お寺のこと

真宗大谷派延慶寺の住職です。

将来の設計、死後まで

2009-02-03 22:49:23 | 住職の思ったこと
   (将来の設計、死後まで)
そんな見出しが新聞に載っていたことを思い出した。法事の席でよく話題になるのが自分の死後、仏事を子供たち(子供といっても40、50歳が大半だが)が継承してくれることに期待が持てない、だから出来るだけ子供たちが何もしなくても済むように事前に親が準備し、また負担が少なくていいように、それはそれは親バカと言えるほど考えているのだということである。そこには子を思う親心と、老いて子供の世話になることへの遠慮もあるのだろう。子供に迷惑をかけずに死んでいくことが親のあるべき姿だと思っている。
しかし本来仏事は継承したものが責任をもって行うものである。継承するのは家督だけではない。いのちをバトンタッチされているのだ。一番大切なものを継承しているのだ。家督の継承だけであるなら次を担う者がどのように相続し、どのような価値観で物事を判断してもそれはそれでも構わない。いのちの相続は違う。絶対的な相続である。私たちはいのちの相続が見えていない、物や財産の相続しか見えないのだ。仏事はそのいのちの相続を確認し、いのちの見えない生活に安寧している自身を恥ずかしく申し訳ないと気づかされる場である。年老いた親はいのちの相続に誇りを持つべきだ。老いて子供の世話になり、迷惑をかけることを卑下しなくてもいいのだ。親として本当に伝えるべきことを毅然と示すことが親としての最後の責任であろう。そうでなければ死後の心配に追われる最後になりかねない。子供は本当の大人に成りきれない永遠のチルドレンとなる。
「迷惑をかけてお世話になるけどお願いね」そう言い切りたいものである。生まれてから死ぬまでずっと人のお世話になっているのが私たちだから。我慢してもらい、許してもらい、生かされている私がそこにいる。