第35話 「わが都、福原」
病から回復した清盛(松山ケンイチ)は、比叡山延暦寺の僧侶・明雲(腹筋善之介)を呼び、「鴨川の水、双六の賽、山法師・・・私はこれらと真摯に向き合い、また手を携えてまいりたい」として、妻・時子(深田恭子)と共に出家をした。
清盛は一門の前で、大輪田泊の港の改修のために福原(現在の神戸)に住むと宣言し、長男・重盛(窪田正孝)が棟梁としての勤めを任される。
その話を聞いた後白河上皇(松田翔太)は、清盛の動きを警戒し、皇子・憲仁親王を即位させることで「かの白河院にもできなんだ政を、わしがやるのじゃ」と意欲を見せる。
憲仁親王が即位して高倉天皇となり、その母であり清盛の義妹でもある滋子(成海璃子)が皇太后に、滋子の甥であり清盛の三男・宗盛(石黒英雄)が皇太后宮権大夫となる。
一方で、これまで皇太后宮権大夫だった清盛の弟・頼盛(西島隆弘)は、辞任を余儀なくされ、太宰大弐のみの職となった。
頼盛は、滋子が関わる宮中の儀式を欠席してしまい、後白河上皇の逆鱗にふれる。
清盛に呼ばれた頼盛は、自分が参議となれないのは、かつての保元の乱の時に離反しようとしたことが関係あるのかと尋ねるが、清盛は「再び一門から離反するつもりか?つまらぬよまいごとは言うておらず、己が勤めに励め」と言う。
清盛は福原に到着し、兎丸(加藤浩次)を呼び、宋などからの賓客を迎えるように館を改装すること、大輪田泊に大船が何故入れないのか調査するよう指示する。
清盛の弟・教盛(鈴之助)も参議となり、頼盛はますます不満を募らせていた。
そんな頼盛に、上皇の3番目の皇子・以仁(柿澤勇人)と、養母・八条院子(佐藤仁美)と、藤原摂関家の摂政・基房(細川茂樹)が接近し、参議にしたいと持ちかけられた頼盛は「参議となりました暁には、きっと八条院様のお役に立てるようお尽くしいたします」と言う。
しかし1か月後、宮中での勤めを怠った頼盛は、全ての要職を解かれてしまった。
清盛に呼ばれた頼盛は「時には滋子様を差し置き、八条院様の元での勤めを第一とせざるを得ません」と話す。
そんな頼盛に清盛は、大輪田泊の改修の理由について
「博多を都の隣に持ってくる。
そして時を置かずして、都を海近くに持ってくる。
我ら平家の都をな。
京に居ったのでは、いつまでたっても上皇様の掌の上。
それゆえ、わしはその目の届かぬ福原に住まう。
そして、大輪田を博多のごとき場所にして、宋や高麗、果ては天竺、南国の産物も取引し、富を得る。
この富によって、国を富ませる。
先例第一の朝廷の枠にとらわれて国作りをしている暇は、もはや無い。
国の形を密かに作り上げ、それをこの国のあるべき姿であると示す。
それこそが、わしの見出した答え、武士が頂に立つ世の姿じゃ。
父上の目指した世作りに、そなたは断じて欠かせぬ。
頼盛、これより先も口うるそう一門を支えよ」
と話し・・・
というような内容でした。
いやぁ、最後の清盛が頼盛に話した言葉が、素晴らしかったです
「父上の目指した世=武士の世」を、清盛はこう導き出したんだ・・・と。
実際は、みなさんご存じのとおり成し遂げられなかったのですが、でもすぐ後に頼朝が(今はあんな・・・ですが)幕府(=武士の世)を作ったんですよね。
あとは、その後に頼盛が家臣に話した「それが、とてつもないことをしでかす兄を持つ弟の定めと言うものじゃ」という言葉は、「父・忠盛と叔父・忠正」とのやりとりに通じているんですよね。
・・・やっぱりこの藤本さん脚本は、伏線が散りばめられていて素晴らしいです!
今日は上に書いた感想に尽きるかな~(短い?)
頼朝はね・・・もう観ていると私の気まで滅入ってしまって(爆)
まぁ実際、絶望に打ちひしがれていたんでしょうけど、これからどう挽回して頂点に上がっていくのか、ある意味期待というか、ハードルがかなり上がってしまっています(岡田君、頑張ってね~ 笑)
番組公式ツイッターで忠正役だった方がゲスト出演だったと思うのですが・・・
今日、ちょっと20時前後にバタバタしていて、ツイッターは開かずに放送を観て、その後すぐにこのブログを書いているので、これから遡って読もうかな、と思っています。
20時過ぎに一旦ツイッターを観たけど、20時前の清盛関係のツイートが多すぎて、追うのを止めてしまったんです・・・
(ちょっと清盛アカウントのツイが多すぎるのも困るかな・・・と思うのは私だけでしょうか?)
↓
23:35追記
清盛アカのツイ、読み終わるまで大変だったけど、忠正役の豊原さんのツイートは良かったですね!
斬首のシーン関連のツイート、読んでいるだけで思い出して涙が出そうに・・・それだけ迫力のあるシーンでしたからね。
あと、これ↓は自分用のメモ(@nhk_kiyomori情報)
この頃から相国(しょうこく)と清盛は呼ばれるようになります。相国とはもともと中国における廷臣の最高職の呼び名ですが、日本でも使われるようになりました。日本での相国は太政大臣を指し、政権を引退後、清盛は相国と呼ばれました。
病から回復した清盛(松山ケンイチ)は、比叡山延暦寺の僧侶・明雲(腹筋善之介)を呼び、「鴨川の水、双六の賽、山法師・・・私はこれらと真摯に向き合い、また手を携えてまいりたい」として、妻・時子(深田恭子)と共に出家をした。
清盛は一門の前で、大輪田泊の港の改修のために福原(現在の神戸)に住むと宣言し、長男・重盛(窪田正孝)が棟梁としての勤めを任される。
その話を聞いた後白河上皇(松田翔太)は、清盛の動きを警戒し、皇子・憲仁親王を即位させることで「かの白河院にもできなんだ政を、わしがやるのじゃ」と意欲を見せる。
憲仁親王が即位して高倉天皇となり、その母であり清盛の義妹でもある滋子(成海璃子)が皇太后に、滋子の甥であり清盛の三男・宗盛(石黒英雄)が皇太后宮権大夫となる。
一方で、これまで皇太后宮権大夫だった清盛の弟・頼盛(西島隆弘)は、辞任を余儀なくされ、太宰大弐のみの職となった。
頼盛は、滋子が関わる宮中の儀式を欠席してしまい、後白河上皇の逆鱗にふれる。
清盛に呼ばれた頼盛は、自分が参議となれないのは、かつての保元の乱の時に離反しようとしたことが関係あるのかと尋ねるが、清盛は「再び一門から離反するつもりか?つまらぬよまいごとは言うておらず、己が勤めに励め」と言う。
清盛は福原に到着し、兎丸(加藤浩次)を呼び、宋などからの賓客を迎えるように館を改装すること、大輪田泊に大船が何故入れないのか調査するよう指示する。
清盛の弟・教盛(鈴之助)も参議となり、頼盛はますます不満を募らせていた。
そんな頼盛に、上皇の3番目の皇子・以仁(柿澤勇人)と、養母・八条院子(佐藤仁美)と、藤原摂関家の摂政・基房(細川茂樹)が接近し、参議にしたいと持ちかけられた頼盛は「参議となりました暁には、きっと八条院様のお役に立てるようお尽くしいたします」と言う。
しかし1か月後、宮中での勤めを怠った頼盛は、全ての要職を解かれてしまった。
清盛に呼ばれた頼盛は「時には滋子様を差し置き、八条院様の元での勤めを第一とせざるを得ません」と話す。
そんな頼盛に清盛は、大輪田泊の改修の理由について
「博多を都の隣に持ってくる。
そして時を置かずして、都を海近くに持ってくる。
我ら平家の都をな。
京に居ったのでは、いつまでたっても上皇様の掌の上。
それゆえ、わしはその目の届かぬ福原に住まう。
そして、大輪田を博多のごとき場所にして、宋や高麗、果ては天竺、南国の産物も取引し、富を得る。
この富によって、国を富ませる。
先例第一の朝廷の枠にとらわれて国作りをしている暇は、もはや無い。
国の形を密かに作り上げ、それをこの国のあるべき姿であると示す。
それこそが、わしの見出した答え、武士が頂に立つ世の姿じゃ。
父上の目指した世作りに、そなたは断じて欠かせぬ。
頼盛、これより先も口うるそう一門を支えよ」
と話し・・・
というような内容でした。
いやぁ、最後の清盛が頼盛に話した言葉が、素晴らしかったです
「父上の目指した世=武士の世」を、清盛はこう導き出したんだ・・・と。
実際は、みなさんご存じのとおり成し遂げられなかったのですが、でもすぐ後に頼朝が(今はあんな・・・ですが)幕府(=武士の世)を作ったんですよね。
あとは、その後に頼盛が家臣に話した「それが、とてつもないことをしでかす兄を持つ弟の定めと言うものじゃ」という言葉は、「父・忠盛と叔父・忠正」とのやりとりに通じているんですよね。
・・・やっぱりこの藤本さん脚本は、伏線が散りばめられていて素晴らしいです!
今日は上に書いた感想に尽きるかな~(短い?)
頼朝はね・・・もう観ていると私の気まで滅入ってしまって(爆)
まぁ実際、絶望に打ちひしがれていたんでしょうけど、これからどう挽回して頂点に上がっていくのか、ある意味期待というか、ハードルがかなり上がってしまっています(岡田君、頑張ってね~ 笑)
番組公式ツイッターで忠正役だった方がゲスト出演だったと思うのですが・・・
今日、ちょっと20時前後にバタバタしていて、ツイッターは開かずに放送を観て、その後すぐにこのブログを書いているので、これから遡って読もうかな、と思っています。
20時過ぎに一旦ツイッターを観たけど、20時前の清盛関係のツイートが多すぎて、追うのを止めてしまったんです・・・
(ちょっと清盛アカウントのツイが多すぎるのも困るかな・・・と思うのは私だけでしょうか?)
↓
23:35追記
清盛アカのツイ、読み終わるまで大変だったけど、忠正役の豊原さんのツイートは良かったですね!
斬首のシーン関連のツイート、読んでいるだけで思い出して涙が出そうに・・・それだけ迫力のあるシーンでしたからね。
あと、これ↓は自分用のメモ(@nhk_kiyomori情報)
この頃から相国(しょうこく)と清盛は呼ばれるようになります。相国とはもともと中国における廷臣の最高職の呼び名ですが、日本でも使われるようになりました。日本での相国は太政大臣を指し、政権を引退後、清盛は相国と呼ばれました。