福井県の「大飯原発」の再稼働に向けてのステルステストの「評価」や先に政府(野田政権)から発表された「原則40年を超えた原発は再稼働せず、廃炉にする」という方針、そしてまた「福島第2原発も危険な状態だった」などという情報に接すると、この国が余りにも「未来」に対して無責任であることに、怒りを覚える。特に、「再稼働ありき」を前提としたような原子力安全・保安院のステルステスト評価(再稼働に何ら問題はない)については、何日か前に報道された福井県の「市民団体」と称する組織から出された「原発は今や地場産業になっているのだから、原発は1日も早く再稼働させて欲しい(させるべきだ)」という訴えと併せて、専門家と称する人間がいかに「権力」や「カネ」に弱いかを露呈するもので、怒りを通り越して悲しくなってしまう。
というのも、これはこのところ各新聞が連日と言っていいほどに報じていることだが、原子力安全・保安院や原子力安全委員会に所属する専門家(学者・研究者)が電力会社(東電や関西電力など)や東芝や日立といった原子力産業から、「奨学金」「研究補助金」などという名目で多額の寄付(使途を明記しなくてもいいお金)をもらっていたという事実と、そのことを暴露された研究者たちが異口同音に「寄付金と原発の安全審査とは無関係、安全に関しては客観的に行っている」と嘯いている態度を見ると、この人たちはとりあえず自分の「研究」(何のための研究か?)のためには、自分以外の他者や「未来」についてなど関係ないと考える(無責任な)輩で、このような風潮が「研究の世界」で横行しているのも、文科省が大学などへの「研究費」(予算)を削減し、その分「外部資金」という名の「奨学金」や「研究補助金」を獲得することを奨励し、研究内容などとは関係なく、多額の外部資金を得てきた研究者がいかにも「優れた研究者」であるかのように評価する風潮を助長した結果なのではないか(多額の外部資金を得た研究者は、結果的に「給料」も上がるし、「研究費」も増額される)、と自らの経験から、そのように思わないわけにはいかない。
政・財・官・学(この額の中には、原発を容認・推進してきた「文化」も含まれる)の癒着、この「闇の中」の4角関係が「フクシマ」をもたらしたはずなのに、「フクシマ」が起こってそろそろ1年が経つというのに、彼らに何ら「反省」の色は見えず、またぞろ「甘い汁」を吸おうとしているように、僕には思えて仕方がない。僕が学生だった1960年代後半、早稲田大学の学生運動を牽引していたあるセクトは、産業界と大学の研究室が癒着している現実を告発して「産学協同路線粉砕」を叫んでいたが、あれから50年以上が経って政・財・官・学(文化)の癒着を現実的に見せられて思うのは、経済も学問も、もちろん官僚や政治家たちも、それは人間の「未来」や「幸福」を求めるところに存在するのだという「原点=倫理(モラル)」をもう一度考えるべきなのではないか、ということである。
たぶん、僕が昨今の状況について「虚しさ」を覚えるのは、僕らが「産学協同路線粉砕」に象徴される既成のパラダイム(枠組み)を壊そうとして身体を賭け闘ったあの「政治の季節」(60年代末から70年代初め、全共闘運動の時代)の意味が、今や全く顧みられなくなっているのではないか、と思えるからに他ならない。このように書くと、たぶん、またどこぞの誰かが鬼の首を取ったかのように、あの「政治の季節」を生きた者たちを非難すると思うが、そのような自分は何もしないで他者の揚げ足取りに生き甲斐を感じているような輩はともかく、今僕が思うのは、やはり「倫理的」であることの難しさ、である。とりわけ、その「倫理的」な態度の中心(と僕が思う)「未来責任」に関して、今何らかの形で自分たちの意思表示をしなければ、後で後悔するのではないか、と思われてならない。
何らかの「意思表示」と言うと、すぐに先のステルステスト評価を行った会場で、「フクシマの原因究明や収束が不十分なのに、再稼働ありきという会議はおかしい」と叫んでいた俳優・山本太郎(彼が物事に真摯に対応する青年であることは、故立松和平を偲ぶNHKのテレビで同席した経験から、僕は確信している)のような「行動」を、と思いがちだが、「原発」について勉強して、そこから得た思いを友人知人に伝えること、あるいは署名したり、集会に出たり、デモをしたり、さらには本を書いたりすることも、僕は全て「有り」だと思っている。そういうことの全てが、「未来」を思う「倫理的」な態度だと思うからである。
今現在、大江健三郎や鎌田慧、落合恵子、辻井喬さんたちが進めている「脱原発 1000万人署名」が500万人を超えたという。2月28日が占めきりになっているので、「反原発」の志を持つ人でまだ署名していない人、一歩を踏み出してみてはどうですか。
というのも、これはこのところ各新聞が連日と言っていいほどに報じていることだが、原子力安全・保安院や原子力安全委員会に所属する専門家(学者・研究者)が電力会社(東電や関西電力など)や東芝や日立といった原子力産業から、「奨学金」「研究補助金」などという名目で多額の寄付(使途を明記しなくてもいいお金)をもらっていたという事実と、そのことを暴露された研究者たちが異口同音に「寄付金と原発の安全審査とは無関係、安全に関しては客観的に行っている」と嘯いている態度を見ると、この人たちはとりあえず自分の「研究」(何のための研究か?)のためには、自分以外の他者や「未来」についてなど関係ないと考える(無責任な)輩で、このような風潮が「研究の世界」で横行しているのも、文科省が大学などへの「研究費」(予算)を削減し、その分「外部資金」という名の「奨学金」や「研究補助金」を獲得することを奨励し、研究内容などとは関係なく、多額の外部資金を得てきた研究者がいかにも「優れた研究者」であるかのように評価する風潮を助長した結果なのではないか(多額の外部資金を得た研究者は、結果的に「給料」も上がるし、「研究費」も増額される)、と自らの経験から、そのように思わないわけにはいかない。
政・財・官・学(この額の中には、原発を容認・推進してきた「文化」も含まれる)の癒着、この「闇の中」の4角関係が「フクシマ」をもたらしたはずなのに、「フクシマ」が起こってそろそろ1年が経つというのに、彼らに何ら「反省」の色は見えず、またぞろ「甘い汁」を吸おうとしているように、僕には思えて仕方がない。僕が学生だった1960年代後半、早稲田大学の学生運動を牽引していたあるセクトは、産業界と大学の研究室が癒着している現実を告発して「産学協同路線粉砕」を叫んでいたが、あれから50年以上が経って政・財・官・学(文化)の癒着を現実的に見せられて思うのは、経済も学問も、もちろん官僚や政治家たちも、それは人間の「未来」や「幸福」を求めるところに存在するのだという「原点=倫理(モラル)」をもう一度考えるべきなのではないか、ということである。
たぶん、僕が昨今の状況について「虚しさ」を覚えるのは、僕らが「産学協同路線粉砕」に象徴される既成のパラダイム(枠組み)を壊そうとして身体を賭け闘ったあの「政治の季節」(60年代末から70年代初め、全共闘運動の時代)の意味が、今や全く顧みられなくなっているのではないか、と思えるからに他ならない。このように書くと、たぶん、またどこぞの誰かが鬼の首を取ったかのように、あの「政治の季節」を生きた者たちを非難すると思うが、そのような自分は何もしないで他者の揚げ足取りに生き甲斐を感じているような輩はともかく、今僕が思うのは、やはり「倫理的」であることの難しさ、である。とりわけ、その「倫理的」な態度の中心(と僕が思う)「未来責任」に関して、今何らかの形で自分たちの意思表示をしなければ、後で後悔するのではないか、と思われてならない。
何らかの「意思表示」と言うと、すぐに先のステルステスト評価を行った会場で、「フクシマの原因究明や収束が不十分なのに、再稼働ありきという会議はおかしい」と叫んでいた俳優・山本太郎(彼が物事に真摯に対応する青年であることは、故立松和平を偲ぶNHKのテレビで同席した経験から、僕は確信している)のような「行動」を、と思いがちだが、「原発」について勉強して、そこから得た思いを友人知人に伝えること、あるいは署名したり、集会に出たり、デモをしたり、さらには本を書いたりすることも、僕は全て「有り」だと思っている。そういうことの全てが、「未来」を思う「倫理的」な態度だと思うからである。
今現在、大江健三郎や鎌田慧、落合恵子、辻井喬さんたちが進めている「脱原発 1000万人署名」が500万人を超えたという。2月28日が占めきりになっているので、「反原発」の志を持つ人でまだ署名していない人、一歩を踏み出してみてはどうですか。
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