野球小僧

喜田剛 / 元;横浜ベイスターズ、ほか

私が喜田さんに会ったのはちょうど4年ほど前のことになります。失礼ながら、お会いした時にはすぐにわからず、「やけに大きな身体をしている人だなあ」と思っていましたが、一緒に居た息子が小さな声で「ぎだごだよ」と何度も言っていました。でもその時には、私はピンとは来ていませんでした。

6月20日にTBS系で放送された「プロ野球選手の妻たち」で、喜田さんのことが放送されました。

喜田さんは福岡大から2001年のドラフト会議で阪神タイガースに入団、以降、広島東洋カープ→オリックスバファローズ→横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)と、4球団を渡り歩き、「キダゴ」という愛称で呼ばれ、ファンに愛されていた元プロ野球選手です。2002年に行われた第14回アジア競技大会では、日本代表チームに参加。チームの主軸として活躍し、チームの銅メダル獲得に貢献しました。

今から約13年前、神戸の大学に通う女子大生だった奥さんは、阪神タイガースのイケメン選手である喜田さんと出会いました。その当時、喜田さんはプロ4年目で期待されていましたが、まだ結果を出せずにいました。

そんな喜田さんと奥さんが交際を始めて8カ月後のシーズン途中に、喜田さんがカープにトレードされます。このとき、奥さんは大学四年生でしたが、喜田さんの真面目な人柄に惹かれ、在学中だったのですが結婚し、広島についていきました。

「主人がまた新しい場所で頑張れたらいいなと。一花咲かせてほしいなっていう気持ちで広島に行きました」(奥さん)

その気持ちに喜田さんは奮起し、奥さんのためにも結果を出すと誓い、プロ初ホームランを打ち、さらには重要な試合でサヨナラヒットを放つ大活躍を見せました。

シーズンオフには年俸が1000万円にアップ、そして結婚2年目には、長女が誕生し、カープでの活躍に奥さんは周囲に感謝するとともに、この状態がずっと続けばいいと思っていました。

しかし、喜田さんはレギュラーを取れず、カープに来て4年目のシーズン途中でバファローズにトレードされてしまいました。プロ野球選手はどんなに頑張ろうと成績を残せなければ何が起きても不思議ではない世界です。

「プロの世界はいつか終わりが来るので、そのことを踏まえた上で結婚はしていたのですが、だんだん現実的になってきて、そろそろ考えていかないといけないと思いました」(奥さん)

そして、「何か、自分にできることはないのか?」と考えたのが、洋服を作り、それを売ることでした。しかし、それは言うほど簡単な事ではありません。どんな服を作ればいいのか思い悩んでいたとき、1つのアイデアが、浮かびあがります。子どもが大きくなるにつれ、スカートや露出の多くなる短いトップスが着られなくなるという自身の経験から思いついたアイデアです。そのアイデアを実現しようと、奥さんは、女子大生のときにやっていた読者モデルで蓄えたわずかな資金を元手に、小さな事務所を借りて1人で起業しました。

幼いわが子を背負いながら、デザインから販売まですべて、1人で毎日こなします。店舗は構えずホームページを開設し、インターネットに自分が作った服をアップして販売する、ネット通販にしました。

しかし、その間、喜田さんはバファローズでも結果を出せず、ベイスターズへ3度目のトレードとなりました。平均引退年齢が29歳というプロ野球の世界で、このとき、喜田さんはすでに31歳を迎え、ここで結果を出さなければ後がないというところまで来ていました。

しかし、ベイスターズでは1度も一軍に上がることができず、2011年のオフに戦力外通告を受けます。それでも、野球を諦め切れず合同トライアウトに挑戦しましたが、どの球団からも声は掛からず現役引退となりました。

「主人のことが心配でしたね。結構、自分の中に感情を閉じ込めるタイプなので、朝起きて主人がいなかったらどうしようとか考えてしまった」「外にも出たくなかったし、人にも会いたくなかった」(奥さん)

「最初の6カ月ぐらいは、ホント何もしたくなくて。外にも出たくないし、人にも会いたくなくて…ちょっと病んでいたのかな」(喜田さん)

そのとき、奥さんは心を鬼にしました。このままでは、ダメになってしまう。奥さんは喜田さんにこう告げました。

「1年以内に仕事が見つからなかったら離婚しましょう」(奥さん)

奥さんのこの言葉は、本当に別れようと思っていたわけではなく、喜田さんの性格上、強く言わないと分かってもらえないと思った上での行動でした。

そんな奥さんの想いを知った喜田さんは、業種を問わず、およそ50社に履歴書を送りました。しかし、現実は厳しく、ほとんどの会社で書類選考すら通りませんでした。そんな喜田さんに手を差し伸べたのが、あるスポーツ用品の販売代理店でした。

「一生働ける会社に入れて、しかもそれがスポーツメーカーっていうのは、主人にとっても良かったことだし、自分の居場所を見つけられたのかなって思いました」(奥さん)

その会社での喜田さんの仕事は、現役のプロ野球選手に用具を提供することでした。選手それぞれグローブの硬さの好みが違うため、一つ一つ手作業で整えます。細かな要望に応えて仕上げた道具を、現役の野球選手に届けるのです。

「今までの経験を活かせる仕事に就かせてもらっているのも家族の支えがあってこそ。妻は絶対いないといけない存在ですね。道をそれると導いてくれるので……」(喜田さん)

一方、奥さんの「ママでもおしゃれできる服」は、同世代を中心に大人気になりました。

今では新作ができると、みずからモデルとなり、インスタグラムでPR。人気商品は、わずか数分で完売することもあるそうです。また、大手のデパートから、展示会を依頼されるほどの人気ブランドに成長しました。工夫と努力でブランドをつくりあげました。そして、どん底から喜田さんを再生させもした。

「私自身は、夫がプロ野球選手だったときよりも今のほうが幸せです」(奥さん)

私は今でも4年前のことは、昨日のことのように思い出します。中学野球が終わり、高校で野球で使用するグローブを買い求め、神奈川県にあるこのスポーツ用品店へ行きました。グローブを選ぶときには、いろいろとお話を聞かせてもらいました。また、長野から買いに来たことをお話しすると、驚いていたことに加え、感謝してくれた姿が印象深いです。高校3年間で4~5回ほどお世話になりました。ただ、限定販売された金属バットだけは原宿で買いましたが…

喜田さんから購入したグローブ、スパイクは高校3年間、大事に使わせてもらいました。喜田さんの願うような活躍が出来たかどうかは判りませんが、3年間悔いなく、過ごせました。

私の高校野球の想い出の1ページです。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
大人よりも子どもたちの方が観察力もあり、いろんなことを覚えたりしています。大人なんかでは見過ごしてしまうようなことを、しっかりと見ていたりするものです。

それがイコール学力につながればいいのでしょうけど。

でも、社会に出てからは学力だけでは行けていけないこともありますからね。

将来、この話がTBSで放送されるかどうかはわかりませんが、私の役は似ていると言われている伊藤英明さんか竹野内豊さんでお願いしたいです。えっ、誰が石塚英彦さんじゃ!!
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

喜田選手・・名前を聞いたことがあるという程度でしょうか。
ただ何処のチームだったのかは?です。ごめんなさい。

太郎くんのグローブ・スパイクはそういうドラマ?があり、そしてとーちゃんの想い出として刻み込まれているんですね。

太郎くんが活躍してこの想い出が中居くんの番組でクローズアップされること願っていますよ!!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

最新の画像もっと見る

最近の「プロ野球」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事