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FIELD MUSEUM REVIEW

FM108_02 まぼろしのつばさ「研三」◇各務原 2020/02/09 (Ⅱ) 2020年07月14日

日本の無条件降伏により各務原をふくむ本土を占領した連合国軍(実質的にはアメリカ合衆国軍)は、「研三」に価値をみいださなかった。それより高速の実用機をすでにもっていたのだ。研三にかかわる資料は焼却して処分され、機体も破壊された。

超高速をめざしただけあって研三は流れるような細身のからだであった。空気抵抗をへらすためである。往時の写真にみられるように、キャノピー(風防)も平らで、前方の視界がわるかったから、ほかの飛行機がとばない時期をえらばなければならず、関係者は苦労したと「御説明」(前述。注(*5) に本文を掲載)にある。(写真8枚目:研三中間機)

陸軍航空技術研究所(技研)が超高速機の研究を東京帝国大学航空研究所(航研)に委託することを決めたのは、1939年はじめである。航研は超高速飛行の研究を、長距離飛行、高高度飛行につづく第三の研究として「研三」とよんだ。高速をだすために重要な課題は、エンジンの力を大きくすること、空気抵抗を小さくすること、翼の性能をよくすること、プロペラの効率をあげることであった。

大出力エンジンの開発が主眼となるはずだが、ドイツから輸入される DB601A の実物の数がすくなかった。かんじんのエンジンがたりなかったのである。そこでエンジンの改造は小規模にとどめ、試験機を製作して第一期研究とし、のちに新しい発動機を開発する第二期研究をおこなうことにした。計画は1940年にたてられた。この第一期の目標が「研三中間機」とよばれる。1943年末に最高速度を記録したのが、中間機である。併行して1942年から第二期の計画がねられたものの、実現にいたらぬうちに研三じたいがさたやみになったので(1944年1月)、ついに実験は「中間」のままにおわった。(*6)

博物館の展示棟はさながら格納庫であった。その一隅に「研三」の企画展示があり、胴体の原寸模型がでむかえる。素材は段ボールや発泡スチロールだという。(写真9枚目)

展示品のひとつにメタノール噴射装置(国立科学博物館蔵)がある。エンジンは燃料をもやすのが目的である。しかし温度が高くなりすぎると問題がおきる。過給機で空気を圧縮してたくさん送りこもうとすると、圧力をかけたぶん温度が上昇する。点火プラグで着火するまえに燃料がもえだしてしまう異常燃焼(ノッキング)がおこりかねない。そこで吸いこむ空気の温度をさげる効果をねらって、純メタノールの気化熱を利用した。メタノールが液体から気体にかわるとき、まわりの熱をうばうのである。温度がさがれば、吸気をもっとたくさん圧縮してエンジンにとりこむことが可能になる。(写真10枚目)

もうひとつは単筒試験機(国立科学博物館蔵)である。ダイムラー・ベンツ DB601A エンジンを構成する一気筒を模造したものとみられる。これをもちいて、いったいどんな実験をおこなったのであろうか。原型の DB601A にくらべて研三に装備した「DB601A 改」は、回転数で毎分2500回転から毎分2700回転に増加させ、馬力ではもとの1100馬力から1350馬力への向上を目標とし、さいごは最大1550馬力を発揮するにいたる。排気ガスを推力に利用する装置(推力式排気管)を中間機に装着した。また単筒試験機をもちいた試験により排ガスのなかの燃えのこり(未燃焼ガス)に外気を導入して二次燃焼させ推力をひきだす方法の研究もおこなった(実機への採用にいたらぬままおわる)。(写真11枚目)

航研における技術開発の中心人物のひとり山本峰雄は、1942年の段階で第二次研究の目標として、すなわち第一次の中間機につづいて最高速度をめざす本命の記録機に、18気筒ないし24気筒で2500馬力をだす液冷エンジンの国産をかんがえていた。(*7)

高速を追究するならプロペラを回転させるよりジェット・エンジンのほうがすぐれている。そんなことはわかっているのだが、当面は両者をくみあわせた推進機関(ターボ・プロップ)の研究を継続した。その名称を「研八」という。一気に五段飛びですね。

研三の基礎設計の立役者ともいうべき航研所員 山本峰雄(1903-1979)の生涯を回顧する文章を、新谷昌平氏が図録に寄稿している(pp.34-38)。筆者は会場に展示された研三中間機の模型(写真4枚目)をつくったひとである。

実物の飛行機をつくった経験のない研究者たちが、「東大の学者が作った飛行機など飛ぶものか」などといわれつつ、航研機による長距離飛行の世界記録を達成した。「航研が基礎設計を主導し、実機の製作は川崎 [航空機工業] が行う委員会方式」で開発した、研三の日本最高速記録にいたるまでが、山本氏の研究生活の上昇期である。「戦後、航空分野の研究が禁止され、公職追放となった山本氏」の後半生に、この伝記のもうひとつの力点がおかれている。

「長男の雄一さんは、その目でアメリカを見た山本所員は戦争中、あんな国に勝てる訳が無いと、どこか冷めていたという。家族を疎開先に送り出し、東京に一人残った山本氏はしばしば自宅の庭から B29 の残す飛行機雲の写真を撮っていた。米軍機に対しては憎しみよりも憧憬に近い気持を抱いていたようだった。長野市で終戦を迎えた山本氏が子供たちと再会し、最初にしたことは、航研から持ち帰った小さな黒板を使っての焼け跡での英語の青空授業だった。山本氏は終始晴れやかな顔をしていたという。」

サンフランシスコ平和条約(1951年)が発効すると、「日本の航空産業は再開されたが、山本氏は多少ヘリコプターに関わった程度で、航空界に戻ることはなかった。」1950年から群馬大学で、1960年から東京農工大学で教壇にたつかたわら、大学に自動車工学科を設立したり、自動車の研究機関を創設したり、日本の自動車界におもきをなした。

戦後、研三の資料は多くが焼却処分された。このことはすでに述べた。しかし、遺品がなければ展示会はひらかれないはずである。しかも会場では、研三中間機の試験飛行のようすを記録した映像(動画 5分26秒)がくりかえし映写されている。この映像(国立科学博物館提供)をウェブ上に公開している鳥嶋真也氏の記事をかりると、つぎのような事情である。

「研三に関する資料は、敗戦時に廃棄されたことで、長らく存在しないと考えられていた。
「しかし、山本について調査していた研究家が、山本のご子息から「幼い頃に研三の映像を観た」という証言を得、それを元に国立科学博物館に調査を依頼した。その結果、映像が残されていることが判明。そして、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館(空宙博)などの専門家によるさらなる調査の結果、研三中間機の設計に関する資料や、2号機の検討時の資料、さらに研三中間機の試験飛行の映像などが存在することが明らかとなった。」(*8)


さがせばみつかるものである。試験飛行の映像が国立科学博物館のどこかからでてきたのは、2017年のこと。それからはじまった調査の中間報告が今回の展示と図録ということになろう。

図録におさめる写真に、研三の単筒試験機が複数残存している状態をうつしたものがある(p.16. 国立科学博物館蔵)。キャプションに「1990年代、航研の建物が残る東京大学先端科学技術調査センター内を調査した際の写真」とある。古びた建物の床にならんだ機械群。航研機の資料も、駒場にあった「航研の図面はその大半が終戦時に焼却された」が、山本氏が「自宅に持ち帰っていた大量の資料は戦後まで保管され」やがて「国立科学博物館に収蔵されることになる」(図録 p.36)。山本氏は戦前の飛行機から戦後の自動車にいたるまで、重要な資料をふんだんに後世につたえた。それは、これからのくわしい調査研究をまっている。(*9)

空宙博(そらはく)についたとき、野外展示の機体はすでに長いかげをおとしていた。企画展「研三」をじっくり観てまわり、展示パネルをひととおり撮影して、STOL実験機「飛鳥」の機体やエンジンのあいだを歩きまわり、外へでてみれば日はとっぷりと暮れている。(*10)

企画展の図録はわずか64ページになかみがみっしり詰まっていて、くりかえしひらいてもそのつど発見がある。とにかく写真をおしみなくのせる。各部の技術的な説明も明解で、世のなかの背景にも目くばりがとどき、一読してのみこめない記述はない。会場の展示パネル28枚との異同をさぐると、いっそう興趣がましてくる。とはいえ「研三」「中間」の定義に遭遇するまでに10ページ以上かかるようでは、なにも知らずはじめから読みすすむひとには、じらしすぎでしょう。推理小説ではないのだから。せめて序章で鍵となる基本の用語を説明し、全体の構成の見通しをたてていただきたい。

エンジン DB601 が12気筒であることは、航空マニアなら先刻御承知で、軍事オタクの常識かもしれないけれど、どこかにひとこと書いておいてくれると親切です。書いてあるのを見おとしていることが発覚したら、あやまります。望蜀の感なきにしもあらざれども、「理科系の作文技術」の研鑽をのぞみます。(*11)
(大井 剛)

カボチャの葉につくむしです。(写真13枚目:横浜市港北区にて2020年7月5日撮影)

(*6) 企画展図録はライト兄弟による人類初の持続的動力飛行のはなしからはじまる。「はじめに」で研三が「速度研究機」であることはわかるが、冒頭の写真はいきなり「完成時の研三中間機」である。研三のいわれは10ページにたどりついてようやく説明される。中間の意味が中間機という語のおかれた文脈から帰納的かつおぼろげにわかるのが次の11ページ目である。

(*7) 研三エンジンの母胎となるダイムラー・ベンツ DB601A について、まとまった仕様の説明がない。叙述のあちこちにちりばめられた断片から全体像を再構成するほかない。そもそも何気筒であったのか、図録をめくりとつおいつ思いめぐらしても判明しない。実物の写真6点(図録 p.48)と図面「ダイムラ、ベンツ六〇一 装備要領啚」(同 pp.49-50)があるとはいえども、むかしなつかしい青写真の文字はちいさくつぶれてよめない。
ドイツのダイムラー・ベンツ社が開発・製造した DB601 シリーズは液冷V型12気筒エンジンである。

(*8) 鳥嶋真也「世界最速目指し開発された飛行機「研三」、岐阜の空宙博で企画展開催」『マイナビニュース』2020年3月6日、3月13日一部修正。
研三中間機の試験飛行の映像(国立科学博物館提供)

(*9) 東京大学附属図書館がかつて漢籍の目録をつくったとき、本郷の総合図書館の書庫には金庫があって、そのなかからなんだか「おたから」がでてきたとかいう話をきいた。編纂のための委員会の席上で、文学部長もつとめた教授のおはなしであるから、よたばなしではあるまい。
公益財団法人東洋文庫が美術館を併設するにあたって全面改築したさい、引越しのあいだに十七世紀オランダ製世界地図集が2種類すがたをあらわした。あんまり大きかったので見すごされていたのだ。なんだろうといじるひとがいて、はじめて発見にいたるのである。

(*10) 写真11枚目と12枚目は、「飛鳥」とそのエンジン。「小さな地方空港でも離着陸できる、低騒音の技術を得るために開発された STOL(短距離離着陸)実験機。科学技術庁航空宇宙技術研究所(航技研、現 JAXA)により国家プロジェクトとして進められた。」「1985(昭和60)年10月28日の初飛行から約3年半にわたって岐阜飛行場で飛行実験を行い、高い STOL 性を実証した。」(展示パネル)
写真13枚目は博物館のたてもの正面。
見出しの写真は野外展示されている航空自衛隊の水上機。
あとで知ったが、「そらはく」の館長は松井孝典さんでした。
(松井孝典『地球進化論』 ⇒ FM105「外出自粛:ステイ・ホームを考える」2020年05月28日 へ)

(*11)『理科系の作文技術』木下是雄著、中央公論社、1981年、中公新書。中央公論新社、2002年、改版のさい多少の手いれがほどこされたが、「〈ページが動く〉ことになるような変更は避けた」(「改版のためのあとがき」2001年10月) そうです。
【追記】 改版すると文字通り版を改める結果、元の紙面とことなる新しい紙面になる。この本も文字がやや大きくなり行のピッチが変ったため、ページは順ぐりにうしろに動いている。「ページが動くような変更をしなかった」かもしれないが、それは元の版のなかでのはなしだろう。あとがきを書いている時点で新版の紙面をみていないとすれば、ページが動かないものと思いこんでもしかたない。著者が校正を他人(
ひと)まかせにしないか、あるいは編輯者が改版のあとがきを読んで気をきかせれば、「ページが動く」かどうか確かめることができたはずだ。
あきらかに「改版のためのあとがき」が1ページ分ふえているにかかわらず、本書の通しページは244ページで変らない。なぜか。旧版で5ページにわたっていた文献リストを新版では同じ81項目を4ページに圧縮したのである。近年のコンピュータによる組み版の方法をとれば、おのづから入力しなおすことになるだろう。その証拠に、106ページの脚注をみると、新版では <Evidenec> に誤っている。旧版は正しく <Evidence> である。
(新版は2011年5月71刷による。なお奥付に改版(「第2版」)の年次がなく、1981年初版このかた「71版」とあるが、正しくは「刷り」の回数である。)

(更新記録: 2020年7月14日起稿、10月2日公開、10月3日、10月4日修訂、2021年3月21日追記・修訂、11月29日、2022年1月25日修訂)

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