エーリヒ・ケストナーというドイツの作家をご存じだろうか。戦後の教養世代、またそれに育まれた子世代なら、『飛ぶ教室』『点子ちゃんとアントン』『エーミールと探偵たち』といった作品を読んだことがあるだろう。
ちなみに、子どものころの私はこの「点子ちゃん」という名前が不思議で、そんな名前があるだろうか、しかもドイツの話なのに・・・と思った覚えがある。これはドイツ語で「点」を意味するPunktに、小さなものにつける-chenという語尾(ドイツ語で女の子を意味するMaedchenの-chenと同じである)をつけて、Punktchenという単語の訳である。主人公の女の子が、小さく生まれたので、それ以来家族の愛称となっているということである。いまなら、「点ちゃん」とでも訳すところか。
そのケストナーの同じく子ども向けの作品に『二人のロッテ』という作品がある。原題は、Das doppelte Rottchenという。直訳すれば、これも「二倍のロッテちゃん」というような意味になる。親の離婚で離ればなれになり、それぞれ互いを知らずに育った双子の姉妹が、夏の子どもの休暇村で一緒になり・・・という作品である。
さて、この作品で双子の姉妹の一人ロッテは、雑誌の編集者をしている母親と一緒にミュンヘンに暮らしており、もう一人ルイーゼは、オペラ座の指揮者をしている父親と一緒にウィーンに住んでいるということになっている。
ミュンヘンでは、ロッテは、カール門(Karlstor)の近くのノイハウザー通り(Neuhauserst.)にあるデパート・オーバーポーリンガー(Oberpollinger)で、お母さんにエプロンを買ってもらったりしている。もちろん、これらはすべて実在する。お母さんが務めている「ミュンヘン画報」(Muenchner Illustrierte)も戦前まで実在した雑誌の名前である。二人の住まいは、Max-Emanuel通りで、これは少なくともいまのミュンヘンには実在しない。ただ、家の近くの精肉店はこの通りと、プリンツ・オイゲン通り(Prinz-Eugen-Str.)の角とされており、こちらの通りは、ミュンヘン北部シュヴァービングに実在する。もし、このあたりだとすると、当時は市のはずれにあたる地域である。お金に苦労しているお母さんという設定だから、そうかもしれない(ちなみに、Max Emanuelというのは、17~18世紀の実在するバイエルン公の名前で、そういう名前の通りがあっても不思議ではないし、実際あったのかもしれない。いずれ、古地図でも調べてみたいと思っている。)さらに、ロッテ(実は入れ替わったルイーゼ)が、お母さんと徒歩旅行するのは、ツークシュピッツェのあたりで、ガルミッシュから、アイプ湖などの地名も出てくる。実際に、調べてみると一日に数十キロ歩いていることになる。
さて、今回ウィーンにいった機会を利用して、ウィーンのほうもいろいろと調べてみた。ルイーゼがお父さんと住むのは、ローテントゥルム通りRotenturmstr.。これは、ウィーンの旧市街の「へそ」、シュテファン大聖堂前の広場から、北に真っ直ぐのびる街の中心の通りである。かなりの繁華街ということになる。日本なら、銀座に住んでいるといったところか。これがその通りの写真である。左側に見える尖塔はシュテファン大聖堂の塔である。

お父さんは、自宅以外に、常任指揮者をつとめるオペラ座の近くのケルントナー・リング通り(Kaerntner-Ring-Str.)に仕事場を構え、そこでひそかに恋人のゲルラッハ嬢と会ったりしている。自宅とオペラだって、歩いて15分とはかからない距離だから、贅沢だけでなく、別の目的もあるというべきだろう。そして、食事はいつも、ホテル・インペリアルで取る。
ケルントナー・リングは、ウィーンの旧市街を囲むリング通りの南側の一部分の名称で、ちょうど、オペラ座とホテル・インペリアルの間の区間である。以下は、オペラ座、ケルントナー通り、そしてホテル・インペリアルである。




ホテル・インペリアルは、伝統あるホテルで、国賓級の宿泊者もいる超高級ホテルである(名前も文字通り「帝国ホテル」である)。高すぎるので、宿泊はしなかったが、カフェに入って、ウィーン名物のシュニッツェルを食べた。ルイーゼの好物は、ここのレストランのオムレツである。
さてウィーンの「二人のロッテ」ゆかりの地で、一番苦労したのが、お父さんの恋人のゲルラッハ嬢が住む場所の名前である。父親が彼女と再婚することを決意したことを知った(ルイーゼのふりをしている)ロッテは、ゲルラッハ嬢に会いに行く。結婚しないでほしいといいにいくためである。これは、この小説の後半のクライマックスである。
いま日本語にも翻訳されている版では、住所は「コーベンツル並木通り43番地」(Kobenzl-Alle 43.)ということになっている。この名称の通りは、少なくとも現在のウィーンにはない。ところが、ウィーンの北部郊外、ホイリゲという名前で知られる居酒屋がある地域に、コーベンツルという地名自体は存在している。ただし、つづりはKでなく、Cで始まるCobenzlである。もちろん、KをCに代えても、同名の通りはない。どうなっているのだろうかあ?ここであきらめるわけにはいかない。
実はこの物語は、1949年に小説が出ただけでなく、1950年に映画になっている。ケストナーが先に書いたのはそもそも映画の脚本で、戦争中の1942年のことだったらしい。ただ、ナチス体制下でケストナーの小説が発禁処分になったため、映画もお蔵入りし、戦後になって先に小説として、次に映画として相次いで世に出たのである。ケストナー自身が冒頭に出てきて観客に語りかけ、前編のナレーターもつとめるこの白黒映画は、大筋において小説と変わらないが、細部に違いもある。たとえば、休暇先で初めて出会った二人がちょっとしたいさかいのあとではじめて仲良くなるシーンは、小説では草原であるが、映画では湖上のボートである。あるいは、娘に頼まれて父親が写真を送る際、この写真は、作家のアルトゥール・シュニッツラーと同じ写真館で撮ったんだと自慢げに書き添える。父親の顔を始めてみるロッテが「ずいぶん気難しい顔をしているのね」と言うと、ルイーゼが「ふだんはちっともこんなんじゃないのよ、きっとシュニッツラー氏がそんな顔をしているんでしょ」などと答えるシーンがあるが、小説ではウィーンの名士であったこの作家の名前は出てこない。
さてその映画では、通りの名前は「コーベンツル通り」(Cobenzlstr.)となっている。ゲルラッハ嬢の家を探すロッテ(ルイーゼと入れ替わっている)がたどる電話帳に、このつづりが出てくる。しかし、これも実在する名前ではない。さらに調べていくと面白いことが出てきた。たまたま、この小説の最初に出た版をみつけたのであるが、それによると通りの名前は「コーベンツル小路」(Cobenzlgasse)となっている。そして、これはグリンツィングに実在する通りの名前である。
さて、小説の設定の通り、リンク通りから路面電車に乗った。その終点がグリンツィングである。がたことと揺られて、20分以上はかかる。10歳にもならない子どもが一人で行くには、かなり遠いところである。いまでは、市街地がずっと続いているが、戦前なら別の街である(時代はだいぶさかのぼるがベートーベンが遺書を書いたことで知られるハイリゲンシュタットも近い)。

ウィーンの市電の車両は旧式で、さすがに60年前と同じではないだろうが、当時をしのばせる。「コーベンツル小路」は、この市電の駅から、北西部の丘陵に向かって登っていく、グリンツィングのメインストリートである。ただ、駅に近いあたりは、ホイリゲ(居酒屋)が立ち並び、家並みも田舎町風で、とても、ホテル・インペリアルも経営するホテル会社の社長(ゲルラッハ嬢の父親はそういう設定になっている)の家がありそうな場所ではない。

しばらく歩いているうちに面白いことに気がついた。この通りの左側に、ほとんどあいだをおかず、並行して別の通り(Himmelstr.)が走っているため、本来左側にあるはずの奇数番地がないのである(ゲルラッハ嬢の家は、奇数番地の43)。右側の偶数番地が20番ほど進んで、ようやく左側の1番地が出てくるのである(ヨーロッパの番地のつけ方だとたまにこういうことはある)。そのあたりからは繁華街を過ぎ、住宅地が続く。けっこうきつい坂道を延々とあがって、とうとう43番地を見つけた。おそらく市電の駅から、子どもの足なら30分はかかるだろう。ゲルラッハ嬢を訪れたロッテは、憔悴して熱を出して寝込むということになっているが、さもありんなんという大旅行なのである。
さてその43番地まで行って分かったのは、このあたりは立派な屋敷が立ち並ぶ地域だと言うことである。おそらく、以前はウィーンのお金持ちが、郊外に邸宅ないし別宅を持つといった地域だったのだろう。現在の43番地には、比較的小さな平屋のメゾネット(しかも半分は空き家のようだった)がたつだけであるが、前後には立派な邸宅がある。これは、47番地にたつ屋敷である。

こんなお屋敷がほかにもずらっと立ち並んでいる。ケストナーがどこまで取材したのか知らないが、おそらく知り合いにお金持ちでもいて、このあたりに住んでいる人がいたのかもしれない。推測するに、番地まであがっていることもあり、小説の読者などが訪問して、さしさわりがあったので、映画版では、通りの名前をぼかし、さらに小説にも手を加え、架空の名称にしてしまったのではないだろうか。
こうして「二人のロッテ」探訪の旅は、面白い発見とともに幕を閉じた。
ちなみに、子どものころの私はこの「点子ちゃん」という名前が不思議で、そんな名前があるだろうか、しかもドイツの話なのに・・・と思った覚えがある。これはドイツ語で「点」を意味するPunktに、小さなものにつける-chenという語尾(ドイツ語で女の子を意味するMaedchenの-chenと同じである)をつけて、Punktchenという単語の訳である。主人公の女の子が、小さく生まれたので、それ以来家族の愛称となっているということである。いまなら、「点ちゃん」とでも訳すところか。
そのケストナーの同じく子ども向けの作品に『二人のロッテ』という作品がある。原題は、Das doppelte Rottchenという。直訳すれば、これも「二倍のロッテちゃん」というような意味になる。親の離婚で離ればなれになり、それぞれ互いを知らずに育った双子の姉妹が、夏の子どもの休暇村で一緒になり・・・という作品である。
さて、この作品で双子の姉妹の一人ロッテは、雑誌の編集者をしている母親と一緒にミュンヘンに暮らしており、もう一人ルイーゼは、オペラ座の指揮者をしている父親と一緒にウィーンに住んでいるということになっている。
ミュンヘンでは、ロッテは、カール門(Karlstor)の近くのノイハウザー通り(Neuhauserst.)にあるデパート・オーバーポーリンガー(Oberpollinger)で、お母さんにエプロンを買ってもらったりしている。もちろん、これらはすべて実在する。お母さんが務めている「ミュンヘン画報」(Muenchner Illustrierte)も戦前まで実在した雑誌の名前である。二人の住まいは、Max-Emanuel通りで、これは少なくともいまのミュンヘンには実在しない。ただ、家の近くの精肉店はこの通りと、プリンツ・オイゲン通り(Prinz-Eugen-Str.)の角とされており、こちらの通りは、ミュンヘン北部シュヴァービングに実在する。もし、このあたりだとすると、当時は市のはずれにあたる地域である。お金に苦労しているお母さんという設定だから、そうかもしれない(ちなみに、Max Emanuelというのは、17~18世紀の実在するバイエルン公の名前で、そういう名前の通りがあっても不思議ではないし、実際あったのかもしれない。いずれ、古地図でも調べてみたいと思っている。)さらに、ロッテ(実は入れ替わったルイーゼ)が、お母さんと徒歩旅行するのは、ツークシュピッツェのあたりで、ガルミッシュから、アイプ湖などの地名も出てくる。実際に、調べてみると一日に数十キロ歩いていることになる。
さて、今回ウィーンにいった機会を利用して、ウィーンのほうもいろいろと調べてみた。ルイーゼがお父さんと住むのは、ローテントゥルム通りRotenturmstr.。これは、ウィーンの旧市街の「へそ」、シュテファン大聖堂前の広場から、北に真っ直ぐのびる街の中心の通りである。かなりの繁華街ということになる。日本なら、銀座に住んでいるといったところか。これがその通りの写真である。左側に見える尖塔はシュテファン大聖堂の塔である。

お父さんは、自宅以外に、常任指揮者をつとめるオペラ座の近くのケルントナー・リング通り(Kaerntner-Ring-Str.)に仕事場を構え、そこでひそかに恋人のゲルラッハ嬢と会ったりしている。自宅とオペラだって、歩いて15分とはかからない距離だから、贅沢だけでなく、別の目的もあるというべきだろう。そして、食事はいつも、ホテル・インペリアルで取る。
ケルントナー・リングは、ウィーンの旧市街を囲むリング通りの南側の一部分の名称で、ちょうど、オペラ座とホテル・インペリアルの間の区間である。以下は、オペラ座、ケルントナー通り、そしてホテル・インペリアルである。




ホテル・インペリアルは、伝統あるホテルで、国賓級の宿泊者もいる超高級ホテルである(名前も文字通り「帝国ホテル」である)。高すぎるので、宿泊はしなかったが、カフェに入って、ウィーン名物のシュニッツェルを食べた。ルイーゼの好物は、ここのレストランのオムレツである。
さてウィーンの「二人のロッテ」ゆかりの地で、一番苦労したのが、お父さんの恋人のゲルラッハ嬢が住む場所の名前である。父親が彼女と再婚することを決意したことを知った(ルイーゼのふりをしている)ロッテは、ゲルラッハ嬢に会いに行く。結婚しないでほしいといいにいくためである。これは、この小説の後半のクライマックスである。
いま日本語にも翻訳されている版では、住所は「コーベンツル並木通り43番地」(Kobenzl-Alle 43.)ということになっている。この名称の通りは、少なくとも現在のウィーンにはない。ところが、ウィーンの北部郊外、ホイリゲという名前で知られる居酒屋がある地域に、コーベンツルという地名自体は存在している。ただし、つづりはKでなく、Cで始まるCobenzlである。もちろん、KをCに代えても、同名の通りはない。どうなっているのだろうかあ?ここであきらめるわけにはいかない。
実はこの物語は、1949年に小説が出ただけでなく、1950年に映画になっている。ケストナーが先に書いたのはそもそも映画の脚本で、戦争中の1942年のことだったらしい。ただ、ナチス体制下でケストナーの小説が発禁処分になったため、映画もお蔵入りし、戦後になって先に小説として、次に映画として相次いで世に出たのである。ケストナー自身が冒頭に出てきて観客に語りかけ、前編のナレーターもつとめるこの白黒映画は、大筋において小説と変わらないが、細部に違いもある。たとえば、休暇先で初めて出会った二人がちょっとしたいさかいのあとではじめて仲良くなるシーンは、小説では草原であるが、映画では湖上のボートである。あるいは、娘に頼まれて父親が写真を送る際、この写真は、作家のアルトゥール・シュニッツラーと同じ写真館で撮ったんだと自慢げに書き添える。父親の顔を始めてみるロッテが「ずいぶん気難しい顔をしているのね」と言うと、ルイーゼが「ふだんはちっともこんなんじゃないのよ、きっとシュニッツラー氏がそんな顔をしているんでしょ」などと答えるシーンがあるが、小説ではウィーンの名士であったこの作家の名前は出てこない。
さてその映画では、通りの名前は「コーベンツル通り」(Cobenzlstr.)となっている。ゲルラッハ嬢の家を探すロッテ(ルイーゼと入れ替わっている)がたどる電話帳に、このつづりが出てくる。しかし、これも実在する名前ではない。さらに調べていくと面白いことが出てきた。たまたま、この小説の最初に出た版をみつけたのであるが、それによると通りの名前は「コーベンツル小路」(Cobenzlgasse)となっている。そして、これはグリンツィングに実在する通りの名前である。
さて、小説の設定の通り、リンク通りから路面電車に乗った。その終点がグリンツィングである。がたことと揺られて、20分以上はかかる。10歳にもならない子どもが一人で行くには、かなり遠いところである。いまでは、市街地がずっと続いているが、戦前なら別の街である(時代はだいぶさかのぼるがベートーベンが遺書を書いたことで知られるハイリゲンシュタットも近い)。

ウィーンの市電の車両は旧式で、さすがに60年前と同じではないだろうが、当時をしのばせる。「コーベンツル小路」は、この市電の駅から、北西部の丘陵に向かって登っていく、グリンツィングのメインストリートである。ただ、駅に近いあたりは、ホイリゲ(居酒屋)が立ち並び、家並みも田舎町風で、とても、ホテル・インペリアルも経営するホテル会社の社長(ゲルラッハ嬢の父親はそういう設定になっている)の家がありそうな場所ではない。

しばらく歩いているうちに面白いことに気がついた。この通りの左側に、ほとんどあいだをおかず、並行して別の通り(Himmelstr.)が走っているため、本来左側にあるはずの奇数番地がないのである(ゲルラッハ嬢の家は、奇数番地の43)。右側の偶数番地が20番ほど進んで、ようやく左側の1番地が出てくるのである(ヨーロッパの番地のつけ方だとたまにこういうことはある)。そのあたりからは繁華街を過ぎ、住宅地が続く。けっこうきつい坂道を延々とあがって、とうとう43番地を見つけた。おそらく市電の駅から、子どもの足なら30分はかかるだろう。ゲルラッハ嬢を訪れたロッテは、憔悴して熱を出して寝込むということになっているが、さもありんなんという大旅行なのである。
さてその43番地まで行って分かったのは、このあたりは立派な屋敷が立ち並ぶ地域だと言うことである。おそらく、以前はウィーンのお金持ちが、郊外に邸宅ないし別宅を持つといった地域だったのだろう。現在の43番地には、比較的小さな平屋のメゾネット(しかも半分は空き家のようだった)がたつだけであるが、前後には立派な邸宅がある。これは、47番地にたつ屋敷である。

こんなお屋敷がほかにもずらっと立ち並んでいる。ケストナーがどこまで取材したのか知らないが、おそらく知り合いにお金持ちでもいて、このあたりに住んでいる人がいたのかもしれない。推測するに、番地まであがっていることもあり、小説の読者などが訪問して、さしさわりがあったので、映画版では、通りの名前をぼかし、さらに小説にも手を加え、架空の名称にしてしまったのではないだろうか。
こうして「二人のロッテ」探訪の旅は、面白い発見とともに幕を閉じた。
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