サント・マリー・ド・ラ・メール (Stes.Maries de la mer)
アルルから一路南へ地中海に面したサント・マリー・ド・ラ・メールへ向かいます。ローヌ河の河口に広がる広大なデルタ。カマルグ(Camargue)は湿地帯でありフラミンゴをはじめ渡り鳥がやってきて休息するところです。また昔から白馬を生産するところでもあります。白馬ににまたがっているナポレオンの絵はいろいろな画家が描いていますが、その白馬はこの地方から献上されたものだそうです。今も白馬の生産は続いていて、あちこちに牧場が点在しています。
湿地帯ですから、大昔からこの地域は米の産地でもあり、「カマルグ米」、それに「塩」がこのあたりの名物になっています。「カマルグ米」は日本の古代米のような赤米が混ざっているようで地中海一帯では昔から好まれていたお米です。パイェリャはスペインバルセロナあたりの料理ですが、ローマ時代プロヴィンキアと言っていた頃はこのあたりからバルセロナあたりまでをそうよんでいたようで、今でも一体感がかんじられ、食にも海の幸と米を使った何か共通したものがあります。
お米のパッケージにも、フラミンゴとカウボーイが印刷されていますが、この地域のカウボーイはなぜか長い槍のようなものを担いでいます。街の中にもカウボーイの像がたっているくらいですからかなりの歴史があることは間違いありません。ゴッホもアルル滞在中にこの町までやって来ておりこの町の遠景を描いています。
目的地はゴッホの絵にある教会なのです。町の名前サント・マリー・デ・ラ・メールのマリーがMariesと複数形になっていますが、この地方の伝説によると、紀元40年頃、三人のマリアがこの地に上陸します。聖母マリアの妹のマリア、使徒ヤコブとヨハネの母であるマリア、それにマグダラのマリア、さらに、ラザロ、そして黒人の召使サラ達が一緒だったといいます。そこで「海の聖女マリア達」という町の名前になります。やがてこの伝承がフランスじゅうに広がり、彼らに捧げる教会が建てられます。以前にも記述しましたが、フランス中に点在するマグダラのマリア信仰の原点がこの地にあるのです。
教会正面と北側の壁です。なんの装飾もない、どちらかといえば砦のような趣です。ゴッホの絵は実物に比べると塔が何とも高く描かれています。ゴッホの時代以後に破壊されるとすると第一次、第二次大戦がかんがえられますが、どうもそういう記録もないようです。
この教会は12世紀にたてられたもので、後陣にはロンバルディア風の装飾を見ることができます。14,15世紀にかけて海賊の襲撃から守るために外壁が改修され挟間も設けられて城郭のような姿となったようです。
アルルから一路南へ地中海に面したサント・マリー・ド・ラ・メールへ向かいます。ローヌ河の河口に広がる広大なデルタ。カマルグ(Camargue)は湿地帯でありフラミンゴをはじめ渡り鳥がやってきて休息するところです。また昔から白馬を生産するところでもあります。白馬ににまたがっているナポレオンの絵はいろいろな画家が描いていますが、その白馬はこの地方から献上されたものだそうです。今も白馬の生産は続いていて、あちこちに牧場が点在しています。
湿地帯ですから、大昔からこの地域は米の産地でもあり、「カマルグ米」、それに「塩」がこのあたりの名物になっています。「カマルグ米」は日本の古代米のような赤米が混ざっているようで地中海一帯では昔から好まれていたお米です。パイェリャはスペインバルセロナあたりの料理ですが、ローマ時代プロヴィンキアと言っていた頃はこのあたりからバルセロナあたりまでをそうよんでいたようで、今でも一体感がかんじられ、食にも海の幸と米を使った何か共通したものがあります。
お米のパッケージにも、フラミンゴとカウボーイが印刷されていますが、この地域のカウボーイはなぜか長い槍のようなものを担いでいます。街の中にもカウボーイの像がたっているくらいですからかなりの歴史があることは間違いありません。ゴッホもアルル滞在中にこの町までやって来ておりこの町の遠景を描いています。
目的地はゴッホの絵にある教会なのです。町の名前サント・マリー・デ・ラ・メールのマリーがMariesと複数形になっていますが、この地方の伝説によると、紀元40年頃、三人のマリアがこの地に上陸します。聖母マリアの妹のマリア、使徒ヤコブとヨハネの母であるマリア、それにマグダラのマリア、さらに、ラザロ、そして黒人の召使サラ達が一緒だったといいます。そこで「海の聖女マリア達」という町の名前になります。やがてこの伝承がフランスじゅうに広がり、彼らに捧げる教会が建てられます。以前にも記述しましたが、フランス中に点在するマグダラのマリア信仰の原点がこの地にあるのです。
教会正面と北側の壁です。なんの装飾もない、どちらかといえば砦のような趣です。ゴッホの絵は実物に比べると塔が何とも高く描かれています。ゴッホの時代以後に破壊されるとすると第一次、第二次大戦がかんがえられますが、どうもそういう記録もないようです。
この教会は12世紀にたてられたもので、後陣にはロンバルディア風の装飾を見ることができます。14,15世紀にかけて海賊の襲撃から守るために外壁が改修され挟間も設けられて城郭のような姿となったようです。