無教会キリスト者

内村鑑三をはじめとする無教会キリスト者の潮流の一つになれば幸いです。無教会キリスト者の先生方の著作を読んでいきます。

ヨハネ福音書の読み方

2004-09-02 20:05:15 | Weblog
ヨハネ福音書の読み方

今回はヨハネ福音書(以下ヨハネ伝と表記する)の読み方についての塚本の講義から学ぶ。
(以下引用は特別な記述がない限り、塚本虎二「イエス伝研究第一巻」聖書知識社より引用するものとする)

「もしある暴君があって、聖書をことごとく壊滅することに成功したとしても、ロマ書とヨハネ伝とが一冊残存するならば、キリスト教は決して消滅しないだろう」と改革者マルティン・ルターが言ったと伝えられている*1。また「ロマ書が書簡中の書簡ならばヨハネ福音書は福音書中の福音書である」と塚本は云う。

一方田川は*2「ヨハネ福音書は(イエスを知るための材料としては)間接的には考慮すべきではあるものの、イエスを知るための資料としては直接的にはなり難い。(なぜならば)福音書という様式を借りて著者が自分のかなり特殊な宗教思想を展開しているからである」と云う。
*1「イエス伝研究」塚本虎二著、聖書知識社、pp.291
*2「イエスという男」田川建三、三一書房(1980年初版本より引用、pp.24)

ここで簡単に福音書の成り立ちについて田川の論文*2から引用すると、「近代の聖書文献学をおおざっぱに要約すれば、イエスについての言い伝えは、イエスの死後、いやおそらく、生前から口伝伝承により、あるいは噂話として、様々に伝えられ、様々に変化し、部分的に大きく改善されたものもあれば、伝説的に創作されたものもある。それがイエスの死後二十年ほどして、二つの文書にまとめられた。一つはマルコ福音書で、是は一人の著者の意図的な著作である。もう一つは、今日では失われてしまっているけれども、マタイらが共通して利用した資料で、論語と同じような形式でイエスの言葉だけを羅列していった語録(通常Q資料と呼ばれる)であって、これは一人の著者の作品ではなく、そもそも一個の完結した文書であるというよりも、だんだんと成長していった物で文書となってからも、さらに次々とイエスの「言葉(ロギア)」が書き添えられていったものであろう。だから是は、原始キリスト教団の教壇体制が生み出していった文字通りの資料集である」と考えられている。

以上の田川の言説はいわゆるQ資料および最古の福音書であるマルコ伝にいたるまでの過程を描いたものである。なお今回、本稿では、各々の共観福音書の違い、またその成立および神学上の差異については詳述しない。

塚本は、ヨハネ福音書について、福音書中の福音書であるのみならず、「ある見方によれば新約聖書の絶頂」であるという。塚本は以下のように云う。
”キリスト教はヨハネにおいて花咲いたということができる。何故ならば、その書かれし年代において、これが新約聖書中最も新しきもの、すなわち、キリスト教の最も円熟せし時に書かれしものであることは、今日の学者の等しく認むる所である。共観福音書的キリスト教と、パウロ的キリスト教とが合流してヨハネに注入したと云うことが出来る。故に三福音書とパウロを解する者は、必ずヨハネにいたらざるを得ない”

しかし、ヨハネ福音書がこれほど重要な書であるのに反して、一般にはきわめて難解な書とされている。本書の研究が困難である理由は何か。塚本は以下のように記述している。

"本書の著者は果たして何人であるか、使途ヨハネであるか、或いはいわゆる長老ヨハネであるか、或いは他の者であるか。またヨハネの書簡集および黙示録は同一人物による者か、等々。これは新約聖書学上興味深い問題点であると同時に、解決困難な問題である。また三福音書とヨハネ福音書との関係如何.ヨハネ福音書記者は三福音書の存在を知っていたか、もし知っていたとすればなんの殊更にことさらにこれを書いたか、補充、否定、或いは訂正のためか"。(塚本、同書pp.292、著者一部改変)

これは前述引用した田川の論文による「福音書という様式を借りて著者が自分のかなり特殊な宗教思想を展開している」というとおり三福音書とは別の扱いがなされている所以であろうか。
しかしながら、それにしてもヨハネ福音書記者は何のために本書を書いたか、ということは未だ不明瞭であることには変わらない。

また塚本は「ヨハネのキリストと三福音書のそれは歴史的であるか、両者は果たして調和し得べきや。ヨハネ福音書とパウロ書簡との関係如何。また、ヨハネのキリスト論とへブル書のキリスト論との関係如何。(さらに)神秘主義の影響、アレキサンドリヤ哲学との関係如何。彼は何の目的を持ってこれを書いたか。ヨハネのキリストはどこまでがキリストであり、どこまでがヨハネ彼自身の着色であるか、等々、問題は多い。そのためには私たちは永遠にこの書に親しむことはないだろう」と言っている。

ヨハネ福音書と神秘主義との連関については、古くから議論がある。
最近では、カントリーマンが、ヨハネ福音書はヨハネ教団のために書かれた神秘宇主義的傾向の強い書であり、神秘主義の文脈でヨハネ福音書を読む事を提案している(L.W.カントリーマン、『ヨハネ福音書の神秘主義』、教文館)。

ヨハネ福音書の解釈にまつわる多くの問題をあげた後に、塚本はこういう。
「しかし、福音書ならばそんなにむつかしい本であるべきはずはない。神学者の厄介にならず、何人にても容易にこれを読み、これを了解し得べきはずである。私の信ずるところによれば、ある点によれば、ヨハネは新約中最も初学者向きである。何故ならば、まずその用語のなんと平易である事よ、またその表現法のなんと小児らしく単純なる事よ、まさに聖書中の圧巻である。これをロマ書と比較して考えてみるとよい」(著者一部改変)(同書pp.292).

そうはいってもヨハネ福音書の開巻第一に
始めに、言葉(ロゴス)はおられた。言葉(ロゴス)は神と共におられた。言葉(ロゴス)は神であった。…と読み始めると直ちに裏切られる。一体全体何のことかわからない。

故に塚本は「ヨハネ福音書の読み方を知らねばならぬ」という。
一 まず二十一章を除く。(これは'付録'である)
二 次ぎに二十章30-31節を除く。これは本書の目的を書いたもので付言であるからである。
三 次ぎに一章1-18節を除く。これは序論であって、多分ヨハネ(ヨハネ福音書記者)はこれを最後に書いたか、或いはヨハネのキリスト観発達史よりすれば、これが最後に来るべき者と信ずるからである。
かくして、一章19節より二十章29節が残る。これはヨハネ福音書の本体である。而してこの部分は共観福音書と同じく洗礼者ヨハネの出現に始まりイエスの復活に終わっている、而して全体が、前掲のヨハネ福音書の目的に表明されてある如くナザレのイエスが神の子であることを証明せんとすることに始まり、これに終わっている。而して、この本体は第二十二章をもって二分される、一章19節より十二章末節までには、洗礼者の証明に続いていイエス自身の一般人-ヨハネはこれを「世*」という-に対する神の子たる事の証がある。十三章より二十章29節までは、その前半(十二章-十七章)が弟子に対するイエス自身の証、または遺言であり、後半(十八-二十章)は十字架上の死と復活による、神の子たる事の証である、すべてが神の子たる事を証しすることに昇天する、而して、二十章28節の「私の主よ、私の神よ!」なる懐疑家トマスの告白をもって戯曲大団円に達している。(塚本、同書、pp294-295)

*英訳聖書(oxford版)では"world"であり、先にあげたカントリーマンは”コスモス”という訳語を当てている。

このトマスの告白は、もちろんヨハネ自身の告白でもあった。彼にとりて、イエスは人ではなかった。父なる神の懐にいます一人子の神としか思えなくなった(一18)。彼は宇宙開闢の前より神とともにいました舞うた者であり、然り、全宇宙の創造者以外の者ではあり得ない。そうでなくして、どうしてこんな偉大なる能力を持ち得よう、と彼は思うた。

しかし彼は、”世界開闢の対処より神と共に存在し、宇宙万有を創りし人をなんと名付くべきか知らなかった。人類はそれに対する言葉を持たなかった。やむを得ず「ロゴス*」なる語を仮用した”。
*ロゴスおよびヨハネのロゴスについては後述する。

以上が塚本のヨハネ福音書の読み方であり、それは”頗る何でもないこと(原文傍点)“である。しかし”この何でもないことのを解ることは、私にとり、ヨハネ福音書を解ることであった、”と結ばれている。

それにしても、塚本の講義のこの高揚感、この信仰、この熱情はいかなるものにも代え難い。
私は本稿を執筆するに当たって、なるべく塚本自身の言葉を正確に伝えることをまず第一に考えた。
それは、私自身未だあやふやである信仰にいたるための道標であるとともに、塚本の大いなる信仰、そして美文を少しでも、紹介したいという念からである。

次回以降、ヨハネ福音書に関して稿を続ける所存である。