ライン河。多くの芸術家に霊感を与え続けてきたこの川はシューマンにとってもまた創作の源泉となった。ラインを語らずしてシューマンを語ることなど出来ないだろう。エンデニヒのシューマン・ハウスを後にし、ここバート・ゴーデスベルクのホテルに戻ってからというもの、私はバルコニーから見下ろすラインの悠然たる流れにしばし目を奪われていた。そこにシューマンの生涯を、そして音楽を重ね合わせていたからである。周知の通り今年はこのロマン派の旗手の没後150年の節目にあたる。命日に寄せて何か気のきいた随筆風のものをオマージュにとも思ったが、宿願のエンデニヒ詣でが叶い胸がいっぱいになってしまった。以前の日記をそのまま引用することをお許し頂きたい。
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2005年7月30日付けの日記より
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昨日7月29日はシューマンの命日だった。例年のことだが昨日も朝からシューマンの「レクイエム」やらヴァイオリン協奏曲やらを聴き、シューマンに関する論文と本をいくつか読んで一日を過ごした。
残念ながらシューマンに関する本はこのロマン派の旗手の西洋古典音楽に占める重要性に比して、格段に少ないと言わざるを得ない。そのような中で近年、前田昭雄の『シューマニアーナ』が復刻され、また門馬直美の遺稿『シューマン』が出版されたことは欣快に堪えない。遡って2001年にはOUPからEric Frederick JensenのSchumannが上梓されており、昨日はこの中からいくつかの章を拾って再読したのである。とりわけ第15章の「エンデニヒ」は何度読んでも胸の潰れる思いがする。以下ではこの章の内容に則し、シューマン最晩年に纏わるある二つの疑問に対しごく簡単に答えてみたいと思う。
見出しから察せられるように、この章ではエンデニヒのサナトリウムでのシューマンの最後の日々(1854年3月4日ー1856年7月29日)が描かれている。周知の通り、シューマンの病気・死因に関しては諸説あって(入手が容易なものでは、岩田誠『脳と音楽』メディカルレビュー社とその文献表などが参考になろう)、今となってはどれも憶測・推測の域を出ないが、シューマンがこの療養所でどのような扱いを受け、またどのような気持ちで日々を過ごしていたかということについては書簡等を基に比較的容易に窺い知ることが出来る。
それによればシューマンは1855年の春まで幾度となく退院もしくは転院の希望を述べている。否、「述べている」などという中立的な表現では済まない。私にはほとんど悲痛な叫びのようにさえ聞こえる。この時期までは創作活動も継続されており、それらに異常が認められない点はヨアヒムも指摘しているが、退院もしくは転院の望みが絶たれた途端シューマンの病状は悪化の一途を辿る。否、むしろ自ら死を選んだとしか思われない節があるのである。
ではシューマンがそれほどまでに退院を切望したのはどうしてだろうか。またそれにも拘らずその望みが叶えられることがなかったのはなぜか。前者の疑問から見ていこう。それはこのサナトリウムの治療方針に由来すると思われる。ジャンセンによれば、大雑把に言って、ここでは心の病の治療が心ではなく体に対してなされており(例えば冷水浴や極端な食餌療法)、体の調子が整えば心の病はそれに伴って自ずと治癒されると考えられていた。こうした考えが根底にあったため患者の精神活動(シューマンの場合とりわけ創作活動)は軽視され、シューマンはピアノを弾くのさえ担当医の顔色を窺いつつ許可をもらわなければならないほどだったのである。これは精神活動を重視し、創作活動を奨励した当時のパリのサナトリウムとは著しい対照をなしている。エンデニヒのサナトリウムも当時の公立の施設に比べれば格段に進んでいたようだが、ここでの治療方針がシューマンに合わなかったことはこの作曲家の性格に思いを致すとき容易に推察出来ることである。担当医リヒャルツのシューマンに対する態度が冷たいものだったのも患者の心の軽視の現われであろう。事実、シューマンを見舞い転院を支援したベッティーナはこのサナトリウムで理性的といえるのは唯一シューマンだけだ、とさえ述べている。
今ひとつの疑問。なぜシューマンのこの悲痛な叫びが聞き入れられなかったのであろうか。様々な要因が考えられようが、クラーラの演奏活動が大きく関与したことは疑いを入れない。よく知られているように、後年、クラーラは職業ピアニストとして華々しく活躍することになるが、その活動はシューマンのサナトリウム入所後に盛んになっていったのである。これについてクラーラ本人はシューマンの入院費を捻出する為と述べている。しかし実際には彼女が演奏活動を行わずとも入院費を支払うだけの貯えも経済的援助の申し出もあったのである。これに対するジャンセンの指摘は単なる邪推と言えるだろうか。彼はクラーラがたとえ無意識だったにせよシューマンの退院によってピアニストとしての活動が妨げられるのを恐れたのではないかと推測している。実際、彼女にとってコンサート・ピアニストとして活動することは積年の夢だったのである。いずれにしてもシューマンの望みが叶えられることはなかった。ジャンセンを引用しよう。
「初めてヨアヒムに退院の希望を伝えてから既に一年以上の月日が流れていた。おそらくシューマンは諦めたのであろう。医師たちの意のままにされ、治療もされるがまま受け入れるより他なかった。そして気づいたのかもしれない。自らに残された唯一の自由は生か死かを選ぶことだけにあると」
7月29日の夕方4時、シューマンはひとり病室で息を引き取った。最愛のクラーラにもブラームスやヨアヒムにも看取られることなく。
<シューマン関連の図書をほんの少し>
Eric Frederick Jensen (2001) Schumann
Oxford University Press
著者ジャンセンは音楽学者。生涯と作品解説のバランスの取れた記述になっている。何より著者のシューマンに対する並々ならぬ愛情が伝わってくる。
John Daverio (1997)
Robert Schumann: Herald of a New Poetic Age
Oxford University Press
Isserlis, Steven (2001)
Why Beethoven Threw the Stew: And Lots More Stories About the Lives of Great
Composers
Faber and Faber Limited
チェリストのイッサーリスが子供向けに作曲家の生涯を紹介した本。大人が読んでも充分に楽しめる。
「極めて一般的に言えば、バッハの音楽は神の世界観がどのようなものであるかを示しており、モーツァルトの音楽は自然界の一部であり、ベートーヴェン(の音楽)は全人類の代弁をしている、と言えるでしょう。ではシューマンはどうでしょうか。シューマンの音楽が伝えるのはローベルト・シューマン個人の感情です。しかし、それにも拘わらずシューマンの音楽は私たちみんなに語りかけてきます。なぜでしょうか。それはシューマンの抱く感情が極めて強烈でリアルなために、私たちはシューマンに自分自身を重ね合わせて見ることが出来るからなのです」 (p.84)
演奏家によるシューマン観として隻眼と言わねばなるまい。
<追記>
蛇足とも思われるが、ここでの私の意図はクラーラを断罪することではない。結局のところクラーラはシューマンが命をかけて愛した女性である。それでもやはりハーシュに過ぎただろうか。
Martin Demmler (2006)
Robert Schumann. Eine Biografie. Ich hab im Traum geweinet
Reclam
Beate Perrey, ed. (forthcoming)
The Cambridge Companion to Schumann
Cambridge University Press
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日付は29日に変わった。夕刻には花束をもって旧墓地に参ろう。ローベルトと語り合うために。
* 上の写真はホテルの部屋からのライン河の眺め。対岸に聳えるズィーベンゲビルゲの雄姿に英雄ジークフリートが重なろう。下は裏庭側から撮ったエンデニヒのサナトリウム。現在はシューマン・ハウスとして公開されている。シューマンが息を引き取った部屋は二階左端。
<最近聴いた演奏会から>
7月17日 (CH, London)
エッシェンバッハ他
シューマン オーボエとピアノのための3つのロマンス ★★★★★
モーツァルト ピアノと管楽器のための五重奏曲(K.452) ★★★
7月21日 (RAH, London)
ツェートマイアー指揮 ノーザン・シンフォニア
リゲティ ラミフィケイションズ ★★★★★
シューマン 交響曲第4番 ★★★★★
ブラームス ヴァイオリン協奏曲 (ツェートマイアー) ★★★★+
7月25日 (ROH, London)
ヴェデルニコフ指揮 ボリショイ・オペラ
プロコフィエフ 《炎の天使》 ★★★★★