お寺のこと

真宗大谷派延慶寺の住職です。

開教寺院

2009-05-16 23:24:14 | 住職の思ったこと
私が住職をしているお寺は所謂、開教寺院である。開教寺院というと、東京教区以外の地域から来た真宗僧侶が建てた新しいお寺、建物も荘厳もミニマムでかろうじてお寺の仲間入りを果たした寺というイメージがある。事実その通りである。既存の寺院と比べるまでもなく御堂、庫裡、境内の区別も出来ないオールインワンの建物である。お寺っぽくない外観の寺の僧侶が宗門でいう離郷門徒を対象に開教しているのが開教寺院である。一方、代々の門徒を丁寧に教化されているのが既存寺院なのであろう。教化の対象が開教寺院と既存寺院が異なっていることによって、ある意味上手く住み分けているようにも思われる。そして「開教は開教寺院の役割」というような図式ができてしまったようだ。たしかに開教とは新たな地域・対象への教宣であり教化である。しかし真宗の開教はそのことだけを指してはいまい。親鸞聖人の念仏の教えはいつも私たちから、聞法道場たるお寺から開かれ発信されなければならないからだ。言い換えれば真宗寺院はみな開教寺院であったはずだ。「開教の質をもった教化」という言葉がある内局の時に発せられたことを思いだす。
都市部では門徒の寺離れが起きている。既存寺院に限らず開教寺院でも少なからずそのことを意識させられる。核家族化による聞法相続の危うさ、離郷二世門徒(実態)の更なる宗教離れ、これが事実、開教の現場である。
七月からは東京はお盆である。「お盆は13日にお願いします。」
「日曜日の午後1時に。」「その日が無理なら今年はキャンセルします。」「霊園でお坊さんを紹介して貰います。」こんな言葉が電話の向こうから聞こえてくる。家人は自分たちの都合に合わなければ寺を必要としないか、もしくは他を求める。悪気は無いのだが簡単に関係を絶ってしまうのである。真宗は先祖供養を旨としないことを常々折に触れて話をしてきても家人にとってはどうしても先祖供養、故人への供養となってしまう。供養ということがが主体になれば、家人の満足のゆく形がそれぞれの供養となってくる。お経は故人への捧げものとなってしまう。開教はこの現実とのぶつかり合いである。真宗が壊れてかけてゆく、だからこそ開教が使命となってくる、真宗が時代に求められている。