野球を始めたのは小学校生低学年の頃でした。
近くの神社や大きな駐車場の隅っこなどで、野球ゴッコという形が最初だったと思います。
その後、チームに入ったきっかけはよく覚えていませんが、四年生だったと思います。ただ、同級生の女の子のお父さんが監督をやっていたことは覚えています。現在はスポーツ少年団になっているようですが、当時は学童野球チームでした。しかも、チーム名はジャイアンツ。5年生の時にはBチームでしたが背番号は4をもらいました。
ただ、あまり試合に出たという記憶はありません。試合の応援に行ったという記憶はほとんどありません。
実は病気がちで身体が弱かったのです。
その後、学校を転校しました。転校先には学童野球チームといえるものはなく、単に草野球を楽しんでいるだけでした。六年生のころに学童野球チームができたのですが、転校したばかりでしたので、友達も少なく、チームに入ることはありませんでした。その時の私の野球の相棒は壁でした。来る日も来る日も壁に向かってボールを投げ続け、自分で電信柱に括り付けたタイヤをバットで打つという日々を繰り返していました。
小学校を卒業し、中学校へ入学すると迷わず野球部に入りました。ようやく野球ができると思ったのですが、待っていたのはボール拾いとシゴキの日々。上級生が打ったボールを外野の外でボールを拾い集める日々。先生が来ない日は、グラウンドを何周もうさぎ跳びをさせられたり、延々と走らされたり。そんな部活でしたが、三年生の先輩の一人にやさしくしてもらったりしていました。冗談を言ったりして、笑わせてくれたりしてくれました。
その先輩は足が痛かったため、休み休みの部活でしたが、部活に出てきた日には、それでもちょっと足を引きずりながらプレーをしていました。ただ、残念なことに中学最後の大会には出場することはなく、学校も休んでいました。そんなある日、臨時の全校集会がありました。その先輩が亡くなったという話です。骨肉腫だったそうです。部活で姿を見ていた頃には相当痛かったのだと思います。でも、弱音を言わず、まっすぐに自分の将来を夢見ていたのではないでしょうか。
当時は今と違って保護者が練習試合や大会の都度、車で送迎してくれるということはなく、自分たちが自転車で何キロもあるような遠くの学校へ行くのが普通でした。というよりも、ほとんど試合はありませんでした。大会も春と秋の新人戦だけ。そんな最後の大会に向けて練習していたのですが、足をねん挫したまま黙って練習していたところ、投げ方までおかしくなってしまったのか、ボールを投げると肩に痛みが走るようになってきました。それでも、最後の大会に出場し、五番センター(だったかな)で2打席1打数ノーヒットだったと記憶しています。
中学野球が終わり、高校へ行っても野球を続ける気持ちは充分にあったため、毎日のランニング、素振り、壁当ては続けていました。
片親で育ってきており、どちらかというと裕福ではなかったので親に苦労を掛けてきていたこともあり、大学に進学するつもりはまったくなかったため、先生が進めてくれた高校ではなく、ランク下の工業高校へ進学しました。
もちろん、野球を続けるつもりであり、グローブもバットも無理を言って買ってもらいました。ただ、今でも同じようなものですが、グローブとバットだけでは野球は出来ません。そのほかにも練習用、試合用のユニフォームやソックス、アンダーシャツ、帽子、スパイクやシューズなどお金がかかる一方です。また、練習試合や大会時の送迎ができず、練習で遅くなったりして電車がなくなってしまい、その都度知人に頼んでもらったりと負担をかけてしまいました。
それに、だましだまし、やってきた足と肩には、早くも限界が来てしまい、もう、これ以上は無理だと思って野球は断念しました。
今でもボールは軟式でも塁間どころか、学童のピッチャーでの16mすら思いっきり投げれません。肩はルーズショルダーのように抜けたままです。右足首は回すと、ゴリゴリと音がしてキチンと回ってくれません。
それでも、本格的な野球は無理でも、クラスマッチでは野球を選んで出場し続け、野球を楽しめました。
高校卒業後。しばらくして、地元のナイターソフトリーグのチームに加入しました。チーム内では3年連続してMVPと首位打者でしたが、やっぱり、ボールをうまく投げられず、バイク事故のケガで右肘の尺骨が削れ、肘を動かすたびに神経と当たって痛く、右手の握力もないのが一因、それからボールがうまく投げられずにイップス状態だったのかも知れません。それから、結婚もしてからは住居も遠くなってしまって試合出場も段々と減っていきました。
やがて、子どもが生まれ、会社の仕事も忙しくなったこともあり、ナイターソフトから引退することにしました。