中国には古来からの伝来の、
易姓革命と言う粛清方法があるのです。
それは帝国や大国の為、
徳を失った王の治世する民を、
大勢弑して新たな王国を樹立することです。
ですから、
徳と言うものは常に付いて回ります。
余りに頑固でいては困ります。
ですが、徳とは辺りを広げさせることです。
平安貴族と鎌倉武士と言う観点から見ても、
銃や刀で人を弑する事は可能です。
この世で徳を積まなければ、
通れぬ道もあると言う事です。
徳とは真理であり、
様々な論を、
全て統一する概念です。
その徳から派生して、
論語があるのです。
恐らくきっと。
それはまだ読ませて貰っていません。
今は史記の3巻目、表3が1ページから読めていないのです。
黄帝の子孫に興味がなかったのです。
それはまだ、大成出来る子を私が持てるだけの資力に満たないからです。
資力とは、物質的な経済と、様々な非経済的能力に別れると思います。
その資力、投資力にもならず、
子孫の事を読み取れるでしょうか。
ですからまだ、
史記を読み進めることは出来ないのであります。
まだ運命の流れが、
川を満たしていません。
美しい言語を、
美しく語ることも、
これも前世からの徳のお力です。
人は無理して着飾った所で、
真理を追求する人からしたら、
滅ぼすことも簡単な事です。
ですがそれをしないのも、
徳の為の事です。
徳を積み、徳を考える。
慈しみを持つ。
徳を考える段階にまで行けば、
何故助かるのかが解明されるものです。
脳に汗を掻いてでも、
徳の事を考えなければなりません。
こうして文章を考えるのも、
少ない民、中心の民の為です。
為とは、
利己利他どちらも必要です。
1972文字数。
1972年は第二次世界大戦が始まった日ですね。
クリスチャンも徳を考えるのに相応しい勉強です。
間違えてしまいました。
1972年は日中国交正常化の記念すべき日でした。
康康と蘭蘭の年でもあるのかもしれませんね。
そう考えると、
聖書からは余程、
離れてしまったのですね。
これも宿命か。
平安時代の仏教と、
鎌倉時代の仏教、
私の両親の母は平家と源家です。
仏教を、
学び始める時が、
やがて終ぞには到来するでしょう。
それが必要と天界に認められればの話です。
それには、
恐らく崇高な身分が必要そうです。
するとまだ、
まだまだ発展途上なのです。
哲学書とも出会い、
やがて能の研究もしなくてはなりません。
能ある鷹は鳥を産む、
能ある鷹は万を得るじゃ、
元々の意味を変えさせた韓国の歴史のよう。
能ある鷹は味を知るじゃ、
祖先を頼るだけの無能な人間のよう。
能ある鷹は餅を焼くじゃ、
衆世を救う百姓のよう。
能ある鷹は尻を焼くじゃ、
鬼を戒める不動明王のよう。
能ある鷹は親知らずじゃ、
親不孝なだけの子供のよう。
能ある鷹は焼け石に水じゃ、
懐石を猛る胸の熱さで恐怖に冷やりのよう。
能ある鷹は黄河行くじゃ、
まだ龍になれない鯉のようだ。
能ある鷹は窓を拭くじゃ、
有り得ないし鳶を産むだ。
能ある鷹は信を得るじゃ、
天下を穫れなかった信長様のようだ。
能ある鷹は夢芝居じゃ、
芸姑を枕に寝た朝のようだ。
能ある鷹は幸を知るじゃ、
独り善がりな物長者のようだ。
能ある鷹は風に酔う、
じゃ落語家の世界のようだ。
能ある鷹は夢を生むじゃ、
夢グループの社長のようだ。
能ある鷹は酒を知るじゃ、
天狗になった楽天家のようだ。
能ある鷹は季節柄じゃ、
尊いが尊い故に儚い物語の1シーンのようだ。
能ある鷹は夢現じゃ、
三途の川を下る鷹のようだ。
能ある鷹は風を切るじゃ、
旋風を巻き起こす龍にはなれないようだ。
能ある鷹は色を持つじゃ、
色っぽい姉さんのような歌だ。
能ある鷹は腰を打つじゃ、
年老いて背中に曲がった爺さんのようだ。
能ある鷹は鳥を生む―鳥を生む?なのか?
能ある鷹は知るを足る
知ることが足れば
脈を辿り地に足が付く
これで終わりにしよう
徳を考えるとは
疲れることだ