フォトエッセイ

季節の写真と感想

プロヴァンスの旅 サン・マルタン・ド・ロンドル (2)

2007-09-26 | 旅行

サン・マルタン・ド・ロンドル (2)

後陣をもう一度見ておきます。ロマネスク特有のリズムにあふれた見事な建物
です。



教会を取り巻く城壁のあとなのでしょうか、地下通路で表通りとつながっています。



この町で面白い番地の表示を見つけました。



番地なのか、ブロック表示なのかわかりませんが、それを示す<1>の下に猫の絵をかいたタイルの表示板で、裏の空き地の一角にたくさんの ノラ と思わしい猫がいました。猫の存在が公に認知されているのですかね。フランスで猫を買う人の割あいはどのくらいなのか全く分かりません。アングロサクソン民族は犬を飼う人の比率がものすごく高く、ロンドン在住のときには近所の犬の多さにびっくりしました。オフィスにも犬を連れて行ってOKというところもあったくらいで、仕事で訪問先の事務所に入ったら犬に出迎えられて驚いたこともありました。
 ちなみにイギリスでは犬の検疫その他管理がしっかりしていて、イギリスから日本に犬を連れて帰ってくる場合、ほかの国からの場合よりも日本での動物検疫に費やされる時間は短くて済みます。
 ここの猫族は別に虐待されている風にも見えず、空き地でノウノウとしているようで猫も南仏ふうにくつろいでいるのではないでしょうか。フランス料理のせいかよく太っています。



この町の、民家の入り口。さまざまのスタイルがあります。
このドアは『公証人』の人の家(事務所)。公証人を示す、EC共通?の表示がドアの片側にあります。役柄を示す、立派な入口。ドアのまわりの作りはもちろん中世のもの。





さあて、この二つは何でしょうか。商売を表すものではないでしょうし、扉の飾りにしては異質に思えます。ドアをノックして住民に確かめたいという衝動も起きます。この手の飾り(いちおう飾りとしておきますが)は今回訪問した小さな村でたまに目にしたものです。
これも南仏特有なものでしょうか。パリではこういういりぐちには出くわさないのは確かです。

さて長く続いた南仏、プロヴァンスのレポートも今回で終わりです。サン・マルタン・ド・ロンドルを後にして、モンペリエ(プロヴァンス風にいうとモンプリエだそうですが)の町をぬけそこの空港からパリ経由でかえってまいりました。
一般旅行社の扱う観光ルートから外れた旅は予期せぬことがいっぱいあってほんとに楽しいものです。来年春にはこの続き、ラングドックを回ることを計画しております。南仏を回るのは込んでいるヴァケーションの時期をずらして、春先にあるいは初冬に訪れるのがいいのではないでしょうか。


プロヴァンスの旅 サン・マルタン・ド・ロンドル (1)

2007-09-23 | 旅行

サン・マルタン・ド・ロンドル (St-Martin de Londre) (1)

サン・ギレーム・ル・デゼールの村を後にしてサン・マルタン・ド・ロンドルに向かいます。いよいよ今回の旅の最後の訪問地になります。
サン・ギレーム・ル・デゼールより東北の位置に車を走らせること25km。この地も正式な行政区は現代ではラングドックであってプロヴァンスではありません。村は砦というか城壁というべきもので囲まれています。なんでも「宗教改革」の時にプロテスタントの信徒の襲撃を防ぐために作られたといわれています。



中心部は二重の城壁に囲まれており、これを抜けると民家と踵を接するように教会の広場にでます。外側の城壁は14世紀、内側の城壁は12世紀、そして教会は11世紀末の建設といいます。



翼廊は小さな円形、後陣は大きな円形になっている三つ葉型のプランです。入口は南側の翼廊に接して作られていますが、この部分は12世紀の建設、身廊、翼廊、後陣は11世紀末のもの。



右側が教会の入り口。民家とほとんど接するように建てられています。



教会入口の横が南側の翼廊です。後陣と一体をなす外壁はロンバルディア様式の装飾で彩られ、積み石も美しく端正な建物となっています。

この地の名前ロンドルとはオック(Oc)語で沼沢地のことだそうです。オック(Oc)語はむかしのプロヴァンス一帯で使われていた言語(中世フランス語のひとつ)です。ちなみにパリの辺りの北部の言葉をオイル(Oil)語といい、いずれもウイ(oui = 英語のyes )を オック、オイルといった違いで地域が分類されています。中世にはオック語圏が優勢であったらしいのですが、近世になるにつれてオイル語でフランスが統一されていきます。国家を代表する権力がパリにあったからでしょう。日本でも方言が薄れていくのと同じです。現地でオック語の詩を聞きましたが、意味は勿論分かるよしもないのですが、何かイタリア語の詩に近いものを感じました。現代にいたってかってのオック語圏の人が集まって、昔の言葉、文化を復活させようという運動が起こっています。

いずれにしても、オック語からこの地が沼沢地であったことが分かりますが、現在でも鄙びた村で人の姿をあまり見かけません。



後陣にある祭壇は前ロマネスク期のもので、柱は柔らかな線で美しい空間を作り出しています。一角で村人たちが賛美歌を歌っておりホットした時間を楽しむことができました。曲線の調和が見事な空間です。



柱の一角には年代を示す彫り物がありますが、彫られている年代からいって修理をした年代を示すものと思われます。翼廊と身廊の交差部には塔があったとのことですが今は失われていてありません。

プロヴァンスの旅 サン・ギレーム・ル・デゼール(3)

2007-09-18 | 旅行
サン・ギレーム・ル・デゼール (3)

この教会にも回廊が付いています。南側の側廊から回廊に出ることができます。この回廊は近年の修復で11世紀の姿をとりもどしましたが、大半が破壊されてしまっています。



手前の空間の部分から右手の壁にかけてかつて回廊があり、12世紀にはその上部にも空間がありました。



破壊されていた部分はロックフェラー財団に売却され、いまはニューヨークのメトロポリタン美術館に再建、展示されています。ニューヨーク、マンハッタンの北の外れ、ジョージワシントン橋を超えてさらに北に向かったところ、ブロンクスが目の当たりに見える、フォート・トライオン・パークにメトロポリタン美術館の分館クロースターズ(The Cloisters)があります。その名前のとおり、ヨーロッパ各地から集められた資材で修道院、回廊が再建されています。アメリカにあるロマネスク空間です。ニューヨークに行かれたらぜひ訪れてください。



左側の一階回廊部分と二階部分が対称的に右側の壁の部分にについていたということです。もう一度表に回ってみます。



広場から見える背後の岩山の上のほうまでかつての建築物の一部が残っているのが見えるでしょうか。



後陣です。大きな後陣の上部を飾るブラインドの窓、その上に見える小さなアーチが連続するフリーズ、小後陣の窓を飾る縦の帯、いずれも初期のロマネスク建築に特徴的なロンバルディア風の装飾です。最上部に穿たれている十字架と丸窓は内部で見た時には、すばらしい光となっていたところです。



帰りは上ってきた道とは違う、川をはさむ反対がの道を下っていきます。教会の後陣が見事です。





初期ロマネスクの雰囲気を伝える町並みです。

プロヴァンスの旅 サン・ギレーム・ル・デゼール (3)

2007-09-14 | 旅行
サン・ギレーム・ル・デゼール(3)

教会の後陣が見えるとほっとするのは、中世の旅人も同じであったに違いありません。教会を取り巻く石の壁の一部に旅人のための泉が設けられており、今もこんこんと水があふれています。サン・ティアアゴ巡礼の道を印す、ホタテ貝も刻まれています。



なおも昔の道を進むと教会に出ることがて来ます。






教会の前は意外と広い広場になっていて、プラタナスの老木が大きく枝を広げています。回りの家々もしっとりと落ち着いたたたずまいで、年代を感じさせるつくりです。前述しましたが、この修道院の創始者ギレームはメロヴィング朝の血を引く家系で軍功も著しいものがありました。しかし、最後には修道士となって隠棲するわけですが、それがためか生涯が物語になり、多くの人の関心を集めるようになります。発展に従って、いろいろ整備されていったようで、前ロマネスクの様式、ロマネスク時代の部分がまじりあっています。






正面から内部に入ると三廊式の身廊が開けます。高さは16mと壮大ですが装飾はなく簡素で心がまっすぐに内陣に向かうようになっています。
昔は信者の人しか中には入れず、信者になろうとする人はいったんナルテックスと言われる入り口部分の部屋(写真では明かりのついているところ)で洗礼志願をし待っていなければなりませんでした。中世このあたりは『異端カタリ派』との闘争があったところで、ラングドック一帯はアルビジョワ十字軍が派遣されすさまじい内戦があったところです。このナルテックスにも『カタリ派』からの転向者が聖木曜日に「許し」をうけるため詰めかけたといいます。



後陣は上部の十字架と左右の窓からの光そして祭壇の後ろの窓から入る光しかありせんので気分が落ち着きます。この地下の墳墓には聖遺骨がって巡礼者はそこをめぐりましたが12世紀になってそれは上の祭壇に移されました。

プロヴァンスの旅 サン・ギレーム・ル・デゼール (2)

2007-09-11 | 旅行
サン・ギレーム・ル・デゼール (2)

エロー川をしばらくさかのぼると、この川の支流にあたるジェローヌの谷が現れます。この谷の両岸に細くへばりつくようにサン・ギレームの村が見えてきます。この村の名前ともなった、ギレームはシャルルマーニュの従兄弟でトゥールーズ伯tとアキテーヌ候を兼ねる有力な武人でした。イスラムとの戦いで戦訓をあげバルセロナの奪回にも貢献しています。



村への入り口です。ここからロマネスクの村がはじまります。
さてその戦功著しいギレームでしたが、806年突然すべての栄光をなげうってジェロームの谷に建てた修道院に隠棲してしまいます。その原因は最愛の妻の死であったとも、アニアヌの聖ヴェネディクトゥスの勧めであったともいわれています。ギレームはこの修道院にて没しますが、イスラムを打ち破った英雄としてロランの詩にうたわれまた信仰者として崇められるようになります。



道の幅と言い建物と言い中世そのもの。もちろん車などはいれません。車は村の裏手の新しく作られた道を通ります。



よく見るとシャボンを売る店のようなのですが、果たしこれは中世以来でしょうか?



こちらは???
サントン人形を作る店。プロバンス地方のクリスマスの飾りつけの人形です。





坂道を登っていくと突然サン・ギレームに捧げられた旧修道院教会の後陣が姿を表します。

プロヴァンスの旅 サン・ギレーム・ル・デセール (1)

2007-09-08 | 旅行
サン・ギレーム・ル・デゼール (St.Guilhem Le Desert)


アルルを発って西に、サン・ギレーム・ル・デゼールに向かいます。アルルからサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路にある村でその昔は巡礼でにぎわいました。今は高速道路でモンペリエまで行きそこから北へと向かいます。厳密にいえばこの村があるのは、プロヴァンスではありません。今の行政区ではラングドックに属します。



この村(町?)は現代から置き去りにされたようなところで、数々の伝説に彩られたロマネスク時代がそのままそっくり残っている村です。村全体が世界遺産に登録されています。モンペリエから乾いた荒野を北へ向かうとローエ川の岸に出ます。
川沿いを進むとやがてサン・ギレーム・ル・デゼールの村の入口ともいうべき『悪魔橋』に出ます。この橋は12世紀にたてられた橋で、近代までつかわれてきましたが、この橋の上流に新しい橋がかけられ今『悪魔橋』は車で渡ることはできません。



全く荒涼とした渓谷で村の名前(デゼール)もそこからつけられたのかもしれません。手前にかかるの橋が中世に建てられたもの、上流に新しい橋が見えます。




新しい橋からの眺めです。さて、『悪魔橋』という名のいわれですが、中世の時代の土木工事は現代の工事とは比較にならないほどの難工事でした。特に橋を架けるという工事は大変で、足場の仮設にしても資材の運搬にしても平地で建物を建てるのとは様相が異なります。何度も橋げたが壊れたり、落ちたりします。これは「悪魔」の仕業に違いないということで、この橋を設計した建築家が「悪魔」と契約を結びます。「工事が無事に完了したときには、最初に渡ったものを生贄として悪魔に差し出す」という契約です。「悪魔」はこの契約を受け入れ橋は無事に完工します。さて約束通り最初に渉るのはと村人たちが心配していたところ、渡ったものがいました。それは猫だったそうです。この村に伝わる伝説です。
 調べたわけではりませんがこのように「悪魔橋」という名の橋はフランス中に結構存在しているとのことです。ちなみにロマネスク教会の中の彫刻にしても、「悪魔」が頻繁に現れるのはフランスならではのこと。
この『悪魔橋』よくみると橋げたのアーチが不揃いで、さぞかし難工事であったことがしのばれます。やはり、「悪魔」との契約が必要だったのでしょう。



エロー川の眺めです。
橋を渡ってサン・ギレーム・ル・デゼールの村に向かいます。村へはもうすぐです。

プロヴァンスの旅 サン・ジル (3)

2007-09-04 | 旅行

サン・ジル (3)

教会の内部は建設当初のものは破壊されてしまい、残念なことに当初の面影は全く見ることができません。ただ、内陣地下のクリプトには古代の石棺やロマネスクの柱頭などが展示されています。



後世にたてなおされた内部







地下のクリプトです。石棺にはサンティアゴ巡礼のシンボルであるホタテ貝と杖がささげられています。



教会の裏側にまわると、建設当初の後陣を構成していたと思われる壁が一部のこされていてかつての栄光をしのぶことができます。

プロヴァンスの旅 サン・ジル(2)

2007-08-30 | 旅行
サン・ジル (2)

後世になって破壊されたサン・ジル教会ですが、正面入り口のみにはロマネスクの彫刻が辛うじて残されています。建物上部が不自然な形で切れているように見えるところ、身廊がアンバランスに建てられているところなどから昔日の面影をしのぶことも難しいのですが、正面の入口を彩る彫刻群をみてみましょう。



正面タンパンには荘厳のキリストと4福音書記者のシンボルが刻まれています。タンパン下のまぐさに刻まれているのは最後の晩餐です。ここも一部破壊されてしまっています。



正面入り口の左側を飾る彫刻。左側が銀貨30枚を受け取るユダ。右側に神殿を清めるイエス。



正面入り口の右側です。左側に、ピラトの審問とキリストの鞭打ち。右側が十字架を担うキリストの像。



正面左側の入り口。タンパンにはマギの礼拝。その下にはキリストのエルサレム入場が彫られています。



細かいところを見ます。これも残念ながら完璧ではありません。



右側の入り口。タンパンにはキリストの磔刑。その下のまぐさには左側が香油を買う女たち。右側が墓を訪れる聖女たち。

詳細を見てみます。




こうしてすべての彫刻群を見渡すと、キリストの生誕から磔刑、復活までのストーリーがちりばめられていて、これを見上げる巡礼たちを癒し続けていたことが見て取れます。

プロヴァンスの旅 サン・ジル (1)

2007-08-28 | 旅行
サン・ジル ( St.Gilles ) (1)

中世のある時期、突如として巡礼ブームが巻き起こります。巡礼の中には、自分の過ちを償いに行く者もいましたが、大部分は整地を訪れ聖人の聖遺物に目の当たりに接し聖人の墓所に跪きたいと願う素朴な信者たちでした。聖地へ至る道のりは長く危険と苦痛に満ちており、それだけでも深い信仰がなくしては旅たてないものでした。巡礼は最大の聖地である、エルサレムへというものが極めて初期からはじまりましたが、中世にイスラム世界との確執から何度も十字軍が派遣されるに及んでここへの巡礼は最も危険なものとなってしましました。
 エルサレム訪問にとってかわったのがローマと使徒たちの墓を訪問するこで、この旅が民衆を魅了しました。

そしてもう一がはサンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン、ガリシア)への巡礼です。12使徒のひとり大ヤコブは主の昇天後ユダヤとサマリアの地を伝導していましたが、その後主のみ言葉を広く広めるためにスペインに渡ります。しかし成果が上がらず、この地で得たわずかな弟子を残してユダヤへ戻ります。そしてユダヤの地で宣教をしているとユダヤ人たちが押しかけ、十字架に架けられたイエスの教えを説くのはけしからんと騒ぎ出し、けっきょく時の王ヘロデによってつかまり殉教することになります。ヤコブの弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、夜、闇にまぎれてその遺体を持ち出し船に乗せて、埋葬の場所は神の思し召しのままにゆだねることにしました。自分たちも聖遺体と一緒に乗り込んだが進路は風任せにし舵を一切操らなかったそうです。すると、主のみ使いがスペインのガリシアの地に導いていって一同はルパの王国に上陸しました。ルパとはこの地を治めていた女王の名前です。弟子たちは聖遺体を舟からおろし大きな石の上に置きました。驚いたことに、石は聖遺体の重みで蝋のようにくぼみ、棺の形になってしまいました。弟子たちは驚いて、女王ルパの前に伺候して埋葬に好適な土地を分け与えてもらえるよう頼みましたが、異教徒であるルパには聞き届けられません。女王は何かにつけて、使徒たちに害をくわえ牢に入れたりしますが、その都度、キリストの威光によって使徒たちは助けられ生き延びます。最終的に野牛の曳く車に乗せられた、ヤコブの遺体と石棺が案内もつけずに、自分の宮殿にやってくるのを見た女王はびっくりして、みずからキリスト教徒に改修し信仰を受け入れました。さらに弟子たちには望むもの何でも与え、宮殿は聖別して聖ヤコブ教会とし、豪華な装飾を巡らしました。こうして女王は善行のうちに生涯を終えました。(黄金伝説)
 たち消えになりそうだったこの伝説ですが、830年になってイタリア司教がガリシアで聖ヤコブの墓を発見したという噂が広がり九世紀からは多くの人を引き付けるようになります。十二世紀はじめともなると巡礼たちの行列が道にあふれるようになったそうです。そして早くも「サンティヤゴ巡礼案内」書も登場します。いまでもこの道をたどる人はあとを絶ちません。

『サンティヤゴ』への道は四通りあります。



アルルを起点とする道、危険に満ちたセヴェンヌの道として知られる、ル・ピュイを起点とする道、第三はヴェズレーを起点とし、第四はパリからはじまりオルレアンを通って南下する道です。現代の旅行者たちにとってもコンポステーラへの道をたどることは詩的なことでもあり、サン・ジャックの十字架、サン・ジャック道、サン・ジャック門、サン・ジャック礼拝堂とゆかりの名前に浸ることになります。
サン・ジャック即ち聖ヤコブであり、スペインに入ればサンティヤゴということになります。

そしてこの四つの大きな街道筋の主だった宿場にはクリュニー系の修道院があり、それぞれファサドを埋め尽く華麗な彫刻で、旅人達をいやし続けたのです。スペイン側に入ると道は一本にまとまりますが、やはりクリュニー派の修道院が街道上に点在しております。



サン・ジルはアルルからはじまる南のルートの起点にありこの教会は11世紀から12世紀にかけては大変に荘厳なものであったらしい。というのもこの町は十字軍が出港する港町であり、十字軍こそクリニュー修道会の大きな理念の一つであったからです。地中海の交易の要所でもあったこの町は最盛期には4万人を超える人口があったようですが、13世紀以降アルビジョワ十字軍、その後
16世紀のユグノー戦争で教会が焼けおち、現在残るものはほんの一部わずかな残滓が簡単に修復されているにすぎません。しかしながら正面を飾る彫刻群はロマネスク当時の姿をとどめています。




プロヴァンスの旅 サント・マリー・ド・ラ・メール (2)

2007-08-26 | 旅行
サント・マリー・ド・ラ・メール (2)

教会内部に入ります。単身廊のロマネスクの空間が広がっています。この教会はロマ達の聖女サラが祭られている所でもあります。



時代を感じさせる空間です。正面には祭壇があるわけですが、この後陣の下、地下のクリプトに聖女サラが祭られています。



三人のマリア達といっしょにこの地に上陸した黒人の召使サラはロマ(Romany=ジプシー)達の守護神、聖女として崇められています。その聖遺物が収められているこの教会はロマ達がヨーロッパ中から巡礼にやってきます。地下にはたくさんのロウソクが灯されていてロマ達の信仰の厚さを物語っています。

この教会では屋根の上にのもぼることができます。ゴチックの教会では鐘塔に登ることができる教会もありますが、ロマネスクの教会で屋根に登ることができるのは海賊対策で城壁のように改造された成果(?)でしょうか。



左の写真が西側、教会正面の塔、右側が後陣の上にそびえる鐘塔。



屋根の上に登っている人がいます。よく見ると、この屋根は分厚つく切り出した石でふかれている事が分かります。



屋根の上に上ると眼下に町並みがひろがっています。白い壁とオレンジ色の屋根というこの地方特有の取り合わせが印象的です。



南側にはもうまじかに地中海が広がっています。