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【名作】スピリチュアル・シングル宣言──生き方と社会運動の新しい原理を求めて【再読】

伊田広行,2003,スピリチュアル・シングル宣言──生き方と社会運動の新しい原理を求めて,明石書店.(8.18.24)

家族単位が企業や国などの根本原則となっている日本で、自立した個人を基本にする「シングル単位論」を提唱し、社会・政治制度改革を提案する。人権、平和、セクシュアリティ、南北問題などを考え、新しい関係、生き方を作り上げていく出発点となる論考。

 わたしは、学生時代、市川浩さんの身体論、廣松渉さんやピーター・バーガー等の物象化論を読んで、デカルト以来の心身二元論に疑問をもち、また、人間の、言語化される以前の、感情、衝動、情動、直感、身体の感触、感応等を理性、知性以上に重視すべきではないか、そうした問題意識をもちつづけてきた。

 善なる、あるいは美しい事象、人の振る舞いに触れたときの、あの、胸打たれ、身体で感じる感嘆、歓び。

 伊田さんは、本書で、そうした精神=身体の歓びに根ざした社会の原理を言語化した。

 伊田さんは、精神を貶め、身体を疎外する人間のありようへの違和感を次のように表す。

 私が〈スピリチュアリティ〉という概念をぜひとも必要と思うようになったのは、反フェミニズム的な人たちや保守ナショナリストたちの「口汚さ」に触発されたことも一因である。フェミニズムが許せないとか、まったく理解できないとか、ポルノ肯定的差別的笑いを繰り返すというような人とか「新しい歴史教科書をつくる会」などの保守論客などをみて、あーあ、この人たちとは違う世界に生きてるなという感覚。頭の賢さの差でなく、なんらかの〝精神〟〝こころのレベル〟の差こそが問題なんじゃないか、という直感。私の本を読んで、直感的に反発する人は何に怒っているのだろうか、という考察。また、財界のお先棒をかついで、「労働の規制緩和」を進めるような学者や官僚をみて、この人たちって一体どんな精神構造で生きてるんだろうと思った。あきれた。理論や理屈でいくらでも反論できるが、それは向こうも同じことで、根本的な差は、理屈の差でなく、〈たましい〉の差だとしかいいようがないという直感。
(p.22)

 いまはもう見向きもされなくなった大衆社会論、そのなかでもオルテガ・イ・ガセット等の貴族主義的大衆社会論を想起する。

 いまどき、精神の貴族主義かよ、と言われそうだが、価値相対主義の御旗のもと、卑俗なるものが跳梁跋扈する汚らしい世界が現前しているなか、もうこんな世界イヤだという思いばかりがつのっていく。

 なにも、「清貧の思想」(中野孝次)を称揚するわけではない。

 ただ、カネと権力のパワーゲームの虚しさへの気付きと、勝者としての加害者意識とを欠落させた人間たちを、浅ましい、卑しいと感じ、嫌悪しているだけだ。

 パワーゲームのおこぼれにあずかろうとする「パパ活」女への嫌悪も、同根のものだ。

 自分自身を生態系や宇宙の全体性のなかに位置づけ、生きとし生けるものすべてとの感応のチャンネルを開いていくことが大切だ。

 〈たましい〉概念の前提には、「私」というものを絶対的な独立存在とはみない観点がある。今自覚している自分の意識も、社会的文化的な全体の中で作られたものであり、この「私の体」も私が作り出したものではない。私の努力の成果でもない。「風がくれたいのち」である。したがって「いのち」も「体」も「私個人のもの」ではない。皮膚の内側を自己、外側を「私以外」といえるのではなく、結局、地球の生態系・地球環境・宇宙という「全体」が存在しているのであり、「私」はその一部でしかないという観点である(これは「私」の軽視とか全体に対する従属性を意味しない)。
 自分がいなくなっても宇宙は存在する。それはある種の〈希望〉である。私は全体の一部だから、私個人の寿命はそこで終わるが、それは「全ての終わり」ではない。ちょうど細胞が1つ死んでも、私の体全体が存在するように、私につながる全体はなくならない。そしてその全体の中に、私の痕跡も残り続ける(だから死後の世界を考えたり、死ぬことを憂える必要などなく、私は今をちゃんと生きればいい)。一人一人の〈たましい〉はこの「全体」につながっている。この「全体につながっている大きな集合的〈たましい〉」もある。それをとくに「スピリット(霊)」と呼ぶこととしたい。私の意識・心の中にある「きれいな感覚」は、この「全体」につながっている大きな〈たましい〉の、「私の上に」表出した部分である。「私」という個体存在が、「地球の生態系に連なる全体の一部」であるということを示すのが、〈たましい〉である。
 つまり、〈たましい〉は私の心の中にあり、あなたや動植物の心の中にあり、相互がつながっている、その大きなつながりの全体の一部が私の中にもあるというようなものである。世界とのつながりという「喜び」の中で出てくる、本人の生きるエネルギーが〈たましい〉である。世界は「見えない血管」でつながっており、「私」もその「血管」につながっているから、他の人の喜びが私の安らぎになり、人の悲しみが私の悲しみになり、子犬を見て和んだ気持ちになる。そうしたエネルギーが基礎となって、人は、ときにまともなこと、勇気あることができる。
(pp.58-59)

 また、〈たましい〉とは、今の社会で私が自信をもって他者にいえる「私が大切にしたいもの」だ、ともいえる。過去の素晴らしい人の生き方や運動にはそうしたものがあったが、近年の物質主義の横行、「殺伐としたすさんだ社会」化、「のっぺりした社会」化のなかでみえにくくなってきていた。合理主義や論理(ロゴス)だけでは捉えきれないところの、人間や社会に重要な、深層的感覚的領域のエネルギー、野生や情熱(パトス)に関わる部分。そこを言葉にして理解したり伝えられたとき、自分の生き方の方向を見失わないし、迷わないし、若い世代に新しい社会運動の意義と魅力を伝えられるところのもの。例えば私たちは若い世代に「責任」があると思う。今、生まれたての子ども、10代の世代、これから生まれてくる子どもたちにどんな社会を残すのかは、私の利害であり責任だという感覚がある。〈スピリチュアリティ〉とはそうした私の利害と責任の拡張に関わる概念だ。
 〈たましい〉は私の心の中にあり、あなたの心の中にあり、相互がつながっている、その大きなつながりの全体の一部が私の中にもあるというようなものだと思う。先ほども述べたように、世界は見えない「血管」でつながっており、私もその「血管」につながっているから、他の人の喜びが私の安らぎになり、狭い自己利益を超える勇気をもつことができ、子犬を見て和んだ気持ちになる。私は、何らかの世界──特定共同体を超える全世界、それの一部としての身近な人──への貢献を行う責務をもっている。もちろんこの「責務」はいやいやながらのものではない、っていうようなこと。ひりひりした、この微細な感覚。
(pp.70-71)

 美しい、すばらしいのか、それとも、浅ましい、卑しいのか、自己と他者を観察する際の、言語化以前の直感を大切にしたいものだ。

 まず「すばらしい人=(私のいう)スピリチュアル度の高い人」は、侠気がある。ジェンダー視点としては、男に限るのは問題だが、そこでいわんとする「犠牲を払って人に尽くす気性。義侠心。強きをくじき、弱きを助ける気性」といわれてきたものにはまともなものがある。そういうことを実践するというのはとても難しい。だからこそ、それはきれいだ。さらに、すばらしい人は、他人からの承認を味わっているがゆえの、静かな安定した自信をもっている。静謐な穏やかさがあり、真摯な人柄で、いささかの諦念の深みを育んでおり、温順な香気をもつ性格である。人のダメさを見逃す度量があり、歳下の者にも敬語を使うような人である。つまり、生き方に気高さや美しさや高潔さがあり、気品があるような、人品上等な人間なのである。
(p.75)

 第2に、実感として、今の私には、これが大切だなあと思えるからである。ジーンと感動できたり、胸が熱くなったりする。すごいとか、これだよなあとか思えたりする。まあ、そう思えない人には何の説明にもなっていないが、私にとっては事実だからこれは立派な理由の一つである。スピリチュアルな素晴らしい人や素晴らしい作品に触れると、ジーンとくるんだよね。感じる。きもちいい。納得できる。腑に落ちる。でもここが大切なところなのでもう少し言っておこう。
(p.291)

 伊田さんは、「シングル単位の社会」を提唱する。

 日本という社会は、ジェンダー・男女平等を基本視角にしてみたときに、社会保障が進まずにその代替としての女性の無償労働が温存され、かつ女性の職場進出が進んでいない、性分業を根強く組み込んだ「小さく未熟な福祉国家」だということができる。政策体系として、皆が結婚することを前提に、男女をペア、ワンセットで捉え、女性が働くのが当たり前というのでなく、妻に家事育児などを任せきって長時間労働を当たり前とする男性をベースに「女性が働きにくい職場環境」を作り、企業と補助金によって男性の雇用を保証する雇用政策をとり、女性が男性に養われるという基本形を作り、保障充実の要求を抑え込ませ、その代わり主婦層に一定の恩恵を与え、他方で女性役割と両立させる形で働く女性を非正規労働者として低賃金で利用し、トータルで企業と国家の効率性を高めるという「家族単位」の社会なのである。
(p.101)

 その「上層建築」の善なる行為という幻想自体が実は、近代主義の枠内に思考をとどめ、個々人のはみ出す可能性のあるラジカルな思考を奪い、根本的変革のエネルギーのガス抜きをし、俗なる「下層建築」部分のリアリティを排除し、人々に禁欲と努力を奨励し、「結婚し、その中でのみセックスし、家族のために働き、性役割を遵守し、子どもに学校教育を与え、商品消費に奔走する」といったような現在のシステムに人々を従順に適応させ、目に見えにくい形で、内面から支配されるマジメな市民を再生産する構造を支えてきたのではないのか。
(pp.152-153)

 シングル単位論は、まずは個人の権利よりも共同体(公、国家、家族、企業)の秩序を重視(上位化)するのではなく、逆に、個人の権利を共同体より上位に置く考え方である。共同体の中での「弱者」の保護でなく、当事者主体、自己決定重視の考え方である。家族という「男女異性愛・近代性別秩序を前提とした共同体的組織」を社会の基礎単位(標準)とし、それを作って当然、作らない人は不利益があってもよいとすることの無理を自覚し、近代の性別秩序(標準)から離れた者/離れたい者もそうでない者も、とりあえずニュートラルに扱われるように、「多様性を前提とした個人」を社会の基礎単位にしようというのが、シングル単位論である。その個人とは、ジェンダー・血縁・家族・民族などという近代主義的幻想を乗り越えて「深く他者・世界とつながっていける出発点としての個人」である。
 制度の側面から言えば、所得保障の育児休業制度充実、短時間労働・非正規労働差別禁止(同一価値労働同一賃金の確立)など「女性が有償労働しやすい環境」を作り、社会保障を充実させて、女性の無償労働を社会化し、男性の長時間労働を問題として、ワークシェアリングの視点で、女性も基本的に働き税を負担するような「個人単位モデル」に転換するという、結婚・家族制度、社会保障システム、労働制度、税・財政制度等全般にわたる変革戦略である(拙著「1998a][1998b][2003])。
 簡単に言えば、結婚しなくてもいいよ、子どもを産まなくてもいいよ、働きつづけてもいいよ、同性愛も離婚も事実婚も差別されるのはおかしいよというように、多様な個人の生き方を認めあおうとするものである。夫婦は相手に役割を期待したり片務的な役割分担になるのでなく、各人が自分で収入労働も家事も育児もして、双方がおいしいところといやなところを平等に分けあうことになる。そして、そのためには、家族がもっていた相互扶養や養育の機能を社会全体で担うように、家族の枠を超えて支えあう新しい連帯の社会、高度な福祉国家にしようと考えるものである。そうした中で、既存の夫婦・結婚・家族という概念が揺らぎ、新しい対等な関係が模索されていく社会である。
(pp.103-104)

 わたしがずっと言い続けてきたこととほぼ同趣旨だ。

 生態系、宇宙、他者とのつながりの全体性のなかで生きることができれば、「孤独」はなんら怖れるものではない。

 この点を逆からいえば、人は、他者からの共感的理解を得る必要がある存在だということだ。共感され、肯定され、受容される、つまり〈たましい〉において認められるという深い自己肯定の体験があってこそ、人は本当の意味で〈孤独〉になることができる。玉石混交状況で、一部の人がひどいからと人間全体に絶望するのでなく、マトモな人がいるしつながっていると思えるからこそ、愚かな人間社会という面をみても、表層的孤立に至っても動じないのである。そのときの〈孤独〉は、バラバラでも競争的なものでもなく、いつでもつながることができるという安心と安定感に支えられた〈孤独〉だ。人との関係を表層の形式(結婚や、そばに人がいつもいるという形式や、愛しているという言葉など)で「確認」する必要などない。〈孤独〉であってもそれは当然の出発点ということであり、そうした自分が同時に世界のために何かできるというつながりを感じられているという意味で、その人は「何もかもから切断された不安」から解放されているのである。
 そのように自分をOKと思ってシングル単位感覚をベースに媚びずにさらけ出せると、まともな自立人間から私は受け入れられる。新しい水準でつながれる。そういう体験を重ねてこそ、自分が変われる。自分から行動しなくては、「冷たい関係」は変わらない。自分がエンパワメントされてこそ、他者を尊重できる。他者を尊重する中で、私は成長する。
(pp.263-264)

 プレ自立段階の人は、信頼=「嘘がないこと」=「距離・他者性がないこと」=「他の人を好きにならないこと」「私の思い通りのあなたであること」となっていたが、シングル単位感覚と〈たましい〉感覚がみえた人には、その図式は成立しない。「信じる」という美名での「押し付け」に敏感になり、むしろ過剰に共同体主義的な信頼を寄せないからこそ、不必要な絶望を被らないのだ。この社会には邪悪も多様性も溢れているのだから、自分が相手から拒否されたときも、信じられないようなひどい人がいることも受け入れる。親しい関係においても、秘密や隠し事、つまりプライバシーが相手にあって当然だと思える。相手が他の人を好きになっても当然だ(ありうることだ)と思える。それは相手が決めること。そんなことで相手への信頼感は揺るがない。だってその人を〈たましい〉においてみていられるのだから。そのすてきな信じるに足る人が行うことはすばらしいことに決まっている。だからそのときに「(悪い意味で)私は孤独だぁ」「裏切られた、捨てられた」と嘆かない。嫉妬を正当化しない。
 もちろん、一時期すばらしい人だと思ってもそれが間違いであったということがある。だが自分が信じたということは私の責任であり、違っていたということは〈たましい〉水準でみる目がなかったのだ。裏切られたとか、何もしてくれなかったと相手のせいにして怒ったり何も信じられないと絶望するのでなく、〈たましい〉を基準とした〈孤独〉を基礎に、適切に人を信じればいいのである。適切に〈孤独〉を受け入れられた人は、適切に人を信じられるのである。
(pp.267-268)

 凡百の人生論にはない説得力は、いまもなお色褪せてはいない。

 言語化以前の人間の経験を社会理論に無理なく組み込むこと、それをわたし自身の今後の課題としたい。

目次
はじめに
1章 なぜ今、〈スピリチュアリティ〉か
1-1 日本の社会状況――恐るべき「想像力や共感の欠如」「殺伐とした空気」
1-2 良心派・民主運動側の限界
2章 〈スピリチュアリティ〉とは何か
2-1 表層世界と「混沌の闇世界」
2-2 〈たましい〉〈スピリチュアリティ〉とは何か
3章 〈スピリチュアル・シングル主義〉という主張
3-1 〈スピリチュアル・シングル主義〉の最初の定義
3-2 自己の拡張としての〈スピ・シン主義〉――新しい水準の〈人権〉概念の創設へ
3-3 〈スピ・シン主義〉のもう少し突っ込んだ説明――俗なる価値の尊重、即興性、アート
4章 〈スピ・シン主義〉の展開――新しい人権論としての〈スピ・シン主義〉
4-1 多様性、エンパワメント、〈スピリチュアリティ〉を組み込んだ、新しい人権論
4-2 人間の成熟と〈孤独〉
5章 なにを言いたいのか――まとめにかえて
〈スピ・シン主義〉的なおすすめ作品ガイド
参考文献


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