フォトエッセイ

季節の写真と感想

プロヴァンスの旅 サント・マリー・ド・ラ・メール(1)

2007-08-24 | 旅行
サント・マリー・ド・ラ・メール (Stes.Maries de la mer)

アルルから一路南へ地中海に面したサント・マリー・ド・ラ・メールへ向かいます。ローヌ河の河口に広がる広大なデルタ。カマルグ(Camargue)は湿地帯でありフラミンゴをはじめ渡り鳥がやってきて休息するところです。また昔から白馬を生産するところでもあります。白馬ににまたがっているナポレオンの絵はいろいろな画家が描いていますが、その白馬はこの地方から献上されたものだそうです。今も白馬の生産は続いていて、あちこちに牧場が点在しています。





湿地帯ですから、大昔からこの地域は米の産地でもあり、「カマルグ米」、それに「塩」がこのあたりの名物になっています。「カマルグ米」は日本の古代米のような赤米が混ざっているようで地中海一帯では昔から好まれていたお米です。パイェリャはスペインバルセロナあたりの料理ですが、ローマ時代プロヴィンキアと言っていた頃はこのあたりからバルセロナあたりまでをそうよんでいたようで、今でも一体感がかんじられ、食にも海の幸と米を使った何か共通したものがあります。



お米のパッケージにも、フラミンゴとカウボーイが印刷されていますが、この地域のカウボーイはなぜか長い槍のようなものを担いでいます。街の中にもカウボーイの像がたっているくらいですからかなりの歴史があることは間違いありません。ゴッホもアルル滞在中にこの町までやって来ておりこの町の遠景を描いています。



目的地はゴッホの絵にある教会なのです。町の名前サント・マリー・デ・ラ・メールのマリーがMariesと複数形になっていますが、この地方の伝説によると、紀元40年頃、三人のマリアがこの地に上陸します。聖母マリアの妹のマリア、使徒ヤコブとヨハネの母であるマリア、それにマグダラのマリア、さらに、ラザロ、そして黒人の召使サラ達が一緒だったといいます。そこで「海の聖女マリア達」という町の名前になります。やがてこの伝承がフランスじゅうに広がり、彼らに捧げる教会が建てられます。以前にも記述しましたが、フランス中に点在するマグダラのマリア信仰の原点がこの地にあるのです。






教会正面と北側の壁です。なんの装飾もない、どちらかといえば砦のような趣です。ゴッホの絵は実物に比べると塔が何とも高く描かれています。ゴッホの時代以後に破壊されるとすると第一次、第二次大戦がかんがえられますが、どうもそういう記録もないようです。



この教会は12世紀にたてられたもので、後陣にはロンバルディア風の装飾を見ることができます。14,15世紀にかけて海賊の襲撃から守るために外壁が改修され挟間も設けられて城郭のような姿となったようです。

プロヴァンスの旅 サン・ガブリエル礼拝堂

2007-08-22 | 旅行

サン・ガブリエル(St.Gabriel)礼拝堂

サン・レミからアルルに戻る途中、ローヌ河からちょっと入ったところにサン・ガブリエル礼拝堂があります。オリーブ畑の斜面に密にたっていて、今は忘れ去れた礼拝堂です。このあたりは水、陸の交通の交わる要所で古代には大変栄えた一帯であったようです。オリーブの畑を分け入っていくと、忽然と礼拝堂があらわれます。見たとたん、一瞬われを忘れる、そんな礼拝堂です。



建物は12世紀後半のロマネスクといいます。長さ 24m、幅 9.5m、高さが13mの単身廊の礼拝堂で、正面入口の左右にコリント風の柱があり柱頭には植物文様が刻まれています。半円のアーチの中に切妻の破風を作り、更に半円のタンパンをつくるという複雑な装飾になっています。






破風の中にも彫刻が施されています。「受胎告知」と「エリザベートの訪問」です。受胎告知はルネサンス期には絵画の重要なテーマの一つとなりますが、この時期教会の正面を飾る「受胎告知」はあまり見たことがありません。



専門書によると、これは石棺彫刻からの示唆ないし、転用ではないかと言います。素朴で力強い彫刻です。



タンパンを構成する彫刻がこれまた興味のあるもので、左に獅子とダニエルの話が、右側にアダムとイブが刻んであります。いずれも旧約からの引用です。左側の獅子にしても、右側の木に巻きつく蛇の表現にしても、破風の彫刻受胎告知に比べるとさらに時代を感じさせるものですが、資料によりますと、やはりこの部分は古い建物から転用であるそうです。いずれにしても、入口のタンパンの彫刻を見上げ、更に破風の中の受胎告知を見、更にいちばん上部の円形窓を取り巻く、彫刻を見るとキリストの勝利がじわじわと感じられる仕組みになっているといえます。



正面に栄光のキリスト像はありませんが、円形窓を取り巻くように四大福音書のシンボルが刻まれることにより、キリストが正面を向いていることが暗示されています。



丘の斜面に建てられているため、後陣は半分埋もれてしまっているようです。中に入ることはできませんが後陣の小さな隙間から中をのぞく事ができます。何もない真っ暗な石の空間でした。この後陣のたたづまい、屋根をふいた石の積み方、いずれもロマネスクを彷彿とさせる素晴らしいものでした。






プロヴァンスの旅 サン・レミ・ド・プロヴァンス (2)

2007-08-20 | 旅行
この修道院にはロマネスク時代の回廊がついています。





回廊自体は半円形のボールトでささえられ中庭に面した部分は2本の小円柱で支えられたアーチで構成されています。円柱の柱頭には植物文様、動物、人物などいろいろの彫刻が見られます。非常に明るい気持ちのいい回廊です。





これは中庭から鐘塔を見上げたところです。          

回廊のアーチ部分に注目してみると、大きなアーチのひとつに対して、3連の小アーチと円柱が支える構造になっていることが分かります。回廊の内側からでは大きなアーチは見えないように建てられているわけです。
ゴッホもこの回廊にたたずんだことがあるに違いありません。

再び教会の外にでます。



教会の外には、オリーブ畑がありちょうどタンポポの花盛りでした。またゴッホも
同じところを絵にしています。当時の雰囲気がそのまま保存されているエリアです。




              

プロヴァンスの旅 サン・レミ・ド・プロヴァンス(1)

2007-08-14 | 旅行
サン・レミ・ド・プロヴァンス (1) (St.Remy de Provence)

サン・レミと言えばゴッホが入院していた精神病院がある町ということで知られていますが、ここはやはり古代から開けた町です。古代都市グラヌムは3世紀の終わりにゲルマン人の侵入によって破壊され地下に埋没してしまいます。20世紀になって発掘と修復がすすんでいます。



これは霊廟に建てられていた死者への記念モニュメント。方形の台座には浮き彫り彫刻がほどこされておりコリント風の円柱で築かれています。となりには古代都市グラヌムの入り口にあったローマ風のアーチがあるのですが現在修復中で見ることができません。この遺跡からさほど遠くないところにサン・ポール・ド・モーゾール旧修道院があります。旧修道院は12世紀にたてられたロマネスク様式の建物で回廊も保存されています。しかし、大革命のときに精神病院として転用され画家ゴッホも死ぬ前の一年この病院で治療を受けています。



入口からの眺めですが、ロンバルディア風の鐘塔がうかがえます。ゴッホはこの病院に入院中にたくさんの絵を描いています。教会の部分は現在観光用に整備されていますが、建物の一部は老人ホームとして現在も利用されています。



ゴッホの描いた病院の建物。



教会へのアプローチにはゴッホの肖像が置かれています。これはごく最近に作られたもの。



教会入口。



回廊中庭から見上げたところですが、左側の二階にゴッホが入院していた部屋があり当時のように再現されています。写真右側。

プロヴァンスの旅 アルル (4) サン・トロフィーム

2007-08-12 | 旅行
サン・トロフィーム大聖堂 (St-Trophime)

アルルの町の真ん中にサン・トロフィーム大聖堂があります。町の中の遺跡をみてまわりましたが、今日に至るまで古代ローマの面影をよく残しています。大聖堂のあった場所も元は異教の神殿があった所だったようです。



正面から見たところです。この教会の名は、この地方に初めて布教にきた聖人にちなんで、聖トロフィーム(サン・トロフィーム)と呼ばれています。サン・トロフィームは小アジアに生まれ、聖パウロに仕え、この地への布教を命じられてやって来ました。彼は弟子たちを集め、アリスカンで説教をはじめます。ローマで最初にキリスト教がはいってきたときに城外の墓地で説教を始めたという言い伝えに従ったものと思えます。この教会は混乱の時代に破壊され、10世紀になって復活します。



正面には古代風の切妻の張り出しが設けられ見事の彫刻群が前面を覆っています。12世紀にかけて、またゴチックの時代にも改装が加えられていますがロマネスク時代の面影も沢山残されています。



タンパンには冠のキリストが座り、左手に「最後の審判」命の書を持ち、右手で祝福を与えています。この主題こそロマネスク時代に各地で掲げられたものの一つであり、キリストのまわりは四大福音書記者が彫られています。タンパンの下のまぐさ石には12使徒が彫られています。



正面入り口の右側の部分の彫刻です。彫刻の左側が聖パウロ、右が聖アンデレ。反対側の左側には聖ペテロと聖ヨハネの彫刻があります。ゴチックの到来を予告するかのようなリアルな表情です。いずれも怪獣を足元に踏み据えていますが、キリスト教の勝利を謳ってます。





後陣の背後に回廊があります。ロマネスク時代のものとゴチックになってからのものとが混じっています。柱頭にはやはり多様な彫刻が施されています。表の喧噪とは打って変わって静かな回廊です。



中庭から眺めた鐘塔。改装された各々の時代の特徴がうかがえて面白い空間になっています。



古代劇場の遺跡から、サントロフィームの鐘塔を見ることができます。きれいなシェイプです。


プロヴァンスの旅 アルル(3) アリスカン

2007-08-09 | 旅行
あるる(3) アリスカン Alyscamps

ローマ帝国の時代、墓地は都市の城外、城壁に沿ってグルリと作られるか、もしくは都市への入口にあたるメインストリートの両側に作られました。アルルも例外ではなく、古代アルルの入り口にあたるところに、街道の両側に何重ににも石棺が積みあげられました。ここがアリスカンです。



新宿の損保ジャパンの美術館にはゴッホの『ひまわり』といっしょにゴーギャンの『アリスカン』を描いた絵が一点常設展示されています。ご覧になった方も多いと思います。ご承知のように、ゴッホとゴーギャンはわずかの間ですが、ここアルルで共同生活をし絵を作成しています。結末は周知のとおりですが、二人がキャンバスを構えたであろうところも容易に見当つけることができますし、ゴッホの手紙を読みますと、ゴッホはモンマジュールにも出かけています。



サントノレ教会の入り口ですが、ここに至る道の両側、前面の広場には石棺をいたるところに見ることができます。この石棺ですが、ふたがとられてしまっています。ルネサンスの時代にはこの地に埋葬(?)することはすたれてしまったらしく、浮き彫り彫刻のある立派な石棺は持ち去られ、無装飾のものは建材として使われてしまったようです。ではその時に、中にあったであろう遺体はどうなってしまったのでしょうか。エジプトの墓の盗掘の場合も同じことですが、、、死者の扱いはどうなったのでしょうか。キリスト教が社会的にも普遍的なものになってからのことでもありますので、全く理解に苦しむことでもあります。





教会の中にはいります。



教会の中だけあって流石というか立派な石棺が保存されています。



上の部分が削られてしまったものも散見されます。古代には、ここに埋葬されることを願った人がとにかく多かったのです。


プロヴァンスの旅 モンマジュール (2)

2007-08-07 | 旅行
モンマジュール (Montmajour) (2)

教会の外にでます。





教会の外側ですが、まさに城壁そのもの。
この城壁は14世紀に修道院を防御するために造られたもの。



後陣です。この辺り一面は墓場であったところ。周り一面が沼地であった頃、この地は墓地が沢山あったそうです。この教会は墓地の上に立っていることになります。



修道院の建物群からちょっと下がったところに小さな礼拝堂がたっています。サント・クロワ礼拝堂と呼ばれています。サント・クロワすなわち『聖十字架』ということですが、古代ギリシャ建築風の切妻で、プランもギリシャ十字の形をしておりこじんまりとした建築です。





この礼拝堂が建っている基盤はやはり墓地で,石棺が密集していることが見られます。
この礼拝堂はかつて修道院と岩に掘られた廊下でつながっていたといいます。近世に至るまで存在していたらしいですが、取り壊されました。墓地の上に立つ不思議な形をした、葬儀用の礼拝堂です。
大革命の時代には漁師の網干場としてつかわれていたそうで、今は中には何も残されておりません。





ほかには類を見ないロマネスクの独特な礼拝堂です。


プロヴァンスの旅 モンマジュール(1)

2007-08-05 | 旅行
モンマジュール (Montmajour) (1)

アルルの町からほんの数十分、アリーナの上から見渡せたモンマジュールの丘に行きます。この辺は古代から中世にかけて沼地であり、この丘は当時は島でした。さらに死者を埋葬する場所でもありました。そこに修道士たちが集まり10世紀には聖ヴェネディクテゥスの会則に則る修道院が設立されます。中世にかけては異民族の侵入に対する防御施設などが併設されるため城塞のような趣を呈します。



これはアルルのアリーナからも見えていた塔の一部です。
教会は上下二層からなっていて構造は一寸複雑です。「ノートルダム」協会と呼ばれます。





地下(下の部分)の教会です。



教会の南側には回廊が付いています。アーチの中に小アーチが三連で作られているこの地方特有の回廊です。柱頭や付け柱はじめ各所に多彩な彫刻を見ることができます。





動物や怪物の彫刻ですがその意味あいは何でしょうか。




プロヴァンスの旅 アルル(2)

2007-08-03 | 旅行
アルル (2)

アルルには円形闘技場もありますし浴場の遺跡も残っています。
闘技場は現在修復中ですが、いろいろなイヴェントに使われております。闘牛も催されているようですし、私が滞在中も旧ローマ帝国のプロヴィンキアに属する各都市の連携を強める催しがアリーナで開催されており、スペインのバルセロナの代表も来ているようでした。闘技場は中世に軍事施設として利用されたらしくその時代城壁、物見櫓が一部残されています。



アリーナの入り口です。上部の施設は後世のもの。





物見櫓に上ると、アルルの周辺一帯が見渡せます。
フランスは原発大国で、意外なことにわりと町の近くにもあります。政府、専門家が安全というのなら町のそばでも中でも設置したらいいではないかというのが彼らの考えのようで、安全、安全と言いながら、過疎地、あるいは日本海沿岸に集中させている日本とは考え方が根本的に違います。本音はドッチ、真実はドッチなのでしょうか。(もちろんフランスにも原発に反対するグループは存在します)。一方で新エネルギー源の開発にも貪欲で、遠景に風車が並んでいるのがわかるでしょうか。風力発電の施設がそこかしこにたくさん建っています。これも中世以来の風車の伝統でしょうか?





ローヌの流れが見えます。



左奥のほうにお城のような建物が見えますが、これがモンマジュールの丘です。ここに古い修道院があります。ここは古代から中世にかけては島で、その当時このあたりは沼地でした。次はここを訪れます。

プロヴァンスの旅 アルル(1)

2007-08-01 | 旅行
アルル(Aleres) (1)

ようやっと又ローヌ河のほとりに戻ってきました。アルルの町です。アルルはローヌの河口に位置し、地中海の交通の要所として古くから栄えました。ローマ帝国の支配下にあってすでに現在の町並みが形成され、その時代の遺跡の数多くが歴史地区の中に保存されています。ローマ帝国の時代には全ガリアを統治する総督府がおかれていた町でもあります。



ローマ帝国の諸都市と同じように、円形劇場、フォーラム、アリーナが町の中央に置かれていました。







この円形劇場は現在修復中ですが、完成がいつになるのかはわかりません。円形劇場は各地に残されていますし、なかには現役でオペラや仮面劇に使われているところもあるだけに、アルルの町がどのような形で修復するのかみたいものです。
舞台側に残されているのは円柱が2本だけです。それだけに修復するのも難しいのではないかとも思われます。



舞台を構成する礎石です。遠景に見えるのは聖シャルル教会の尖塔。


 
昔フォーラムがあったところ。ほんの一部、残された柱と破風が建物の一部として組み込まれ保存されています。こういう保存の仕方というのも西欧ならではなのでしょうか。建物が基本的に石で作られているところからこういう発想にもなるものと思えます。