無教会キリスト者

内村鑑三をはじめとする無教会キリスト者の潮流の一つになれば幸いです。無教会キリスト者の先生方の著作を読んでいきます。

無教会主義

2004-08-04 14:03:40 | Weblog
 今回は「無教会主義」ということについて学びたいと思います。
テクストは矢内原忠雄先生の「信仰と学問-未発表講演集」新地書房を用いました。

 一般的に、「無教会主義=内村鑑三、内村鑑三=無教会主義」と思われているようですが、矢内原先生は"むしろ内村鑑三は無教会主義よりも大きい(存在の)ものである*1"と書かれています。*1同書pp.393-394
 また"無教会主義は信仰の本質から出たものであって、偶然的なもの*2ではない"ともかかれています

*2)彼が無教会を唱えだしたそのきっかけは宣教師や教会側から迫害されたというということも関連しているようである。ここでの偶然的というのは、外的な要素という意味かと思われる。pp.394、著者一部改変

 また無教会主義に対する批判として、"内村の無教会主義は詩的であり(その信仰を)詩を歌っているものであって思想的なものではない。あるいは信仰的な、神学的な、聖書的なものではない。これに対してその弟子たちの無教会主義は神学的で講義的で固いものになってしまっており、(それらは)信仰的ではない"(著者一部改変*3)、というものがあります。*3同書pp.395

 矢内原先生がこの講演をされたのは1961年3月ですが、こういった批判は現在でもあるようです。私自身も実際ある教会の牧師に、まったく同じ批判を受けたことがあります。

 それでは無教会主義の本質とはいったいなんでしょうか。
内村自身は信者のエクレシアのために創刊された雑誌「無教会」の創刊の辞で次のように語っています。

 "これは教会を無視するとか教会を無にするという風に読むべきではなくて、無い教会、教会のないことと読むべきである。教会のないものは、親の無い子供のようにかわいそうなものではないか。それで、この「無教会」という雑誌を出してお互いの愛の交わりをするエクレシアだ"。

 ここで内村先生の言った「教会のないものの集まり」「教会のない者のエクレシア」は、自分あるいは自分の仲間は信仰の未熟な初歩的な、求道的な段階であるという意味ではなく、無教会は信仰の極地であり、一番信仰の深いところ、すなわち私と神との一対一の関係、がそれである、というのが、内村先生の主張"である、と矢内原先生は書かれています。pp397-398(一部抜粋引用、著者改変)

 内村自身の信仰は、時代的な移り変わり、またそれらに対する比重の大きさの推移はみられますが、その骨子は「十字架による罪のあがない」「復活」「再臨」があげられます。

この考え方自体は、無教会であろうが、教会員であろうが、クリスチャンとしてオーソドックスな奥義でありますから、(教会員であるか無教会であるかといった)カテゴリーわけする必要は無いと思われます。

 では、無教会主義の中心はどこにあるかといえば、教会に属していなくとも救われる、それから上記に示したきわめてオーソドックスな十字架による罪の贖い、復活、キリストの再臨が内村の信仰の中心をなしていたものであると同時に、無教会の中心をなしている、と考えることができます。

 かといって、これらの考え方が理解できないから無教会主義ではない、ということはもちろんないわけで、"信仰というのは深いものですしまた年とともに示されてくるもの(矢内原)"ですから、これらがわからないから無教会主義者であるとか無いとか言うことはない、と考えられます。

無教会主義について、簡単に大雑把にまとめました。
何かご意見いただければ幸いです。