「イエス伝研究の目的について」
塚本虎二はその著作集(「イエス伝研究」聖書知識社」においてイエス伝研究の目的をこう語っている。
”四福音書はいずれも明らかにその(福音書執筆)の目的を示している。共感福音書はその初頭において(マタイ一1、マルコ一1、ルカ一1-4)ヨハネ福音書はその結尾において(二十30-31)。しかしてヨハネの文が最も明白である--しかしこれらのことを書いたのは、あなた達にイエスは救世主(キリスト)で、神の子であることを信じさせるため、また、それを信じてイエスの名によって命を持たせるためである。
すなわち、イエスが神の子キリストであり、また是によりて永遠の命*を得しがんためである、という。
ここにおいて明白なることは福音書はあくまで福音書であって、修養書ではなく、また英雄伝でもないことである。--塚本虎二「イエス伝研究第一巻」pp.12-13”
またイエスはある意味英雄であるが、英雄ですらない。英雄としてイエスに何事かを期待するものは”それゆえに躓く”、としている(著者一部改変)。
そして”イエス伝は(寧ろ)彼の死について誌すことを、その主たる目的とするらしくある。死について誌すことが詳細であるばかりではなく、死後に尽きて多くを語っている。’イエス伝は彼の死を重点とする(原文、傍点)’「イエスは死ぬるためにこの世にきた」とさえいう。”
また塚本は、”イエスは英雄ではない。神の子である。神である。神なる彼は高くある。…我らはイエス伝を読み、彼の罪なき神聖さに照らされて、自己の罪にしにたる汚穢たる姿を見いだす。…我らは彼を尊敬し、崇拝するをもって足りない。我らは彼の前に跪き、神として彼を拝せねばならぬ。彼を師よ!と呼ぶをもって足りない、主よ!とよばなければならぬ。而して、神以外の何ものにも捧げざる、また捧ぐべからざる、礼拝を彼に捧げなければならぬ。
故に福音書の研究を始むるに当たりては、我らはこの謙遜と敬虔なる覚悟とを必要とする。祈りの心「がまえ」(原文傍点)をもって福音書を開くべきである。「神のこの聖なる姿を発見せんとする聖なる熱心に燃えて、研究に当たるべきである(原文傍点)」
従って福音書の研究により、この永遠の命*---ヨハネが言う如く「死んでも生き、永遠に死なない」--生命(いのち)を発見し、是を自分のものとできないならばたといギリシャ語にて福音書全文を暗唱できても、未だ福音書が読めていないのである。
そして最後に塚本は、「(聖書の研究は)永遠のパンの問題(原文傍点)である」とし、「我らは命がけにて、この研究を続ける」と結んでいる。
* "永遠の命"について、聖書辞典(日本基督教団出版局)をひもとくと、以下の説明がある。
「生命は神から与えられる貴重な賜物として聖書では終始一貫重要視されているが、旧約聖書の時代には、永遠の生命はまだはっきりした形で把握されていなかった。…長寿を全うすることが神の祝福と考えられているが(創15.15, 25.8, 35.29, 士8.32、ヨブ42.17)、神は「生ける神」であってこの神との交わりによって不死の生活をする人が存在することは旧約のなかでも記されていた(例えば創5.24のエノク、王下2.11のエリア)。
そして神の義と神が人間と結んだ契約によって人間に対してあらわされる恵みとが、神により頼むヒトを死の中に放置せず、死を乗り越えてイキさせるという思想が次第に強くなっている(詩16.10、49.15、ヨブ19.25)。
かくて終末的に、神は死に対する勝利を人間に与えられるとの信仰もあらわれてくる(イザ25.8、26.19)。そしてマカベア時代に至って、永遠の生命または死人の復活の思想が、はっきりとした形で出現して生きている(ダニ12.2、IIマカベア7.9、23.36)。
またこれらの旧約の生命についての思想を一貫しているのは、神に従うことが生命を得ることであり、神に背くのは死に至ると云うことである(申30.15-20、32.47)。これらのことは新約聖書に於いてさらに明瞭になってきている。すなわち、イエス・キリストによって永遠の生命は、今やこの世に完全に掲示されており、信じるものすべてに与えられるのである(ヨハ3.15、39、5.
24、36、6.27、40、17.3、ロマ5.21、6.23、Iヨハ5.11)。
イエスに従うこと、イエス・キリストを信じることは、永遠の生命を得ることである。……すなわち永遠の生命は、単なる霊魂不滅ではない。単なる死後の永生でもない。永遠の生命は、主なる神に背いている人間が、キリストとその十字架によって神と共に生きるもの、神の子とされることであり、罪による詩からの解放、その死への勝利である。永遠の生命は、まさに死人の復活である。罪によって死んだ人間が、キリストによってよみがえらされて生きることである(ロマ6.4、Iコリ15.21-22、55-57、コロ3.1)。死が罪と不可分であり、我々が神の義によって新たに生かされることが永遠の生命である(ロマ6.4、8.10-11)。それ故永遠の生命は、単にいわば水平的に我々の生命が永遠に続くことではなくいわば垂直的に上から、神から、我々に与えられる生命である。
……この永遠の生命は(既に上述したところからあきらかであるが)単に未来のものではなくて、現在の生活、我々のこの世での生活の真実の基礎である。『私の言葉を聞いて信じるものは、永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである(ヨハ5.24)(以下略)。
参考文献:
塚本虎二著「イエス伝第一巻」聖書の知識社
聖書事典、日本基督教団出版局
塚本虎二はその著作集(「イエス伝研究」聖書知識社」においてイエス伝研究の目的をこう語っている。
”四福音書はいずれも明らかにその(福音書執筆)の目的を示している。共感福音書はその初頭において(マタイ一1、マルコ一1、ルカ一1-4)ヨハネ福音書はその結尾において(二十30-31)。しかしてヨハネの文が最も明白である--しかしこれらのことを書いたのは、あなた達にイエスは救世主(キリスト)で、神の子であることを信じさせるため、また、それを信じてイエスの名によって命を持たせるためである。
すなわち、イエスが神の子キリストであり、また是によりて永遠の命*を得しがんためである、という。
ここにおいて明白なることは福音書はあくまで福音書であって、修養書ではなく、また英雄伝でもないことである。--塚本虎二「イエス伝研究第一巻」pp.12-13”
またイエスはある意味英雄であるが、英雄ですらない。英雄としてイエスに何事かを期待するものは”それゆえに躓く”、としている(著者一部改変)。
そして”イエス伝は(寧ろ)彼の死について誌すことを、その主たる目的とするらしくある。死について誌すことが詳細であるばかりではなく、死後に尽きて多くを語っている。’イエス伝は彼の死を重点とする(原文、傍点)’「イエスは死ぬるためにこの世にきた」とさえいう。”
また塚本は、”イエスは英雄ではない。神の子である。神である。神なる彼は高くある。…我らはイエス伝を読み、彼の罪なき神聖さに照らされて、自己の罪にしにたる汚穢たる姿を見いだす。…我らは彼を尊敬し、崇拝するをもって足りない。我らは彼の前に跪き、神として彼を拝せねばならぬ。彼を師よ!と呼ぶをもって足りない、主よ!とよばなければならぬ。而して、神以外の何ものにも捧げざる、また捧ぐべからざる、礼拝を彼に捧げなければならぬ。
故に福音書の研究を始むるに当たりては、我らはこの謙遜と敬虔なる覚悟とを必要とする。祈りの心「がまえ」(原文傍点)をもって福音書を開くべきである。「神のこの聖なる姿を発見せんとする聖なる熱心に燃えて、研究に当たるべきである(原文傍点)」
従って福音書の研究により、この永遠の命*---ヨハネが言う如く「死んでも生き、永遠に死なない」--生命(いのち)を発見し、是を自分のものとできないならばたといギリシャ語にて福音書全文を暗唱できても、未だ福音書が読めていないのである。
そして最後に塚本は、「(聖書の研究は)永遠のパンの問題(原文傍点)である」とし、「我らは命がけにて、この研究を続ける」と結んでいる。
* "永遠の命"について、聖書辞典(日本基督教団出版局)をひもとくと、以下の説明がある。
「生命は神から与えられる貴重な賜物として聖書では終始一貫重要視されているが、旧約聖書の時代には、永遠の生命はまだはっきりした形で把握されていなかった。…長寿を全うすることが神の祝福と考えられているが(創15.15, 25.8, 35.29, 士8.32、ヨブ42.17)、神は「生ける神」であってこの神との交わりによって不死の生活をする人が存在することは旧約のなかでも記されていた(例えば創5.24のエノク、王下2.11のエリア)。
そして神の義と神が人間と結んだ契約によって人間に対してあらわされる恵みとが、神により頼むヒトを死の中に放置せず、死を乗り越えてイキさせるという思想が次第に強くなっている(詩16.10、49.15、ヨブ19.25)。
かくて終末的に、神は死に対する勝利を人間に与えられるとの信仰もあらわれてくる(イザ25.8、26.19)。そしてマカベア時代に至って、永遠の生命または死人の復活の思想が、はっきりとした形で出現して生きている(ダニ12.2、IIマカベア7.9、23.36)。
またこれらの旧約の生命についての思想を一貫しているのは、神に従うことが生命を得ることであり、神に背くのは死に至ると云うことである(申30.15-20、32.47)。これらのことは新約聖書に於いてさらに明瞭になってきている。すなわち、イエス・キリストによって永遠の生命は、今やこの世に完全に掲示されており、信じるものすべてに与えられるのである(ヨハ3.15、39、5.
24、36、6.27、40、17.3、ロマ5.21、6.23、Iヨハ5.11)。
イエスに従うこと、イエス・キリストを信じることは、永遠の生命を得ることである。……すなわち永遠の生命は、単なる霊魂不滅ではない。単なる死後の永生でもない。永遠の生命は、主なる神に背いている人間が、キリストとその十字架によって神と共に生きるもの、神の子とされることであり、罪による詩からの解放、その死への勝利である。永遠の生命は、まさに死人の復活である。罪によって死んだ人間が、キリストによってよみがえらされて生きることである(ロマ6.4、Iコリ15.21-22、55-57、コロ3.1)。死が罪と不可分であり、我々が神の義によって新たに生かされることが永遠の生命である(ロマ6.4、8.10-11)。それ故永遠の生命は、単にいわば水平的に我々の生命が永遠に続くことではなくいわば垂直的に上から、神から、我々に与えられる生命である。
……この永遠の生命は(既に上述したところからあきらかであるが)単に未来のものではなくて、現在の生活、我々のこの世での生活の真実の基礎である。『私の言葉を聞いて信じるものは、永遠の命を受け、また裁かれることがなく、死から命に移っているのである(ヨハ5.24)(以下略)。
参考文献:
塚本虎二著「イエス伝第一巻」聖書の知識社
聖書事典、日本基督教団出版局