私はルールを守ってさえいれば、イギリスほど暮らしよいところはないと思う。
[中略]
インドで人々は、イギリス人は冷酷だという。しかしイギリス人はインド人に対してだけ冷酷なのではない。イギリス人同士でも冷酷なのだ。仲間でもルールを破った者に対してけっして許さない。情状酌量などということは全然しないのだ。義理、人情を美徳とする日本人や、情の強いフランス人やイタリア人、約束というものに価値をおかないインド人などとまったく正反対の素質をもっている。
(中根千枝著『未開の顔・文明の顔』[1959年] より)(*1)

「中根千枝先生を偲ぶ会」が東京神田、学士会館において2022年10月2日(日)午後ひらかれた。会場のホールには先生の顔写真と献花台がそなえられ、正面の壁面に大きく肖像写真が投影されて(遺影とは言いたくない)、わきの棚に勲章だの三笠宮の名をそえた花だのとともに先生自筆の油絵や受賞歴のある水墨画がならんだ。
列席者はおのおの椅子を2脚づつ与えられ、ひとつに坐り、ひとつは手荷物をおくよう指示された。平服の参列者は人数がかぎられ、きわめて簡素な雰囲気であった。
発起人である弟子筋が、準備にあたり中根先生だったらなんとおっしゃるかを基準に判断したため、主として学問に直接かかわる関係者が招かれ、出版界もふくめてマスメディアのはたけからの出席者はみかけなかった。小生とその連れが学問に直接かかわる人材かどうかは、いささか疑問の余地があるが。
(写真1枚目:極秘会議の席に臨む中根千枝先生(中央)。国立民族学博物館(大阪府吹田市千里万博公園)にて1994年2月4日大井剛撮影) (*2)
中根千枝の名はしばしば日本の「タテ社会」のしくみとともに語られる。しかし、中根先生の本領は、人類学、とくに文化人類学、社会人類学のひろい分野にあり、中国、チベット、インドのフィールド・ワークにある。
追悼の辞というよりは、懐かしい思い出のスピーチに登壇した日本人5名、中国人1名は、先生と接する機会を、東京大学、東洋文化研究所、日本ユネスコ国内委員会、国立民族学博物館、財団法人東洋文庫、日本学士院などで共有していた。
結婚式の新郎新婦紹介よろしく中根先生のあゆみを写真でふりかえった横山廣子さんは、最後の弟子の世代にあたるが、すでに国立民族学博物館を停年退官し名誉教授である。その写真は、参列者にくばられた先生自撰の写真集からぬいた作品や、フィールドでの先生のすがたであった。(*3) ついでながら小生は駒場(東京大学教養学部)のドイツ語クラスで横山さんと同級でありました。過去完了形でいうのは、学生のとき専門課程にわかれて以来、この日までいちども会ったことがなかったからです。
中根千枝先生は1926年(大正十五年)11月30日東京に生れ、2021年(令和三年)10月12日東京にて逝去された。その足かけ九十五年の生涯に多くの時をフィールドですごされたが、「現場」という言いかたは日本語に特有で、英語には相当する表現がない、と講演のなかでおっしゃったことが記憶にのこる。(*補記)
お弟子さんがたや、同僚として語るひとのスピーチがつづくなかで、思い出ばなしというのは、どんなに謙遜していても、つまるところ自慢話におちつくのだと悟らざるをえなかった。回顧談の宿命である。
異色の談話が、会の最後に登場した血縁者のあいさつ(遺族と言いたくない)である。まづ甥御さんが紹介した、いわゆる老人ホームにおひとりで暮していた先生のようす。へやが小さかったが、入居のさい「津田塾の寮とおなじ間取りだ」とよろこばれた。東京大学文学部東洋史学科入学のまえに津田塾専門学校外国語科をお出になったのである。
南品川のホームに私どもがお見舞いにうかがったときも、ここにおすわりなさい、と御自身のベッドの上を指された。ひざつきあわすとは、このことだ。
甥御さんの話ではじめて知ったが、先生は「ジョニ黒」と「カントリーマアム」がお好みだったそうだ。ウィスキーと袋菓子。差しいれていたが、そのうち誤嚥が心配だとホーム側が禁じた。すると先生、通信販売でゲット。さらに筋力トレーニング・マシンがとどいて、周囲は仰天。九十歳でも筋肉はふえるとスポーツ・ドクターはいうが、どうやらわかもの向けの器械だったらしい。(ふつう通信販売は返品を認めないものだが、無理をいって引き取ってもらったとか。ということは、かなり高価な品であろう。)
近親者代表として最後にマイクをにぎった妹君は、「マスコミが報じた「老衰」により死去」の真相を語るとして、ひとりぐらしの「熱中症」が原因で老人ホームに入居することになったいきさつから(2018年)、世間の流行感染症騒ぎによる困難(2020年以降)、ひいてはぐあいが悪くなってからの救急病院やリハビリテーション施設への行ったり帰ったり、微に入り細を穿ち、そこまで詳述しなくても・・・という口演は、閉室退去の時間切れとなるまでつづいた。
これは「終活」の参考になると山の神は熱心に拝聴していた。しかし、ここに記録することは、遠慮しておきたい。なお会場の写真撮影は格別に禁じられたわけではないが、推奨もされず(主催者側が撮影していた)、とった写真の公開は控えるように指示をうけた。ちなみに小生ははなから撮影していない。
中根先生が東京大学東洋文化研究所の教授・所長であられたころ、採用された助手に告げたことば。あなたね、研究所の助手におなりだけれど、研究所というところは教員だけでは成り立たないの。(東大の助手は教育職で教員の末端に位置づけられる)。事務員さんや、いろんな職種のはたらき手によって組織がうごいていくんだから、あなた廊下で誰かにであったら、知ってるひとも知らないひとも誰にでも、あいさつしなさいね、と。まるで幼稚園にむかう幼児に、ハンカチもった?と母親がたしかめるように、諄々とさとされた、という。かく語ったのは七十すぎの弟子のひとりである。
母性のひとであるかとおもうと、お嬢さんぽいところもあった。晩年の中根先生は、東洋文庫でしらべものをされるとき、あらかじめ山の神に電話をおかけになり、必要な書物を用意させるのが常であった。その電話は
「あぁ、あたしだけど」
ではじまる。「北村 [甫] さんも石井 [米雄] さんも亡くなって、文庫に知ってるひとが橘さんしかいないのよ」
この
「あぁ、あたしだけど」
は小生もおうけした経験がござる。それはある本の出版にあたり、ユネスコ東アジア文化研究センターに出版者 publisher になってもらいたいという依頼であった。海外で編輯・印刷される企画をもちこまれ、こちらはただ版元として名義を貸した。製品が納入されると、国内外の関係者・関係機関に送付する。勝手に売れる分は、貧しいセンターの実入りになる。(*4)
そのほかお世話らしいことといえば、民族学振興会が解散するとき、事務的にかかわったくらいである。組織として先生にめんどうみてもらったことのほうが、はるかに大きい。それにつけても電話で「あぁ、あたしだけど」は尋常の切りだしかたではなかろう。山の神は東洋文庫の役員秘書として先生とながいおつきあいがあったからまだしも。誰にでもそうであったのかどうか、あいにく他のひとになったことがないので、わからない。
私事ながら、小生に山の神が降臨したとき、祝宴をひらいてくださったのは、中根先生おひとりである。そのとき小生は半年後に転職することが決定していた。又の名を失業という。失業それじたいは珍しいことではない。つぎの勤め先がきまる前に、やめるほうが先にくるのを失業とよぶならば、東京大学文学部(助手)、ユネスコ東アジア文化研究センター(調査外事室長)、ユネスコ・アジア文化センター(専門員)、いづれも該当する。そうか三回失業したんだ。その三度目に遭遇し、披露宴はおろか、結婚通知もろくに出すことがかなわなかった。いまだに知らない友人がいるんじゃないか。
「あらまあ、知らなかった、ビッグ・ニュースだわ」とおっしゃって、高輪の御自宅にほどちかいホテルパシフィック東京の加賀料理店「大志満」にふたりをお招きくださり、三人の酒宴をはったのでありました。(ホテルの建物は現存せず、料理店は2021年3月閉店)

訃報をうけたとき、生前すでに三十三回忌の儀礼までおえているという情報がつけくわえられた。独身であとつぎもなく、御葬儀の喪主を妹君がつとめたことが新聞報道にもあったから、これはのちのち他人様(ひとさま)に迷惑をかけないよう深遠な配慮をめぐらしたものと感じいった。ところが話をきいてみると、あるとき津田塾の同窓生といっしょにお寺にお参りし、いきおいで実行されたとのこと。なんと女学生の「乗り」だったのである。先生のお茶目な一面の発露であった。
九十五年におよぶ生涯をふりかえり、自分はすきなことをして人生をおくったが、それはいろいろなひとびとにたすけられて実現したことであった、とつねづね語られていたそうである。
(写真2枚目も、1枚目におなじ) (*5)
会場についたとき受付担当者に声をかけられた。高校の同級生、富沢壽勇静岡県立大学特任教授・副学長であった。静岡訪問のさい偶然出会ってから、なん十年か経過している。葬儀ではないが、これも一種の弔問外交であろうか。
(大井 剛)
(*1) 中根千枝著『未開の顔・文明の顔』中央公論社、1959年。(中央公論文庫、1962年。角川文庫、1972年。中公文庫、1990年7月) 引用は角川文庫版、pp.175-176.
引用文をふくむ段落はつぎのように結ばれる。pp.176-177.
--[前略] イギリス人のルールは、人々の上、あるいは外に書かれたもの、きめられたものとして存在するのではなく、人々の中にあるものであるということである。社会における約束というものが、その血液となって個人の中に流れているのであって、いかなる場合、土壇場に遭遇しても、イギリス人が生きている限り、ルールが破られないものであるという、本物のすごさがある。あの複雑なむずかしいインドを、二百年有余も支配し得たというのは、このようなイギリス人の資質に大いに関係があると思われる。このルール優先ということは、他のイギリス人の性格、プラクティカルであるということと相まって、政治の運営において、また支配者として成功した重要な要素であると思われるのである。実際インドに行き、インドを知れば、帝国主義に激しい憤りを感ずるよりも、よくもこのインドを二百年あまりも支配しつづけたことだと感心せざるを得ないのである。イギリスのインド支配、インドの独立の、一連の歴史は、まさに両極端の文化・文明をもつ偉大な民族が演じた、すばらしい闘いであったのだ。私は世界史において、これほどヨーロッパの力とアジアの知恵が見事な火花を散らした例を知らない。そして、それは公平にみて、けっしてどちらが勝利を博したともいえない。この闘いによって、人類は、さらに新しい世界が展開されていくのを知るのである。
(*2) 写真は、佐々木高明国立民族学博物館教授・館長(向かって左)、石井米雄ユネスコ東アジア文化研究センター所長・上智大学教授・京都大学名誉教授(右)とともに。佐々木館長には、官職指定 ex-officio でユネスコ東アジア文化研究センター運営委員をお願いしていた。
このとき中根千枝先生はユネスコ東アジア文化研究センター運営委員・財団法人民族学振興会理事長・東京大学名誉教授であった。国立民族学博物館におけるこの会合には、ほかに北村甫財団法人東洋文庫理事長・麗澤大学教授、山崎元一ユネスコ東アジア文化研究センター副所長・國學院大學教授、大井剛同センター調査外事室長が参席した。肩書きはいづれも当時のもの。末尾のひとりを除いて、みな故人。
(*3) 中根先生自撰の写真集。『人びととの出会い フィールドワーク・研究の道程』1987年3月。[ノンブルなし] 22p. 東京大学東洋文化研究所退官記念。
まえがきにあたる文章の一節を引く。
「私の研究には, 卒論以来のチベット史と後に専攻することになった社会人類学の2つの流れがずっと続いてきました。ようやく最近になってこの2つがうまく合流しはじめたところです。云いかえれば, 生きた社会と歴史を合流させた研究をめざしているのです。」
(*4) ユネスコ東アジア文化研究センターの出版物。
《Home Bound:Studies in East Asian Society》 Nakane, Chie, and Chen Chiao (ed.), Tokyo:The Centre for East Asian Cultural Studies, 1992.
中国における人類学・社会学の開拓者、費孝通教授の八十歳を祝賀するシンポジウム《The Study of East Asian Societies》が東京において開催された。その成果として、本書に14本の論考・講演が収録されている。
今回、hardcover のほかに paperback 版のあることをはじめて知った。そのことを版元の acting director が知らなかったのです。忘れたわけではありません。もちこまれたはなしを出版部 Publication Section におろしたら、どこかで印刷・製本されて納品とあいなったわけ。ことほどさように手のかからない事業でありました。(印刷会社は香港のドン・ボスコ印刷であった。)
今回、hardcover のほかに paperback 版のあることをはじめて知った。そのことを版元の acting director が知らなかったのです。忘れたわけではありません。もちこまれたはなしを出版部 Publication Section におろしたら、どこかで印刷・製本されて納品とあいなったわけ。ことほどさように手のかからない事業でありました。(印刷会社は香港のドン・ボスコ印刷であった。)
シンポジウムのタイトルは、study(単数)、societies(複数)であり、かたや出版物の標題は、studies(複数)、society(単数)である。
ネット販売アマゾンのサイトはペーパーバック版について、紹介の文をつぎのように掲げている。
This volume is the outcome of a symposium entitled "The Study of East Asian Societies" held in Tokyo in honor of the eightieth birthday of Professor Fei Xiaotong, one of the founders of modern Chinese anthropology and sociology.
The fourteen papers here, including two addresses by Professor Fei, deal specifically with the question of using one's own society as the direct object of anthropological and sociological study, and whether in a country as large as China, small-scale studies of individual communities can be representative of the country as a whole.
これは、ハードカヴァー版でいえばダスト・ジャケットのうたい文句のうち、第2段落の前半と第3段落とをツマミ食いしたものである。

(*5) 写真の右はしに北村甫先生の大きな手がみえる。いままさに語りかけているところ。向こう岸の三人が謹聴している。手まえに手つかずの料理があるが、それは私の分けまえです。写真撮影後にのこらずいただいたことは言うまでもありません。
【*補記】 つぎの講演のなかで指摘された。
「現場の眼、俯瞰する眼-社会人類学の視点」文化勲章受賞記念・中根千枝先生講演会、2002年2月2日、東京神田:如水会館。一般公開、参加自由であった。
(更新記録: 2022年10月2日起稿、10月4日公開、10月6日補訂、10月8日、10月18日、10月25日修訂、2024年3月1日補記)