Food For Five thousand 2

宣教師と妻と母の3つの帽子をかぶりながら奮闘中の宣教主婦、JCFN 尾関祐子のブログです。

本当の自分

2022-03-13 06:46:29 | testimony
 「建前」と「本音」。日本人にはとても馴染みの深い言葉であるが、アメリカ人にも他のどんな国の人にもある、と感じている。この「建前」、必ずしも「人目を気にして」その場を収めるために使う、と言う場合だけでなく、自分自身の内面にある「こうあるべき」というものに縛られるがゆえに使ってしまうこともあるかもしれない。

 先日、夫と大喧嘩をした。夫と私は共にクリスチャンなので、喧嘩をするといつもよぎる聖書の言葉がある。「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」(エペソ人への手紙4章26節)次の日に喧嘩を持ち越さない、というのが我が家のルール。寝る前には「ごめんなさい」を言わなければならず、一旦言われてしまうと「いいよ」と赦さなければならない。しかし、この時ばかりはどうしても謝りたくなかった。ちょうど、あるセミナーで「ありのままの自分を受け入れることにより本当の自分を知る」ということを学んだばかりだったということもある。それでしばらくの間謝りたくない「本音=ありのままの自分」でいてみよう、と心に決めた。
 
 それは自分の両手の上に「謝りたくない自分」を乗せてウロウロ持ち運んでいるようなイメージである。両手が塞がったまま、なんとも言えない居心地の悪さを感じながら数日経った。ある晩ふと「謝りたくない自分」のことを意識しながら掃除をしていた時「それ、そろそろ手放したら?ずっと持ってるの大変だよ。」という声が聞こえたような気がした。優しい穏やかな促しだった。ちょっと考えた後、ため息をついた。「なるほど、ありのままの自分でい続けるのは、それはそれでしんどいことなのだ。」つまり「建前の自分」、「本音=ありのままの自分」のさらに背後に、もう一人の「本当の自分」がいたのだ。

 もう一人の自分は、人を赦して楽になりたい、自由になりたい自分である。穏やかで、優しい気持ちでいたい自分である。
 例えば、人助けをする時「建前」の自分は、それが他の人の目にどのように映るか、またはどんな賞賛のことばをもらえるかを気にする。もしくは「人助けはいいことだから、やるべきでしょ?」と自分を説得しようとする。一方「本音=ありのままの自分」は「めんどくさい。疲れるなあ。どうして私がこれをしなきゃいけないの?」と言ってくる。でもその奥にある「本当の自分」は、その人を純粋に助けたい、と思う。それが正しいことだと知っていて、助けると嬉しい気持ちになる自分なのだ。

 聖書には、「わたし(イエス・キリスト)のことばにとどまるなら…真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネの福音書8章31-32節)とある。「本当の自分」は神からの呼びかけに応答するように、引き出されていく。あの時自分に「手放したら?」と語りかけたのは、私自身ではない。私を創り、私が自由になるようにと招いてくださる聖書の神であったと私は信じている。そしてその招きに応答する時、私たちは本当の意味で自由にされ、神が創ってくださった「本当の自分」になることができるのだ。




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