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FIELD MUSEUM REVIEW

FM170ex 金峯山の修験者◇信楽 MIHO MUSEUM 2023年09月22日

紀伊半島のまんなか、奈良県から和歌山県にかけて奥ふかい山やまがつらなる。大峯(おおみね)という。なかに金峯山(きんぷせん)は修験道(しゅげんどう)の発祥地として名だかい。

「修験道は、霊山で修行を積み重ねて、その験徳を顕す道である。」
「修験道には教祖はいない。」
「修験道では、霊山の山の神が示現した権現を崇めている。」(*1)

修験道の修行をするひとを修験者という。けわしい山のなかで法螺貝をふいたりしている山伏といえば、わかりやすいかもしれない。

MIHO MUSEUM* (ミホ・ミュージアム)2023年秋季特別展「金峯山の遺宝と神仏」*(会期:2023年9月16日ー12月10日)に参観した。主催:MIHO MUSEUM、京都新聞。
(*2)
(写真は滋賀県甲賀市信楽町田代桃谷にて2023年9月22日撮影)

建築物はイオ・ミン・ペイ I. M. Pei の設計で、建築の分野にはひろく知られる。
(桃谷 ⇒ FM173ex「現代の桃源郷◇靖節先生の世界へ MIHO MUSEUM」2023年10月22日 へ)

入口は山の中腹にある。路線バスをおり、あるいは駐車場からあるいて、レストランを併設するレセプション棟につくと、美術館へのアプローチがみえる。

電気でうごく自動車が美術館とのあいだを往復している。

しだれ桜の並木のあいだをトンネルにすすむ。

トンネルは直線ではなく、わざと曲げてある。

仏寺の胎内くぐりのようである。しかし、この写真ほど暗くない。(*3)

ゆくてに和風のたてものが、みえるかというと・・・

じつはまだこんな感じ。肉眼では外のけしきがみえる。

道のりが遠いようだが、飽きさせないくふうがある。

つり橋にさしかかる。支柱などもデザインのうちである。

橋は安定感がある。

下はふかい谷。

橋をわたりきると、ほどなく美術館の本館につく。

そろそろ紅葉にそまる気配。

わきにさりげなく通用口のトンネルがある。

正面玄関。現代の数寄屋造りですな。

玄関からまっすぐすすむ。

正面のさらに奥のけしき。

秋の空の下。

宗教施設がアタマをのぞかせる。宗教団体の創立者によって1997年に設立され、その人の名を冠する美術館であるが、宗教法人(神慈秀明会*)とは別の公益財団法人(秀明文化財団)によって運営されており、宗教色はおもてだたない。

左手にみえる三味線の撥(ばち)のようなかたちは、ベル・タワー「カリヨン塔」の頂上部。鐘がさがっている。この塔を《The Joy of Angels》(飛天のよろこび)とよぶ。設計者は美術館のたてものとおなじ I. M. ペイ。

右手の台形は施設の中枢、教団本部のある「神苑(みその)」の神殿「教祖殿」。1983年落慶。その屋根の一部である。全体は富士山をかたどる。美術館のロゴ・マークに通じる。ミノル・ヤマサキ設計。

北棟の入口。階段で上の階にあがる。中二階のような印象である。玄関とおなじ平面にミュージアム・ショップがある。

特別展「金峯山の遺宝と神仏」をみる。

中庭は枯山水。

いよいよ入場。うすぐらい室内に黒っぽい遺品がならぶ。写真撮影不可。

おもな展示品はつぎのようである。館蔵品と明示した作品(つい遺物とよんでしまう)は一点のみ。「個人蔵」の出土遺物が多数。(*4)
金峯山をひらいたとされる役小角(えんのおづぬ)また役行者(えんのぎょうじゃ)ともよばれる伝説にいろどられた人物にまつわる彫刻像など。
金峯山の山上本堂の改修工事にともなう発掘調査(1983ー1986年)による出土遺物、銅鏡など。
金峯山の主尊である蔵王権現の像。
藤原道長の金峯山参詣による経筒などの遺物と納経、懸仏(かけぼとけ)など。
近年あらたに金峯山の遺物に関連すると確認された、神仏を刻んだ銅鏡、仏像など。
大峯山の歴史にかかわる図像、絵画、彫刻など。

これでは、なんのこっちゃか、わからん。--ごめん。(*5)
会場でも黒くて暗くてよく見えんという感想がきかれる。よくわからんところが、ありがたいのである。

カフェ「パインビュー」(松けしき)にてサンドイッチとコーヒーをいただく。南館の下の階である。パンはすでに半分たべちゃった。

断面図。野菜はすべて自然農法の産物。

食後の甘味。別途、注文しました。コーヒーおかわり。これも加算。

これが「パイン・ヴュー」pine view です。

来たら帰る。


サルスベリ、かな。
(大井 剛)

(*1) 「修験道の基本」宮家準著『修験道小事典』京都:法藏館、2015年。
引用は同書 pp.193-194 より。

「金峰山」の項、同書 p.57.
「金峰山は奈良県吉野郡の吉野山から山上ヶ岳(1719メートル)までの約24キロの間の山塊を指す。
「平安初期、山上ヶ岳には小堂があって、修法がなされていた。平安中期には中腹の青根ヶ峰の安禅に石蔵寺などが作られ、貴族たちが御嶽詣を行なった。
「平安後期には山上ヶ岳と吉野山に蔵王権現が祀られ、さらに役行者の山上ヶ岳での蔵王権現感得譚が作られ、金峰山は修験道発生の地とされた。」[中略]
「近代になると山上蔵王堂は山上本堂(1942年以降は大峯山寺)と改称されて、吉野山と天川村(てんかわむら)洞川の共同管理となり、講社による民衆登拝の霊山となっている。」

「蔵王権現」の項、同書 pp.82-83.
「役行者が、大峰山の山上ヶ岳の湧出岩で修験道の守護神を求めて祈念した時、出現したとされる忿怒身の神格。吉野山のみならず、各地の修験霊山で祀られた。
「平安時代初期には蔵王菩薩と呼ばれたが、中期には蔵王権現とされ、後期には役行者の祈念に応えて、釈迦・千手観音・弥勒菩薩に次いで現れたとの伝承が生まれ、像容も定まり、懸仏なども作られた。
「現在、金峯山寺では、釈迦・千手観音・弥勒を蔵王権現の本地としている。」
[後略]

これだけでも、おはなしがつくられてゆく過程がよくわかります。

本書の著者、宮家準(みやけ ひとし)は1933年東京生れ。元日本宗教学会会長。慶應義塾大学名誉教授、日本山岳修験学会名誉会長、宗教法人「修験道」元管長・元法首。
著書に『修験道 その歴史と修行』(教育社歴史新書、1978年。同、講談社学術文庫、2001年)ほか。

修験道の史的展開からみた神仏習合を論じた、つぎの論考をあげておく。
「神仏習合論-修験道を中心に」宮家準、『日本仏教論-東アジアの仏教思想Ⅲ』シリーズ・東アジア仏教4、高崎直道、木村清孝編、春秋社、1995年。pp.165-203.

この論文のなかで修験道の性格がつぎのように総括されている。
「明治政府は復古神道のイデオロギーに基づいて、神仏分離政策を強行し、神仏習合そのものともいえる修験道を廃止した。これは当時政府が、権現を崇拝対象とし、御霊・疫神・荒神を鎮めるなど、最盛期の神仏習合の姿をそのままに伝える修験道を、神仏習合廃絶の標的としたことによっている。それゆえ、裏返していえば、当時我国における神仏習合の存在形態は、修験道のうちにもっともリアルに見うると考えられたのである。」(同書 pp.167-168)

(*2) 『金峯山の遺宝と神仏』2023年秋季特別展、MIHO MUSEUM 編刊、2023年。
323p.

(*3) 花の季節には--販売している絵はがきより「トンネルと桜」。撮影者は小池澄男さん。タイミングがあえば、このようでアルという、ミホの見本。
トンネル内からレセプション棟のある入口方向をみている。

(*4) 特別展の展示品のうち、大峯山の絵図、藤原道長の日記および納経について、独立の項目をたてる。
(記録 ⇒ FM170ex_S1「藤原道長の金峯山参詣 (Ⅰ) ◇『御堂関白記』をよむ」2023年12月17日 へ)
(遺物 ⇒ FM170ex_S2「藤原道長の金峯山参詣 (Ⅱ) ◇納経と経筒」2023年12月27日 へ)

(*5) 参考:ColBase 国立文化財機構所蔵品統合検索システム*

「蔵王権現立像」1軀 鎌倉時代・12~13世紀 銅造 高28.5cm 東京国立博物館蔵
〔解説〕蔵王権現[ざおうごんげん]は、右手を高く掲げて金剛杵[こんごうしょ]と呼ばれる武器を持ち、右脚を蹴りあげながら岩座に立つ躍動的な姿勢が特徴。険しい山中で修行する山岳修験[さんがくしゅげん]において信仰され、奈良県吉野山の周辺に作品が多い。細身だが胸部などに抑揚があり、鎌倉時代初め頃の制作か。

奈良県「天川村(てんかわむら)」ウェブサイトに、修験道のなんたるかが懇切に説明されている。
https://www.vill.tenkawa.nara.jp/ds/

これをみれば、修験道発祥の霊峰、大峯山(標高1719m)が女人禁制であるいわれ、「女人大峯」稲村ヶ岳(1726m)の存在理由もわかる。男だけの世界より女の山のほうが、標高だけくらべればすこし高い。

「日本独自の宗教」「修験道の宗派は多数ありますが」という、本山修験宗総本山「聖護院門跡」ウェブサイト参照。
https://www.shogoin.or.jp/road/

--またしても記事に手ぬきをしてしまったぞよ。

(更新記録: 2023年9月22日起稿、11月5日公開、11月12日、11月17日、12月8日、12月17日、12月27日、2024年4月3日修訂)

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