地球あちこち旅あるき

まるい宇宙船地球号

アメリカ横断・絵はがき日記(9月11日米国同時多発テロ1年目のその時刻に)

2006-09-11 21:54:37 | Weblog

9月11日(水) NY

朝、530に起きて、グランド・ゼロに向かう行進に参加。眠い。暗い。人が少ない。ちょっとすごいかなと思ったけど。疲れる。ひたすら南に歩く。人が多い。中には、入れそうにない。847ぐらいになっても何も聞こえてこない。がっかり。少し歩いて、自由の女神に向かう。風が強い。思ったより混んでいない。海から見るマンハッタンはアメリカな感じ。島を30分歩いて戻る。地下鉄でホテルへ。地下鉄がまだよく分からない。歩いて、エンパイヤステートビルへ。高いところから見るのも良かった。800から、ジャニス・ジョプリンのミュージカル。英語で全然分からない。ライブだけ楽しむ。ミュージカルっぽくない。なぜか   (日本では9月18日配達)

9月11日(水)#2 NY

2人で、$57(学生)。2230タクシーでホテルにいってから、シーフード・レストラン。ロブスターがうまい。初めて“Great”と言う。帰ったら1200をまわる。寝る。

 

 【同行ノート】

*ニューヨークに着いてから、ずっと、ニューヨーク・タイムス、USAトゥディ を見ていた。あるいはローカル紙やフリーペーパーにも気をつけていた。9月11日の1年目に、ニューヨーク・グランドゼロにいたいと思っていた。そしてニューヨークで行われるメモリアル・イベントのどれかに参加したいと思っていた。一番わかりやすく整理して提供してくれたのが、DAILY NEWS だった。

*10日の夜、ヤンキース・スタジアムから帰ってから、寝る前に私は息子に伝えた。
“明日は、9月11日だ。その時間にグランドゼロをめざす、市民の行進と一緒に歩こう。明日は5時起きだ”。郊外5方向から、グランドゼロをめざす行進のひとつに参加するこにした。

*夜は明けていない。窓をあけて、かすかなバグパイプとざわめきを感じ息子を起こした。予定では、ブロードウェイの北端を2時に出発した行進の、ホテル近くのタイムス・スクエアの通過時刻は5時48分と予定されていた。先頭にバグパイプ隊。市民の自由な行進があった。まだ、夜は明けない。私らもくわわった。

 南へ

 バグパイプ隊の演奏に合わせて南へ

 南へ

 8時少しすぎグランドゼロに到着した

 今ここで、追悼式典が行われている

*私らふたりは、黙って歩いた。街はごったがえしてきた。そのまま、マンハッタン島の南端へ。バッテリー公園に、世界各国の国旗がはためいていた。日の丸はなかった。アメリカと共に軍隊を出している国々のようだった。私らはそのまま、自由の女神に向う船に乗った。自由に向う船だなと思った。

*ここから見えていたワールド・トレード・センターのツイン・タワーは、今、見えない。この日、街中に星条旗が掲げられていた。そして全て半旗である。追悼の日である。

*いったんホテルに帰り、一休みした。そして夕方、もう一度、街に出た。今夜はこの旅の、とうとうアメリカ最後の夜になった。

*今夜もまた、グリニッチ・ビレッジに足が向いた。ワシントン広場の人の集まりは、手にロウソクの火。ニューヨーク中でこの夜、追悼の集まりがあった。

*私らは、小さな劇場で行われている、ミュージカル“LOVE,JANIS”を見ることにしていた。1960年代の後半に、力強く、短く生きた、ロック歌手・ジャニス・ジョプリンの生涯もまた、私ら世代に強い印象を与えていた。


米国横断・絵はがき日記(9月10日ニューヨーク・ヤンキース球場)

2006-09-11 17:36:48 | Weblog

9月10日(火)NY
寝すごした親父が、Woodstockに行かないので、カーネギーのデリで。サンドイッチ。量が多すぎる。おいしく食べられるのは1つまで。もったいないけど残す。1100すぎのこと。歩いてヤンキースのクラブハウスへ。今日のチケットを買う。2人で$100ボーダーズへ。Snow Boardの本を買う。セントラルパークを歩いて美術館へ。オレは入らず、(日本には、9月17日配達)

9月10日(火)#2 NY
反対側へ。パタゴニアが見つからない。ダコダ・アパートへ。こんなもんかというかんじ。イマジンの写真をとり、タクシーでホテルに。1700すぎ、タクシーでスタジアムへ。$26.ボッタくられたかも――。かばんが持ち込めないので預けて、中に。日本とちがって近い。アメリカの方がいいよとよく言うけど納得。でも、ホットドッグ2個とコークと水で$15はありえない。席はあいてる。有名な選手はでてこない。実はこの日、2試合目で、主力メンバーは、休けいといった感じ。がっかりジーターのTシャツ買ったのに…。ヤンキースが勝ったのでよし。ホームランも出たし。(#2;日本には、9月17日配達)

9月10日(火)#3 NY
また来たい感じ。帰りは地下鉄。2人で$3。混んでないので座れる。ホテルのそばの日本食屋でみそラーメン。久々すぎるラーメン。おいしい。NYではけっこう日本食。さすがにNYは、レベルが高い。2300ごろホテルに。シャワーも浴びて荷物を軽くまとめる。たまっている手紙を9枚書く。それで、時計は0100amすぎ。明日も早起きだけど、まあしょうがない。あと2日。短い。もうちょっといたい気がする。英語もがんばらなければ。あー眠い。疲れた。
10/09/2002, 0100 am ホテルにて 記> (#3;日本には、9月17日配達)

 【同行ノート】
夜は、メジャーリーグをヤンキース・スタジアムで見ることにし、それまでの時間は、自由行動ということにしていた。私は、4時起きで、ウッドストックにバスで行ってくることにしていた。1969年のウッドストック・コンサートのウッドストックではない。まあ、軽井沢といった感じの芸術家村だろうか。1960年代後半、ボブ・ディランやザ・バンドのひそんでいた所だ。彼らがセッションをしたビッグ・ピンクという建物をみたいと思っていたのだ。そのセッションは、ブートレッグ(海賊盤)で世に出て、公式盤も出ている。
前夜が1時まわっていたこともあって、起きられなかった。さあ、どうしようかと、まず、ヤンキースのチケットを買いにいった。息子主導で進んでいった。
じゃあ、セントラル・パークだね、と。メトロポリタン美術館にいく。表で写真を撮っても入るつもりはない。何回か、ニューヨークにきていたが、いつもそうである。大きすぎて、ちょっと見るようなわけにはいかないのだ。
しばらく別行動ということで、私はホイットニー美術館に行った。エドワード・ホッパーの絵を見たかったわけである。それから、毎回出かけた、マンハッタン中心にある NYmomaは、改装中で移転していた。

再会の約束は、ジョン・レノンが住んでいて、そして撃たれたダコダ・アパートのそばの、ストロベリー・フィールドにしていた。しばらく、イマジンのモニュメントをベンチに座ってみていた。

ヤンキース・スタジアムには、タクシーで行った。入場時に、息子が背負っている、何にも入っていないディパックの持込を認めないという。コインロッカーもない。どうすりゃいいのと聞いて、なんと近くのボーリング場で預かってもらった。

その日は、ダブルヘッダーで、主力は第一試合に出て、ほとんど出てこない。ベンチにいるのかどうかもわからない。まあいいかと、ニューヨーク・ヤンキースを楽しんだ。息子は、ジータの背番号2のTシャツを買って、着替えていた。スタンドで、ホットドックをほうばる。ここはニューヨークだ。入場時にキーホルダーをくれた。4年前のことで、むろん松井がいるわけじゃあない。

7回ごろだったと思うが、全員総立ちで、ゴッド・ブレス・アメリカを歌った。私らも、直立不動で立った。米国同時多発テロ1年目の前夜のことである。

試合は、ヤンキース対オルリオールズで、3対1でヤンキースが勝ったのだが、試合の結果はどうでもよかった。
売店で買った、ヤンキース・マガジンには、試合のスコアがつけられるようになっていた。私は小学生の頃から、野球のスコアをつけることができた。その日のスコアも載せておきます、ブログ上では読めませんが。

さほど込み合うこともなく地下鉄で帰ることができた。ラーメンを食べホテルに着いて、“明日は9月11日だ。5時起きして、8時30分に現場・グランド ゼロ到着をめざす、市民の行進に入って歩こうと宣言した。この旅行のフィナーレが近づいていた。