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FIELD MUSEUM REVIEW

FM108_01 まぼろしのつばさ「研三」◇各務原 2020/02/09 (Ⅰ) 2020年07月14日

トンボは地球上で最初に空を飛んだ生きものだ。
(『昆虫概念図鑑』より)(*1)


各務原(かかみがはら)は工業のまちである。岐阜県の南部、濃尾平野の北のはしに、川崎重工業の岐阜工場をはじめ、航空機、自動車など金属製品を中心とする工場群があり、ロボット工学など先端技術の研究開発企業があつまる。まんなかに位置する各務原飛行場は、いま航空自衛隊岐阜基地(JASDF Gifu Air Base)*となり、飛行開発実験団(Air Development & Test Wing)*の部隊を擁している。(*2)

各務原は武骨なまちではない。名物、若鮎の一夜干しもいいが、各務原キムチ味ポテトチップスは地域限定商品である。このキムチ味を菓子にした、「やめられない、とまらない、かっぱえびせん」エビせんべいで有名なカルビーの各務原工場は、川崎重工業航空宇宙システムカンパニー*(これが岐阜工場の正式名称らしい)のつぎにひかえる地元産業になっている。

「空宙博」(そらはく)こと公益財団法人 岐阜かかみがはら航空宇宙博物館*にたちよったのは、もっぱら企画展「スピードを追い求めた幻の翼 研三-KENSAN-」*をみるためであった(会期:2020年2月8日-3月16日)。2020年2月9日(日)、開催二日目、ひとかげもまばら。(*3)

そもそも「けんさん」とは、飛行機である。けんぞうさんではない。研は研究、また航研(航空研究所)の研。東京帝国大学航空研究所である。航研機が長距離飛行の世界記録を樹立したのは、1937年(昭和十二年)5月、飛行距離11651.01km であった。成層圏の飛行をめざして、日本ではじめて与圧気密室をもちいる飛行をおこなったロ式B型1号機が、1943年(昭和十八年)から翌年1月までに高度9200m に達した。ロッキード輸送機を改造したのでロ式という。より遠く(長距離)、より高く(高高度)、これらの実験につづく、より速く(超高速)、その第三の研究が「研三」である。

超高速飛行は大出力エンジンがみちびく。当時、誰がみても DB601A レシプロ・エンジンをおいてほかになかった。1940年、プロジェクトは航研、技研(帝国陸軍航空技術研究所)、それに機体の細部設計・製作をになう川崎航空機工業株式会社の三者による「研三委員会」が合議して推進することになる。ドイツがヨーロッパで戦争をはじめた翌年、日本の対米英開戦の前年のこと。エンジンの DB はダイムラー・ベンツである。この DB601A を搭載した機体は、1939年に時速700km をはるかに超える記録をたて、ドイツはこのことを宣伝に利用していた。このエンジンをもとに改造をくわえ、研三は世界最速をめざす。

上の写真は、研三の「機首上下面に装備された表面冷却器」(写真3枚目、国立科学博物館蔵)。

これは研三中間機の 32分の1 模型(製作:新谷昌平)である。企画展の展示品から。

こちらは「飛燕」陸軍三式戦闘機一型の 32分の1 模型(製作:小山澄人)。上述の DB601A エンジンを国産化し(ライセンス生産および実物購入権の契約にもとづく)、手をくわえた ハ40 を飛燕に搭載した。

研三がとぶ。1942年(昭和十七年)12月26日の初飛行からおよそ一年間、32回の試験飛行をくりかえす。第31回(性能試験の一回目)、1943年12月27日、全速飛行の試験で時速699.9km(修正速度)に達した。レシプロ・エンジンのプロペラ機による日本最速の記録は、いまもって破られていない。(*4)

操縦士は片岡載三郎(1911-1945)。昭和十九年三月十二日(1944年)付の「宮殿下ニ対スル片岡操縦士ノ御説明」と題する文書(国立科学博物館蔵)を撮影したカラー写真が、企画展図録に3ページにわたり掲載されている(pp.42-44)。二回の性能試験にいたる過程をくわしくのべた説明は、青い横罫の事務用便箋ににた紙三枚に記されている。用紙は欄外に「仕様書番號第    號 (  )」と刷りこまれて用途をうかがわせる。右肩さがりのきちょうめんな文字で手書き、ほとんど最後の段落に(3枚目のうしろから4行目)、「トラブル」を抹消して「問題」と見せ消ちしてある。(*5)

つぎは片岡載三郎操縦士について、その肖像写真とともに図録に掲載されたひととなりを紹介する記述である(pp.40-41)。
「東京府立第一中学校から陸軍航空へ進み、1941年2月、陸軍飛行実験部を除隊して川崎航空機にテスト・パイロットとして入社。
 キ60試作重戦闘機を皮切りに、次々に作られる多様な試作機の飛行試験を一手に引き受け、特にキ61「飛燕」戦闘機の実用化に多大な貢献をした。
 小柄ながらガッシリした体格、豪放磊落な性格であり、一見、大胆に見えるが細心の注意の行き届いた技量優秀なパイロットとして、技術者達から高く評価された。
 1943年12月末には、高速度研究機キ78「研三」を操縦し日本レシプロエンジン機の最高速度記録を樹立。また、1944年11月には米軍B29爆撃機による各務原空襲が確実視される中、キ61-Ⅱ型「飛燕」試作機で出撃し、民間人ながらB29を3機撃破する殊勲をあげた。
 「川崎航空機随一の酒豪」とも称され、飲むほどに鉢巻をして背広の裏側を出し、背中の方でボタンをかけ、2本のタバコを鼻の穴に差し込み踊る泥鰌すくいの芸は、玄人はだし。戦時という暗い時代に工場の従業員や家族を慰めようと、有志による劇団をつくろうと提案したり、若手パイロットの早朝からの訓練指導のため前日から会社に泊まり込むなど、部下思いの心優しい一面も持ち合わせていたという。
 しかし、1945年1月19日、「飛燕」(キ 61-Ⅱ型試作5号機といわれる)の試験のため各務原飛行場を飛び立った片岡操縦士は、帰らぬ人となってしまった。飛行中にエンジン火災を起こした乗機を何とかして着陸させようと木曽川上空を飛行場へ向かう途中、座席下の燃料タンクが爆発し犬山橋下流500mの河川敷に墜落、殉職した。33歳であった。」云々
おなじように「研三」もまた「最初カラ非常ニ「トラブル問題」ノ多イ機体デ」あった(上述の「御説明」)。いのちがけの飛行だったのである。

いくさ果ててのち、研三を轢き潰す占領軍の車輌である。(写真6枚目、各務原市歴史民俗資料館蔵)
(大井 剛)

この子はどうして後肢をさかさまに上げるのだろう。一個体の個性ではない。みんなで上げるのだ。(写真7枚目:横浜市港北区にて2020年7月10日撮影)


(*1)『昆虫概念図鑑』<自然と生態>編輯部編、ソウル:ピルトン(筆筒)、2013年、<原理でさぐる生物図鑑 1>。韓国語版、書名から本文まですべてハングル(韓国文字)である。翻訳引用は、1版2刷(2013年5月)をもちいた。出版社名「筆筒」は筆たてのこと。
冒頭の引用は、空中停止するトンボの写真(写真1枚目)にそえられたキャプション。正確にいえば「トンボは地球上ではじめて空を飛んだ生きもの(おそらくメガネウラ、ざっと3億年前に棲息)の末裔とかんがえられる(直系の子孫という意味ではない)」。対応する本文は以下の通り。
「卓越した飛行術
トンボは空中に静止することもできれば意のままに向きを変えて飛ぶこともできる。このようなトンボのようすをみて発明されたのがヘリコプターだ。トンボが空中停止するときは後翅を逆に折りまげる。腹部が細長く、中央はくびれている。飛行速度はトンボの種類によってことなるが、時速30~60km で、ひじょうに速い。」
韓国語(朝鮮語)でトンボをヂャムヂャリ jamjari という。同じつづり jamjari で「ねどこ」寝るばしょという語があるが、語構成が「ねること」jam +「ばしょ」jari で、jari の先頭が濃音化する。ちなみに俗語でヘリコプターを「ヂャムヂャリ・ビヘンギ」というと辞書にある。トンボ飛行機(ビヘンギ)である。
日本語は古く「あきつ」といった。国土を「あきつしま」という。「とんぼ」は動詞「とぶ」と関係があるかもしれない。

(*2) 飛行開発実験団は独自のウェブサイトをもつ。概要は「航空機、またはミサイル等の航空装備品に対する試験等を実施する航空自衛隊唯一の部隊です」と。ホームページ(トップページ)には戦闘機の写真とともに、
<Technological supremacy dictates the battle in the sky.>
「空の勝利は技術に在り」の文字があらわれる。

(*3) 以下の記述は、おもに企画展の図録に依拠している。
『スピードを追い求めた幻の翼 研三-KENSAN-』令和元年度空宙博企画展、各務原:公益財団法人 岐阜かかみがはら航空宇宙博物館、2020年2月、A4版 64ページ。


(*4) 註(*3)図録によれば、日本航空学術史編集委員会『わが国の航空の軌跡 研三・A-26・ガスタービン』(丸善、1998年)にもとづく。

(*5)「一九、三、一二、宮殿下ニ対スル片岡操縦士ノ御説明」本文を No. 1 から No. 3 までの用紙ごとに翻字する。もと縦書き。適宜、空格をおぎなった。なお文中に粁(キロメートル)、瓩(キログラム)、粍(ミリメートル)がある。
No. 1
「研三」ノ概要並ニ今迄ノ経過ニ就イテ御報告申上マス
目的ハ速度記録中間機デアリマシテ 計画ハ昭和十六年四月頃建テラレ 完成ハ十七年十二月二十五日デアリマシタ、本機ノ特長ニ就イテ申上マスト 機体ニ就キマシテハ 第一ニ高翼面荷重デ約二二〇瓩/米² デアリマス 翼巾八米 全長八・一〇〇米 翼面積一一平方米 全備重量二・四頓デアリマス。
翼型ハ所謂層流翼デアリマシテ 付根デ十六%翼端で十二%ノ厚ヲ有シ 翼端失速ニ対シマシテモ考慮サレテ居ル解(
わけ)デアリマス
下ゲ翼モ小翼面積機デアリマスノデ 特ニ揚力ノ増加ニ対シ考慮サレ「スロッテッド」及「スプリット」ヲ組合セタ様ナ型式ニナツテ居リマス。
空気取入口モ有害抵抗ヲ除クタメ主翼前縁ヨリ取ツテヲリ 排気管ハ推力排気管ヲ使用シテ居リマス、又「ピトー」管モ主翼前縁を荒サヌ様ニ航空研究所デ造ラレタ翼上下面ニ装着スル様ナ型式ニナツテ居リマス。
発動機ハDB六〇一Aヲ性能向上シタモノデアリマシテ 地上ニ於テ一五五〇馬力ヲ発生スル事ガ出来マス
其ノ為 高「ブースト」ニ於テハ「メタノール」噴射ヲ行ツテ居リマス
装備上ニ就イテ申上マスト 冷却系統ニ特ニ注意ガ向ケラレ 蜂巣冷却器ノ装備ニ最モ抗力ノ少クナル様ナ考慮ガ拂ハレテ居リマス
以上ガ「研三」ノ大体デアリマスガ 次ニ経過ニ就イテ申上マス。
先ヅ飛行前ニ問題ニナツタ事ニ就イテ申上マスト 一見弾丸ノ如キ感ジカラ 一六〇〇米ノ滑走路中デ浮クカ何(
)ウカト云フ点、着陸滑走距離ノ問題、又翼巾ガ小サイノニ比シ大馬力ノ発動機ヲ装着シテオ(sic)リマスノデ「トルク」ノ為メ傾ケラレハシナイカ 又離陸直后補助翼ノ効キ悪キ場合ニ於ケル反転性、又視界ガ非常ニ悪イノデ離着陸時ノ問題 及
No. 2
冷却系統ノ問題等ガ上ゲラレマシタ、
高速ニ依ル離着陸ノ研究ヲ「キ」六十一ニテ「フラップ」ヲ使用セズ接地速度二〇〇粁~二二〇粁ノ訓練ヲ数回実施シ自信ヲ付ケマシタ、カクシテ第一回ノ試験飛行ヲ昭和十七年十二月二十六日各務原飛行場ニ於テ実施致シマシタ、
上昇中脚ヲ入レマシタガ 完全ニ入ル事ガ出来ズ 且ツ冷却系統ノ不良ノタメ油温甚ダ上昇シ 飛行困難ニナリタル為 失速々度ノ判定スル余裕モナク 着陸降下ニ移リマシタ
最后ノ旋回ヲ計器速度三五〇粁、途中降下二八〇粁ニテ実施シ 発動機の回転ヲ入レ乍ラ返シ 始メノ高度ニテ二五〇粁ニ落シ 接地ハ二二〇粁ニテ ドウヤラ着陸ガ出来タ次第デ御座居マス。
第一回ノ飛行ニ依リ 滑油冷却器容量不足 及脚ノ這入ラヌ事ガ解リ 関係者一同其ノ対策ニ没頭致シマシタ、
其ノ後 是等ハ一応解決シテ飛行試験ハ続行サレタノデアリマス
而シテ春ヨリ夏ニ成リ気温ガ上昇スルト共ニ 冷却系統ノ無理ガ顕著ニナリ 系統ヲ改修スル事十回ニモ及ビマシタガ 絶好ナル飛行ハ一回モスル事ガ出来マセンデシタ、
其ノ間 発動機ノ故障三回 昇降舵 高速時六三〇粁ニ於テ「フラッター」発生等ノ事故モアリ 改修ニ改修ヲ重ネ期間ヲ取ラレ +三五〇粍以上ノ高「ブースト」ヲ引イタ事ハ一度モアリマセンデシタ
又飛行ノ度ニ計器類ノ故障「プロペラ」ノ故障 及「メタノール」ガ噴射シナカツタリ細イ故障モ起テ 思フ様ニ飛行スルコトガ出来マセンデシタ
結局十八年十月頃迄ハ何ヤカヤト期間ヲ取ラレ 十一月頃ニ
No. 3
ナツテ 気温ノ低下ト共ニ漸時(sic)冷却モ良好トナリ 試験ガ出来ル様ニナリマシタガ 脚ノ這入リニクイ事・操縦席内の蒸暑イ事ニハ全ク対策ナク 脚入レノ為ニハ速度ヲ落シテ横滑リヲ実施シ 風圧ニー依リ脚入レヲ行ヒ 非常ナル苦労ヲ毎回強イラレタ解(
わけ)デアリマス、又
本機ノ飛行ハ視界ガ悪イタメ他機ノ飛行セヌ時期ニ飛バネバナラヌ為 時間的ナ制限ヲ受ケタリシマシタノデ 各関係者一同ノ労苦モ並々ナラヌモノガアリマシタガ 落胆スル事ナク オ互ニ励ミ合ヒ 十二月初旬高山線を利用シ基線ニ依ル速度計検定飛行及性能試験ヲ行ヒーマシタガ 速度計検定ノ結果平均十二・五%モ多ク指示シテイタ事ガ解リ 関係者一同落胆シタ次第デ御座居マス、
性能試験ニ依リ高度四〇〇〇米ニ於テ「ブースト」(+)四五〇粍ニテ真速度六六〇粁ナル事ガ記録サレマシタ
此ノ第一回目ノ性能試験ハ 風防無シデ表面ヲ塗装シテナカツタ為メ 第二回目ハ全表面ヲ塗装シ性能試験ヲ行ヒマシタ 此ノ時ハ風防ヲカブリマシテ視界ヲ犧牲ニシ 七〇〇粁ヲ突破スルツモリデ飛行ヲ行ツタノデアリマスガ 其ノ結果高度三五〇〇米ニテ「ブースト」(+)四八〇粍 回転二、五〇〇ニテ 六八二粁シカ出マセンデシタ
以上デ大略性能試験マデ終ツタノデアリマスガ 今迄ヲ振返ツテ見マスト最初カラ非常ニ「トラブル問題」ノ多イ機体デアリマシタガ 大シタ事故無ク飛行出来タ事ヲ思フト感慨無量デアリマス。
以上デ御報告ヲ終リマス。

(更新記録: 2020年7月14日起稿、9月27日公開、9月29日、2021年11月29日、2022年1月25日修訂)

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