今回のアフリカ行きをしばらく前に家族に伝えました。
父の一言目がおもしろかったです
「北回りか?南回りか?」
父は1960年代、婚約中の母を残したままふらりと英国に
渡り、3年以上帰ってこなかったという強者。
元祖バックパッカーなのかヒッピーなのか。
だからなのか、彼にとってアフリカは今だ飛行機で何十時間も
かけてパリから入るものだと思っていた模様。
そして母に言った次の一言
「娘がひとりでお金をためてアフリカにいこうとしている。梢は
バカじゃない。色々考えての選択なのであろうから、とめる必要も
ないし、一人で行くからには準備も確実にしているであろう。
しょうもない質問や不安ををぶつけるべきではない。」
この話を母から聞いた時、不覚にも涙がでそうになりました。
そして渡されたメモにはたった一言。 「蚊に注意せよ!」
実は私は父との折り合いが非常に悪く、もうまともに会話をしたのが
いつなのかも記憶にありません。怒られたこともないし、嫌な思いを
させられたこともないし、折り合いが悪くなる理由は何もないのですが、
大人になった今では少しわかります。
彼は娘に対する接し方がわからないのだろうな・・と。
というか基本的に全てにおいて世間の常識とずれているのでしょう。
数々の伝説のような、漫画のような話は売るほどあります。(マジで)
最近、彼をヒッピーだと思えば、全ての出来事につじつまが合うことに
気づきました。幼い頃、思春期の頃、ヒッピーのような生き方がある事を
誰も私に教えてはくれませんでした。私はとても父の存在が疎ましく、
世間に対して恥ずかしく、誰にも知られたくないと父の存在を隠していました。
しかし、自分自身が遺伝としか思えない旅好きになり、世界中の旅人や
そこで生きる人たちの暮らしをみて、
「もしかして、父の生き方の方が正しいのではないか」と思うように
なったのです。
日本で普通に暮らしていくうえで、ヒッピーの父を持つことはかなりかなり
辛かったです。もっと早くに、誰か周りの大人に肯定して欲しかったです。
ちなみにそんな父、業を煮やした母が英国まで迎えにいこうかと真剣に
考え始めた頃、シベリア鉄道にのって陸路で大陸横断して帰ってきたそうです。
2人の再開場所は、シベリアからの船が着く“舞鶴港”(しぶいなあ、もう)
留学中に2人が交わしたたくさんの絵はがきが今も実家に眠っています。
阪神大震災の時、それを一生懸命拾い集めていた母の背中が2人を物語って
います。
いい両親に恵まれたな。と今は感謝しています。
そういえば、私が沖縄の保育園に勝手に就職を決めた時も
父はたった一言「沖縄は暑いから、梢の体にいいんちゃうか」と
それだけでした。
いつか父の旅の話を聞いてみたいです。
写真は風呂敷に包まれて大切に押入れにしまわれているのを知っています。
しかし、写真ではなく 映写機?で映し出すものらしいです。
いつか。いつか。
父の一言目がおもしろかったです
「北回りか?南回りか?」
父は1960年代、婚約中の母を残したままふらりと英国に
渡り、3年以上帰ってこなかったという強者。
元祖バックパッカーなのかヒッピーなのか。
だからなのか、彼にとってアフリカは今だ飛行機で何十時間も
かけてパリから入るものだと思っていた模様。
そして母に言った次の一言
「娘がひとりでお金をためてアフリカにいこうとしている。梢は
バカじゃない。色々考えての選択なのであろうから、とめる必要も
ないし、一人で行くからには準備も確実にしているであろう。
しょうもない質問や不安ををぶつけるべきではない。」
この話を母から聞いた時、不覚にも涙がでそうになりました。
そして渡されたメモにはたった一言。 「蚊に注意せよ!」
実は私は父との折り合いが非常に悪く、もうまともに会話をしたのが
いつなのかも記憶にありません。怒られたこともないし、嫌な思いを
させられたこともないし、折り合いが悪くなる理由は何もないのですが、
大人になった今では少しわかります。
彼は娘に対する接し方がわからないのだろうな・・と。
というか基本的に全てにおいて世間の常識とずれているのでしょう。
数々の伝説のような、漫画のような話は売るほどあります。(マジで)
最近、彼をヒッピーだと思えば、全ての出来事につじつまが合うことに
気づきました。幼い頃、思春期の頃、ヒッピーのような生き方がある事を
誰も私に教えてはくれませんでした。私はとても父の存在が疎ましく、
世間に対して恥ずかしく、誰にも知られたくないと父の存在を隠していました。
しかし、自分自身が遺伝としか思えない旅好きになり、世界中の旅人や
そこで生きる人たちの暮らしをみて、
「もしかして、父の生き方の方が正しいのではないか」と思うように
なったのです。
日本で普通に暮らしていくうえで、ヒッピーの父を持つことはかなりかなり
辛かったです。もっと早くに、誰か周りの大人に肯定して欲しかったです。
ちなみにそんな父、業を煮やした母が英国まで迎えにいこうかと真剣に
考え始めた頃、シベリア鉄道にのって陸路で大陸横断して帰ってきたそうです。
2人の再開場所は、シベリアからの船が着く“舞鶴港”(しぶいなあ、もう)
留学中に2人が交わしたたくさんの絵はがきが今も実家に眠っています。
阪神大震災の時、それを一生懸命拾い集めていた母の背中が2人を物語って
います。
いい両親に恵まれたな。と今は感謝しています。
そういえば、私が沖縄の保育園に勝手に就職を決めた時も
父はたった一言「沖縄は暑いから、梢の体にいいんちゃうか」と
それだけでした。
いつか父の旅の話を聞いてみたいです。
写真は風呂敷に包まれて大切に押入れにしまわれているのを知っています。
しかし、写真ではなく 映写機?で映し出すものらしいです。
いつか。いつか。