婚約直後の別れ
日本初のノーベル文学賞作家、川端康成
(1899~1972年)の創作意欲を掻き立た
てる「美神」となり、作品に繰り返し
登場した女性がいる。
初恋の女性、伊藤初代(1906~51年)
である。
だが、婚約後、間もなく起きた事件に
よって発代は身を引き、この恋は打ち
砕かれてしまう。
川端の没後50年にあたる2022年、これ
まで歴代の研究者がが注目してきた別れ
の真相が、ある学術書によって詳細に解き
明かされた。
大正10年、初代から川端に結婚の約束が
果たせないことを告げる手紙が届く。
<私にはある非常があるのです。・・其の
非常を話すくらいなら死んだ方がどんなに
幸福でせう>
のちに、研究者らの間で「非常」の手紙と
呼ばれるものだ。
一体、初代に起きた「非常」とは何なのか?
「歴代の研究者や批評家が注目し、様々な
解釈を与えてきたが、はっきりとした確証
がなく、断定することができないままで
あった」。
川端康成学会特任理事で、教授であるAさん
は、そう話す。
そんな中、平成26年、川端が発代に宛てて
書いた未投函の手紙など10通以上の書簡が
発見されてニュースとなった。
「この資料に解決のヒントがありそうだ」
と直観した教授のAさん。
書簡の解析や関係者への綿密な取材をもと
に、「非常」の真相、初恋の真実をつまび
らかにし、
{川端康成の運命の人、伊藤発代「非常」
事件の真相}
として上梓した。
運命の女性
旧制一高の学生だった川端は大正8年、
東京本郷のカフェで女給をしていた
初代と出会う。
歌が上手く機転が利いて利発な初代に
心を奪われるが、カフェの閉鎖によって
発代は岐阜の寺の養女に。
川端は東京帝大2年生の10年10月8日、
親友の三明永無と共に岐阜を訪れ、初代
と婚約を果たす。
川端22歳、発代15歳。
翌日、3人で撮影した記念写真が残されて
いる。
東京と岐阜で熱烈な手紙を交わし、文壇で
認められ始めていた川端は菊池寛の援助を
受け、2人で住む部屋を借りる、
など、結婚の準備を進めていた。
高まり、頂点に達していた2人の愛。
しかし、発代からの返事が突然、途絶えた。
発見された川端による未投函の手紙には、
発代からの返事が遅れていることについて
「恋しくつて恋しくつて、早く会はないと
僕は何も手につかない」
狂おしい恋情が綴られている。
婚約からわずか1ヵ月後に届いたのが
「非常」の手紙。
川端は衝撃を受けた。
「わずか15歳の少女の身におぞましい
事件が起きていたのです」。
A教授は親族の証言を聞き取るなどした
結果、「非常」とは、岐阜で発代が辱め
を受けたことだと分かった。
これまで、別れの理由については、
心変わりなど、発代に原因があるかの
ような憶測で語られることもあり、
親族の男性は
「真実を知って欲しかった」
と語る。
A教授は
「川端にとって生涯最大の恋、運命の
女性でした。
初代への慕情は一生続き、その残像は、
数多くの作品に刻まれていくのです」
と話した。
創作の「美神」
この恋の顛末は、「非常」の手紙を
ほぼそのまま、再現した
短編「非常」、
「篝火」、
「南方の火」、
「母の初恋」、
晩年の「不死」
などの作品に昇華されている。
さらに、A教授は、
「代表作の<伊豆の踊子>にも、初代
の面影が投影されている」
という。
幼くして両親や姉、14歳で祖父を介護
の末に失い、天涯の孤児となった川端と、
早くに母親を亡くし、東北から単身上京
した孤独な発代とは、境遇がよく似て
いた。
互いに惹かれ合い、結ばれることが
なかったからこそ、初代は世界的文豪
の心を生涯捕らえて離さなかったのでは
ないだろうか。
2022年、川端がガス自殺を遂げてから
50年の節目に当たり、その作品が注目
された。
A教授は
「創作の源泉となった初代という<美神>
の存在。
川端の青春を懸けたこの初恋が、深く
重い意味を持ったことを知ってもらい
たい」
と話す。