お寺のこと

真宗大谷派延慶寺の住職です。

幸せに気づかない不幸

2007-01-30 01:13:33 | 住職の思ったこと
昔、♪幸せなら手をたたこ♪という歌がありました。
また、『手と手を合わせて幸せ』というテレビのコマーシャルもありました。何故かしら、幸せを感じ、そしてその気持ちを表現する身ぶり手振りとして、私たちは思わず胸の前に手を持っていき手を合わします。「ああ、よかった」「うれしい」「ありがたい」とか、ほっとしたり、喜んだりしたときに自然とそうなるようです。
「幸せだから手を合わせるのではない。手を合わせるから幸せなのだ。」という言葉を聞いたことがありますが、「幸せ」と「手を合わせる」の言葉が入れ替わっただけで全く意味が違ってしまいます。
 私たちはふだん、喜びの状態のときに幸せを感じ手を合わせますが、そうでないときにはなかなか手を合わそうという気にはなれません。時として手を合わせる場合はたいてい、何か願い事をしたり、祈ったりとか、私たち自身のはからいの中で思いを遂げたいときにのみ手を合わすという、まことに手前勝手な場合だけになってしまうのが常であります。
 ここでひとつ気がつくことは、比較的自分の思うとおりに生きていると思いこんでいるときに「幸せ」を感じ、思うとおりにいかないときには「幸せ」を願うという、自分にとっての今を自分の価値観や都合で決めつけてしまっていることです。ですから、私たちの思いとしての「幸せ」は一時なものであったり、まことに不安定なたよりない「幸せ」であったりするわけです。
 概して、私たちの人生はなかなか自分の考えているような訳にはいきません。夫婦の間で、親子の間で、職場で、学校で、社会で、私たちは好むと好まざるに拘わらず、人と人との関係の中で生きています。そして、人と人との係わりの中で自分のよりどころというか、身の置き場所を求めているわけです。自分の周りが決して一人でない、多くの人に囲まれて生きているのにも拘わらず、いつも自分のことだけを、自分の価値観のみを優先させてしまう、そんな独りよがりの生き方をしていないでしょうか。人との交わりがなければ生きてゆけない私たちであるのに。
 夫によって、妻によって、子どもによって、家族、社会によって、互いに支え支えられ、我慢しもらい、許してもらい、生かされて生きている私たちではないでしょうか。「幸せ」とはひょっとしたら、個人の都合で変わってゆくものではなくて、誰もが、平等に感ずることのできるものではないでしょうか。生かされて生きている「いのち」への感動、喜びは、いのちある者すべてに共通のものだから。「幸せ」の中にいるのに、仮想の「幸せ」を探している私たち、本当の「幸せ」に気がつかない私たちは、ある意味では「不幸」かもしれません。
 何気ないときにでも自然に手を合わせられる、そんな喜びの世界を感じたいものです。