台湾の女性日本画家生誕100年記念 陳 進展 渋谷区立松濤美術館 5/14 まで
「絵画」は「絵画」を超えて 展 ギャラリーNATUKA 銀座 5/20まで
片山雅史・千々岩修・藤田邦統・母袋俊也
日本植民地支配下の台湾における、台湾人による日本文学者の話を以前聞いていことがあった。その時代の台湾の美術作家について全く知らなかったので、自分が不勉強であると思ったのを記憶している。今回歴史的に興味を持って見させていただいた。陳進は、1907年台湾の裕福な家庭に生まれ東京女子美術学校に留学。鏑木清方にも師事したという。結婚し、妻、母、家庭人としても画業を続けたという。それだけの情報で松濤美術館にでかけた。
正直な感想としては、日本画を学びそれと中国の伝統的的絵画である国画の間で揺れ動いた作家の苦悶はわかるが、1934年制作の「合奏」は若いが完成した筆力と女性が身につけている宝石の(多分部分的に本物が埋め込まれているかと思う)絵における扱いなど、また、演奏している二人の様子を一瞬にとらえたところに圧倒されるが、残念ながら、後の絵にはあまり共感できなかった。特に風景画はつまらない。鳥とか、植物の絵には秀逸なものがある。色や、絵の具の使い方もどこか肉迫してくるものがある。また、動きのあるものをとらえることにたけた人だとも思える。正直いって、日本画なんか学ばないで油絵とか、写真とかやっていたらその方がもつと才能を開花できたかもと思えた。実際に本人のポートレイトが並んでいたけど、様々な角度で写真に撮られるのは、その時代にあっては面白い感覚だ。まるで、アニメのサザエさんみたいな撮られ方を自らしているのだから、この感覚はかなり先鋭的だったのになぁ。
その足で、銀座のギャラリーなつかに、毎日新聞美術記者の石川健次さん企画の-「絵画」は「絵画」を超えて-を見に行った。葉書には「イメージの探求と生成を矛先に捉えれば、素材や技法などあらゆる工夫、行為は脇役、また黒子と呼べるかも。日本画、洋画あるいは平面と多様に言い繕う呼称はあるけれども、色と形が自在に織りなす表層と思えば、テレビのチャンネルのようにチャンネルを切り替えて楽しめぬわけでもないのも自明。ホントに味わい尽くしたいのは、あらゆる工夫、行為の果てに現れるイメージ、表層なんだし・・・・・。」とある。
リモコンをザッビングする時に無意識の中に飛び込んでくるのが、これらの絵画なのだろうか。確かに、それぞれに画力のある作家たちだし、作品としても興味深いものがある。それらを混在させて展示したのは意図したものだろう。だが、ここは、画廊であって、TV画面に無意識に流れる「画像」を止めるようには「絵」を見ることはしにくいのではないだろうか。申し訳ないが、その意味ではこの空間構成の悪さは、作品を殺しかねないし、むしろ展覧会という限られた空間をもつ場の意味を無くしてもそこになんの意味も生み出さないということには気がつくべきではないかと思うが。画廊で、絵を殺しても意味ないんじゃないのかなぁ。
帰宅して、たまたまTV東京「美の巨人たち」で高島野十郎の番組をやっていたのでみた。
以前にたまたま福岡県立美術館の多分「地元の作家たち」という常設企画のコーナーでこの作家のロウソクを描いた絵をみたことがあり、作家の名前は不勉強で知らなかったがその印象が強烈だった。他の作品も見てみたいと思っていたのが、TV番組での出会いとなった。高島は、1975年に八十五歳で千葉の柏市(当時は農村)の自分で建てた掘建て小屋みたいなアトリエで亡くなっている。(晩年の写真もかなりダンディだ。)久留米の素封家の家に生まれ、帝大農学部を出て絵画については独学。生涯仙人のような生活をし、画壇とも縁ももたずに時々生活の糧を得るため個展を開いたくらい。晩年は、自給自足の生活をして家族ももたずに画業に専心したという。彼は徹底的な「写実」を求めた。その風景などに特徴があるのは、影が見えないこと、つまり画面の全てに「光」があたった「絵」であるのだ。そういえば、ロウソクの絵も暗いはずなのに不思議にこちらにむかってくる「光」の強烈さがあった。最晩年は太陽や月の絵を描き、闇を描きたいとも言っていたという。目をつぶって見える光の残像を描きたいとも・・・。面白かったのは、カビがはえても、焼けても修復可能だったのがキャンバスの裏にも何重にも絵の具を重ねていたからだとか。つまり、半永久的に残る絵を求めていたともいえるのかも。風景や、ロウソクの光や、太陽の光だって、残像だって「一瞬」のものなので、それを「永遠」に残そうとしたのが、画面に力強い印象を与えていたのかということだ。私にとって野十郎の作品は、これまで一点しか見たこともないが、何か心の残像に、まさしく目をつぶって見える光の残像のような記憶に残るものだ。
「絵画」は「絵画」を超えて 展 ギャラリーNATUKA 銀座 5/20まで
片山雅史・千々岩修・藤田邦統・母袋俊也
日本植民地支配下の台湾における、台湾人による日本文学者の話を以前聞いていことがあった。その時代の台湾の美術作家について全く知らなかったので、自分が不勉強であると思ったのを記憶している。今回歴史的に興味を持って見させていただいた。陳進は、1907年台湾の裕福な家庭に生まれ東京女子美術学校に留学。鏑木清方にも師事したという。結婚し、妻、母、家庭人としても画業を続けたという。それだけの情報で松濤美術館にでかけた。
正直な感想としては、日本画を学びそれと中国の伝統的的絵画である国画の間で揺れ動いた作家の苦悶はわかるが、1934年制作の「合奏」は若いが完成した筆力と女性が身につけている宝石の(多分部分的に本物が埋め込まれているかと思う)絵における扱いなど、また、演奏している二人の様子を一瞬にとらえたところに圧倒されるが、残念ながら、後の絵にはあまり共感できなかった。特に風景画はつまらない。鳥とか、植物の絵には秀逸なものがある。色や、絵の具の使い方もどこか肉迫してくるものがある。また、動きのあるものをとらえることにたけた人だとも思える。正直いって、日本画なんか学ばないで油絵とか、写真とかやっていたらその方がもつと才能を開花できたかもと思えた。実際に本人のポートレイトが並んでいたけど、様々な角度で写真に撮られるのは、その時代にあっては面白い感覚だ。まるで、アニメのサザエさんみたいな撮られ方を自らしているのだから、この感覚はかなり先鋭的だったのになぁ。
その足で、銀座のギャラリーなつかに、毎日新聞美術記者の石川健次さん企画の-「絵画」は「絵画」を超えて-を見に行った。葉書には「イメージの探求と生成を矛先に捉えれば、素材や技法などあらゆる工夫、行為は脇役、また黒子と呼べるかも。日本画、洋画あるいは平面と多様に言い繕う呼称はあるけれども、色と形が自在に織りなす表層と思えば、テレビのチャンネルのようにチャンネルを切り替えて楽しめぬわけでもないのも自明。ホントに味わい尽くしたいのは、あらゆる工夫、行為の果てに現れるイメージ、表層なんだし・・・・・。」とある。
リモコンをザッビングする時に無意識の中に飛び込んでくるのが、これらの絵画なのだろうか。確かに、それぞれに画力のある作家たちだし、作品としても興味深いものがある。それらを混在させて展示したのは意図したものだろう。だが、ここは、画廊であって、TV画面に無意識に流れる「画像」を止めるようには「絵」を見ることはしにくいのではないだろうか。申し訳ないが、その意味ではこの空間構成の悪さは、作品を殺しかねないし、むしろ展覧会という限られた空間をもつ場の意味を無くしてもそこになんの意味も生み出さないということには気がつくべきではないかと思うが。画廊で、絵を殺しても意味ないんじゃないのかなぁ。
帰宅して、たまたまTV東京「美の巨人たち」で高島野十郎の番組をやっていたのでみた。
以前にたまたま福岡県立美術館の多分「地元の作家たち」という常設企画のコーナーでこの作家のロウソクを描いた絵をみたことがあり、作家の名前は不勉強で知らなかったがその印象が強烈だった。他の作品も見てみたいと思っていたのが、TV番組での出会いとなった。高島は、1975年に八十五歳で千葉の柏市(当時は農村)の自分で建てた掘建て小屋みたいなアトリエで亡くなっている。(晩年の写真もかなりダンディだ。)久留米の素封家の家に生まれ、帝大農学部を出て絵画については独学。生涯仙人のような生活をし、画壇とも縁ももたずに時々生活の糧を得るため個展を開いたくらい。晩年は、自給自足の生活をして家族ももたずに画業に専心したという。彼は徹底的な「写実」を求めた。その風景などに特徴があるのは、影が見えないこと、つまり画面の全てに「光」があたった「絵」であるのだ。そういえば、ロウソクの絵も暗いはずなのに不思議にこちらにむかってくる「光」の強烈さがあった。最晩年は太陽や月の絵を描き、闇を描きたいとも言っていたという。目をつぶって見える光の残像を描きたいとも・・・。面白かったのは、カビがはえても、焼けても修復可能だったのがキャンバスの裏にも何重にも絵の具を重ねていたからだとか。つまり、半永久的に残る絵を求めていたともいえるのかも。風景や、ロウソクの光や、太陽の光だって、残像だって「一瞬」のものなので、それを「永遠」に残そうとしたのが、画面に力強い印象を与えていたのかということだ。私にとって野十郎の作品は、これまで一点しか見たこともないが、何か心の残像に、まさしく目をつぶって見える光の残像のような記憶に残るものだ。