野球小僧

女子野球チームの挑戦

多くの10代の若者と同じようにマリアム・サディさんも両親にうそをついていました。野球をしていることを親には黙っていたのです。

メディアについて学ぶ19歳のサディさんは当初、家族に対しては、ガザ地区に新しくできた女子野球チームの写真を撮影していると話していました。保守的なこの土地で女性がスポーツに参加することなど許してもらえないと思っていたからです。

しばらくして、本当はガザ地区初とされる女子野球チームでプレーしていると父親に告白しました。「(父親には)男性と身体的に接触することはないことを説明しなければならなかった」と言います。

イスラム原理主義組織「ハマス」が実効支配するガザ地区は、スポーツをする女性にとって厳しい環境です。ニュースなどで観たことがある方もいると思いますが、女性は人前では腕や足、頭部を覆うよう求められています。

昨年、女性たちがガザで自転車に乗るだけで、イスラム教の礼儀に反するとして保守派から非難の声が上がるそうです。自転車に乗っていたアムナ・ソリマンさんは「男性はスポーツをする女性を見慣れていない」と話しています。しかし、ガザの女性たちは新たな機会を求め続け、2017年2月には地元の非営利団体が女性だけのサッカー大会を開催しました。ハマスがガザ地区を掌握して以来、初めてのことでした。

そして2月にサッカーとバレーボールの選手だったマハムード・タフェシュさんが女子野球チームを結成しました。ガザ地区では野球がほぼ未知のスポーツであるにもかかわらず、15人が参加したそうです。

現在、選手たちはズボンと長袖のシャツ、髪を覆うスカーフ「ヒジャブ」を身につけて、週に2回、地元のサッカーグランドで練習に励んでいるそうです。

監督を務めるタフェシュさんは先日、バットの握り方を選手たちに指導。その際、選手の手には触れないように注意していたそうです。

チームには野球用のボールもソフトボールもないそうです。したがって、練習で使うのはテニスボール。そのボールを選手たちはアンダーハンドで投げています。バットは地元の大工さんにスギの木から作ってもらったそうです。グローブは仕立屋がチームにあるたった1つの本物を見て、スポンジを中に詰めた複製を作ってくれました。これらの道具はタフェシュさんが自費で用意したそうです。

「大事なのは女性がスポーツをすること」だとタフェシュさんは言います。「もちろん家族や社会に、女性がスポーツをすることをもっと前向きに受け入れてほしいとも思っている」そうです。

そんなタフェシュさんは昨年、エジプトで2週間ほど野球について学び、野球好きになったとのことです。YouTubeで米国チームの映像を見ているが、チーム名は知らないそうです。

女子野球チームのメンバーはガザで野球リーグを設立したいと考えているそうで、タフェシュさんは当局に男女共通の野球連盟の設立を許可するよう申請したとのことです。

ガザ文化省のアレフ・ベーカー長官はハマスが音楽や詩、スポーツを通じた女性の社会参加を奨励していると述べています。ただし、それには2つの条件があるそうです。1つは体を覆うこと、もう1つは女性同士でのみスポーツを行うことだそうです。

ベーカー長官はインタビューで「女性にはスポーツをする権利がある。しかし社会的、宗教的な規則に違反してはいけない」と語っています。

サディさんは野球をしていると両親に告白したあと、友達をチームに誘ったが、誰も参加しなかったそうです。宗教を理由に断った人もいれば、親が反対すると考えている人もいたそうです。でも、「私たちの望みはみんなにこのスポーツを知ってもらうこと、そして女の子もスポーツができることを知ってもらうこと。それが私たちのゴール」と目標を持っているそうです。

今年、第4回ワールド・ベースボール・クラッシク(WBC)の一次リーグでイスラエルが勝ち進み、世界の注目を集めました。近い将来、イスラエルとパレスチナの代表同士がWBCの場で試合が出来るようになる日が来ることを期待したいです。しかも、この日本で。

ガザ地区とは

1993年にイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の間で結ばれた「オスロ合意」に基づいて、翌年ガザ地区は、ヨルダン川西岸地区と共に「パレスチナ自治区」になりました。しかし、現在でもガザはイスラエルに軍事封鎖され、「天井のない監獄」となっています。

長さ50km、幅5~8kmの狭く細長いガザは、種子島ほどの面積に150万人の人が住む、世界で最も人口密度が高い場所の一つです。人口の約45%は14歳以下の子どもで、7割は難民となった人々です。

地中海に面したガザは、古代からアフリカとアジアをつなぐ交易の中継地として多くの人が行き交い、歴史でも習ったアレキサンダー大王やナポレオンも足を踏み入れた歴史的な場所です。長い間オスマントルコの支配下にありましたが、第一次世界大戦後はイギリスの委任統治領になり、1948年の第一次中東戦争とイスラエルの建国の結果、エジプトの管理下になりました。

1967年の第三次中東戦争によってイスラエルに軍事占領され、以来、インフラや産業が破壊されたまま整備されず、人口の多い貧しい地域になっていきました。肥沃な土地はイスラエルの入植地として没収されたこともあり、ガザの人々は低賃金労働者としてイスラエルに出稼ぎに行くようになりました。その結果、ガザで「インティファーダ(イスラエルへの抗議運動)」が1987年に始まりました。

2005年、イスラエルはガザ内部から入植者と軍を撤退させ、事実上ガザを放棄しました。しかしその代わりに周囲を封鎖、人や物の出入りを大きく制限しました。2006年のパレスチナ自治政府の選挙では、それまでのPLO(オスロ合意でイスラエルとの対話路線を選んだ「ファタハ」が中心で民族主義的で非宗教的)ではなく、「ハマス」(イスラム主義を掲げる政治グループ、対イスラエル強硬派)が多数派となりました。ハマスがファタハをガザから追放し、事実上ガザを支配するようになると、イスラエルはガザの封鎖を強化し、2008年には食料や燃料など生存に必要な物資も最低限しか搬入されなくなりました。

2008年、2009年、2012年、そして2014年と、イスラエル軍は逃げ場のないガザに大規模軍事侵攻を行いました。2014年の軍事侵攻では、過去2回をはるかにしのぐ激しい攻撃が51日間にわたって行われ、死者2,251人(うち70%が女性や子どもを含む民間人)、負傷者約11,000人という大きな被害がもたらされました。

燃料や食料、日用品、医療品などが慢性的に欠乏し、経済や生産活動が停滞して、人々は国連や支援団体からの援助物資で命をつないでいます。ガザの出入口は、イスラエルに至る北のエレズ(エレツ)とエジプトとの国境に位置する南のラファの2ヵ所のみです。出入国は完全にイスラエルの管理下にあり、パレスチナ人がガザを出入りする自由はありません。急病人であろうとも容赦はないのです。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
明日がどうなるかわからない中でも、こうやって前向きに取り組んでいく姿。いいものです。見習いたいです。

今、平和な日本で、野球観たり、サッカー観たり、その勝ち負けに一喜一憂している自分が、恵まれた存在だということを有難く思います。

いろいろと文句付けているのは贅沢かな。
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

紛争地域として耳にするだけで詳細なことは知りません。
中東は米露の代理戦争の様相もあったと思いますが・・・

WBCのイスラエルにはビックリしました。
あんなに多くのmajor経験者がいたとは知りませんでした。

女性の活躍は特に凄いですね!
先日もテレ朝の番組が職場に取材に来てました。女性管理職の多さ日本一らしくて。橋下&羽鳥さんの番組らしいです。

勿論我が家も女性が#$%&
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