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川端康成、初恋女性からの「非常」の真相

2024-04-20 05:50:14 | 日記

婚約直後の別れ

日本初のノーベル文学賞作家、川端康成

(1899~1972年)の創作意欲を掻き立た

てる「美神」となり、作品に繰り返し

登場した女性がいる。

 

初恋の女性、伊藤初代(1906~51年)

である。

 

だが、婚約後、間もなく起きた事件に

よって発代は身を引き、この恋は打ち

砕かれてしまう。

 

川端の没後50年にあたる2022年、これ

まで歴代の研究者がが注目してきた別れ

の真相が、ある学術書によって詳細に解き

明かされた。

 

大正10年、初代から川端に結婚の約束が

果たせないことを告げる手紙が届く。

 

<私にはある非常があるのです。・・其の

非常を話すくらいなら死んだ方がどんなに

幸福でせう>

 

のちに、研究者らの間で「非常」の手紙と

呼ばれるものだ。

 

一体、初代に起きた「非常」とは何なのか?

 

「歴代の研究者や批評家が注目し、様々な

解釈を与えてきたが、はっきりとした確証

がなく、断定することができないままで

あった」。

川端康成学会特任理事で、教授であるAさん

は、そう話す。

 

そんな中、平成26年、川端が発代に宛てて

書いた未投函の手紙など10通以上の書簡が

発見されてニュースとなった。

「この資料に解決のヒントがありそうだ」

と直観した教授のAさん。

 

書簡の解析や関係者への綿密な取材をもと

に、「非常」の真相、初恋の真実をつまび

らかにし、

{川端康成の運命の人、伊藤発代「非常」

   事件の真相}

として上梓した。

 

運命の女性

旧制一高の学生だった川端は大正8年、

東京本郷のカフェで女給をしていた

初代と出会う。

歌が上手く機転が利いて利発な初代に

心を奪われるが、カフェの閉鎖によって

発代は岐阜の寺の養女に。

 

川端は東京帝大2年生の10年10月8日、

親友の三明永無と共に岐阜を訪れ、初代

と婚約を果たす。

 

川端22歳、発代15歳。

 

翌日、3人で撮影した記念写真が残されて

いる。

 

東京と岐阜で熱烈な手紙を交わし、文壇で

認められ始めていた川端は菊池寛の援助を

受け、2人で住む部屋を借りる、

など、結婚の準備を進めていた。

 

高まり、頂点に達していた2人の愛。

 

しかし、発代からの返事が突然、途絶えた。

発見された川端による未投函の手紙には、

発代からの返事が遅れていることについて

「恋しくつて恋しくつて、早く会はないと

僕は何も手につかない」

狂おしい恋情が綴られている。

 

婚約からわずか1ヵ月後に届いたのが

「非常」の手紙。

川端は衝撃を受けた。

 

「わずか15歳の少女の身におぞましい

事件が起きていたのです」。

A教授は親族の証言を聞き取るなどした

結果、「非常」とは、岐阜で発代が辱め

を受けたことだと分かった。

 

これまで、別れの理由については、

心変わりなど、発代に原因があるかの

ような憶測で語られることもあり、

親族の男性は

「真実を知って欲しかった」

と語る。

 

A教授は

「川端にとって生涯最大の恋、運命の

女性でした。

初代への慕情は一生続き、その残像は、

数多くの作品に刻まれていくのです」

と話した。

 

創作の「美神」

この恋の顛末は、「非常」の手紙を

ほぼそのまま、再現した

短編「非常」、

「篝火」、

「南方の火」、

「母の初恋」、

晩年の「不死」

などの作品に昇華されている。

 

さらに、A教授は、

「代表作の<伊豆の踊子>にも、初代

の面影が投影されている」

という。

 

幼くして両親や姉、14歳で祖父を介護

の末に失い、天涯の孤児となった川端と、

早くに母親を亡くし、東北から単身上京

した孤独な発代とは、境遇がよく似て

いた。

互いに惹かれ合い、結ばれることが

なかったからこそ、初代は世界的文豪

の心を生涯捕らえて離さなかったのでは

ないだろうか。

 

2022年、川端がガス自殺を遂げてから

50年の節目に当たり、その作品が注目

された。

 

A教授は

「創作の源泉となった初代という<美神>

  の存在。

  川端の青春を懸けたこの初恋が、深く

  重い意味を持ったことを知ってもらい

 たい」

 と話す。 

 

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貨幣史

2024-04-14 04:47:26 | 日記

和銅

708年、武蔵国から自然銅の献上があり祝して和銅と改元

された。

すでに668年、越後から燃水(もゆるみず)<石油>の献上

があり、以後、陸奥の金、伊勢の水銀、対島の銀、周防の銅

など各地の鉱山の開発が進展した。

和同開珎

708(和銅元)年鋳造されたわが国最初の銭貨。

珎は珍の略体、または賓の異体という。

銀・銅の両銭あり、政府は山城・周防など各地

に鋳銭司を置いて鋳造した。

皇朝十二銭

和同開珎以下、万年通宝、神功開宝、隆平永宝、

富寿神宝、永和昌宝、長年大宝、饒益神宝

貞観永宝、寛平大宝、延喜通宝、乾元大宝の12種の

銅銭で、律令政府が鋳造した。

以下に十二銭の鋳造年と天皇名を記す。

①和同開珎(わどうかいちん)

・元明(げんめい)天皇

・708(和銅<わどう>1)年

②万年通宝(まんねんつうほう)

・淳仁(じゅんにん)天皇

・760(天平宝字<てんぴょうほうじ>4)年

➂神功開宝(じんごうかいほう)

・称徳(しょうとく)天皇

・765(天平神護<てんぴょうじんご>1)年

④隆平永宝(りゅうへいえいほう)

・桓武(かんむ)天皇

・796(延暦<えんりゃく>15)年

⑤富寿神宝(ふじゅしんほう)

・嵯峨(さが)天皇

・818(弘仁<こうにん>9)年

⑥承和昌宝(じょうわしょうほう)

・仁明(じんみょう)天皇

・835(承和<じょうわ>2)年

⑦長年大宝(ちょうねんたいほう)

・仁明(じんみょう)天皇

・848(嘉祥<かしょう>1)年

⑧饒益神宝(じょうえきしんほう)

・清和(せいわ)天皇

・859(貞観<じょうがん>1)年

⑨貞観永宝(じょうがんえいほう)

・清和(せいわ)天皇

・870(貞観<じょうがん>12)年

⑩寛平大宝(かんぴょうたいほう)

・宇多<うだ>天皇

・890(寛平<かんぴょう>2)年

⑪延喜通宝(えんぎつうほう)

・醍醐(だいご)天皇

・907年(延喜<えんぎ>7)年

⑫乾元大宝(けんげんたいほう)

・村上むらかみ)天皇

・958年(天徳<てんとく>2)年

 

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渋沢栄一・企業と道徳

2024-04-11 01:33:40 | 日記

概論

資本主義は行き詰まった。

企業は行動を見直すべきだ、という指摘が

多くなされるようになった。

主に日本を含む先進国で「何だか上手くいって

いないぞ。変えなければ」

という気分が広がっていると思う。どう変える

べきか、の答えの一つに渋沢栄一の「論語と算盤」

がある。

大阪のあるベンチャー経営者の男性によると

社会的に意義がある事業だと消費者が

共感してくれたときから利益は安定したそう

だ。

彼が決して平坦ではなかった道のりを経て

導き出した結論は渋沢的で、「理念がしっ

かりしていれば、お金はついてくる。」

言うは易く行うは難し、なのは確かだ。

しかし、著名な経営者の傍若無人な振る舞い

や、国際的な規制などをめぐる経済団体の

いささか手前勝手な主張をみると、何とか

ならないかとも思う。

お手本は割に簡単に見つかるはずだ。

ESG、CSV、SDGs、といった略語が会社案内

の冊子に増殖している。

目先の利益ばかりを追わずに社会に貢献する

企業を目指すーという決意の表れだ。

これらのアルファベット群を指針とする経営は

世界的なトレンドとなりつつあるが、実は「近代

日本資本主義の父」と称される渋沢栄一の教えと

重なる。

今年、生誕180年の渋沢。その言葉は今も生きて

いる。

株主よりも・・・・・

「米国の資本主義が変わってきた。」

経済連合会のA氏は関西財界セミナーで、出席

した経営者らに語りかけた。

「米国企業は動き出すと早い。」

取引先選別や投資判断の基準が変わるかも知れず、

日本企業も備えるべきだ、との警鐘だ。

端的に言えば、米国企業は株主を強く意識して短期

的な利益を追う傾向がある、とされてきた。

それが「変わってきた」とA氏に言わしめたのは、

米国の経営者団体、ビジネス・ラウンドテーブル(BRT)

が昨年8月に出した「企業の目的に関する声明 」だ。

声明は、重視すべき利害関係者として消費者や従業員、

地域、環境を上位に挙げ、株主を一番下においた。

また、長期的な利益を重視するという。

アップル、フェデックス、ウオールマートといった

有力企業の経営者約190人がサインしている。

背景にあるのは、格差拡大とそれに伴うポピュリズム

(大衆迎合主義)の台頭、気候変動に対する危機感だ。

放置すれば社会は不安定化し、企業が悪者にされかねない。

しかし、企業の取り組みによって問題が改善する可能性

もある。

そのキーワードとなるのが、環境・社会・ガバナンス(企業

統治)を考慮した「ESG投資」、「ESG経営」や、社会問題に

取り組むことで利益をあげるCSV(共有価値の創造)経営」などだ。

変わる投資原則

「ESG投資は欧州の社債市場から広がりをみせている。」

と、メガバンク系証券会社で当初銀行業務を担当する幹部は指摘する。

「米国企業も、その流れを軽視できなくなっている。」

実際、国連がESG投資などを通じて企業に責任ある行動を促そうと

2005年に「責任投資原則(PRI)」を発表すると、機関投資家が翌年に

自主団体「PRI]を設立。

現在、2300超の機関投資家などが登録し、19年の運用資産総額は86兆

ドル(約9100兆円)を上回る。

うちESG投資は30兆ドルともされ、広がりをみせている。

 

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大爆発が握るオリオン座の運命

2024-04-09 03:18:36 | 日記

巨星ベテルギウスに異変

 

ベテルギウスは銀河系にある巨大な恒星で、

オリオン座の左上でオレンジ色に輝いている。

地球から約600光年離れているが、宇宙の

スケールでは隣近所だ。

直径は太陽の約1千倍。

仮に太陽と同じ場所にあれば、地球をはるかに

超えて木星付近までのみ込む大きさだ。

約1千万年の寿命を迎えて膨張した終末期の姿で、

最期の超新星爆発を起こす直前の状態にある。

このベテルギウスが昨年10月ごろ、突然暗くなり

始めた。

1月に入って明るさは普段の約4割まで減り、

少なくとも過去25年間で最も暗くなった。

表面温度が100度ほど低下し、可視光を吸収する

分子が生じて暗くなった可能性がある。

ベテルギウスは表面が脈動と膨張と収縮をゆるやかに

繰り返しており、温度が下がるのは膨張時だ。

このため「爆発の前兆か」と騒がれたが、明るさの

変化は昔から何度も観測されてきた。

鉄の中心核が崩壊

 

爆発の鍵を握るのは表面ではなく、中心部の変化だ。

恒星は中心部で水素などの軽い元素が核融合反応を

起こし、より重い元素に変化して膨大なエネルギー

を生み出し続けている。

長い年月をかけて核融合を繰り返すと鉄が生じる。

鉄は互いに核融合を起こさないため蓄積され、直径

1万キロほどの核に成長すると自らの重みに耐えきれず

崩壊。

鉄の原子を構成する陽子と電子が合体して中性子が大量

に生まれ、直径10キロほどの新たな核となる。

このときに生じた強烈な衝撃波が、約3日後に表面に到達

すると大爆発が起きるわけだ。

爆発後は中性子の核だけが残り、

非常に高密度な中性子星になる。

 

 

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幻の堺幕府

2024-04-08 02:50:36 | 日記

概略

大永7年(1527年)、室町幕府代12代将軍・足利義晴と

管領・細川高国を京都から追放し、事実上の「将軍」と

なった足利義維と「管領」となった細川晴元らは、上洛

を急がず堺に本拠を置いた。

情勢を見極めるまでの<仮住まい>だったとされるが、

それは別にしても、堺という町は様々な面でメリット

があったようだ。

なぜ堺だったのか?

その理由はー。

祖父

「堺幕府」が成立したとき、事実上の将軍・義維は10代後半

事実上の管領・細川晴元は10代前半とまだ若年者で、2人を

補佐役としてリードしていたのは、晴元の出身である阿波

(徳島県)細川家の家臣で、20代の年長者である三好元長

だった。

堺に畿内の拠点を置くというのも、軍事を握っていた元長

主導で進められたと推測される。

三好家と堺の縁は深い。

堺幕府や三好家と堺との関係について検証し発信する活動を

展開しているC会の代表は「最初に堺に目をつけたのは元長の

祖父・之長でした。」と話す。

之長は、高国と細川管領家の家督争いをしていた阿波細川家の

澄元(晴元の父)の後見人で、京都にいることが多かった。

そこで、京都に近く、本拠地の阿波と海路で行き来するのに

都合の良い堺を第二の拠点とすることを思い立った。

江戸時代に書かれた堺の地誌「全堺詳志」には、永正元

(1504)年、之長が京都から堺に来て、「一大宅を泉州海浜

の浜(堺のこと)において起こさんと欲して」館の建設工事

を始めたと記されている。

これが「海船政所」で、元長の代に完成をみる。

位置は、堺を取り囲む環濠の北端で、「東西約650メートル

南北はその倍」

と広大な敷地を有していたことから、単に三好氏の大邸宅が

あっただけでなく、1万人近い軍勢を収容できるべースキャンプ

でもあったのではないかとも推測されている。

 

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