『人類の「失われし輪」の連鎖の眠るちへ』
副題:『古人記(ふるひとふみ)仮説』
AC.25-Oct-2009/MTC.25-Kamituki-0079
作:Kawabuta.Dukedom./河豚公国(かわぶたこうこく)
神が知恵の果実を禁忌とし人の手から遠ざけたのは、新しい知識を生み出すという行為が余りに甘美な麻薬であり、我を忘れて心臓すら止まりかねないからである。しかも、時代を支配する神々の後ろ姿を垣間見ることさえ可能とする、究極を生み出すからである。
我、これより以下に物語を記す。
火山が噴火していた。
辺りは火山灰を大量に含んだ泥沼でほぼ覆われていた。
植物の多くが死に絶えた。天は火山灰を大量に含み、地に降り注いでいた。日中は陽が霞の向こうの月のように弱々しく感じられる程度に暗く、夜の下界は完全な闇だった。それは無言のうちに人の心に闇対する根元的な恐怖を深々と刻みつけた。
その場所は、アフリカ大陸と近いマグマの満ちた地球のプレートであり、島か辛うじてアフリカ大陸と繋がっていた場所で、しかも最低でも人が定住可能な場所にはアフリカ大陸の存在する事が知り得ない距離は離れていた。
最も可能性の高い場所はアフリカ大陸を取り囲むように存在する海領であり、次に可能性が地中海からカスピ海の南端を経て東南アジア諸島へと続き日本列島走りシベリアを続き北極へ抜ける海溝上にあった。海領とは大地が生まれる出る場所であり、海溝とは大地が帰る場所である。
およそ100万年前から5~万年前間にかけて、人類は何度かに分けて島々を移転した可能性さえ捨てることは出来ない。だが、人類の足跡が仮に海領から海溝へ移っり渡りとしても、それは最後の進化の足がかりとしての期間の数十万年前であろう。
99%以上の確率で有望と思われる母なる地球が作り上げたもっとも特異な生物である人類の「失われし輪」の連鎖の眠る地は、アフリカ大陸周辺の海領であり、激しくプレートが活動して噴火と巨大地震が絶えることのなかった、この世の地獄ともいうべき暗黒に閉ざされた世界である。
時に、鼻まで届くほどの泥の沼地の中を渡らなければならないこともあった。否応なく背筋を伸ばして歩くことを強要された。驚異的な早さで進んだ気候変動によりアフリカ大陸に帰る術を失った人々は、まず最初に木々の枝を掴むための手を、他の目的に転用した。世界で枝を掴む技術など不要であった。人は泥の中を掻き分け泳ぐ様に泥濘みの中を歩いた。手足はまずこれらの目的を全うするために変化した。沼地を歩くと体毛と尾に泥がこびりつき重く精神に抵抗するため、人の肉体はこれと早急に決別の決断を下した。眉と髪、そして、おそらく集落によっては髭を残しまたある集落によっては集落においては髪そのものも抜け落ちた。下界はほぼ一日中火山灰によって霞かかっていた。わずかに残る枯れ果てた木々は時折その中に混じる炎石により炎おあげて燃え上がって更に更に枯渇していった。人は寒さから逃れるためにその火に近づき貴重な木々の残痕と共に自分達が暮らす住処に持ち帰った。掌と足を広げて炎にかざすと効率よく暖を取ることができた。人々はこの灯りを称えた。笑った。ある者は興奮した。放火衝動の起源だ。ある者がそれをいさめた。ある者は頬を叩いた。殴り合いになると、仲間が双方をせいした。一連の複雑な人間関係の過程で人類最古の言葉が生まれ広まった。その恐ろしくも有り難い火という存在が無ければ、人類は早々に死に絶えていたであろう。唯一無二の幸運である炎という存在がまず人の最初の神となった。真水もまた貴重であった。人は洞窟の中の結露を舐めて渇きを凌いだ。水は身体にこびりついた泥を拭い落とすなどあり得ないほどに得難く貴重な形のない宝石であった。故に乾いた火山灰を大量に含む泥の付いた体毛は即、火傷の原因となった。涙があふれた。これ等により、人にとって害でしかないと見なされた尾と体毛は短期間で完全に抜け落ちた消滅した。
木の実は無い。草花も無い。周辺の海も汚れきっていて魚はほとんどより付かない。獣こそが人類を貴重な肉として常に付け狙っていた。そんな世界に生きる人類にとって、もっとも身近な食材は火を通した貝類となった。そして、人間が最初に手にした道具が貝殻のナイフである。脆い反面、柔らかい物の切断には向いていた。当然、最古の通貨は身の付いた食べる事の出来る焼いたのち乾かした貝である。それが儀礼化されたものが貝の貨幣でこれは人類が金属を手にするまでの間、標準的に使われ続けた。
しかし、その物理的な証拠の限りなく99%を越え辛うじて0%と言い切れないだけしかこの星の中に残されてはいない。しかし、もしかしたら、まだ有るかもしれないという僅かな可能性が残っている。海中に没したからだ。
しかも、石灰を多く含む泥はこの時代の人の骨も貝の殻も瞬く間に同化してしまい、その殆どが消えたのだ。辛うじて、住処であった洞窟の跡にたどり着ければ幸いであろうが、今日に至るまでその住処は発見されていない。海底の泥の下に埋もれているからだ。しかも、地殻変動によってその洞窟が跡形もなく破壊されてしまっていないという保証はない。しかし、人の住処のどれかは今も、主の子孫の帰りを待ちわびているのかもしれない。
これはSFの物語である。
史実ではあるという保証はない。
しかし、いくつかの推測が人の失われた輪と重ならないという可能性はゼロではない。また、現実に適合するよう、諸説に耳を傾け注意深く再構築した。故に、まだ物理的な根拠がないという以外、トロイ遺跡の発掘のそれと基本的には同じ行為であるはずである。
手足は、泥の中で天を見上げ鼻のみで呼吸して貝を探すために都合良く、特に手はバランスを取るために当時の人の進化の過程で望みうる最も優先され研ぎ澄まされた機関であった。人は、地上の何物よりも手先が器用になった。知能は加速度的に上がった。
最も高級な肉は、20世紀末から21世紀初頭にかけて沿岸部で何度も何度も彷徨い、力つきて浜辺に打ち上げられる姿を目の当たりにしている、海豚であった。
最高の獲物は、滅多には手に入らないが一度に多数の最高級のナイフを与えてくれる鮫であった。
海豚はウサギと姿が重なる。
或いは釈迦の教えは、己の身を進んで炎で焼いた逸話は、その古代の記憶の名残りであるのかもしれないが教典そのものの成立の由来が明らかなことからこの類似は恐らく単なる偶然であろう。
しかし、一部の宗教や民族の伝統の中には、多数の検討に値する逸話が余りにも多く残りすぎている。
まず、この文章を読んでいただいた奇特なる人々が記憶を重ねたであろう筆頭は旧約聖書であり、次ぐものは古事記であろう。
その具体的な光景は下に記すが、イザナギとイザナミ、アダムとイブは同一人物ではない。多数の男女の姿が重なり合ったと考えるのがもっとも自然である。幾つもの若い男女が古代の男女の原風景であることに疑いを挟む余地はないであろう。
家を継げない男女――特に、隔たりの大きすぎる集落間での恋は、和を乱す元凶とされ追放された。
食べるものに乏しい当時の人類は、追われる身となり、海豚や鮫が豊富にいる、しかし、決して人の住み得ない海に放たれ、手を取り合い絶望の中に新天地に夢と無限の可能性を求めたのである。
それ以外は許されない世界であった。
二人だけで逃げても獣に狩られるか、あるいは他の集落の者の縄張りを犯した時点で殺された。余所者に情けをかける理由も奴隷として生かし喰わせる余裕も、そこには無かった。故に、何者かに喰われる運命にあった。鬼や悪魔を恐れる深層心理の根源である。
いくつかの集落では愛を誓った男女に対して、「地に満ちよ!!」との別れの言葉を送り、幾つかの集落は、海に並んだ鮫の上を手を取り一つとなった道の上を駆けて行く様を理想化し、若いその夫婦が新しい大地へたどり着くこと至上の夢とした願い詩を送った。「稲葉の白兎の物語」の原型である。また、いくつかの集落において、夫婦の門出を祝う儀式は、二人の男女が島を出るという宣言に始まり次に「あないおとこや」とつづく儀式であった。まさに、イザナギとイザナミの結ばれるまでの物語そのものである。
海豚や鮫の歯は貴重な宝石であり、武具であり、神具であった。
しかし、なにものにもまして大切とされたものは、ちょうど良い大きさの、のど元や頭頂部を含む、丁寧に丁寧に剥がされたその表皮であった。この皮を剥ぐという行為もまた、「稲葉の白兎の物語」の伝承に色濃くその名残を刻んでいる。
ごくごく一握りの集落の指導者のみが、剥ぎ取った皮のその口の位置から頭を、目からは手を、そして切断した部位から着込み足を出し、祭事のための最初の装束となった。これらの形状は、我々の知る「ローブ」というものに酷似している。残りの皮は文字通り身につけるための衣服の起源のそれである。
別れには誰もが涙を流した。今生の別れであるからだ。
見果てぬ地を求めて旅立った一組の男女が、海流や、風や天候に恵まれ幸運にも人の生きてたどり着くことのできる唯一の可能性のある大地――その場所はアフリカ大陸にありえない――までたどり着いた例は極々僅か。幾つもの幸運と偶然と困難を支え合うことができた奇跡的な一握りだけである。
だが新しいこの新天地にたどり着いたものたちが、紛れもなくアダムでありイブであり、イザナギとイザナミ達の原型である。それを脈々と語り継いだのは残った家族たち、集落の人々であるり、それは死地へと追い詰めた我が子、孫、達の生を祈る願望である。
やがて、この地獄の世界にも完全に海へ沈むに至った時が訪れた。それを予感した人々は、持てるもの全てを集めて最後に、皆が共に最後の旅へと挑んだ。ノアの箱船の物語の原型である。
4~5万年前、最後にアフリカにたどり着くことの出来た者達がホモ・サピエンスの一群である。
当然のように、それ以前にたどり着いたイザナギとイザナミ、アダムとイブ達の末裔がネアンデルターレンシスの直系の母集団である。
そして、その記憶のほとんどは両者が等しく共有している。ネアンデルターレンシスはホモ・サピエンスの到来を知っていた。ホモ・サピエンスもネアンデルターレンシスの存在を知っていた。故にお互いはほとんどの場合、自然の恵み豊かなアフリカ上陸にして後、争いあう必然などもたなかた。離ればなれになった二つの家族は長い長い時を経て再び一つに紡がれていった。
しかし、人類の生まれた場所が如何にこの世の地獄であろうと、人間をより高度な次元に達することを要求し見事に変貌せしめた「高天原」であり「エデン」だのである。今は完全に海中に没したその一帯が、人類の尾の――「失われし輪」――在処である。
これにて、失われし輪を再構築した物語を終了し、以下にいくつかの補則を述べよう。
なぜ、ほとんどの民族がこれらの記憶をなくしたか。
それは、皮肉にも文明が発達したために支配者の都合により記憶の改竄がなされ、価値観が大きく変異したからである。それは、先住者の存在する土地を支配した者達が行うあまりにも普遍的で愚かな行為の証である。
また、なぜ文明の起こり得なかった場所にこの記憶が残されなかったかという問いについては、「恐怖無き豊かな恵のある楽園で人は生きるための努力を積極的に惜しむ」からであり、あるいは「イースター島」の悲劇が繰り返された故に、と返答する。
重ね重ね申し上げる。これは純粋に物語である。
しかし、同時に我はここまで純粋に、ただ知恵の果実の結実だけを記した。
SFSとSNFSの垣根はそこに加味された『願望』という事実の改竄の余地が薄れるにしたがい、純度が高まれば高まるほど近づいて行くと信じ、究極的には最統合されると考える。
故に愚かな我は、真なる判断を、純粋に科学的好奇心に満ちあふれた未来の子供達に託す。
または、参考とすべき一思考として此を手渡す。
明日の子供達よ!! 人として何よりも大切なことは常識に囚われず己の頭脳でまず考えることである!! 無謀であれ!! 愚者であることを恐れぬのなら我の後に続け!! そして可能性の中に無限の翼を広げ、我の屍を踏み越えて人類の「失われし輪」の連鎖の眠る知恵を自在に操り、バベルの塔の頂より遙か時空を越えて宇宙の芯から果てに至るまでの間に存在する、あらゆる謎を解き明かせ!!
純粋に知的好奇心を満たすこと、見果てぬ謎に挑むことこそ、この世の至上の快楽であると知れ!!! 我が人類の失われし輪の謎に挑み、拙くとも、この思考の礎となった独自の理論を築き上げたのはまだ十代の刻である!!!
例えこれが否定されても、熟慮を重ね再考して我は次の物語を提出するだろう。
また、ホモ・サピエンスとネアンデルターレンシスの再融合と現代に至る経緯については無謀にも、一部加筆と修正の余地は残すものの学会の場に提出した。残るは石器時代への移行の課程等の場面を残すについて簡単に、石器も木も、単に優れた材料が身近にあるから使ったのだ、とだけ今は簡単ではあるが補足してこれをもって人類の誕生から今日に至る道程の全行程の我が物語の現時点における完結とする。
そして、我は人類の失われた輪の発掘に関する一連の物語の全行程を語り終えたと信じるに足るが故に、ひとまずはここに筆を置く。
ガリレオは、単なる数列の美しさというだけの現代人の目には極めて如何わしいエセ科学的行為の中に、木星に従う衛星の数を予言し、これを的中させている。
天上天下唯我独尊。
初 :AC.21-Oct-2009/MTC.-21-Kami-0079
作 :Kawabuta.Dukedom./河豚公国(かわぶたこうこく)
副題:『古人記(ふるひとふみ)仮説』
AC.25-Oct-2009/MTC.25-Kamituki-0079
作:Kawabuta.Dukedom./河豚公国(かわぶたこうこく)
神が知恵の果実を禁忌とし人の手から遠ざけたのは、新しい知識を生み出すという行為が余りに甘美な麻薬であり、我を忘れて心臓すら止まりかねないからである。しかも、時代を支配する神々の後ろ姿を垣間見ることさえ可能とする、究極を生み出すからである。
我、これより以下に物語を記す。
火山が噴火していた。
辺りは火山灰を大量に含んだ泥沼でほぼ覆われていた。
植物の多くが死に絶えた。天は火山灰を大量に含み、地に降り注いでいた。日中は陽が霞の向こうの月のように弱々しく感じられる程度に暗く、夜の下界は完全な闇だった。それは無言のうちに人の心に闇対する根元的な恐怖を深々と刻みつけた。
その場所は、アフリカ大陸と近いマグマの満ちた地球のプレートであり、島か辛うじてアフリカ大陸と繋がっていた場所で、しかも最低でも人が定住可能な場所にはアフリカ大陸の存在する事が知り得ない距離は離れていた。
最も可能性の高い場所はアフリカ大陸を取り囲むように存在する海領であり、次に可能性が地中海からカスピ海の南端を経て東南アジア諸島へと続き日本列島走りシベリアを続き北極へ抜ける海溝上にあった。海領とは大地が生まれる出る場所であり、海溝とは大地が帰る場所である。
およそ100万年前から5~万年前間にかけて、人類は何度かに分けて島々を移転した可能性さえ捨てることは出来ない。だが、人類の足跡が仮に海領から海溝へ移っり渡りとしても、それは最後の進化の足がかりとしての期間の数十万年前であろう。
99%以上の確率で有望と思われる母なる地球が作り上げたもっとも特異な生物である人類の「失われし輪」の連鎖の眠る地は、アフリカ大陸周辺の海領であり、激しくプレートが活動して噴火と巨大地震が絶えることのなかった、この世の地獄ともいうべき暗黒に閉ざされた世界である。
時に、鼻まで届くほどの泥の沼地の中を渡らなければならないこともあった。否応なく背筋を伸ばして歩くことを強要された。驚異的な早さで進んだ気候変動によりアフリカ大陸に帰る術を失った人々は、まず最初に木々の枝を掴むための手を、他の目的に転用した。世界で枝を掴む技術など不要であった。人は泥の中を掻き分け泳ぐ様に泥濘みの中を歩いた。手足はまずこれらの目的を全うするために変化した。沼地を歩くと体毛と尾に泥がこびりつき重く精神に抵抗するため、人の肉体はこれと早急に決別の決断を下した。眉と髪、そして、おそらく集落によっては髭を残しまたある集落によっては集落においては髪そのものも抜け落ちた。下界はほぼ一日中火山灰によって霞かかっていた。わずかに残る枯れ果てた木々は時折その中に混じる炎石により炎おあげて燃え上がって更に更に枯渇していった。人は寒さから逃れるためにその火に近づき貴重な木々の残痕と共に自分達が暮らす住処に持ち帰った。掌と足を広げて炎にかざすと効率よく暖を取ることができた。人々はこの灯りを称えた。笑った。ある者は興奮した。放火衝動の起源だ。ある者がそれをいさめた。ある者は頬を叩いた。殴り合いになると、仲間が双方をせいした。一連の複雑な人間関係の過程で人類最古の言葉が生まれ広まった。その恐ろしくも有り難い火という存在が無ければ、人類は早々に死に絶えていたであろう。唯一無二の幸運である炎という存在がまず人の最初の神となった。真水もまた貴重であった。人は洞窟の中の結露を舐めて渇きを凌いだ。水は身体にこびりついた泥を拭い落とすなどあり得ないほどに得難く貴重な形のない宝石であった。故に乾いた火山灰を大量に含む泥の付いた体毛は即、火傷の原因となった。涙があふれた。これ等により、人にとって害でしかないと見なされた尾と体毛は短期間で完全に抜け落ちた消滅した。
木の実は無い。草花も無い。周辺の海も汚れきっていて魚はほとんどより付かない。獣こそが人類を貴重な肉として常に付け狙っていた。そんな世界に生きる人類にとって、もっとも身近な食材は火を通した貝類となった。そして、人間が最初に手にした道具が貝殻のナイフである。脆い反面、柔らかい物の切断には向いていた。当然、最古の通貨は身の付いた食べる事の出来る焼いたのち乾かした貝である。それが儀礼化されたものが貝の貨幣でこれは人類が金属を手にするまでの間、標準的に使われ続けた。
しかし、その物理的な証拠の限りなく99%を越え辛うじて0%と言い切れないだけしかこの星の中に残されてはいない。しかし、もしかしたら、まだ有るかもしれないという僅かな可能性が残っている。海中に没したからだ。
しかも、石灰を多く含む泥はこの時代の人の骨も貝の殻も瞬く間に同化してしまい、その殆どが消えたのだ。辛うじて、住処であった洞窟の跡にたどり着ければ幸いであろうが、今日に至るまでその住処は発見されていない。海底の泥の下に埋もれているからだ。しかも、地殻変動によってその洞窟が跡形もなく破壊されてしまっていないという保証はない。しかし、人の住処のどれかは今も、主の子孫の帰りを待ちわびているのかもしれない。
これはSFの物語である。
史実ではあるという保証はない。
しかし、いくつかの推測が人の失われた輪と重ならないという可能性はゼロではない。また、現実に適合するよう、諸説に耳を傾け注意深く再構築した。故に、まだ物理的な根拠がないという以外、トロイ遺跡の発掘のそれと基本的には同じ行為であるはずである。
手足は、泥の中で天を見上げ鼻のみで呼吸して貝を探すために都合良く、特に手はバランスを取るために当時の人の進化の過程で望みうる最も優先され研ぎ澄まされた機関であった。人は、地上の何物よりも手先が器用になった。知能は加速度的に上がった。
最も高級な肉は、20世紀末から21世紀初頭にかけて沿岸部で何度も何度も彷徨い、力つきて浜辺に打ち上げられる姿を目の当たりにしている、海豚であった。
最高の獲物は、滅多には手に入らないが一度に多数の最高級のナイフを与えてくれる鮫であった。
海豚はウサギと姿が重なる。
或いは釈迦の教えは、己の身を進んで炎で焼いた逸話は、その古代の記憶の名残りであるのかもしれないが教典そのものの成立の由来が明らかなことからこの類似は恐らく単なる偶然であろう。
しかし、一部の宗教や民族の伝統の中には、多数の検討に値する逸話が余りにも多く残りすぎている。
まず、この文章を読んでいただいた奇特なる人々が記憶を重ねたであろう筆頭は旧約聖書であり、次ぐものは古事記であろう。
その具体的な光景は下に記すが、イザナギとイザナミ、アダムとイブは同一人物ではない。多数の男女の姿が重なり合ったと考えるのがもっとも自然である。幾つもの若い男女が古代の男女の原風景であることに疑いを挟む余地はないであろう。
家を継げない男女――特に、隔たりの大きすぎる集落間での恋は、和を乱す元凶とされ追放された。
食べるものに乏しい当時の人類は、追われる身となり、海豚や鮫が豊富にいる、しかし、決して人の住み得ない海に放たれ、手を取り合い絶望の中に新天地に夢と無限の可能性を求めたのである。
それ以外は許されない世界であった。
二人だけで逃げても獣に狩られるか、あるいは他の集落の者の縄張りを犯した時点で殺された。余所者に情けをかける理由も奴隷として生かし喰わせる余裕も、そこには無かった。故に、何者かに喰われる運命にあった。鬼や悪魔を恐れる深層心理の根源である。
いくつかの集落では愛を誓った男女に対して、「地に満ちよ!!」との別れの言葉を送り、幾つかの集落は、海に並んだ鮫の上を手を取り一つとなった道の上を駆けて行く様を理想化し、若いその夫婦が新しい大地へたどり着くこと至上の夢とした願い詩を送った。「稲葉の白兎の物語」の原型である。また、いくつかの集落において、夫婦の門出を祝う儀式は、二人の男女が島を出るという宣言に始まり次に「あないおとこや」とつづく儀式であった。まさに、イザナギとイザナミの結ばれるまでの物語そのものである。
海豚や鮫の歯は貴重な宝石であり、武具であり、神具であった。
しかし、なにものにもまして大切とされたものは、ちょうど良い大きさの、のど元や頭頂部を含む、丁寧に丁寧に剥がされたその表皮であった。この皮を剥ぐという行為もまた、「稲葉の白兎の物語」の伝承に色濃くその名残を刻んでいる。
ごくごく一握りの集落の指導者のみが、剥ぎ取った皮のその口の位置から頭を、目からは手を、そして切断した部位から着込み足を出し、祭事のための最初の装束となった。これらの形状は、我々の知る「ローブ」というものに酷似している。残りの皮は文字通り身につけるための衣服の起源のそれである。
別れには誰もが涙を流した。今生の別れであるからだ。
見果てぬ地を求めて旅立った一組の男女が、海流や、風や天候に恵まれ幸運にも人の生きてたどり着くことのできる唯一の可能性のある大地――その場所はアフリカ大陸にありえない――までたどり着いた例は極々僅か。幾つもの幸運と偶然と困難を支え合うことができた奇跡的な一握りだけである。
だが新しいこの新天地にたどり着いたものたちが、紛れもなくアダムでありイブであり、イザナギとイザナミ達の原型である。それを脈々と語り継いだのは残った家族たち、集落の人々であるり、それは死地へと追い詰めた我が子、孫、達の生を祈る願望である。
やがて、この地獄の世界にも完全に海へ沈むに至った時が訪れた。それを予感した人々は、持てるもの全てを集めて最後に、皆が共に最後の旅へと挑んだ。ノアの箱船の物語の原型である。
4~5万年前、最後にアフリカにたどり着くことの出来た者達がホモ・サピエンスの一群である。
当然のように、それ以前にたどり着いたイザナギとイザナミ、アダムとイブ達の末裔がネアンデルターレンシスの直系の母集団である。
そして、その記憶のほとんどは両者が等しく共有している。ネアンデルターレンシスはホモ・サピエンスの到来を知っていた。ホモ・サピエンスもネアンデルターレンシスの存在を知っていた。故にお互いはほとんどの場合、自然の恵み豊かなアフリカ上陸にして後、争いあう必然などもたなかた。離ればなれになった二つの家族は長い長い時を経て再び一つに紡がれていった。
しかし、人類の生まれた場所が如何にこの世の地獄であろうと、人間をより高度な次元に達することを要求し見事に変貌せしめた「高天原」であり「エデン」だのである。今は完全に海中に没したその一帯が、人類の尾の――「失われし輪」――在処である。
これにて、失われし輪を再構築した物語を終了し、以下にいくつかの補則を述べよう。
なぜ、ほとんどの民族がこれらの記憶をなくしたか。
それは、皮肉にも文明が発達したために支配者の都合により記憶の改竄がなされ、価値観が大きく変異したからである。それは、先住者の存在する土地を支配した者達が行うあまりにも普遍的で愚かな行為の証である。
また、なぜ文明の起こり得なかった場所にこの記憶が残されなかったかという問いについては、「恐怖無き豊かな恵のある楽園で人は生きるための努力を積極的に惜しむ」からであり、あるいは「イースター島」の悲劇が繰り返された故に、と返答する。
重ね重ね申し上げる。これは純粋に物語である。
しかし、同時に我はここまで純粋に、ただ知恵の果実の結実だけを記した。
SFSとSNFSの垣根はそこに加味された『願望』という事実の改竄の余地が薄れるにしたがい、純度が高まれば高まるほど近づいて行くと信じ、究極的には最統合されると考える。
故に愚かな我は、真なる判断を、純粋に科学的好奇心に満ちあふれた未来の子供達に託す。
または、参考とすべき一思考として此を手渡す。
明日の子供達よ!! 人として何よりも大切なことは常識に囚われず己の頭脳でまず考えることである!! 無謀であれ!! 愚者であることを恐れぬのなら我の後に続け!! そして可能性の中に無限の翼を広げ、我の屍を踏み越えて人類の「失われし輪」の連鎖の眠る知恵を自在に操り、バベルの塔の頂より遙か時空を越えて宇宙の芯から果てに至るまでの間に存在する、あらゆる謎を解き明かせ!!
純粋に知的好奇心を満たすこと、見果てぬ謎に挑むことこそ、この世の至上の快楽であると知れ!!! 我が人類の失われし輪の謎に挑み、拙くとも、この思考の礎となった独自の理論を築き上げたのはまだ十代の刻である!!!
例えこれが否定されても、熟慮を重ね再考して我は次の物語を提出するだろう。
また、ホモ・サピエンスとネアンデルターレンシスの再融合と現代に至る経緯については無謀にも、一部加筆と修正の余地は残すものの学会の場に提出した。残るは石器時代への移行の課程等の場面を残すについて簡単に、石器も木も、単に優れた材料が身近にあるから使ったのだ、とだけ今は簡単ではあるが補足してこれをもって人類の誕生から今日に至る道程の全行程の我が物語の現時点における完結とする。
そして、我は人類の失われた輪の発掘に関する一連の物語の全行程を語り終えたと信じるに足るが故に、ひとまずはここに筆を置く。
ガリレオは、単なる数列の美しさというだけの現代人の目には極めて如何わしいエセ科学的行為の中に、木星に従う衛星の数を予言し、これを的中させている。
天上天下唯我独尊。
初 :AC.21-Oct-2009/MTC.-21-Kami-0079
作 :Kawabuta.Dukedom./河豚公国(かわぶたこうこく)