無教会キリスト者

内村鑑三をはじめとする無教会キリスト者の潮流の一つになれば幸いです。無教会キリスト者の先生方の著作を読んでいきます。

[キリスト教十講]「キリスト教の本質」

2004-11-24 06:26:59 | Weblog
「キリスト教の本質」
(塚本虎二、『キリスト教十講』、聖書知識社より)

 塚本虎二の『キリスト教十講』は、キリスト教への入門書です。
ですから、全集に比べ表現は平明かつわかりやすい書物ですので、とっつきやすいかと思います。今回読んでいくのは、1949年に聖書知識社から発行された古い本です。また『キリスト教十講』は『塚本虎二全集続第二巻(聖書知識社)』に所収されています。
 本稿は上記前掲書の第二講にあたります。第一講では、塚本自身がキリスト教を信仰するに至る過程が記されており、その記述そのものはdirectかつexcitingなのですが、今回はその部分を省き、第二講から読み進めます。

 塚本はキリスト教を知る、ということについて、下記の如く云う。
"神はすべての人が容易にキリスト教の精神を了解しうる途を備え給う。また、愛である神は私たちに不可能を強い給はない。よって、聖書のどの一書、一章、一節、一句からでも直ちにキリスト教の大精神に達することが出来る。
しかし、舊新約聖書の中で、最も完全かつ正確に、また最も簡単、平明にキリスト教の本質を表す箇所を求めるなら、ルカ傳十五11-32、ロマ書三23-26、ヨハネ傳三16の三つであろう(著者一部編集)"。
 このうち、今回はヨハネ傳三章十六節をとりあげる。これは、塚本が記す如く"ルカ傳の平易さと、ロマ書の正確とを兼ね、しかも三者の中で最も簡単である。(中略)きはめて平易なギリシャ語二十五字のうちに、キリスト教の全精神を盛り尽くして余すところがない。神の霊に動かされずして、何人にこれが出来よう!"という理由に依る。

 「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給へり。すべて彼を信ずる者の滅びずして永遠の生命を得んためなり(神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった。それは御子を信じるものが独りも滅びないで、永遠の命を得るためである)」(ヨハネ三23-26 文語訳及び口語訳、日本聖書協会刊)
聖書のこの部位を読むにあたり、必要な歴史的背景とその問題点(躓きやすい處)を簡単に記述する。

塚本は云う。
 "第一に、ヨハネはイエスをもって神の独り子だという。神の存在論では、(神の存在は、いまだ)かつて証明出来得なかった*。また、むしろ申命記六4(「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である」)に在るが如く、ユダヤ教の原理、即ち神(ヤハウェ)は唯一である、と矛盾する。
 第二に、ヨハネはイエスが殺されたことを説明して、神が人類を愛する余り、これを人類に賜うたのであるという。神が愛であるということはどういうことだろうか。
 そして第三に、"最もおかしいのは、かく独り子を与え給うのは、彼を信ずることによって、人類が罪を許されて永遠の滅亡から救われ、永遠の命を与えられるためである、ということである"
ここで塚本が「最もおかしい」とあえて云うのは、本書の持つ性格、すなわち入門書的要素に拠るものである。
 そして、以上三つの問題提示に対し、塚本の答えは明確である。
 即ち、"ヨハネが解釈したとおりこれを事実と認めること。即ち神は存在し給ふこと、イエスが神の独り子なること、永遠の生命があること、人間はこのままでは滅亡すべきものであること、しかし若しキリストを信ずれば、その滅亡の運命から救はれて'永遠の生命に入るをうること(強調筆者)'-これらは単にヨハネの迷信でなく、想像でなく、思想でなく、實に皆そのままに事実であることを認めること"と云うがごときである。その理由として"何故なら、健實な人々がヨハネと同じ信仰とに生き、そのためには'生命を捨てることをすら何とも思はなかった'(強調筆者)、その厳然たる事実を説明すべき途はないからである"と言うことになる。

 また、"単に最も合理的な説明であると云ふだけではない。誰でもキリストを信ずるを得たほどの人は、このヨハネの云うところが皆活きた事実であることを自ら實験しえるのである。また實験しうればこそ、私たちは死をも怖れぬ力を持つのである。'もしこれが一の思想であり、説明に過ぎないならば、何人がそのために磔にされ、火に燒かれることを微笑みつつ耐え忍ばう'(強調筆者)。もちろん私たちもまた人間であり、近代科学を呼吸するものである以上、頭では神の存在、イエスの神性、永遠の生命の存在、罪の許し、というような科学のメスの入らない、試験管の中で実験できないことを疑うものである。しかし如何に私の思想学問が反対しても、自分で実験した神の愛と、罪の許された事実を否定し得ない。私の全生涯がたとえ夢であったとしても、信仰の実験だけはRealな事実である。これは永遠に動かない。学説は動いても、(私の)実験は動かない。天地が崩壊しても動かない。(そして)これがキリスト教である"。

 ここで塚本は、キリスト教の本質へ至るためには、論理でも思想でも行いでもなく、ただ信仰のみが、神を見ることができる、と説く。
 従って塚本が云うキリスト教の本質とは、結局の處、次の記述に集約される。"キリスト教を人の側から見ればただ「信ずる」亊である。ただ信ずることであつて、事業ではなく、修養することではない。ただ信ずることである。故に信ずることが出来るほどの人は「凡て」救われるのである。一人の例外もなしに"『キリスト教十講』塚本虎二 聖書知識社 pp19-20
 以上で第二講を終わる。
 なお、引用は凡て上記前掲書(一部筆者による補足、編集あり)に依る。

最後に、キリストに於ける新生について述べたパウロの言より。 
 「人もしキリストに在らば新に造られたる者なり、古きは既に過去り、視よ新しくなりけり」
(「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」)コリント後書五17

*神の存在論の証明は、二千年もの間、西洋哲学を始めあらゆる知が試みてきたことですが、もちろん証明するに至ってはいません。数学者クルト・ゲーデルに関する書に興味深い書がありますので、余談ではありますが、御紹介します。
ゲーデルの哲学―不完全性定理と神の存在論 講談社現代新書 (1466)
高橋 昌一郎 (著)
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