黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「倫理的」であることの難しさ(2)―未来は誰のものか

2012-02-09 08:55:28 | 近況
 福井県の「大飯原発」の再稼働に向けてのステルステストの「評価」や先に政府(野田政権)から発表された「原則40年を超えた原発は再稼働せず、廃炉にする」という方針、そしてまた「福島第2原発も危険な状態だった」などという情報に接すると、この国が余りにも「未来」に対して無責任であることに、怒りを覚える。特に、「再稼働ありき」を前提としたような原子力安全・保安院のステルステスト評価(再稼働に何ら問題はない)については、何日か前に報道された福井県の「市民団体」と称する組織から出された「原発は今や地場産業になっているのだから、原発は1日も早く再稼働させて欲しい(させるべきだ)」という訴えと併せて、専門家と称する人間がいかに「権力」や「カネ」に弱いかを露呈するもので、怒りを通り越して悲しくなってしまう。
 というのも、これはこのところ各新聞が連日と言っていいほどに報じていることだが、原子力安全・保安院や原子力安全委員会に所属する専門家(学者・研究者)が電力会社(東電や関西電力など)や東芝や日立といった原子力産業から、「奨学金」「研究補助金」などという名目で多額の寄付(使途を明記しなくてもいいお金)をもらっていたという事実と、そのことを暴露された研究者たちが異口同音に「寄付金と原発の安全審査とは無関係、安全に関しては客観的に行っている」と嘯いている態度を見ると、この人たちはとりあえず自分の「研究」(何のための研究か?)のためには、自分以外の他者や「未来」についてなど関係ないと考える(無責任な)輩で、このような風潮が「研究の世界」で横行しているのも、文科省が大学などへの「研究費」(予算)を削減し、その分「外部資金」という名の「奨学金」や「研究補助金」を獲得することを奨励し、研究内容などとは関係なく、多額の外部資金を得てきた研究者がいかにも「優れた研究者」であるかのように評価する風潮を助長した結果なのではないか(多額の外部資金を得た研究者は、結果的に「給料」も上がるし、「研究費」も増額される)、と自らの経験から、そのように思わないわけにはいかない。
 政・財・官・学(この額の中には、原発を容認・推進してきた「文化」も含まれる)の癒着、この「闇の中」の4角関係が「フクシマ」をもたらしたはずなのに、「フクシマ」が起こってそろそろ1年が経つというのに、彼らに何ら「反省」の色は見えず、またぞろ「甘い汁」を吸おうとしているように、僕には思えて仕方がない。僕が学生だった1960年代後半、早稲田大学の学生運動を牽引していたあるセクトは、産業界と大学の研究室が癒着している現実を告発して「産学協同路線粉砕」を叫んでいたが、あれから50年以上が経って政・財・官・学(文化)の癒着を現実的に見せられて思うのは、経済も学問も、もちろん官僚や政治家たちも、それは人間の「未来」や「幸福」を求めるところに存在するのだという「原点=倫理(モラル)」をもう一度考えるべきなのではないか、ということである。
 たぶん、僕が昨今の状況について「虚しさ」を覚えるのは、僕らが「産学協同路線粉砕」に象徴される既成のパラダイム(枠組み)を壊そうとして身体を賭け闘ったあの「政治の季節」(60年代末から70年代初め、全共闘運動の時代)の意味が、今や全く顧みられなくなっているのではないか、と思えるからに他ならない。このように書くと、たぶん、またどこぞの誰かが鬼の首を取ったかのように、あの「政治の季節」を生きた者たちを非難すると思うが、そのような自分は何もしないで他者の揚げ足取りに生き甲斐を感じているような輩はともかく、今僕が思うのは、やはり「倫理的」であることの難しさ、である。とりわけ、その「倫理的」な態度の中心(と僕が思う)「未来責任」に関して、今何らかの形で自分たちの意思表示をしなければ、後で後悔するのではないか、と思われてならない。
 何らかの「意思表示」と言うと、すぐに先のステルステスト評価を行った会場で、「フクシマの原因究明や収束が不十分なのに、再稼働ありきという会議はおかしい」と叫んでいた俳優・山本太郎(彼が物事に真摯に対応する青年であることは、故立松和平を偲ぶNHKのテレビで同席した経験から、僕は確信している)のような「行動」を、と思いがちだが、「原発」について勉強して、そこから得た思いを友人知人に伝えること、あるいは署名したり、集会に出たり、デモをしたり、さらには本を書いたりすることも、僕は全て「有り」だと思っている。そういうことの全てが、「未来」を思う「倫理的」な態度だと思うからである。
 今現在、大江健三郎や鎌田慧、落合恵子、辻井喬さんたちが進めている「脱原発 1000万人署名」が500万人を超えたという。2月28日が占めきりになっているので、「反原発」の志を持つ人でまだ署名していない人、一歩を踏み出してみてはどうですか。
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「倫理的」であることの難しさ

2012-02-03 09:43:34 | 近況
 「反原発(脱原発)」運動が極めて「倫理的」な事柄に基づくものであると説いているのは、大江健三郎であるが、大江さんが何故「フクシマ」の事態に象徴される現代社会の「モラル・ハザード(倫理観の消失・混乱)」について問題視しているのか、そこには例えば東電の事故処理を見ればすぐ分かるのだが、自分(自国)の「利益」のみを追求するあまり、これまで営々と築き上げてきた人々の「生活」を破壊しても、まず考えるのは「国益」だという、いかにもアクロバチックな対応しかできない現実があるからなのではないか、と思う。
 それは、「鎖国」をしていた江戸時代が終わり、「近代国家」として対外的な関係を持たざるを得なくなった明治以来、これまでにもことある事に「国益」優先というようなことが言われ、その結果「破滅」への道を歩むことになったのは、この国の現代史の「常識」と言ってもいいのだが、「国益」という、実は訳の分からない「国家の利益」が取り上げられるとき、決まって一人一人の「倫理」が問われるときだからに他ならない。
 大江さんが問題視しているのは、「フクシマ」に対する政府や東電、原子力ムラに集う御用学者や企業人の在り方なのだが、何日か前に発覚した沖縄防衛局長の宜野湾市長選挙に「介入」したと思われる「講話」問題に発した政府やマスコミの対応などを見ていると、最早この国を動かす立場にいる人たちからは完全に「倫理観」が失せてしまったのではないか、と思われてならない。在沖縄自衛隊の「トップ」と言っていい沖縄防衛局長が部下の職員・自衛隊員のみならず家族・親戚の名簿を作らせ、その名簿に掲載された人たちに向かって「宜野湾市長選挙に棄権せず、投票に行ってください」と講話すること自体、「権力の選挙への介入」に他ならないが、この防衛局長はそれまでにも同種の「講話」を別な選挙の時もやっていた、という。ある新聞の記事に拠れば、普天間基地の移設先として計画されている辺野古地区を抱える名護市の「受け入れは可か否か」を問う「住民投票」の際など、防衛庁(省)の役人たちがホテルに数十人が陣取って「移設受け入れ」の投票を勧める運動をしていたという。また、何ヶ月前の神奈川県の厚木基地からの米軍移転を巡って争われた岩国市長選挙では、選挙が始まる何ヶ月前に米軍の厚木基地から岩国基地への移転を勧めている防衛省のお金で、市内の小中学校の全てにエアコンが付けられる、ということがあったという。選挙の結果は、「移転賛成派」の現職が勝利した。
 このような「米軍基地」(自衛隊基地)を巡る一連の政府・防衛省の在り方を見ると、「原発」建設を巡って原発立地に「電源三法」による巨額の金(税金)をはじめとして様々な便宜を供与してきた在り方と「うり二つ」で、「国策」という名の「インモラル」が堂々とまかり通ってきたこの国とは、いったい何であるのか、と思わざるを得ない。
 このような政府(現在の民主党政権だけのことを言っているのではない。長い間「保守政治」を続けてきた自民党とそれを支えてきた公明党の「責任」の方が、むしろ重いといえるだろう)の「非倫理的(インモラル)」な在り方は、当然のように人々の暮らし方(生活や考え方の在り方)にも反映している。例えば、このブログの記事を読んでいる人は先刻承知していることだと察するが、いくら僕が「匿名でのコメントには応接しない」と言っているのに(その理由は、「対話」なり「論争」は、相互の立場や思想が明確なときにのみ成立するからである)、自分の名前はもちろん、立場(職業など)や思想(考え方)を明らかにすることなく、つまり「匿名」性の陰に隠れて、一方的に「非難(批判ではない)」する、そのような人たちは他者を「不快」にすることを喜びとする一種の「愉快犯」なのかも知れないが、迷惑きわまりない。そのような「匿名」でしか他者と関われない人は、「倫理観」など一欠片もないのかも知れないが、そのような「匿名」性こそネット社会を象徴するものだなどと開き直っているような人が多いのも、「倫理」が意味をなさなくなった社会を象徴しているようで、容認してはいけないのではないか、と思っている。
 例えば、近々の例で言えば、「元祖でかマラお」などと名乗って、コメントを寄せてくる輩、この人は一体どのようなメンタリティをしているのだろうか、と思わざるを得ない。また、余りにも「不勉強」で一方的なコメントなので、仕方なく「1回」だけという条件で応接(批判)したら、再非難(批判ではなく)してきた「閻魔」と名乗る御仁、僕が橋下徹大阪市長を「ファシスト」だと批判したら、橋下を応援しているのは堺屋太一だから、堺屋太一もファシストと批判したことになる、「黒古センセイ、えらいことになりましたぞ」なぞと、僕が堺屋太一を怖れているかのごとく言い(全く僕は堺屋太一を怖れていません、というより彼が1970年の「大阪万博」に荷担したときから、「体制派」の彼は僕とは無縁、と思ってきました)、その揚げ句に人のブログに入り込んで「応接は御無用、ひとり言ですから」などと「捨てぜりふ」を吐く、こういう度し難い「インモラル」な輩は早く引き取ってもらいたい、と思うしかないのだが……。
 ともあれ、今こそ問われているのは僕らの「倫理的」な在り方に他ならない、というのは間違いないようである。
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「タカ派」が歓迎される?――忍び寄るファシズム

2012-01-28 09:48:59 | 文学
 1昨日の朝日新聞に作家高橋源一郎の「論壇時評」が載っていたが、その中でさすが全共闘世代(学生運動経験者)を代表する表現者の一人である高橋らしく、現在の日本において重要なのは「対等・平等」を原則とする「民主主義」的な思想なのではないか、と言っていた。先のアジア太平洋戦争の敗北を機にこの国の基本を形成するようになった「民主主義」、例えばそれは「主権在民」「平和主義」「基本的人権の尊重」を三原則とする「日本国憲法」に体現されているわけだが、戦後も60有余年が過ぎ、どうも僕らが当たり前のように思ってきたその「戦後民主主義」も、いつの間にか自衛隊の海外派兵が如実に物語るように、形骸化してしまったのではないか、ということが高橋の胸奥にはあるようで、僕は高橋が提案している「民主主義」の再考に賛意を表すべきだと思っていたのだが……。
 ところが、昨日から今日の新聞やテレビニュースを見ていたら、「石原新党」なる奇っ怪な文言が繰り返し出ていて、思わず「なんじゃ、これは!」と叫ばずにはいられなかった。新聞記事によると、亀井静香国民新党代表、平沼赳夫立ち上がれ日本代表が石原慎太郎東京都知事を誘って(ということは、かつて自民党内で最タカ派と言われた「青嵐会」の元同志たちということになるが)、次の総選挙を目標に石原を党首とする「新党」結成を目指すというのだが、亀井も平沼も石原も共に70代(石原に至っては、79歳という高齢になる)、老いてますます意気軒昂、と言祝ぎたい気持もないわけではないが、今更なんでこんな年寄りが糾合して「新党」を作らなければならないのか。背景には、石原らが「橋下大阪市長や大村愛知県知事らにも声を掛ける」と言っていることから推測すれば、「地方主義」「地方の活性化・復権」など耳障りの良いスローガンを掲げながら、実は地方における「民主主義」を押し潰して「独裁」的な社会を作ろうとする橋下大阪市長(大阪維新の会)らの目論見(ファシズム社会の成立)を、かつて中央政界でそのようなことを目論見ながら果たせず、莫大な経済収入(税収)を背景にすることで、思い通りの「右派」的な政策――例えばそれは、学校玄蕃における民主主義の否定(君が代・日の丸の強制や職員会議での採決の否定、など)――を進めることが可能である自信を持った石原東京都知事の、あの不遜きわまりない発言に象徴される「野望」がある、と思われる。
 この石原、亀井、平沼らの「野望」は、「大阪維新の会」から次の総選挙に何百人規模の候補者を立てると豪語している橋下大阪市長の「野望=独裁国家の実現」と、たぶん、いずれは合流するであろうと思うと、何だか背筋が寒くなってくるが、このような石原東京都知事(橋下徹大阪市長)らの野放図としか言いようがない「野望」は、現今大問題になっているフクシマ(原発)に関して、誤解を恐れずに言えば、国家と電力会社から支払われる莫大なお金(電源三法による交付金など)に群がったり、依存してきた原発立地の首長及びその首長を選挙で選んだ住民にも、責任の一端があるように、石原慎太郎を東京都知事に選んだ東京都民や橋下徹を大阪市長(大阪府知事)に選んだ、大阪市(府)民にも、その責任の一端があるはずである。
 そのような自己批判抜きで、昨今の「民主主義」の危機は乗り越えられないのではないかと思うが、僕がもう一度考えなければならないと思うのは、「民主主義」の根幹には個人主義(インデビジュアリズム)があるのは当然として、その個人主義の根っこに「ヒューマニズム(大江健三郎風<フランス語>に言ってユマニズム」が存在すること、ヒューマニズムの根源には「生命の尊重」があること、このことを忘れてはならないのではないか、と痛切に思う。
 思い出して欲しいのは、橋下大阪市長に当選したとき、橋下に反対する票は4割を超えていたのに、「私が当選したのは民意だ。私に反対した市職員は市役所から出て行け」と言ったことである。この発言に弁護士であったとは思われない橋下の「反民主主義」の思想が良く現れている。つまり、少数意見を尊重する「民主主義」の否定、言論・思想の自由の否定、反対派の抹殺(=独裁政治)、等々という「民主主義」の否定が意味するものは何か。僕らは、東京のことだから、大阪のことだから、と言って知らんぷりするのではなく、「石原新党」構想が全国区を目指していることからもわかるように、彼らの動きは相当「ヤバイ」と思わなければならないのではないか。気が付いたら、もうがんじがらめになっていた、というのでは遅いはずである。
 いつか来た「戦争への道」が、どれほど悲惨で過酷なものであるか、僕らはもっともっと知らなければ(勉強しなければ)ならないのではないか。子供や孫がいつか来た道を歩かないように、僕は声を大にして言いたいと、今日この頃は切に思う。
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村上春樹の「反核スピーチ」批判――何故「沈黙」しているのか?

2012-01-26 15:54:23 | 文学
 今日もまた、「フクシマ」や「東日本大震災」関係の書籍や雑誌を読んでいたのだが、そのうち、ふと村上春樹の「反核スピーチ」のことを思い出し、込み上げてくる「怒り」にも似た嘆息を禁じることができなかった。 
 理由は、はっきりしている。昨年6月(?)のカタルニア国際賞の受賞記念スピーチでは、あれほど「勇ましく」というか「はっきり」と大上段に「日本人は『核』についてノーと言い続けるべきであった」と言ったのに、あれから半年以上が過ぎた今日まで、僕が知るような形では、村上春樹があの受賞記念スピーチ以外のところで「核(反核)」や「フクシマ」について発言したり書いたりしたということが聞こえてこないのは、どういうことか、という思いが強くあることに、ふと気付いたということである。
 『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ―「核」時代を考える』でも書いたのだが、村上春樹ほどに世界的にも国内的にもよく知られ、近年はノーベル文学賞候補として騒がれてきた作家であれば、新聞だって雑誌だって、あるいはテレビのようなメディアだって、村上春樹が「核」(反核)」について発言すると言えば、喜んで(飛びついて)紙誌面を空けて入稿を待ち望むだろうし、テレビなどはたぶんトップニュースとして報じるだろうし、連日ワイドショウをにぎわすのではないかと思う。もし村上春樹が「反核」について発言したら、何よりも「フクシマ」以降、一部では盛り上がりを見せながら、政府の「収束」宣言が功を奏したのか、あるいは「あきらめ」の境地に陥っているのか、今や「風化」が始まったかのようにも見える「反原発」の動きが再活発化するであろうし、多くの人に「やはり」と思わせるだけの影響力を示すことができると思うのだが、彼は相変わらず「沈黙」している。
 そこで思い出すのが、エルサレム賞を受賞したときのスピーチ「壁と卵」の時も同じだったのだが、「外国」では格好いいこと=まともなことを言いながら、国内では「沈黙」を守り続けるという村上春樹の「政治姿勢」(ここで言う「政治」とは、「リアル・ポリティックス(現実政治)」と「文壇政治」の両面を指している)のことである。確かに現在の村上春樹は「世界的」な作家として知られており、内外とも発表する作品が常に100万を超えるようなベストセラーになる、現代文学を代表する作家かも知れない。しかし、カタルニア国際賞受賞の時の「反核スピーチ」のように、これまで地道に「文学」に関わりながら人間=人類(のいのち)に関わることとして「反核」を訴えてきた、大江健三郎や林京子といった戦後の文学者を蔑ろにする(無視する)ような態度は、人が一度は口にしたことを以後は「実践」で補っていかなければ、それこそ文学者としての「倫理(モラル)」が問われると思うのだが、そのことを村上春樹は分かっているのだろうか。自分の周りにいるのは、「おべっか」しか言わない取り巻きの編集者や批評家・研究者であって、誰も彼に「苦言」を呈するような人がいないとしたら、それは「悲劇」を通り越して「喜劇」でしかない。
 それにしても、かつて村上春樹はが河合隼雄との対談で、「これからはデタッチメント(社会的無関心)な姿勢をやめて、社会的なことにコミットメントしていく」と決意を語ったことが、懐かしい。文学者は「無責任」と昔から言われてきたが、村上春樹よ、お前もか、という思いが昨日・今日、してならない。こんなことでは、またノーベル文学書を逃してしまうぞ、と言っておきたい。

<追加>(1月27日>
 昨日の記事で書くのを忘れていたのだが、それは村上春樹自身が半年前の「反核スピーチ」に責任を取らず「沈黙」し続けていることの問題とは別に、これまで村上春樹及び村上春樹の文学や生き方に「オマージュ(讃歌)」を送り続けてきた批評家や研究者、編集者および村上春樹を支持する読者が、この「反核スピーチ」に関して――その内容に即して村上春樹が実行していないことについて――、なぜ「沈黙」を守っているのか、僕には分からない、ということである。僕は、拙著『「1Q84」批判と現代作家論』(昨年2月刊行)の中でも書いているのだが、なぜ『1Q84』が失敗作なのかということに対して、もちろん村上春樹自身に大いなる責任があるが、それと同じくらい「取り巻き」の批評家や研究者、編集者、読者が「オマージュ」ばかり捧げて、本来の意味の「批評(批判)」を行ってこなかったからではないかと指摘し、今後の村上春樹の方向性に危惧を表明してきた。
 今回の「反核スピーチ」に関しても、僕の指摘と危惧がその通りになってしまった、という思いがある。作家と批評家(研究者)・編集者とは二人三脚だと昔から言われてきたが、相手がいなくなると二人三脚は成り立たなくなる。それと同じで、正統(正当)な批評家(研究者)がいなくなると、作家及びその作家の作品は確実に質が落ちる。作家が「唯我独尊」になってしまうからである。偉そうに聞こえるかも知れないが、村上春樹の将来を考えると、夫子自身が責任を持って「範を垂れよ」「有言実行せよ」、と言いたくなる。
 以上。
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吉本隆明批判(補遺)――「無惨」「哀れ」

2012-01-25 08:54:31 | 文学
 のっけから「高見」発言になってしまって、自分でもちょっと気が咎めるのだが、昨日自分の「吉本隆明批判」を検証するために何気なくネットを見ていたら、「とんでもない記事」に出会ってしまった。
 それは、僕が最初に吉本の『「反核」異論』(82年)当時から変わらぬ「原発容認・推進論」のどうしようも無さを批判するきっかけになった「週刊新潮」(1月5日・12日新年特大号)の「『反原発』で猿になる」という記事について、娘の作家「よしもとばなな」がツイッターで、次のような発言をしていたというのである。
 「父のことですが、もうあまりちゃんと話ができないので、まとめる人の意訳があるかと。私が話したときは基本的に賛成派ではなく廃炉と管理に人類の英知を使うべきだ的な内容ではないかと察します。一部をとりあげて問題にするのはどうかやめてください。父は静かに介護生活をしていますので」
 →→「娘」の「優しい」本音といっていい言葉だと思われるが、しかし、吉本が昨年の5月に「毎日新聞」で、また同じく8月に「日本経済新聞」のインタビューで「週刊新潮」とほぼ同じ内容の「原発容認・推進」の発言をしていること、それは先にも書いたように『『反核」異論』の時代から全く変わっていないこと、娘のよしもとばななは知っていて、このような「優しい」「父親思い」の発言をしたのだろうか。「ばなな」の発言がもし「本当のこと」だったら、「週刊新潮」の記者が吉本の発言を「意訳」したことになり、そこには「悪意」さえ存在するということにならないだろうか。それにしても、誰もがいつかは迎えざるを得ないこととは言え、「戦後最大の巨人」とか「知の巨人」とか言われてきた吉本隆明が娘から「もうあまりちゃんと話ができない」などと告白されると、何故か寂しい思いもしないではないが、しかし、「フクシマ」の被害者(避難民、将来の被曝死者)のことを思うと、そうであるならば(ばななの言う「介護生活」がどのようなものであるのかは分からないが、「黙って老いていけ」と悪罵の一つも吐きたくなってしまうのも、若いとき吉本から圧倒的な影響を受けた僕(らの世代)としては、許されるのではないかと思っている。
 それにしても、同じくツイッターで「父は、今私に対してでもちゃんとお話ができるときとできないときがあります」とか「日によって頭がはっきりしている日があるからとしか言いようがない」とか言われると、池に落ちた犬を打つような仕打ちになるが、「老醜」「老残」としか言い様が亡くなってしまうが、ぼくも今年89歳になる義母が俗に言う「まだらぼけ」状態に現在あり、「昔」のことは良く覚えているのに、最近のことは週に1回程度見舞いに行っている僕の名前はもとより孫の顔さえ忘れてしまていることを思い出し、「父のことは放っておいてくれ」と言うよしもとばななではないが、「吉本隆明よ、さらば!」と言って済ませてしまいたいのだが、しかしこれも繰り返しになるが「フクシマ」のことを思うと、土井淑平の『原子力マフィア』の吉本批判を「全くその通り」と首肯し、吉本の「罪」は重い、と断罪せざるを得ないということがある。
 とは言え、僕の本音を言えば、いくら著名になったからといって娘に「弁明」してもらう(「弁明」させる)吉本の姿なぞ見たくはなかった、というのが一番正直な気持である。本当に「哀しい」。
 そんな吉本の姿から、誰とは言わないが、「変わり身の早さ」を信条とするような文学者が多い昨今を思いつつ、「変わらぬこと」の罪深さを思ったのは僕だけだろうか。吉本もまた「他山の石」とすべきなのかも知れない。それが、今のところの「吉本隆明発言」に対する僕の結論と言っていいかも知れない。
 
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