峠の茶屋…お茶でも飲んで、ゆっくり行きなされ。

 人の一生は、重き荷を背負いて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。

「高齢化」

2018-04-29 08:19:14 | 日記

 先日、近くの温泉で「傘寿を祝う会」を開催した。 出席者は44名だったが、予想外の人数に内心驚き、健康の有り難さを改めて実感した。 還暦までは、幹事・実行委員長・会計全般と全てを仕切ったが、古希の会からは全てを別の友に託し、名前だけの会長職に身を置いた。高齢化社会になったとは云え、自分が傘寿を迎えると、よく長生き出来たと驚きの他はない。母は米寿を迎えた後に他界したが、父は数えの70才で亡くなった。全ての点で、父には及ばなかった私が、唯一、年だけは上回ることが出来たと苦笑している。腰が曲がり、歩行もどこかぎごちないかっての乙女達、その変貌に過ぎし方の歳月の積み重ねをしみじみと味わった。滅多には歌わない私が、カラオケのマイクを握り自慢の美声を張り上げて、同窓生達を驚かせたのは嬉しい限りだった。この先、何年生きられるかは分らぬが、健康には十分に留意し、頑張る決意を新たにした


「昭和33年」

2018-04-15 10:14:38 | 日記

 年を取ると、昔を懐かしむ傾向になると云うが、その通りだと思う。上京し、大学に入った年が昭和33年だった。東京タワーが新設され、赤線防止法が成立した翌年である。 流行歌では、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」がヒットした年だが、有楽町の駅前はデートに相応しい所とは無縁で、がっかりした事を今でも覚えている。当時は、安保闘争最中の激動期で、連日、国会周辺や日比谷公園でデモが繰り広げられ、学園内でも全学連の学生がアジ行為を反復する毎日だった。トリスの水割り、たばこ、ラーメン、コーヒーが40円前後で学割の映画が80円だった。学園生活にある程度順応すると授業をサボったりする不真面目な学生で、いつしかガールフレンドにも恵まれていた。一流会社に勤務する彼女だったので、デートの費用はいつも先方払いだった。誕生日にビーフステーキをご馳走になったが生まれて初めて食べる高級品だった。県が経営する学生寮に入っていたが、小川町の大学からも近く、交通の便にも恵まれた場所だった。近くに「流れる」を書いた幸田文女史の邸宅があり、いつしか顔見知りになり、挨拶を交わしたのが思い出に残っている。それから四年、母が病に倒れたので急遽Uターンし、地元の中小企業に入社し、現在の妻と知り合い現在に至っている。そうそう、ガールフレンドだった彼女とは、今でも賀状の交換が続いていることを補足し終わりにします


「鬼の攪乱」

2018-04-06 19:57:09 | 日記

 我が家には、50有余年住みついた同居人がいます。娘たちが小学生の頃、風邪で二~三日床について以来病気とは無縁でしたが、連日の除雪作業の疲れと汗をかいた事が災いし、半月余り寝たり起きたりの有様でした。漸く治ったと思った矢先、長女から風邪をうつされ、また数日間寝込んでしまいました。今度は先の失敗に懲り、すぐに医者の診察を受け薬を貰ったので意外と軽くすみ回復しました。普段は何もしない私が、極力心配したり協力したので、同居人の信頼度は一挙に上がりました。終日咳をされたり一緒に過ごすことが多いわりに、感染もせず平気なので、長女からはびっくりされました。それはさておき、丈夫が当たり前の同居人に寝込まれると心配はするし不便なので、治って本当に良かったと思っています


「回想」

2018-04-01 19:51:32 | 日記
 大学を卒業し、社会人になったのは昭和37年の4月だった。
東京に決まった就職だったが、家庭の事情から急なユーターンを余儀なくされ、地元のバス会社に転職した。
丸の内の、オフィス街から、地方の中堅会社への転職はショツクだった。木造平屋建ての営業所が最初の勤務地で、従業員は事務員が30名前後、運転士が100人、車掌が120人前後の規模で、担当は「運輸係」だった。
当時はツーマンバスの最盛期で、車掌が車内で扱った乗車券類と売上金を精算するのが仕事だった。
乗車券を車内券と停留所発売券に分け、慣れないソロバンで計算をする、単純作業といえばそうだが、背広姿ではなく、会社から貸与された金ボタンの社服を着、方言丸出しの車掌を相手の日々が私には不満だった。
だが、当時の大卒は、地方の中小会社では珍しい存在で、車掌たちの関心を集めたのも事実だった。
私の机に、こっそりとお握りやサンドイッチが入れられたのはそれから間もなくだった。
そして半世紀以上が経過した今、我が家に住み着いた古だぬきは職場結婚した元車掌である。
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