野球小僧

日本をリセット

リセット【reset】の意味
[名](スル)
1 すべてを元に戻すこと。最初からやり直すこと。また、状況を切り替えるためにいったんすべてを断ち切ること。「両国の関係をリセットする」「風呂に入って気持ちをリセットする」
2 機械や装置を、作動前の初めの状態に戻すこと。セットしなおすこと。コンピューターの場合、特に正常な動作をしなくなった時に、強制的に起動しなおすことを指し、再起動と区別することがある。

「しがらみのない政治、大胆な改革を築いていく新しい政治のために、日本をリセットするために党を立ち上げる」

小池百合子東京都知事が代表を務める国政政党「希望の党」が27日午前、東京都内のホテルで設立会見を開き、小池都知事が「しがらみのない政治、大胆な改革を築いていく新しい政治のために、日本をリセットするために党を立ち上げる」と宣言しました。会見では「寛容な改革保守政党を目指す」ことなどを柱とした綱領も発表し、来月の衆院選で全国で150人規模の候補者を擁立し、自民党政権の批判票の受け皿を目指すとのことです。

これに伴って、真っ先にリセットされてしまったのが、民進党を始めとする野党のように思えます。民進党が小池都知事が代表を務める「希望の党」に合流する方向で最終調整しており、突如、浮上した合流話に党内が割れているようです。ただ、小池都知事としては全員受け入れという訳にはいかず、また、リベラル系は合流しないのではないかと思います。

安倍首相にとっては、野党が弱体化している今が「最大のチャンス」として、自民安定基盤を築き、自分はもう一任期どころか二任期くらい首相に収まるシナリオだったと思うのですが、思わぬ伏兵が現れたという形です。

気が早いですが、選挙後の総理指名はどうなるのか。希望の党がそれなりに数字を集めたら、党首の小池都知事なのでしょうけど、当の本人は衆院選には出馬しないということですので、誰を首相候補として選挙戦を戦うのかをはっきりさせないと、今後の政権交代の布石にもならないのじゃないかと思います。

そして、その民進党の前原誠司代表は、衆院選に自身は無所属で出馬するとの意向を決めたとニュースで報じられていました。所属する党をどうするか。所属議員をどうするかを決める前に、自分自身はとっとと身の振り方を決めてしまう。国政政党のリーダーとしてはいかがなものかと思います。

さて、この「日本をリセットするために」のフレーズで思い出すのが、坂本龍馬さんの「日本を今一度せんたくいたし申候事」です。

この言葉は、文久三年六月二十九日に龍馬さんのお姉さんの坂本乙女さんにあてたの手紙の一文にあります。

「是皆姦吏の夷人と内通いたし候ものニて候。右の姦吏などハよほど勢もこれあり、大勢ニて候へども、龍馬二三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本をたて、夫より江戸の同志はたもと大名其余段々と心を合セ、右申所の姦吏を一事に軍いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候。此思付を大藩にもすこむる同意して、使者を内下サルヽ事両度。然ニ龍馬すこしもつかへをもとめず。実に天下に人ぶつのなき事これを以てしるべく、なげくべし。」

坂本龍馬さんは、1835年(天保6年)11月15日に高知城に近い本町1丁目(現在の上町1丁目)に生まれました。父・八平さん、母・幸さんの間にはすでに4人の兄姉があり、龍馬さんは末っ子でした。兄・権平さんとは21歳も歳が離れており、長女・千鶴さんとは19歳離れています。次女の栄さんは生没年は不明であり、龍馬さんが最も慕っていた三女の乙女さんは3歳年上です。坂本家の本家は才谷屋(さいだにや)という商家で、龍馬さんの家はそこから分家して郷士の株を取得した下級武士の家でした。
12歳のときに母・幸さんが亡くなり、以後二番目の母・伊与さんに教育を受けます。龍馬さんと乙女さんは、伊与さんの最初の嫁ぎ先であった川島家へ度々遊びに行き、世界の話をよく聞いていました。

14歳になると龍馬さんは日根野道場へ入門し、小栗流の剣術などを習い始め、めきめきと腕前を上げ、19歳の時に江戸へ剣術修行に出かけました。

修行中心得大意剣術修行のため1853年3月に高知を出発した龍馬さんは、江戸三大道場の一つである北辰一刀流の千葉定吉道場へ入門。同年6月3日には、ペリーさん率いる黒船4隻が浦賀に来航し、龍馬さんも品川の沿岸警備に動員されます。その頃父・八平さんに宛てた手紙には、「もし戦争になれば異国の首を討ち取って土佐へ帰ります」と攘夷思想を表していました。しかし、1年後に修行を終えて帰ってきて、河田小龍さんを訪ねると、「世界と対等に付き合うため、日本には大きな船とそれを動かせる人材が必要だ」と教えられ、攘夷の間違いを悟ります。

1861年、27歳になった龍馬さんは親友の武市瑞山さん率いる土佐勤王党に加盟します。この年の秋、武市さんの密書を持って萩(山口県)の久坂玄瑞さんの元を訪ねます。久坂さんから、「いまや大名も公卿も頼りにならず、これからは草莽の人々(志のある在野の人々)が立ち上がらなければいけない」と教えられます。

1862年3月に28歳で土佐藩を脱藩した龍馬さんは長州藩に行き、そこから薩摩を目指したと言われています。江戸時代は、藩を出る時には藩の許可が必要でした。関所では手形を見せなければなりません。つまり、脱藩とは無許可で藩外に出ることで、現在でいえばパスポートを持たずに日本を出ることです。そして、この年の秋江戸へ出て、幕府の軍艦奉行並の勝海舟さんの弟子になります。勝さんが書いた「氷川清話」では、龍馬さんは自分を殺しに来たと書いていますが、前・福井藩主松平春嶽さんの回顧録では、春嶽さんが勝さんへの紹介状を渡したとなっています。その後、勝さんは幕府から大坂湾周辺の海防を命ぜられ、その一環として神戸に海軍操練所を建設します。龍馬さんもそれに同行し、操練所に併設された勝さんの私塾に入門し、そこで勝さんの片腕として働きながら、海軍の修行に励みました。

1864年8月中旬には勝さんの使者として西郷隆盛さんと面会します。龍馬さんは「なるほど西郷という奴はわからぬ奴だ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と勝さんに報告します。それを聞いた勝さんは「坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ」と言ったそうです。

1864年6月5日、京都で池田屋の変が起こり、状況が一変します。池田屋に集まった過激な尊王攘夷の志士たちが、新選組によって一掃され、この中に海軍操練所からも参加者がいました。さらに、7月に禁門の変が起こり、この時にも長州藩側として繰練所の生徒が参加していました。これらが幕府の怒りを買って、勝さんは江戸へ呼び戻され、操練所も勝塾も閉鎖となります。龍馬さんたち脱藩浪人は行き場を失いますが、翌年薩摩藩によって、長崎で亀山社中(後の海援隊)という商社を作ります。亀山社中は海運業、海軍、航海術の修行機関などの顔を併せ持つ特異な組織で、各藩の脱藩浪人が中心でした。また、出版事業にも手を出し、京都には書籍や鉄砲などを販売する直営店も置いていました。鎖国から目覚めたばかりの幕末において、これほど世界的視野と行動力を持っていた人物は他にいませんでした。

1866年1月21日に龍馬さんはこの組織を使って、当時非常に仲が悪かった薩摩藩と長州藩の手を結ばせる薩長同盟を成功させます。これにより、幕府に対抗できる勢力が誕生したことになり、画策した龍馬さんは幕府から危険人物としてマークされることになります。薩長同盟成立の2日後、伏見の寺田屋に泊まっていた龍馬さんは、伏見奉行所の役人に踏み込まれますが、寺田屋で働いていたお龍さんと、ボディーガード役の長府藩士・三吉慎蔵さんに助けられ、薩摩藩邸に逃げ込むことが出来ます。両手の親指などに深手を負った龍馬さんは、薩摩藩邸でお龍さんに看護を受け、その後お龍さんと結婚し、西郷隆盛さんや小松帯刀さんの勧めもあって、薩摩の霧島山に傷の保養を兼ねた新婚旅行に出かけています(日本で最初の新婚旅行と言われています)。

1866年7月には、第二次長州征伐が起こり、亀山社中は長州藩を助けるため、薩摩藩名義で購入したユニオン号で参戦します。また、龍馬さん北海道の開拓や、島根県沖の竹島の開拓を考えたり、11月には薩摩藩と長州藩の合弁の商社設立を画策したり、経済人としての本領も発揮しています。

薩摩藩と長州藩に遅れをとっていた土佐藩は、1867年1月に土佐藩政の実権を握っていた参政・後藤象二郎さんが長崎で龍馬さんと会談します。倒幕を目論む龍馬さんも、土佐藩を引き込むことは有利になると考え、後藤さんと手を結び土佐藩に復帰します。これにより、亀山社中は海援隊と名前を変え、土佐藩の組織となり、龍馬さんは海援隊隊長に就任しました。6月頃から薩摩藩と長州藩が武力討幕を考え始めるものの、土佐藩は武力討幕を避けたい考えで、その策を龍馬さんに求めます。龍馬さんは後藤さんに大政奉還を盛り込んだ8つの策を提案します。これが船中八策です。後藤さんはこれを前・土佐藩主山内容堂さんに進言し、容堂さんが15代将軍徳川慶喜さんに大政奉還を建白し、これを慶喜さんが受け入れ、10月14日に政権を朝廷に奉還しました。

龍馬さんはその1ヶ月後の11月15日の33歳の誕生日に京都の近江屋で暗殺されてしまいます。暗殺の実行犯は見廻組説が有力ですが、黒幕は幕府説、薩摩藩説、土佐藩説、紀州藩説などがあり、未だに謎のままです。

なお、船中八策の第一策が「大政奉還」であり、第二策は「広く会議をおこし万機公論に決すへし」という明治新政府の五箇条の御誓文に活かされています。

龍馬さんは近代日本の夜明けをつくるため熱き志に燃えて命がけで生きながらも、人に対する温かい愛情を持ち続けていました。今の日本にこの幕末に生きた龍馬さんたちのような志を持った人たちがいるのか。

その人たちを選ぶのは、私たちです。
(参考「連敗記録(http://blog.goo.ne.jp/full-count/e/e464c6613ff734887337bd4ec522ef5b)」)


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
「この国のために」という志を持っている人はどのくらいいるのか。何か白けてしまうのですよね。

18歳の高校生にも投票ができるのですが、彼らの目には何がどう映っているのでしょう。

リセットしなければならないのは議員先生方の頭の中では?
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

政の世界は何がなんだかサッパリわかりませぬ。
小池都知事も都政に専念するということで会の代表を退いたはず・・
前原代表もつい先日選挙を戦って党代表になったばかりのはず・・・

確かに一強の広島もとい自民党に対抗する野党がなければならないと思いますが烏合の衆ではね~理念が一緒でなければ!

その辺をキチンと見極める目を我々有権者も持たなければなりませんね。
10月22日(多分)は昨年の鳥取県中部地震から一年目の復興イベントも予定されている日なんです。

PS:参考をクリックして思い出したくない事象を・・・orz
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