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同じ神なのに悪魔についての概念が違うという点

2022-01-21 21:41:59 | 終わりの時代

私はユダヤ教イスラム教について、ほとんど知識がありません。

ただ、違う意見や観点を頭から否定しないので、自然に何かを学び取る洞察力がついて来ました。

読んだことはありませんが、カッバーラ、タルムード、ゾハールなどのユダヤ教典を頭から否定しないようにしています。

エノク書もユダヤ教の外典であり、他にも参考になる書物が存在します。

また、ユダヤ教では、輪廻についてキリスト教以上に積極的に話されています。

キリスト教にも輪廻のような出来事が聖書に載っていますが、大昔、カトリックが輪廻という部分を省いてしまいました。

エッセネ派について

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【まとめ】聖書時代のユダヤ教の主な宗派4つをざっとまとめてみた|キートンの"キリスト教講座"

ジーザス、エブリワン!キートンです。 [word_balloon id="unset" src="https:...

キートンの"キリスト教講座"

 

 

洗礼者ヨハネイエスがエッセネ派に属していたOR関係グループに属していたという説もあります。

エッセネ派は、輪廻転生を信じていました。

 
回答:表面的にはなくて、潜在的にはあります。イスラム教徒たちはアッラーを全能だと考えています。アッラーがそう決めたなら、人が転生することもありえることになります。

輪廻転生思想は、キリスト教の初期教父オリゲネス・アダマンティウスによれば、キリストの教えに「響き渡っていた」ようです。おそらく、他の初期教父たちとローマ皇帝コンスタンティヌスの利害が一致し、転生に関する記述のほぼすべてが削除されました。権力に座に就いた人々は、キリストの転生によって権力を脅かされるのを嫌ったのでしょう。しかし、現行の『新約聖書』でも、キリストは洗礼者ヨハネを予言者イエライシャとしています。

イスラム教はキリスト教の影響を受けているため、輪廻転生を積極的に説く宗派がいくつかあります。シーア派内のアラウィ―派がよく知られています。

 

ただ、最近、調べていて、ユダヤ教とキリスト教徒の一番の大きな違いは、悪魔に対する根本的な概念だと発見しました。

どうして、同じ神なのに、サタンに対しての概念が違うのか?

ユダヤ教は、どちらかと言えば一元論の傾向が見れます。神が悲劇も災難も支配していると考える傾向が強い。この信仰からは、神が全能者だという信頼が生まれます。試練も神から来ていると受諾します。

キリスト教は、どちらかと言えば二元論の傾向が見れます。悪魔が神に対して妨害、対等している傾向が強い。この信仰からは、神が善であり護り主で正義の方だという信頼が生まれ、悪を憎みます。

もちろん、神は全能者なので全てをご存知で、神の許しがなければ何事も起きないということをキリスト教徒も信じています。しかし、悪魔や悪霊や人間などの被造物は自由意思を与えられているので、神の律法を守らず、好き放題に罪に走ることも可能だと考えれます。

同じ神さまなのに、悪魔に対しての概念が、どことなく違っています・・・

でも、いづれかに正解を見つける必要はないと思います。其々の考え方に良い点を見出せばよいと私は考えます。

ユダヤ教は森(全体)を見て、キリスト教は木(細部)を見ていると考えればよいのです。

ただ、サタンの原点は、本来のユダヤ教の概念(神は光も闇をも想像するお方である)ので、ユダヤ教のサタンの概念の方が大元ではないかと感じます。また、ユダヤ教徒よりキリスト教徒に怖がりな人が多いのは、サタンを神と同様なほどパワフルな存在だと考えがちで、神とは別個の存在だとみなしているのが強すぎるからかもしれません。キリスト教徒は、私も含め、神が全能であり全てを御存知であるということを頭では解っていても、何か起きると大パニックになり、悪魔の攻撃を神が知らないというように感情的になりがちです。

下手すると、未信者より怖がりの温室で育ったクリスチャンが多いです。ちょっとしたミステリー映画も観れないレベルです。

ただ、ユダヤ教のサタンの概念で考えると、ホロコーストも原爆投下も神が関与されていたということに繋げて考えなければなりません。

ですので、この点は受け入れるのに理解に苦しみます。ヨブのように最悪な悲劇が起きても、それでも、神を信じ続ける信仰を維持することが出来るかどうかという精神的な闘いが挑んできます。

 

深く考えれば考える程、解らなくなってきます。それこそ神の領域なので、私たち人間には理解出来ないのかも知れません。

以下、対比している見解を抜粋してみました。

>>WHAT IS MISSING?

The keen-eyed reader will have noticed that something is missing from the Jewish End Times–something besides open miracles.

In a word: Satan. These End Times include no final battle between the forces of Heaven and Hell.

This is because, although a “satan” appears briefly in the Hebrew Bible as Job’s “accuser,” Judaism does not believe in a Devil.

ヨブ記に、悪魔は、ヨブを訴える者として登場しますが、ユダヤ教は根本的に“悪魔”を信じないようです。

 

 

以下は、無神論者?の方が、学問として2つの宗教の悪魔の概念の違いを対比しまとめられています。

<古代ヘブライ教の悪魔の概念>
ヘブライの神と悪魔とがいかに考えられてきたかを知るには、もちろん、旧約聖書の記述によることになる。ヘブライ教は、当初から世界の全てを、それが建設的なものであれ、破壊的なものであれ、単一の神に属するものと考えた。つまり、一神教であり、かつ、一
元論であった。宇宙全体に対して責任があり、宇宙の善悪両面の価値を反映する内的な対立物の共在と理解されていた。旧約聖書中に、この神の両面性を示す文は、数十カ所指摘されている。
(例):「見よ。我は災いをすべての民に降さん。:エレミヤ書」「われは光をつくり闇を創造し、平和をつくり災いを創造す。われは主にしてこれらの事をなすものなり。:イザヤ書」
もっとも、ヘブライの神の慈悲はヘブライ人に限られ、異邦人には与えられなかった。
ヨシュアは、カナンの地を占領したとき、ハブルの町の住人を、「ことごとくこれを滅ぼし、息する者は一人だに残さざりき。」という状況であったが、異邦人がイスラエルに反抗して死んだとしても、それは彼ら異邦人の罪のせいであるのだ。しかしながら、神はイスラエルに対しても寛容ではなかった。驚いたことに、カナン人が頑強に抵抗したのは、神の意志でそうしたのである。また、戦利品を神に納めなかった場合、イスラエルの民全体が、異邦人の手にかかって重大な敗北を喫するようにするのである。
 ヘブライの神のこの苛酷な性質は、イスラエルの民が流浪を続け、野蛮な征服行為を避けえない境遇を反映するものといえるだろう。
 彼らが定住生活に入ると、その考え方は、儀式と禁忌の強調から、相互的・社会的な責任という人間的な倫理の方へ移行していった。これに伴ってヘブライの神の概念も変化した。略奪や破壊を神の意向に帰することはたやすくなくなり、悪を、神の本性に異質なも
のと感じるようになった。しかしながら、平穏な定住生活においても、悪の存在は否定しようがなかった。
 悪を神の本性の一つと考えられなくなったとき、悪はどこから発するのか。その答えの一つは、人間の罪の結果であるとするものである。最初の夫婦(アダムとイブ)が神にぞむき、その後も、カイン、ノア、ソドムとゴモラ、などなど、イスラエル人の度重なる神
との契約の違背など、イスラエル人は神に忠実とはいえなかった。しかし、神から遠ざかっていることは、世界にはびこっている悪のすさまじさを説明するのに十分とは思えなかった。
そこで、今ひとつの選択肢として考えられたのが,主なる神に対立する霊的存在、悪の支配者を策定することであった。この時以来、一神教のヘブライ教(後のキリスト教も)は、一神教と2元論の調和を図るという緊張を強いられることとなった。


黙示文学時代

紀元前200年~紀元前100年までの約100年間(この時期、イスラエル人はシリアやローマの圧政に苦しんでいた。) 
この期間に書かれた文書の多くは、預言として世界の終末のヴィジョンを報告しているため、黙示書といわれる。 に入って、ヘブライの人にとって、神は、善なる主とこれに対立する悪の霊に分かれるようになった。悪なる霊の源として、二つのものが考えられた。

ベネ・ハ=エロヒム(神の子ら) 
旧約聖書の古い記述には、ヤーウェが天の会議を開くことが記されている。その会議の参加者は劣位の神々のように見える。時代が下がるにつれてこれら神の子らはその影が薄くなっていたが、ここにおいて悪の対立者として重要な役割を負わされることになった。 
 一つは ベネ・ハ=エロヒム(神の子ら)、もう一つはマラク・ヤーウェ(神の使者)といわれるものである。創世記によれば、ベネ・ハ=エロヒムは人間の女と通じて、巨人族を生んだとされる。
黙示文学の一つ「エノク書」で、エノクは死者の国(地下)に旅し、そこで「神の子らが人間の女に欲情して子をつくり天から追放された」という伝説を確認したとする。そして彼らの存在は全くの悪であると断定する。つまり、元々神の眷属であった「神の子(ベネ・ハ=エロヒム)」を天使の地位に格下げして、彼らを悪の首魁(根源)として、神性の範囲から切り離したのである。この時、エノクは、この悪の首魁にセミアザという名称を設定した。
 この名称以外にも、黙示文学の時代に、エノク以外の予言者によって、ベリアル、。アステマ、アザゼル、サタナイル.サマエル,サタン等の名前が悪の象徴的散在に対して与えられ、固定化した。中でも、サタンという名称が最も用いられた。
黙示文学の時代に至るまでの旧約聖書において、サタンという名は、かなり頻繁に使われるが、それは妨害する者、非難する者という普通名詞としてであった。つまり、神の子は神の指示に基づいて、人間を妨害し、それはたびたび行き過ぎとなって人間を苦しめた
が、根本的には、神の指示・承認のもとの行為であることに誤りはないのである。

もう一つの悪魔の根源は、「マラク・ヤーウェ」は神の密使あるいは使者である。「神の子ベネ・ハ=エロヒム」との重要な違いは、神の子らは天に留まっているが、マラク・ヤーウェは世界をさすらう。

かくて、ユダヤ人(ヘブライ人)は、かって有していた善も悪も唯一神から発するという考えを捨て、神を善のみを志向するものと主張するようになり、同時に悪を神に対立する闇の支配者として人格化する方向をたどった。しかし、一神教は忠実に守り、二元論に
は至らなかった。ただし、純粋な一元論でもなく、全能なる神が善であるにもかかわらず、悪が存在するというディレンマを解決することは出来なかった。

 

70人訳聖書

Septuaginta:セプトゥアギンタ) 紀元前 1~3 世紀ころ、アレクサンドリア(当時ギリシャ語圏)のユダヤ人共同体がヘブライ旧約聖書をギリシャ語に訳したもの。旧約正典とされる39文書の他に、現在、外典とされるいくつかの文書を含む。 新約聖書が引用する旧約聖書は、この七十人訳聖書である。 現存する写本として、70人訳聖書のギリシャ語写本は,ヘブライ語写本(レニングラード写本:1008年)より古い。 なお、カトリック教会が採用しているのは、ラテン語訳(通称 Vulgata ヴルガータもしくはウルガータ)で、4世紀末にヒエロニムスによって完成した。その後も絶えず改訂が行われ、決定版とされているのはNova Vulgata といわれるものである。 


外典(Apocrypha:アポクリファ)

ユダヤ教・キリスト教関係の文書の中で、聖書の正典に加えられなかった文書のこと。「Apocrypha」とはギリシア語のαπόκρυφος (隠されたもの) に由来する言葉。対義語は「正典」または「カノン(Canon)」。 

エンジェルという名称の由来 
70人訳聖書は、マラク・ヤーウェをアンゲロス(使者)と訳したので、これが「エンジェル」の由来といえる。 黙示文学はこれらのいくつかの神話に見える観念を統一し、サタンの概念を生成するに至る。つまり、神の子神の密使が一つの概念に結集し、堕天使、奢りと妬みによって天より追放された天使が神から独立して神性の暗黒面の人格化となり、にんげんを誘惑し、非難し、破滅させる存在となる。ただし、完全に神の意志から独立した人格となるのは、一挙にではなく、紆余曲折を伴った。
 そして、キリスト誕生時までにヘブライ人は、だいたい次のような構想を神と悪魔の間に構築した。神は、曾てのごとく、善も悪も一切について責任を持つわけではない。善性のみを有する。その一方で、悪の部分は、堕天使(神の創造物である。)である悪魔によ
って遂行される。神が創造し指示する存在(天使)に悪を転嫁することで、神の悪に対する責任の問題を解決できたのか。その答えとして、黙示文学は、主が永劫の歳月にわたる闘争の末、悪しき天使を最終的に滅ぼすのだと答えた。それでも、パラドックスは完全に
は解決されていない.悪は、堕天使(悪魔)によってなされるが、堕天使は神に創造されたものであり、かつ、神に従属する存在なのである。神は間接的にせよ悪の存在を欲したごとく見える。このディレンマに対する黙示文学の答えは、堕天使の自由意思によって悪が
なされるのだというものである。この場合でも、やはり、自由意思を持った堕天使を創造したことに対して、神は責任を回避できないのではないだろうか。
 一部の黙示文学は、悪魔と神の距離をさらに拡大して、悪魔に別個の原理に基づく存在という性格を与えてしまうところまで行きそうであった。(クムランのエッセネ派)しかしながら、エッセネ派といえども、唯一の神という考えを捨てるところまではいっていな
い。

<クムラン宗団における善と悪の関係>

善あり光である霊と悪であり闇である霊との宇宙的な闘争を反映するものである。「神は世界を支配せしむべく人間を創造し、二つなる霊、すなわち真実の霊と虚偽の霊を定め神の訪れるまで人間をして二つの霊の間を歩かしめたり。」 しかし、最終的には、闇の支配者は光の主に従属することになっている。

<ユダヤ教における悪魔>
紀元70年、ユダヤ戦争の結果、イェルサレムの神殿が破壊された後、離散したユダヤ人は新しい方向へ向かった。指導者も司祭や預言者ではなく律法学者や教師となったが、彼等はキリスト教徒と異なり黙示文学の二元論的傾向を排除し、慈悲深い主という一者の支配を主張した。悪は、創造された世界の不完全な状態と人間の自由意志の誤用から生じるのであって、宇宙的な悪の人格のたくらみではないとした。

<キリスト教における悪魔の概念>

マタイは、イエスに関する不都合な世評を否定しようとした。第一は、イエスの誕生は正式な婚姻に基づくものではない、という世評である。マルコ福音書は、イエスがヨハネから洗礼を受ける場面から始まる。聖霊によって、処女なるマリアから誕生するイエスは、ここにはない。しかし、ガリラヤの貧しい平民の出身であることは知られていた。
マタイは、メシアは私生児ではなく、旧約の預言書の中に、これに関する望ましい根拠を見いだした。イザヤ書にある次のような預言である。
 「それゆえ、私の主が御自から、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、乙女が身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルー神は我らとともにーと呼ぶ。7-14」
この預言に基づいて、マタイによるイエス誕生の物語は、次のようなものとなった。

イエス誕生時のユダヤ王(ローマの傀儡であった。)ヘロデは、新たな王の誕生を告げる新星の出現に不安を感じ、ベツレヘム周辺の二歳以下の男児を皆殺しにした。イエスは本来ベツレヘムに生まれたのだが、イエスの父が天使の警告によりエジプトへ逃れ、帰国後はナザレの寒村に隠れ住んだのだという。多くの学者は、マタイによって用意されたこの挿話は、マタイの信仰上の信念ー-イエスの生涯は、イスラエル全史にわたり、これを要約・再現するものである。)ーーが反映されたもの(創作)であるとみる。 すなわち、イエスとモーゼ、ファラオによるイスラエル人男児の大量虐殺とモーゼ生き残り、イスラエル民族のエジプト脱出、などをイエスのケースになぞらえるのである。 このことを補強するために、旧約の預言書から、次の言葉を引用する。 「私は、エジプトから私の子を呼び出した。ホセア書」

福音書作者のルカは、非ユダヤ人である。 ルカになると、悪魔はより明確な姿を現す。ルカのイエスは、マルコと同様に大人になっ
て登場する。すると直ちに、悪魔が誘惑する。 イエスは三度にわたってこれを退ける。ルカにおいては、神とサタンとの霊的闘争は熾烈である。 総督のピラトがイエスの罪について懐疑的であったのを、ユダヤの祭司長や議員、民衆などが有罪を主張する点はマルコ、マタイと異ならないが、ルカではピラトが何度も有罪を疑うのに対し、執拗に処刑を迫るユダヤ人集団を描いている点で、イエスを理解しないユダヤ人との反目が激化していることが窺える。

ヨハネ伝の著者は、ルカの10年後に執筆を行ったユダヤ人と考えられている。「初めに言葉があった。・・・・・言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。.暗闇は光を理解しなかった。ヨハネ1-1,4,5」 
悪魔は人間を背後から操る不可視の存在として描く。従って、悪魔は超自然的存在として触れられるだけで、その姿を現さない。その背後で行なわれているのは、善と悪の闘争、すなわち、光と闇の闘争である。悪魔は全宇宙的な悪の表象として現れる。

キリスト教徒は、それまで主のの属性から悪の要素を出来るだけ取り除くが、一元論を堅持するために、悪の本質をこれに比べてより卑小なものにとどめてきた。だが、イエスの出現をまって、福音書著者により 、悪の本質を(多少誇張していえば)神と対等に渡り合う力を持つ存在にまで高めるに至ったのである。これによって神の善性はほぼ完全に純化されたが、一方で、神の全能性は疑わしいものとならざるをえない。このジレンマは、結局、現在に至るまでも解消されていない。唯一かつ全能の神を信ずる宗教として、この運命は避けがたいものであると思われる。

<新約聖書における悪魔>
新約聖書における悪魔を語るが前に、キリスト紀元が始まる少し前の、ユダヤ人の政治・文化的な状況と、これにたいするサタンの関系(とユダヤ人が考えたこと)について、触れておく必要がある。
 一言で言うと、ユダヤ人は、悪魔(サタン)という概念を導入してから、これをもっぱら政治的な反対派を攻撃する手段として用いてきたのである。例を挙げれば、紀元前6世紀中頃、有名なダビデ王が人口調査を実施しようとしたとき、猛烈な反対を受けた。人口調査は、ダビデ王の強固な意志によって結局行われたのだが、この時の反対派であった年代記作者は、この罪深い(と作者が考える)ダビデ王の行為を、天の反対勢力である悪魔がダビデの心に侵入してダビデ王に行わせた(従って、ダビデ王には責任も罪もない。)と
説いた(歴代誌上)。事実としては、ダビデ王が非を認めたにもかかわらず、主は彼を罰し、疫病によって7万のイスラエル人を虐殺したのである。
 前記の予言が書かれるすぐ前に、予言者ゼカリヤが、サタンはイスラエル人の中に分裂を引き起こすといっているが、その背景は次の事象である。
6紀元前6世紀初め、ネブカドネザル2世により、数千人の有力なユダヤ人がバビロニアに抑留された。(バビロニア捕囚)その後、バビロニア王国の滅亡によって、このユダヤ人は故郷へ帰ることが出来たのであるが、この時、帰還したユダヤ人とパレスチナに残
されていたユダヤ人との間で、激烈な権力闘争が起こった。ゼカリヤは、帰還者側にたつのであるが、彼が見たという幻の中で、主の前でサタンは残留組を代弁するのである。つまり、ゼカリヤは、残留組を、サタンのそそのかしを受け、その手先となって、正しい(とゼカリヤが考える)帰国者側を攻撃したと主張したのである。 新約聖書中の福音書において、悪魔はどのように現れ、どのように扱われたか。この論点に入る前に、福音書の成り立ちについて触れる。
福音書は新約聖書では、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順に記述されており、かつ、マタイが標準的なテキストとして権威を有してきたが、作成された順からいうと、マルコが最初である。

人間個人における善と悪の傾向は、善あり光である霊と悪であり闇である霊との宇宙的な闘争を反映するものである。 
「神は世界を支配せしむべく人間を創造し、二つなる霊、すなわち真実の霊と虚偽の霊を定め神の訪れるまで人間をして二つの霊の間を歩かしめたり。」 しかし、最終的には、闇の支配者は光の主に従属することになっている。 

福音書の成立順

諸研究の結果、現在、定説は、マルコが最初(紀元60年代末)で、そのほかは70年から100年までの間に書かれたとしている。 

そのマルコでも、イエスの死後40年近くたってから書かれた。そして、マタイとルカは、マルコを参考にさらに別の資料に基づいて書かれたという点も見逃してはならないことである。
さらに、四福音書が、正典化したのは、紀元200年頃であるが、4福音書が、当時存在したイエスの物語(伝記、語録等)として唯一のものではない。イエスの死後、書物ではないが、広い地域(小アジア、ギリシャ、エジプト、アフリカ、ガリア、スペイン等)で
イエスは語られていた。これらの(新約聖書に編入されなかった)物語の内容は、正典化にともなう取捨選択の過程で徹底的に排除され失われてしまったが、19世紀末頃から、いくつかの地域で、古い資料が発見されて、ようやく、その概要を知ることが出来るように
なってきた。この100年あまりの間に、発見された主要な初期キリスト教関係の外典資料をあげれば、マグダラのマリアによる福音書(1896年、エジプト)、ナグ・ハマディ写本(1945年、エジプト)、死海写本(1947年、死海沿岸)などがある。 その内容は、じつに様々で、中には破天荒なもの、禅宗に似た教えを説くものなど、興味深いものである。

福音書の悪魔(サタン)は、キリストの企て(旧約の預言どおりに人々に、戒律に捕らわれない真の教えを説き、神の国の到来を告げ、かつ、死を迎えること、さらには死後に復活を遂げること)を妨げるように、人間をそそのかし、誘惑する無形の存在(場合によっては様々な人、動物、あるいは怪物といった有形物)として現れる。それは、まさに最初に定義した悪魔にふさわしい。キリストに対し、様々な攻撃を仕掛けるが、失敗に終わる。人々をけしかけてイエスを十字架上の死に追いやることには成功するが、これはイエスが(神が)予定したことを成就させたに過ぎない。この辺のキリスト教の教義(神学)には、難解な(奇妙な)ところがある。イエスの生涯は、預言どおりに進行し、預言どおりの結末に終わる。その主な進行係を務めたのは悪魔なのである。つまりイエスの受難の運命は、避けがたい決定済みのことだったのである。そうだとすると、悪魔にそそのかされたユダが神から呪われるのは、不条理なことといわざるをえない。

ユダの裏切りに対するイエスの言葉は、 「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。マルコ14-21」(ルカ22-22もほぼ同様)というものである。

 閑話休題
 マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの新約福音書は、特に前三者が共観福音書といわれるように、内容はほぼ共通している。しかしながら、完全に同じではない。これは、作者の時代が、若干ずれていることにより、その時のキリスト信者の置かれた立場を反映しているのだという点を強調するのが、エレーヌ・ペイゲルスである。以下は彼女の説くところの紹介に近いが、他の学者の考えもほぼ同様と思われる。キリスト没後に徐々に拡大していたキリスト教信者は、同時にユダヤ教信者でもあった。しかしながら、ユダヤ民族の独特の習慣(割礼、食事制限、安息日の掟等の律法)や選民意識を放棄しようとする彼等は、それらに執着する大多数のユダヤ教信者からは、異端視され、迫害された。この攻撃に対し、イエスの教えを擁護し、イエスの権威を高めようとする意思に強く影響されたマタイは、手本としたマルコ福音書の内容をその方向に導いた。マタイに先立ち、それに続く福音書の土台となったマルコも、彼の属する信仰集団(イエスをメシアと考えるユダヤ教信者)のイエスについての信仰にもとずく言い伝えを書きあげた。

 



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