24:08
吉高さん

黒古先生はかなり迂闊ですが、その分狡猾なところは余り感じられないですね(良くも悪くも狡猾さには機敏さと聡さが必要です)。屈託のない笑顔もむべなるかな。私は黒古先生が取り立てて悪い人だなどとはまったく思っておりませんが、これまでのお仕事の内容を考えると看過すべからざるご発言が余りに多いようには思います。それらは私の見るところ明示的に撤回・訂正さるべきものです。


Unknownさん

私も同感です。某所での「全共闘のミイラ」という表現はいい得て妙ですね。私も、黒古先生ご本人についてというより、全共闘世代の標本としての黒古先生に興味があります。ですので、いったい全共闘世代(特に大学に棲息している人々)が何をどう考えてあんなことになっているのかを知る手がかりになるのではないかと思っています。

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実名ブログ (Mark W. Waterman)
2008-09-23 22:46:11
はは、野次馬でここまで来ちゃった。ご苦労様です。私が運営しているブログなんかはfxxkkxmxmxtxさんと同じような動機からできたものですが、実名(本家)または実名がたどれる二つ名(分家)でやっております。

実名の理由は、どうせ誰もわからない超マイナー研究者であることと(匿名と変わりないな)、アメリカという事情ですが、日本は難しいのでしょうね。アメリカだって、配偶者が許さないというような家庭の事情で匿名ブログもあるそうですが。情けない。

実名ブログは責任も負うわけですが、たかがブログ、いざとなれば放り投げればいいことも確かでしょう。しかし、日本の大学教授って、まるで万能者みたいに専門に関係ないことまで得々と語りますなあ。もっとも、その専門さえあやしい人もいますが。

ともかく、このブログも楽しませていただきます。ありがとうございました。

野次馬より

追伸:忘れました。「全共闘世代」という言葉は同年代の方々(ベビーブーマー)に悪いのではありませんか。「元全共闘の輩」なら構いませんが。
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Unknown (fxxkkxmxmxtx)
2008-09-24 00:16:27
Watermanさん

ある一定の特定目的を除けば、ウェブ上での実名には大した意味がないと私は思っています。必要なのは「自作自演」や「なりすまし」を防ぐことくらいで。今回のこのブログの場合はfxxkkxmxmxtxというIDで充分でしょう。匿名だろうがなんだろうが接続記録などネット上に残るものなので、もし名誉毀損などで訴えようと思えば、ネット上の匿名性には大した匿名性は実際にはありませんけれども。私は普段かなり迂闊なことを言う人間なのでリスク管理のためブログなどを持たないようにしてきました。まあ黒古先生のブログに長文のコメントを書くよりはこうして別のブログに書いたものをトラックバックするのが確かに宜しいと思ったというだけのことなので、別にこのブログで私が自分のことについて得々と語るなどということはないですし。

日本の大学教授は確かに色々なことを語りたがる傾向にありますね。そのこと自体の是非はなんともいえないですが、研究者の専門家としての権威は専門についてしか及ばず他の事柄についての発言は一般人と変わらない権威と意義しかもたない、ということが読者の側できちんと了解されていれば問題ないだろうとは思います。英文学の教授や政治哲学の教授がDarwinism批判とIntelligent Design論擁護をする長文記事を載せてしまう(しかも肝心の進化生物学者はお呼びでないときた)産経新聞とかが典型的な問題事例でしょうね。学問の基礎であるcritical thinkingや或いはきちんと事実調べをするといった能力自体は専門分野・非専門分野を問わず行使できる能力でしょうからその限りにで専門外の分野についての発言にも一定の意味があるかもしれませんが、果たして日本の大学教授にそうした能力がどれだけあるかはよくわかりません。


> 「全共闘世代」という言葉は同年代の方々
> (ベビーブーマー)に悪いのではありませんか。
> 「元全共闘の輩」なら構いませんが。

これは確かにそう考えたいところなのです。しかし、実際に全共闘だった人々だけでなく、世代的特徴があるなあ、というのが私の感覚です。妙に党派的だったり、自分は小理屈を捏ねたがるくせにこちらからの理詰めの話が通じないとか(大抵途中で怒り出す)とか。まあ実証困難なので、「元全共闘」といっておくほうがよいのでしょうけれど……表記については考えておくことにします。
返信する
猫猫先生がコメントしてますので貼り付けます (とおり)
2009-01-02 11:54:30


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http://blog.goo.ne.jp/kuroko503/

黒古先生のブログが再開したようである。不都合なコメントは全部削除したらしい。私もマークス博士も匿名ではないのだが、「悪意」があると言うのだろうか。自分に対して批判的な意見を「悪意がある」というのはまったく恣意的で、とうていまともな学者のすることとは思われない。栗原さんに対してはきちんと答えるべきだろうが、私に関しては、三浦綾子に関しては「差別」をしていたという認識で良さそうだが、井上ひさしの件については答えてもらいたい。井上に関する私のコメントを削除したのは、「卑怯」以外の何ものでもない。

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Unknown (fxxkxmxmxtx)
2009-01-09 00:04:38
>「とおり」さん

お知らせありがとうございます。しばらく見ていなかったのですが、また黒古先生がブログを再開されたようで何よりです。

批判する側も黒古先生の削除の権能が及ばない自前のブログに於いて、黒古先生の文章のうち必要な部分を不足なく引用しつつ批判するとか、そのつど魚拓を取る、などする必要がありますね。
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